異端者、ベあべあ日暮ら市に来る





夜明けの池袋駅前の横断歩道を、徹夜明けの仕事帰りに渡っていると、かたわ
らを一頭のみごとなホルスタイン種の牛が、当たり前のように歩いていった。い
くら早朝の人影のない時間帯とはいえ、ここは東京のどまんなかである。にもか
かわらず、牛はたっぷりした桃色の乳房をたぷたぷと揺らし、私の隣をゆったり
と通り過ぎていったのだ。
 ぎょっとして思わず立ち止まった。目をこすって見直す。寝不足のせいにちが
いない。ファンタジー作家という職業柄、締切りに追われたホテル生活を続けて
きたせいだ。疲れがたまっているので、幻覚を見ているのだ。
 ひとり納得しようとするが、牛はやっぱり消えなかった。しかも、その黒と白
の大きなまだらが模様を描く背中には、笑いをこらえて口をゆがめたような招き
猫〜いや、猫にしては、色がおかしい、招き虎というべきだ〜がいる。なりや形
は招き猫なのに、虎縞が全身を覆い、鋭い牙の生えた口を閉じ、目を細く開いて
いる。
 その表情は、今にも吹き出しそうな笑いを、けんめいにこらえているようだ。
腹にかかえた黄金の小判もまぶしい置物が、なぜ猫ではなくて虎なのか。わけが
わからないが、とにかく招き虎が、こちらを向いてちょこんと乗っている。
 牛はその無表情な大きな真黒な目で、わたしにふりかえり、口からなが−いよ
だれを垂らして、口をむしゃむしゃと反芻に噛み続けていた。背中に乗った招き
虎が、置物のくせに、にやっと笑ったような気がした。
 背中といえば、牛の尻の上にも妙なものが乗っていた。灰色の鼠だ。鼠に牛に
虎といえば……。と思っている間に、足元を真白な兎が、ぴょんぴょんと飛んで
いる。真赤な目の、兎のお嬢さんが、そのときくすりと私に向かってささやい
た。
(ウサギの赤い目、だれのせい?ぴょんこ、ぴょんこの飛びウサギ。短い尾っぽ
は、だれのせい?白い毛、黒い毛、茶色の毛。年がら年じゅう、ベあべあ日幕ら
し。年がら年じゅう、きまぐれよ)
 白く輝く兎は、横断歩道の真ん中までくると、その汚れたストライプの上に立
って、耳をヒクリヒクヒクと動かした。桃色の耳を立てて、何か大事な音を、ず
っと遠くから聴き取っているようだった。
 鼠を尻に、招き虎を背中に乗せた牛は、追い越してずっと先だ。春の牧場をゆ
くのどかさで、池袋駅の入口に向かっている。虫よけに長い尾をさかんに振る尻
が、だんだん小さくなる。
 横断歩道の白いベルトが、そのとき、むっくりと立体化した。全体が、ぬらぬ
らする白い鱗(うろこ)に覆われ、カマボコのように盛り上がってくる。そのい
ちばん端のあたりから、大きな白い蛇の頭が、にょっきりと起き上がった。横断
歩道の形をした白蛇だ。真黒な無表情な目と、真赤な口がびっくりするほど鮮や
かに見える。
 鎌首もたげた横断歩道ヘビが、赤黒い二股の舌をへろへろ出しながら、白い胴
体をまたぎそこねている私に言った。
(踏むんじゃないよ。踏むんじゃないよ。痛いからね。襲うからね)
 けんけん飛びの要領で、夢中で横断歩道を渡り、やっと池袋の駅にたどりつ
く。
 改札に向かっていくと、例の牛たちがまだいた。ネズミもウサギも、招き虎
も、牛ごと改札を通りぬけてゆく。通り抜けられるはずはないのだが、自動改札
機が、機械ごと水のように流動化して通過させてしまったのだ。
 思わず追いかけてゆくと、同じ自動改札機が、カシャンと音を立てて、進入を
はばんだ。その銀色の表面から、再びあの白い蛇のなまなましい鎌首が、ゆらり
と持ち上がった。
(通るんじゃないよ。切符もなしに、通るんじゃないよ)
 ぎょっとして後じさりする。券売機に戻って震える手で切符を求め、おそるお
そるホームに出る。もう蛇の頭は現れなかった。
 ホームに並んだ牛たちは、列車が来るのを行儀よく待っていた。その後ろに、
どこから現れたのか、馬、羊、猿、鶏、犬がいた。目をこすって見直すが、まち
がいない。馬はサラブレッド、羊はメリノ種、猿は日本猿らしい。ぐっと小さな
鶏は白色レグホン、犬は柴犬のようだ。
 きちんと一列に並ぶ動物たちの他に、客はいない。早朝出勤か朝帰りの人がい
てもよさそうなのに、ほかに誰もいないのだ。
 そう思って改札をふりかえると、動物の洪水が目にとびこんできた。次から次
へと色々な動物たちが、流動化した改札機を、ざぶざぶ通りぬけてくる。人間は
ひとりもいない。すべての改札口から、何百という獣たちが、ホームめがけてぞ
ろぞろやってくる。
 十二支に出てくる動物だけでなく、猫や狸や狐、玲羊(かもしか)や山羊、豚
などもいる。アライグマやレッサーパンダもいるし、コアラや狼の姿まである。
 みなあたり前のような顔をして、白線の内側にそって、整然と列をつくる。わ
らわらと群がるどの動物も、唯一の人間である私には目もくれなかった。みな、
自分のことで精いっぱいという感じだ。
 そのとき、耳に奇妙なイントネーションのアナウンスが響いた。
「尾のあるお客さまがたに、申し上げますです。スペシャル・ホームに、お待ち
かねの特別急行が参ります。白線よりお下がりくださいまし。ホッホ・ホオホオ
のイケフクロウ発、折り返し『ベあべあひぐらし』行き、特注列車が参ります…
…」
 スペシャル・ホームがあるとは、間いたこともない。あまりにも妙だった。ベ
あべあなんとかいう新駅ができたなんて話も、まるで初耳だ。さっき、兎もそん
なことを、ささやいていたようだが……。
 あっけにとられて呆然としていると、ホームを埋めた動物の大群の前に、列車
がなにごともなく入ってきた。ごく普通の見慣れた車両の連なりだ。だが、その
運転士の姿を見たとき、また目をこすってしまった。人間ではない。茶褐色の大
きな猿のような生き物の影が見えたのだ。
 なにが起こっているのか、わけがわからなかった。動物たちに圧倒され、思考
が停止している。ドアが開いて、動物の客が次々に車両に入ってゆく。降りてく
る客は、なぜかひとりもいなかった。折り返し列草なのに、乗る客ばかりなの
だ。
 頭をかかえて、その場にうずくまりたくなる。だが、改札を突破してきた、新
たな生き物の一団の突進が、それをゆるさなかった。体長一メートルを越える猪
の親子が、キイキイ悲鳴を上げて、こっちへまっしぐらに突進してきたのだ。背
中に白い縞の入ったウリ坊たちが一連隊。その後を、大きな親猪がむきだす牙も
鋭く、風のように荒い息を吐いて向かってくる。
 文字通りの猪突猛進に、私はあわてて立ち上がり、逃げ出した。突きあげる牙
に、尻をぶすりとやられてはたまらない。いちばん近い車両の中に、あたふたと
駆け込んだ。





 車内に踏み込んだとたん、とびこんできたのは、眼を疑う光景だった。動物た
ちが、みな二本足で立っているのだ。
(なんだ、こりゃ……)
 それぞれの身長なりに、人間同様に二本の足で体重を支えている。狸、兎、
狐、鶴、山羊、犀(さい)、羊、猿、猪、豚……エトセトラ。ホームにいたとき
には、ちゃんと四つ足だったのに、車内に入ったとたん、二本足になっている。
 叫び出したいのをこらえて、車両に入ってくる動物たちが、ドアを境に四足か
ら二足歩行に変わるのを見つめる。これまで四足で歩いていたのが、演技だった
といわんばかりに、ドアを一歩くぐったとたん、ひょいと後ろ足で立って歩き出
すのだ。
 驚きに言葉もない私の耳に、ホームで聞いたのと同じ、奇妙なイントネーショ
ンのアナウンスが響いてきた。
「まいど、お気楽鉄道を御利用いただき、まことに、まことにありがとうござい
マスです。ところで、御乗車のみなさま。マスと言えば、川にも海にもいるもの
で、サケと張りあうイワナの友なんでございます」
 耳に飛び込んだアナウンスに、ぐらっとめまいがしてくる。車内の動物たち
は、平然とした表情で、妙ちきりんなアナウンスを聞いている。
「この電車は、イケフクロウ発、お気楽急行『ベあべあひぐらし』行きです。終
点、『べあべあひぐらし』には、たぶん定刻通り、七時七十七分に到着の予定な
んでございますです。途中、停車駅は、マリネ、シャクジィ・パーク、ビッグ・
スプリングス、ラ・ホーヤ、ヒバリー・ヒルズとか、色々でございます。マリネ
からは、支線ミドルエイジド・プレイランド行きに、お乗り換えです。そんなわ
けで、みなさま、到着よいとこ一等賞、でんぐり返って二等賞。横になったら
三等賞なんでございます。乗客のみなさんは、お乗りまちがいのないよう、御注
意くださいまし」
 西武池袋沿線のパロディとわかる駅名に、耳を疑う。マリネは練馬、シャクジ
ィ・パークは石神井公園、ビッグ・スプリングスは大泉学園、ラ・ホーヤは保谷
だし、ヒバリー・ヒルズにいたっては、ひばりケ丘ではないか。なんたる駄洒落
だろうか。おまけに、豊島園はミドルニイジド・ウーマン・プレイランド……ミ
ドルエイジド・ウーマンとは「年増」のことである。
 おかしな車掌のアナウンスは続く。興奮した犬が息を吐いているような、生臭
い息づかいまじりだ。そのくせ、子供が夢中で遊んでいるような、うきうきした
口調がおかしさに輪をかけている。
「なお、当電車は、お気楽鉄道ですので、運行表に一切がっさい関係なく、気分
により急停車することがありますです。運転士の気分しだいで、速度が変わるん
でございます。運転士さんの機嫌のよいことを、心から祈らずにはいられません
のです。そういうわたくし、車掌の月の輪小次郎なんでございます。運転士はオ
ラン婆さん。念のため、も一度言わして下さい。車掌はわたくし、月の輪小次郎
なんでございます」
 へんてこなアナウンスは、どこまでもとぼけた声だった。わざとらしい咳ばら
いのあとにまだ続く。
「コホン。お待ちかね、今日の車掌の格言でございます。工−、失敗は成功のも
とだが、成功は失敗のもとになることも多いので、どっちもどっち、なんでござ
います……」
 私は両手で耳をふさいだ。頭がおかしくなったのだ。体じゆうに寒気を感じ、
精神異常を自覚する。私鉄が朝っぱらから、動物の大群を乗せてこんなコメディ
を強要するはずがない。
 狂気への恐れにふるえ、途方にくれているうちに発車のベルが鳴った。腰が抜
けて降りるに降りられなかった。ドアが閉まり、列車が動きだす。走りだして
も、アナウンスは、さらに変なテンションを上げるばかりだった。
「それでは、続きまして、べあべあひぐらし、ひとロニュース。ひと口といって
も、食べるものじゃあございませんよ。先月、野菜泥棒の容疑で、ケンペイタイ
に逮捕された兎のミミオレが、ついに犯行を自供したそうでございます。やむに
やまれず、市営農園の畑から、人参三本を盗んで食べたということです。目撃者
の狸のタマンブクロ氏の証言によりますと、正確には三本じゃなくて二本半だっ
たとか。のこった半カケの人参は、ただいま行方不明。ケンペイタイは特別捜査
本部を設けて、失われた半本分の人参の行方を追っています。みかけた方は、ひ
ろって食べずに、届けてください。そういうわけで、一日も早く見つかるよう、
みなさんもお祈りいたしましょう」
 何がなんだかわからない。ますます頭が混乱する。これは重症だ。あの牛と招
き虎を見た時から続く幻覚にちがいない。
 手すりにもたれてうめく私のまわりに、いつのまにか動物たちの輪ができてい
た。それも互いにささやきあい、言葉をかわしている。私はぎょっとしてドアに
張りつき、顔面蒼白となった。人語をしゃべる二足歩行の動物たち……。
 動物たちはこっちの驚きなど無視し、もの珍しそうに見上げていた。
 いくら二足で立ったといっても、人間に比べれば、ほとんどの動物の背丈は低
い。大きいのはサイやダチョウぐらいなものだ。どの動物も、こちらに鼻先を向
け、うさんくさそうに匂いをかいでいる。
 犬、猫、雀や燕など、身近な生き物から、猛獣の類まで、車両にいるほとんど
の鳥獣が、私のまわりに集まっていた。彼らは怪訝(けげん)な態度で、珍奇な
生き物をみるように、こちらをじっと見つめているのだ。隣の車両からも、続々
と動物の客たちが集まるにぎやかな気配があった。
 動物たちのいぶかしげな瞳の奥にあるのは、どうも歓迎とはいいがたい感情の
ようだ。彼らの目が訴えているのは、未知の侵入者への強い不信感と恐れだ。
 最前列にいるのは、キュウキュウ鳴く、野ウサギの親子だった。褐色の腹に子
ウサギがとりすがり、脅えた黒い目で見上げている。隣に立つのは、目のまわり
が黒いホンドダヌキだ。妙に人に似た表情があり、いつ人間に化けてもおかしく
ないほど、いやみな媚びをふくんだ笑いを浮かべている。その脇には、白い牝ヤ
ギが、たっぷりした桃色の乳房をむきだし、おっかなびっくりの顔つきで、タヌ
キに何やらごしょごしょ耳打ちしている。
 そして、ヤギの隣から、さっき私を追いかけたイノシシの親子が姿を現した。
黒褐色の親イノシシが、短気そうに目を怒らせ、疑りぶかげに見つめている。す
り減った黄色の牙の間から、ふごぶごと興奮した息を吐き、今にもとびかかって
来そうだった。
 イノシシは、はっきりと私に向かってこう言った。
「人間、こわい。こわいから、あっち行け。行かないと、突進しちゃうぞ」
 脅えのまじったイノシシの声は、恐怖の生んだ興奮に震えている。野性動物
は、恐怖が極限に達すると、無我夢中で突進したり、暴れたりして、恐怖の原因
を排除しようとする。恐怖が攻撃性を引き出す野生の習性が、あらわな言葉だっ
た。
 恐れに頭を下げて興奮するイノシシを、若いオスのヒツジがのんびりとなだめ
た。
「そんなに怒りなさんな。悪いこたあいわないから、よした方がいいよ。さもな
きゃ、ケンペイタイにまかせるのが、いちばん有利だね」
 さすが人に飼いならされた動物だが、どこか陰険な雰囲気がある。四角の瞳に
たたえる光は、一見、温厚そうでも、軽蔑をふくんだ底意地の悪さが、言葉のは
しばしに現れている。
 そのとき、動物たちの背後から、声なくぬっと大きな顔をだしたものがいた。
 思わずその場ですくみあがった。とうとうと言うべきか、二本足で立つトラが
現れたのだ。黒と黄色のしましまが美しい、人の背丈ほどもある立派なオオトラ
だ。
 おかしなことに、黒縁の眼鏡をかけ、首に聴診器をまきつけている。
 そいつは、眼鏡の縁に黒い肉球の盛り上がる前足(後ろ足で立っているから手
というべきか)をかけ、ふむふむとうなずいていた。フレームをずりあげ、子細
げに私をのぞきこんでいる。実験動物の状態を調べる医者といった感じだ。
 失神しそうな私の前で、トラはまわりの動物たちに、偉そうに学者ぶった説明
をはじめた。
「これは、もうまぎれもなく人間です。あまり栄養状態がよくないようだ。きっ
と貧乏なのでしょう。もしかすると、売れない作家か、駆け出しの漫画家なのか
もしれません。それならば無理もないことです」
 現役ファンタジー作家の私に向かって、こんな大口をたたくトラがいるとは思
わなかった。だしぬけに、貧乏人あつかいされて、腹が立ってきた。口をついて
反発の言葉が出る。「し、失礼な。な、なんてことを言うんだ。こ、この……」
 トラの医者は、溝のすり減ったレコードみたいな人間の言葉に、怪訝そうに目
を細めた。ちょっと意外だと言うように、じっとこちらを注視する。
「ふむ。意外ですな。最低動物のくせに、いっぱしの口を利きますね」
 乗客らは、そんなトラを尊敬のまなざしで見上げている。私は、背中を押しつ
けていた手すりから、怒りに励まされて身を起こす。これは何かのいたずらだ。
厳重に抗議して名誉棄損で訴えてやる。
「悪ふざけは、やめたまえ。だいたい、なんて格好してるんだ。ぬいぐるみなん
か着て。大人をからかうのも、いい加減にしろ。ハロウィンや学芸会は、別の所
でやってくれ。電車の中でやるなんて、非常識じやないか」
 トラ医者は、きどってふふんと肩をすくめる。意味ありげにうなずきながら、
ごろごろうなった。
「ハロウィンなんてとんでもないです。あれは、十月三十一日と決まってますか
らね。あなたは、人間のくせにそんなことも知らないのですか。今はまだ十月の
半ばですよ。我輩、こうみえても、トラリン大学の名誉教授ワンと申します。ド
クター・ワンをお忘れなく。。専攻は医学ですが、もちろん人間世界のことも、
若干、研究しております。ええ、特に下剤学にも通じていますがね」
 教授を名乗る虎は、そこで眼鏡をキラリと光らせた。
「ところで、ちょっと、念をおしておきますが、我輩、経済学なんて下品なもの
はやりません。ケーザイは下らないものですけれど、ゲザイは、それはそれは、
もうとてもよく下るものです。腸が川なら、下剤は大雨、大洪水。健康維持に
は、下剤が一番。そこのところ、どうかおまちがえなく」
 あんぐりと口が開くばかり。返す言葉もない。乗客の尊敬を一心に集めるトラ
は、もったいをつけ、つんと胸をそらした。白い腹毛がふさふさと柔らかそうだ
った。咳ばらいして演説を続ける。
「あ−、おほん。つまりその、なんですな。人間界では、自己所有になる貨幣も
しくは有価物ならびに金券等の蓄えがほとんどなく、かつまた必要欠くべからざ
る衣食住における、金銭の通常使用量の少ない状態を、ビンボーと呼ぶそうです
な」
 トラは聴診器を耳にさしこむと、探音部を人の胸につきつけ、もっともらしく
頭を傾けた。
「なるほど。やはり、そうだ。あなたは今、ビンボーという状態にありますね。
たいへんに興味ぶかい。私たちは、それをリンゴ・ビンボーと呼んでいまず。赤
くて洗ったような貧乏なので、まるでリンゴのようです。ああ、そうそう。思い
出しました。リンゴ・ビンボーは学名、イチゴ・ビンボー・マッカッカーとも呼
ばれていますね」
 トラの口から出る言葉が、胸をぐさりと突き刺した。作家になった今でも、育
ちの悪さにコンプレックスを持ち続けているのだ。
「ぶ、無礼なっ。赤貧洗うがごとしとは、なんだ」
 思わずかっとなって、一歩前に踏み出した。背の低い動物たちの輪がいっせい
に後じさりし、おおっと言葉にならないどよめきがあがった。 
 トラは、学者らしくきどった口調で、爪のはえた手をふって悦に入っていた。
「そうそう。『赤貧、洗うがごとし』、別名『赤飯、洗ったらバラけた』ともい
いますね」
「冗談はやめてくれ。いい大人が、虎のぬいぐるみなんか着て。どうなってるん
だ。天下の列車のまんなかで、いったい……」
 動物たちが、互いに顔をみあわせてくすくすと笑いあった。特に輪のはじにい
るキタキツネとおぼしい三匹が、気にさわった。人間の女そっくりに口に手をあ
てて笑い、わざとらしく肩をよせあって、気取った流し目をくれる始末だ。
「ぬいぐるみですって。おかしいわよ、ネーエ」
 本物のはずはなかった。そんなことがあるはずがない。動物が二本足で立ち、
こんなまぢかに集まり、人語を解するなど。
 だが、心のどこかで、これはもしや現実なのではないかと、恐るべき疑いが首
をもたげはじめていた。こんなリアルでビビッドな悪夢や幻覚があるだろうか。
 体じゅうの毛がさかだち、顔から血の気がひいていく。ショックで息がとまり
そうだった。頭の中は混乱の極に達していた。パニックのあまり、泡を吹いて倒
れそうだ。
 虎の名誉教授は、キタキツネの三人娘の笑いをうけ、鷹揚にうなずいた。
「さて、ヘたな解説は、ここまでにいたしましょうか。ほら、車掌さまがおいで
になりますからね。『ベあべあ日暮ら市』で、神にも等しい自由を与えられてい
る熊族のお方です。その中でも、とりわけエリートの月の輪小次郎さまです…
…」
 トラリン大学の下剤学の教投は、そこでちらと後ろを向いた。ほかの動物たち
とともに、私も目を白黒させながら、つられてふり返る。





 視野のまん中で、動物たちの群れが、さっとふたつに割れた。通路を開くため
に、左右に二列に別れたのだ。車内の通路は花道さながらにまっすぐに開ける。
つきあたりの奥に後続車両へ続く鈍い銀色のドアが見えた。
 そのノブが、クイッと回り、ドアがゆっくり、ガラーリと開いた。
 何かどってりした生き物が、そこに二本足で立っていた。
 そいつは、改礼バサミを持った月の輪熊だった。なぜか、車掌の制服をつけ制
帽をかむっている。ずんぐりした大柄な体に、紺色の制服がおもちゃのようだ。
黒い毛に覆われた胸や腹が窮屈すぎて、ボタンもはじけんばかりにふくらみきっ
ている。
 小さな制帽の下には、真黒な毛だらけの熊の頭があった。帽子というよりは、
頭の上に乗せた円形の布製コースターと言った方が正しい。恐ろしいほど、ふつ
りあいななりだった。
 熊は手袋も靴もつけていなかった。大きくて黒い毛むくじゃらの手に、銀色の
改札バサミをカチャカチャ言わせている。
 そいつは、ドアを後ろ手に閉めて、こちらに向かって近づいてくる。車掌姿の
熊は、短い脚でぼってぼってと歩きながら、たとえようのない奇妙な節まわし
で、車両じゅうに呼びかけた。
「エ−、乗り越し清算の方は、どぞ、お申し出くださいまし。わたくし、車掌の
月の輪小次郎でございます。御用とお急ぎでない方は、よってらっしゃい見てら
っしやい。エ−、切符拝見、切符拝見。ところで、四六五六はガマの油、油を絞
られいい迷惑。わたしゃクマだよガマじゃない。次は終点、ベあべあひぐらし。
ベあべあひぐらし。どちらさんもおひかえなすって、降りなすってくださいで、
ありんすぅ」
 制服からはみでた毛なみは、虎教授と同様、ひどく色艶がよい。喉元にはたし
かに白い毛が半月状に弧を描いている。
 こっちは愕然として身動きもできない。口をぱくぱくさせるばかりだった。
「こんなバカな。これはテレビ局がよくやるイタズラ番組だろ。どっきりさせ
て、あとでしかけをバラす、あれだろ?」
 私のおろおろ声に、虎を筆頭に車内の動物たちが、いっせいに失笑をもらし
た。呆れた愚かものに対する笑いだった。さっき虎の放った、最低動物のくせに
出という言葉が、脳裏をかすめて、うすら寒い心地になる。
 中央通路をあけて割れた動物たちの間を、熊の車掌は、やけにうれしそうに歩
いてくる。濃い桃色の舌をみせ、口を大きくあけて笑っている。肩から赤い乗務
用カバンを下げた熊は、真黒な澄んだ目を、なんともいえない喜びに輝かせてい
た。
「やあやあ。みなさん。ごきげんよろしゅう。わたくし、小次郎でございます。
どちらさんも、切符、よございますね。よございますね」
 笑いながらしゃべる熊は、通路の真ん中に立ち止まり、乗客をひとわたり見回
した。
 熊の車掌がハサミを鳴らす。すると動物たちは、いっせいに切符を差し出しは
じめた。よく見ると、切符は動物によって色がちがっていた。ウサギは赤、キッ
ネは黄色、タヌキは緑、そんな具合だ。その上、形が変わっている。円、楕円、
三角、四角、星型、ハート型など、実に多彩なのだ。
 月の輪熊は、車掌の仕事が楽しくてたまらないらしい。改札バサミを持った手
を、自分の口に当てて、さもうれしそうに「うふ、うふう」と笑った。
 熊の車掌は、くすぐったそうに背中をまるめ、ひとりでおもしろがっている。
乗客たちから、切符を受け取りながら、目を細めてくつくつ笑った。
「わたくし、好きなんです。こういうの」
 熊は、職業的な訓練とはかけはなれた、ぶきっちょな手つきで検札をはじめ
た。動物たちの手から、おうように切符を受け取り、ゆっくり目を通してから、
ハサミを入れる。きざみを入れると、今度は切り抜かれた形を、天井の明りにす
かして見る念の入れようだ。
 切符にハサミを入れてもらった動物たちは、喜びいさんでその跡をみせっこし
ている。いちばん近くにいる兎のキップを盗み見ると、ハサミの跡は小さな金魚
の形にくりぬかれていた。
 熊の車掌は、浮き浮きした調子で足ぶみし、切符にハサミを入れながら歌を歌
う。アナウンスと同じく、みょうな節まわしの変な歌だった。

♪切符は駅で買いなさい。
 切手は郵便屋で買いなさい。
 たまには金魚を飼いなさい。
 明日は太鼓をたたきなさい。
 わたくし森の月の輪小次郎♪

 動物たちが、熊のおかしな歌とともに、体を左右に揺らしてリズムを合わせ
る。何が楽しいか知らないが、間く者の心がふわふわしてくる、ユーモラスな感
覚があった。ただし、テンポの方は、まるで人間向きでない。
 踊る熊は、同じ歌詞を何度も繰り返す。それも、一回ごとにまったく別の曲で
歌うのだ。
 熊は踊りながら、こっちへ近づいてきた。私は思わずぎょっとして首をすくめ
た。
 二本足で歩く熊が、目の前で立ち止まった。車掌の制服をつけているとはい
え、野生のけものだ。目と鼻の先にいると、迫力がひしひしと伝わってくる。
 小次郎と名乗る熊の車掌は、空いている方の手を差し出した。
「切符、拝見いたします。ルン、ルルン」
 ショックで切符もだせない私を、熊はとくにじれったがりもせず、鼻唄まじり
で待っていた。 
 人間を前にしているというのに、何もおどろいた様子がない。こちらが身動き
できないとわかると、車掌熊は大きな真黒な自を、二度三度ぱちぱちさせた。
「おや。ど−しました?おやと言えば、おと−さん、おかーさんのことですけれ
ど、そのおやではありませんですよ。それで、切符を拝見するんですけれども、
切手ではだめですよ。切手は葉書や手紙といちゃつくのが、何より好きなんで
す」
 楽しそうな熊は、目を細めて待っている。長く鋭い爪の伸びた手で、赤いカバ
ンの皮蓋を開いた。
 その黒い手が、中にさしこまれた。とたんに別の歌がはじまった。

♪乗り越し、おいしいトウモロコシ。
 繰り越し、引っ越し、おみこし、ギックリ腰。
 コシにも色々あるけれど、
 わたくし、乗り越し清算がかり♪

 乗客たちは、行儀よく座席に戻っている。こっちを指さしながら、耳うちする
動物たちも、ちらぼら見えるが。
 熊を待たせて、私はあわてて胸のポケットに手を入れた。池袋で買った切符が
入っているはずだ。
「あれ?」
 ポケットの中で、指先が伝える感触は、切符ではなかった。おそるおそる手で
つまみ、てのひらの上に乗せる。それは、一枚の真赤なモミジの葉だった。
 私は、びっくりして赤い葉を言葉もなく見下ろす。
(こんな、ばかな……)
 熊の車掌の前で、服のポケットというポケットをまさぐった。何度もさがす
が、切符はどこにもなかった。
「いったい、どうなってるんだ」
 とりみだして泣きべそをかき、同じ車両の動物たちに、哀れっぼい声で訴え
る。
「な、みんな。人の悪い芝居はやめてくれ。ぬいぐるみを脱いでくれよ」
 熊の車掌は、真黒な大きい目をぱちくりさせた。何を言われたか理解できない
らしい。ハサミを、チャカリチャカリと鳴らして、手を差し出す。
「どぞ。泣かないで、切符ください。涙は塩水で貴重なのです。この世にしょっ
ぱいほど、おいしい味はないです。われながら、その通り、その通り」
 ひとりで納得してうなずく熊は、ふんふん鼻をならし、紅葉の葉をみとがめ
た。
「おや、あなた、切符を持ってますね。ちゃんとあるじゃありませんか。車掌を
からかっちゃ、だめじゃござんせんか。いけないことです。めっめっなことで
す。わたくし、思わずのけぞりますよ」
 熊はそこで、本当にぼってりした腹をつきだし、のけぞってみせた。
 私は、おろおろしながら、なおも訴えた。
「からかってるのは、おまえたちの方だ。どこまで人をバカにすれば気がすむん
だ。いいかげんに、正体を現せよ」
 熊は片手をカバンにつっこんだまま、きょとんと首をかしげた。何か気づいた
らしく、ハサミを持った手を口にあて、「うふ、うふう」と笑う。
「わたくしの正体? それはヒ・ミ・ツです。でも、あなたにだけ、本当のこ
と、お教えしましょう」
 熊は身をのりだし、私の耳元に口を近づけた。獣くさい息が頬にかかり、反射
的に身をひいてしまう。
「これは、だれにも言っちゃ、だめですよ。わたくし本当は、クマなんです。こ
うして、今日は車掌の格好をしてますが、明日はどうなるか、わかりませんから
ねえ」
 熊のセリフは、私を逆上させるのに充分だった。頭の中で、何かがぶつりと音
を立てて切れた。
「なんだと!」
 熊は、黒い毛の密生した背中を丸め、くつくつと笑った。
「うふ、うふう。あっぱれです。たのし。おもしろ。人間っておもしろ。わたく
し、こう見えても、不思議なこと、奇態なこと、だいすきです」
 私は固く目をつむり、両手で耳をふさいだ。
「これは夢だ。悪い夢なんだ」
 どんなに耳をおさえても、熊の声が聞こえる。いまいましいことに、あの虎の
教授まで横あいから口をはさんでくる。
「<現し世(うつしよ)は夢、よるの夢こそまこと>というのは、江戸川の土手
先生の名言でしたな」
 私は顔を伏せたまま、やけになって頭をふった。
「そりゃ、江戸川乱歩だ」
「ええ、ええ。そういう説があるのは、存じてますよ。でも、別名『江戸川のお
散歩』とも言いますね」
 熊も虎も乗客たちも、動物どもは、みな生意気で意地悪で、なにもかも非常識
だった。
 逆上した私は、嵐のような耳鳴りに襲われ、その場にうずくまって叫んだ。
「いいかげんにしろ。みんな、消えてなくなれ」


                      (うふ、うふう、と第2回へ)




   

いけふくろう
(東京・池袋駅北口)