
4
あたりが急にしんとなった。列車が停止し、それまで規則的だったレール音が消
えた。おそるおそる瞼を開くが、やはり同じ車内の光景がまだ続いている。
月の輪熊は目をぱちくりさせ、小首をかしげていた。ふりかえると、背後の動
物たちは、落雷にあったように両手で目や耳をしっかりふさぎ、身を縮めてい
る。列車は動き出す気配もない。
ところが、窓に目をやった瞬間、驚くべき現象が起こっていた。
窓そのものが光っているのだ。外の景色など見られたものではない。白い光を
放ち、銀幕さながらに輝いている。
「なんだ、どういうことだ」
うろたえる私に、月の輪熊の車掌は、さらに手をつきだし、楽しそうに言っ
た。
「さあ、切符をください。その切符ですよ」
狼狽している私は、こわれそうなモミジの葉を、震える手で差し出した。
モミジ切符を受け取り、上機嫌な熊は赤いカバンにおさめる。鼻歌をうたいな
がら、力バンの中をがさごそ探る。その鋭い爪の先が、すぐにひと綴りの切符の
東をひっかけて抜き出した。
思った通り、ただの切符ではなかった。形はまともな清算用切符だが、ラメを
かけたように玉虫色に光っている。熊は満面に笑みを浮かベ、切符の綴りを目の
前につきだした。「えらんでください。うふ、うふう」
熊の車掌は、こちらの仰天したようすなど、気にもかけていない。とりたて
て、忖度(そんたく)するつもりなどないのだ。私はやけになって、そっぽをむ
いた。
「選ぶもなにも、これは清算切符じやないか。車掌のきみが切ればいい……」
熊は偉そうにもったいぶり、コホンと咳ばらいした。口の中に赤いベロと白く
鋭い牙の列が見えた。
わざとらしい咳ばらいに続いて、車掌が呑気な解説をはじめる。
「おほほん、おほほん、おほほん、ほん。ええ、なんでございます。乗り越し清
算っていうのは、引っ越しや繰り越しとは、わけがちがうんでございます。切
符、拝見いたしましたよ。わたくし、隠しても知ってますよ。途中の駅までしか
買ってないでしょう。ことわざにもあります。嘘つきは人間のはじまり。あ、あ
なた人間でしたね。ども、しつれい」
熊は後頭部に手をやり、ぺこりと頭を下げた。小さな制帽が今にもずり落ちそ
うになった。
「わたくし、これでも人間のファンなんです。悪く言うつもりありません。悪く
言うつもりありませんが、ほめるところもありません。実はたいへん困ってるん
です。うふ、うふう」
少しも困った風でない。熊は私の鼻先へ、切符のつづりをつきつけた。
「さあ、えらんでください」
窓は原因もわからないまま真白に光っている。どこかの駅についたのか。まぶ
しくてホームの影ひとつ見えない。
私はしぶしぶ、王虫色の切符の一番上を指で示した。
「これでいいよ」
切符には見たこともない文字と路線図が古いてある。生まれて初めて見る字体
だ。象形文字のようだが、何が書いてあるのかさっぱり読めない。
熊は、そこで大きくブシュンとくしゃみをした。私の顔に、もろに生温かい唾
のしぶきがかかった。
「あ、ども、しつれい」
熊は頭をぺこりと下げ、顔を袖でぬぐう私をみつめながら、くつくつ笑った。
「だめじゃござんせんか。切符を選ぶのに、いちばん上なんて、芸がないやり方
です。わたくし、あなたに望みたいのです。もっとセンスのある選び方、しても
らいたい」
気持ち悪さに顔をしかめていると、熊が顔をぬっと近づけてきた。思わずあと
ずさってしまう。こうなったら、つきつけられた玉虫色の切符を、どうしても選
ばねばなるまい。
私は、えいままよ、と切符のつづりをバラバラとめくり、下から三分の一ぐら
いの一枚をひっぱった。
ペリッと紙の破ける音がして、切符がミシン目から離れた。それを合図のよう
に、まわりにいた動物たちに動きが生じた。どやどやと立ち上がり、乗降口に並
ぶ。列を乱すものは誰もいない。ドアがあくのを、全員でおとなしく待ってい
る。
降車口にかたまった乗客たちの前で、車両のドアが、圧縮空気の音とともに開
いた。
ドアの外の世界は、窓と同じくまばゆい光につつまれている。どうなっている
のか、さっばりわからない。真白に光るばかりで、ものの形が少しも判別できな
いのだ。光っているのが窓なのか、外のまばゆさなのか、それさえはっきりしな
い。まぷしくて目を細めて見るのがやっとだ。
白い光にあふれた乗降口に、動物たちは喜びに満ちた声を上げながら、順々に
降りてゆく。その光景は、降車というより、白光の霧の世界に溶け込んでゆくよ
うだ。
空いた座席に腰をおろし、為すすべなく乗客たちを見送る私の前で、小次郎が
はしゃいでいた。真黒な顎をつきあげ、車内でいきなり「ぐおっも−ん」と酔え
る。
「ベあべあひぐらしィ。ベあべあひぐらしィ。終点、ベあべあひぐらしィ。ぐお
っも−ん。駅の住所は、どんつく県がんばった郡べあべあ日暮ら市大字幇間(た
いこもち)字ばち狂い八条下ル宿六。駅長はわたくし、月の輪小次郎でございま
す。ぐおっも−ん」
終点への到者を叫ぶ熊は、私から清算切符を、すばやく爪の生えた手でとりあ
げた。
あっけにとられた目の前で、彼はそれをしげしげと眺めた。それだけでは足り
ないと見えて、もっともらしく鼻をならし、さかんに匂いを嗅ぐ。
「ふん、ふん、ふん。これは、いい切符を選びましたよ。あなた、えらい。わた
くし、感動いたしました。子供を追い出す勘当ではありませんよ。感動です。心
もちのいい、わくわくうれしい"ふい−りんぐ"です。おお、生きててよかったこ
の人生。人生わずか五十年、下天のうちをくらぶれば、夢まぼろしのごとくな
り。まぼろし、でんぶは、そぼろ御飯。おいしいものは、最後までとっておこ
う。お楽しみはこれからだ。体だけは大事にしましょう。ああ酒とバラの日々」
いったい何に感動しているのか、さっぱり訳がわからない。勝手に興奮する熊
は、ぐふぐふ息を吐きながら、私の選んだ切符を頭上にかざし、パッチーンとハ
サミを入れた。
5
そのとたん、列車の窓にいちぢるしい変化が現れた。白い車窓に、鮮やかな画
像が、次々と浮かびあがったのだ。これまで沈黙していたブラウン管に、カラー
画像がいきなり映りこんだようなものだ。
電車の窓いっぱいに映ったのは、予想に反した驚異的な光景だ。ありきたりな
ホームのながめなどではなかった。ただの車窓のはずなのに、そこに映じた景色
が、窓ごとにぜんぶ違うのだ。
窓々に映るたくさんの光景に、度胆を抜かれて立ちすくむ。窓の一枚一枚が、
別々のスクリーンと化し、それぞれ具なる映像が投影されている。
それも、ただの風景点描などではない。目をそむけたくなるような動物たちの
悲惨な姿の数々だった。人間の活動で傷ついた動物たちの哀れなありさまだ。文
明が野生動物を苦しめ、傷つけてきた愚行と悪業の連なりだった。
近くの窓から順々に目で追えば、垂れ流した汚染物質で生まれた奇形の魚、カ
スミ網からぶらさがる無数の烏。密猟者に殺され、角や牙をぬかれてサバンナで
朽ち果てる象や犀の死骸の山。捨てられた魚網が体にからまり、成長とともに食
い込んで体がちぎれてゆくアザラシやアシカたち。海面の重油流出によって、ど
ろどろの黒い油にまみれたラッコやセイウチや海鳥の群れ。ゴミのビニール袋を
喉につまらせて息絶えたカモメ。
人間がおこなってきた手前勝手な自然への冒涜行為を、窓の画像が音もなく示
し続ける。
釣り人たちが、吊り上げて岩場に置き去りにし、食べずに捨てた何十万という
魚たち。化学薬品の流出事故で、銀色の腹をみせて川面をびっしりと覆うおびた
だしい魚の死骸。漁民に追われてたたき殺され、湾を真赤な血潮で染めるイルカ
たちの大群。
「これは、なんだ……」
眼前に展開されるむごたらしい光景の数々は、まぎれもなく環境をわがもの顔
に破壊する暴君たる人類を告発していた。
そのとき私は、生まれて初めて、自分が人間であることに、身の縮むような恥
辱をおぼえた。人として生まれてきたことが、身も世もなく恥かしかった。その
場で消えてなくなりたいと思ったほどだ。
虎教授は、ついさっき人のことを「最低動物」と言った。たしかに、この映像
を見る限り、人間は最低にランクされるべき悪魔のごとき種族にちがいない。
絶句しているうちに、窓にいっせいに映じた残酷なシーンの数々が、すぐに元
の真白な輝きの平面に戻っていった。
この奇怪な現象の正体は何なのか。私の感覚はすっかり麻痺してしまい、何が
現実なのか、判別さえできずにいる。
車内を見渡すと、乗客たちはひとり残らず消えていた。虎の教授も、ウサギも
タヌキもイノシシも、キタキツネの三人姉妹も、みんな降りたのだ。あとには、
がらんとした車内に、小次郎熊と私がいるばかりだ。
うふうふ笑っている熊の車掌から、私は白い光に包まれた窓の外に目を移し
た。黒い人影が通り過ぎてゆくのが見えたからだ。降りるのに遅れた乗客だろう
か。ただ一人、ゆっくりと、足をひきずるように歩いてゆく。
背の高い人影だ。それが目にとまった瞬間、窓ごしにその姿がはっきり映っ
た。背景は相変わらずまぶしい白光なのに、なぜかその人物の格好だけ、細かい
ところまで見てとれる。
その人物は、隠者か修道士じみたいでたちだった。足首まですっぽりと包む灰
色のフードつきのマントを着ている。背中をまるめ、うつむきながら歩いてい
る。歩調は重くひきずるようだった。人生に倦(う)み疲れた老人の歩みを思わ
せる。
隠者風の彼は、なぜか背中に大きな猟銃を背負っていた。しかも、銃身がぐる
りと一重結びにしてある。どう見ても使いものにならない銃だった。
まぶかにかぶったフードからのぞく横顔も陰鬱そのものだ。人だとばかり思っ
ていたが、実は老いた雄のライオンだった。色つやの悪いひげとたてがみは衰え
を隠せず、その黒い目は苦痛と憂いに暗く沈んでいる。
隠者のライオンは、歯がぼろぼろに欠けた皮はぎ用のハンティングナイフを、
大切そうに握っていた。マントが光の風にひるがえり、胸元に青錆のふきでた鎖
つきの十字架がちらと見えた。
老ライオンは、こちらには目もくれない。ひたすら瞑想しているらしい。ゆっ
くり歩むその片手には、大型ハンティングナイフ、もう一方の手には、古びた大
ぶりの数珠(じゅず)を持っている。
数珠は金属の玉でできているようだ。ライオンがナイフをふり、一定のリズム
で数珠にぶつけると、チンチーンと涼しい音が鳴る。弔鐘のように陰気でぶきみ
な音だった。
幽霊のように足音もなく通りすぎる彼は、ぶつぶつ何かつぶやいている。しわ
がれた老人の声だ。蚊がなくようにカなく繰り返している。その言葉を、耳をす
まして聴き取ったとき、思わず戦慄した。
ライオンはおぼつかない足取りで歩みながら、ゆっくりとこう朗誦していたの
だ。
「文明は、冥土の旅への一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし。チーン。殺
生、血だらけ、人、ゼニだらけ。チーン。文明は……」
通りすぎるライオンを目で追いながら、背筋が寒くなるのをおさえられなかっ
た。さっき窓に映った動物虐待の光景と関係があるらしい。殺された動物たちの
陰鬱な怨念と、たとえようもなく深い悲哀が、老ライオンの姿をとって現れたよ
うだ。
金縛り状態の私の前で、熊の車掌が、いきなりくるりと背中をみせた。最後の
乗客をほったらかし、自分だけ先に車両から出てゆくのだ。
「お、おい。待ってくれ」
あわてて座席から立ち上がるが、熊はふりむきもしなかった。喜色にあふれた
横顔は、人間のことなど念頭にもないようだ。
あわてる私をよそに、小次郎は奇妙な歌を歌いながら列車から出てゆく。
♪べあべあよいとこ、一度はおいで、ハァドッコイショ。
その日暮らしの日暮ら市は、アニマルよいとこ花咲くどん。
あたしゃ、ベあべあ、あんたも、ベあべあ。
日暮ら市よいとこ、二度目もおいで。三度目もおいで。
百度来てくりゃ、永住権。千度来てくりゃ、市民権。
万度来てくりゃ、野球拳。億度来てくりゃ、大気園。
ハァドッコイショ。ハァドッコイショ。ハア、つかれた♪
ハサミをカチャカチャ鳴らし、開いたドアから、どってどってと真白な外の世
界に降りてしまったのだ。
このままでは、ひとりぼっちだ。置き去りにされ、得体のしれない状況で、孤
立するのは耐えられなかった。車内の窓は、相変わらず日光を反射したように、
真白にぎらぎら輝き続けている。ぼやぼやしていると、列車に閉じこめられるか
もしれない。
私は、矢も盾もたまらなくなり、うろたえきって、ばたばたと熊のあとを追っ
た。ついた場所がどこであろうと、とにかく今は列車から降りるのが先決だ。無
我夢中で出口から飛び下りる。
ホームに飛び出した私は、小次郎のつんつるてんの制服の背中めざして、追い
かけた。「ま、待てよ。おいっ」
白い光の霧の中を泳ぐように走り、腕を伸ばして小次郎をひきとめようと叫
ぶ。だが彼は、ふりかえることもなく、楽しく妙ちきりんな鼻唄を歌いながら、
白い光の霧の奥へずんずん進んでゆく。
「お−い、小次郎!」
私は、声を限りに叫んだが、その場で何かにけつまずいて転んでしまった。わ
が記念すべき"ベあべあ日暮ら市"への第一歩は、こうしてみっともない形ではじ
まったのだ。
(ヘンなうたを歌いながら、第3回目に続く)