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「ばかな。なんてこった」
困り果てていると、電車の運転席から、しゃがれた笑い声が聞こえてきた。
「ぶっひやっひやっ。黙って見てりゃ、お笑いぐさ。わかりが遅いのは、さすが
人間」
その一言が終わるやいなや、毛むくじゃらの腕の長い動物が、先頭車両からホ
ームに降りてきた。運転士の帽子を小わきにかかえた、ひらべったく長い顔つき
のオランウータンだった。
その赤褐色の鼻の低い生き物を、市長たちは、ある種の尊敬をこめ、きらきら
と目を輝かせて迎えた。カミュなどは興奮しているらしく、きっくりと頭をめぐ
らし、バッサとはばたいて歓迎する
「コッコォー。オラン婆さん。どうも、御苦労さまでした、相変わらずケッコウ
な運転ぶりです」
オランウータンの婆さんは、肩を長い両手でやれやれとたたきながら、私をじ
ろりとにらんだ。
「なあにが、けっこうなもんかね。ちいっとも、よかぁないよ。あたしゃね、人
間を乗せると、とっても疲れるんだよ。まあ、肩が凝ってしかたないよ」
オランウータンは、赤褐色の体毛に覆われた身をひきずり、手近のホームの屋
根を支える木柱に抱きついた。
木肌も新しいホームの柱は、枝を軽くはらって皮をはいだだけの丸太だ。する
すると長い両手と両足をからませよじのぼる。足も手も同様に器用なので、腕が
四本あるのと同じだった。登る仕種と速さは、なかなかすばらしかった。
オランウータンは、私の背丈より、頭ふたつ分ほど高い屋根の梁(はり)か
ら、ものうげにぶらさがって見せた。長い毛を生やした両腕を巧みに使い、市長
たちの目の前に、ぶらりーんと体を移す。
コアラ市長は、ステッキの握りを灰色の両手でつかむと、もったいぶった態度
で、ホームの板を、コツコツつついた。
「オラン婆さん。私が肩をもんでやるが、駄目かね」
ユカリさんは、ちらとオランウータンを、上目づかいにみやった。どうも、自
分もホームの柱の上に登りたいのを我慢しているらしい。
オラン婆さんは、片手で梁をつかみ、ゆらありゆらりとぶらさがりながら、意
外にきれいに澄んだ目で、コアラを見つめた。頭の上に長い褐色の手を、困った
ように乗せる。
「ありがたいお申し出だが、市長さんや。わたしゃ、もう運転士はやってられん
よ。今度やるときは、誰かほかのものに、替わってもらえんか」
オランウータンを見上げる市長の顔に、うらやましそうな羨望の表情がみるみ
る宿る。やっぱり柱に抱きつきたいのを我慢しているのだ。残念さに目がうる
み、黒い大きな鼻の頭が、熱っぽくてかてか光っている。
けなげな忍耐心を見せ、市長は説得する。
「そうは言うけれどね。オラン婆さん、あなたの運転が一番いいのですよ。なに
しろ、電車の運転のできる人は、とっても限られてますからね。そりゃあ、おと
といのアイアイさんや、今目の運転を担当するワオキッネザルさんも、まあなか
なかうまいんですが、やっぱり、あなたにかないはしませんよ」
オランウータンは、無垢な黒い目をむき、口のまわりをボールのように大きく
ふくらませた。唇をつきだして、おことわりといわんばかり。
案の定、「おだてられたって、やなものはやだね」との返事だ。
ユカリ市長は、ステッキで丸太の柱をこつこつとたたいた。
「まあまあ、そう怒らずに」
そう訴えながら、コアラはステッキを、いきなりさっと床に置いた。見る間
に、両手両足で柱に抱きついて登りはしめた。とうとう我慢ができなくなったら
しい。
市の巨頭たちの見守るなか、コアラは梁にたどりつき、まじめくさった態皮
で、オランウータンと顔をつきあわせた。
非常識な世界にいるのも忘れ、感心して見上げる。コアラはやっぱり木の上で
抱っこしているのがいい。いばった市長も、樹上にあれば、ユーカリ林の可愛い
コアラそのままだ。雄烏カミュが、トサカを震わせ、まっさきに賞賛の声を発し
た。
「市長さんは、やっぱり、そのかっこうが一番、お似合いでございますねえ」
コアラは、オラン婆さんとならび、目を細めた。
「そうかね。カミュくん」
犬兵隊のシロが、私に向かってワウンと吠えた。
「ユカリさんは、木の上が大変にお好きなんだぞ。おぼえておかないといけない
んだぞ。
ブブヅケくん。そのことを、人間にもっと詳しく説明してあげたまえ」
シベリアンハスキーは、しゃちほこばり、桃色の舌をだしてハアハア言った。
「隊長どののおっしゃる通りなんだぞ。ユカリさんは、えら〜い市長で木の上に
いるのが、なにより好きなんであるぞ。だけど、ユカリさんは、自分のしたいこ
とを好きなだけやるのは、人間みたいに浅ましくて、動物らしくないと思うの
で、とっても我慢しているんだぞ。だから、たまには見逃してあげないといけな
いんだぞ」
きまじめな犬兵隊に比ベ、猫撫隊の二匹は「なんにもしないのが仕事」と豪語
した通り、なんにもしなかった。
「退屈だにゃあ。何(にゃに)か、おもしろいことないかにゃ」
「そうですにゃあ、隊長どの。おもしろいことはですにゃ、おもしろいようにこ
ろがってるのが、ベストですにゃ」
「その通りだにゃ。ョイトマケくん。きみもタマにはいいこと言うにゃん。イリ
オモテヤマネコ大尉も、そう言ってたにゃん」
ぼやきながら、あくびするのが唯一の仕事だ。ベレー帽をかむったまま、二人
は交替でしじゅう、あくびばかりしている。赤い口をいっぱいにあけて目を細
め、ざらざらした白い刺の光る舌をのぞかせる。
白狼のムーンタッタ法王は、ヤドリギの長い楕円形の葉を、ちろりとなめて私
を見つめた。「"こ"さまの御教えによれば、人間は世界でいちばん駄目な生き物
な−んだ。その駄目さ加減を、"こ"さまは、こよなく愛するのだ−よ」
狼狽して咳こみながら、私は法王たちに抗議する。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。いきなり駄目はないだろう。少しは説明してくれ
てもいいじゃないか。だいたい、この世界はなんなんだ。いったいぜんたい、ど
うなってるんだよ」
枢機卿の灰色狼が、ヘっへっと笑って目を細めた。
「あんた、ハァ、なんなんだっちゅうが、これこの通り、こういう世界なんだべ
よ。ほかに説明のしようがねえべ。まあ、あるがまんまに受け入れるほかはねえ
べな」
なんだか泣きたくなってきた。
「そんな、無責任な」
灰色狼はひどくおもしろがり、舌をだらりとたらして喜んだ。ふさふさの尾っ
ぽをぱたぱた振っている。
「無責任も何もねえだよ。この世界は確かに実在してるベ。信じねえのは勝手だ
けどもよ、とにかく、この世界はキマグレコ大明神さまと、"こ"さまとで保
(も)っている世界だでな。それ以上のことは知らん。ハァ、知る必要もねえべ
な。その日その日が幸せならば、そんでいいベ。ほかになに考えること有るべ
な。余計なことばっかり考えるから、人間ちゅうやつは不幸せになるんだべよ」
おそらく、今のタッチャンの言葉そのものが、ベあべあ日暮ら市という、この
世界の基本理念なのだろう。
眼の前の連中さえいなければ、確かにここは一種の天国かもしれない。周囲は
みごとなお花畑と森の大地、天空は水色のガラスにひらめく七色の虹のオーロ
ラ。そして足の下には、郷愁を呼び起こす古い木造ホーム。しかし……。
コアラ市長が、柱に登ったまま、目を細めて眠そうに告げた。
「ではでは、この辺で駅頭巨頭会談も、まあ終わりにしよう」
コアラは口をもぐもぐさせ、ぶらさげた懐中時計を開き、のぞきこんでは何度
もうなずいた。
カミュ参事官が、コォーッと声をあげ、黄色いくちばしを開いた。
「おしまいに、市長さんに敬意を表しまして、ベあべあ日幕ら市のケッコウな三
大市民憲章を、全員で唱和いたしましょう」
駅頭巨頭会談の面々は、いっせいにユカリさんに顔を向けた。さすがの猫撫隊
もあくびをやめ、儀礼的に尻尾をぴんと立てる。
いずれも大まじめで、国歌でも歌うように声をはりあげた。唱和というもの
の、ハモりようのない獣たちの混声合唱だ。犬と猫と狼と鶏、そしてコアラにオ
ランウータンまでまじった鳴き声の朗誦は、なんというか、聞くにたえない。
♪べあべあ日暮ら市、市民でそうろう。
呑気に怠けて寝て暮らせ。
その日暮らしというからにゃ、
呑気に怠けて寝て暮らせ。
ぐーすか・べあべあ、ぴ−すか・日暮ら市
お祀りするのはキマグレコ。
祀って拝んでわっしょいわっしょい。
わいわい、しょいしょい、
わっしょいしょい♪
"三大市民憲章"が「呑気に」「怠けて」「寝て」暮らせという訳だ。体じゅう
から、カがいっぺんに抜けてしまう。
(おや?)
動物たちの列のはしに、今までいなかった生き物が、そのときひょっこり現れ
た。そして、駅頭巨頭会談のメンバーとならんで、仲良く合唱しはじめる。
それは、一匹のワオキツネザルだった。灰褐色のほっそりとした体に、目のま
わりと鼻だけパンダのように黒い。頭の上のほうが濃い灰色で、耳の中から出た
毛も黒かった。長いしっぽは塗り分けたようなツートーンの縞もようだ。たしか
マダガスカルに棲息する原猿類のはずだ。
ワオキツネザルは、黒と白で輪切りになった尾を、市長たちの歌に合わせ、左
右にひょこひょこ、うちふっている。一体どこから現れたのか、見当もつかな
い。
新手のメンバーに気づいているのかどうか、市長たちは市民憲章の歌を歌い終
え、うっとりだ。歌の余韻にひたり、気持ちよさそうに、なかば夢心地で眼を閉
じている。私のことなど眼中にもない。
ワオキツネザルに最初に気づいたのは、頭上にぶらさがるオラン婆さんだっ
た。新たな仲間の出現に、澄んだ自をしばたたかせる。長い腕をのばし、ワオキ
ツネザルを指さして叫ぶ。
「皆の衆、ちょいとお待ち。新しい運転士が来たんだよ」
うっとりしていた市長たちは、いっせいに我に返った。目をぱちぱちさせて、
ワオキツネザルに驚きの声を上げる。
ユカリ市長などは、柱にしがみついたまま、小さな黒い目でまじまじと見つめ
た。
「おや、これはこれは。お勤めですね。ごくろ−さん」
犬兵隊も猫撫隊もニワトリも、黙ってすましているワオキツネザルに、にわか
に期待をこめた視線を集める。
オラン婆さんは興奮し、歯をむきだしてホッホッと奇声を上げた。
「オメグミちゃんだよ。来てくれたんだよ」
みなの注目を一身に集め、ワオキツネザルは両足を広げ、ぴょんと前に飛び出
した。スマートな肢体を誇るように、ごきげんなポーズをとる。縞のみごとな尾
をぴんと伸ばし、両腕をあげて万歳のかっこうだ。
「そのとおりです。みなさん、よろしく。このあたし、オメグミちゃんこそ、オ
ラン婆さんを引き継ぐ、今日の電車の伝秀な運転士なのです」
可愛い名前のワオキツネザルは、鼻高々といった感じだ。プリマドンナのよう
に気取っている。黙って見つめる市長たちの反応を、黒く隈どりされた金色の目
で、ちらとうかがう。
「拍手は?」
市長たちは、さかんな拍手喝采を送った。手や羽根を派手に打ち、賛嘆の鳴き
声をあげる。ユカリ市長とオラン婆さんは、両手がふさがっているので、足の裏
をたたいて鳴らす。
絶賛の拍手と声援が止む。オメグミちゃんは、舞台俳優のように、灰褐色と灰
色の毛に覆われた両腕を、Vの字に広げてにっこりと笑った。
想像上の観衆を想定してか、大げさな身ぶりで頭をめぐらし、何度も優雅なお
辞儀をする。なぜかは知らないが、運転士であることが誇らしくてならないらし
い。
まったく支離滅裂としか言いようがない。人間などおかまいなしに、動物たち
はひっきりなしに訳のわからない言動をとり続ける。途方もない動物劇の連続
に、私の思考も麻痺し、正常な感覚が侵蝕されてゆくのがわかる。
この先、何が起きるのか。空恐ろしさに震えながら、私はオメグミちゃんを指
さしてつぶやいた。
「この、ワオキツネザルは、なんなんだ……」
絶句する私を見て、シロ隊長が副隊長の小脇を、白く粗い毛に覆われた肘でつ
ついた。「ブブヅケくん。この人間に、説明してやりたまえ」
「はっ。承知いたしました」
ブブヅケは、しゃちほこばって胸をはる。垂れていた尾を、ぴんと立てた。か
なりの芸当で、見るからに尾にカがこもっている。
ブブヅケの青みがかった灰色の瞳が、私の顔をひたと見すえた。
「オメグミちゃんなんだぞ。オメグミちゃんは、少数の猿族の中でも名族なんだ
ぞ。ワオキツネザル族の天才でエリートで、いちばんキュートなプリティガール
なんだぞ」
「キュート?」
私は思わず唇をゆがめた。ポーズをとる得意顔のワオキツネザルを、じいっと
見つめる。
何と表現していいのやら言葉がつかえて出てこない。
オメグミちゃんは、黒い小さな瞳孔をもつ金色の目で、私をうさんくさそうに
見返した。ポーズをとるのをやめ、わざとらしく毛づくろいをはじめる。すばし
っこいだけでなく、どこかこましゃくれた印象がある。
彼女は、人をちょっと見ただけで、すぐにぷんと顔をそむけた。
「人間だわ。いやですこと。あたし、人間の実物って乗せたくない。あたしみた
いなワオキツネザルの貴族の玲嬢が、なんでこんな下等で卑しい生き物を目にし
なくちゃいけないの。もう耐えられない。サル族の中でも、いちばんどうしよう
もないのが、ヒト族ですもん」
オラン婆さんが、梁からぶらさがったまま、何度もうなずいてあいづちをう
った。
「オメグミちやんの言う通り。だから、わたしゃ、運転士をもうやめることにし
たよ。肩が凝ってかなわんしねえ」
その発言を開くや、オメグミちゃんが驚いてとびあがった。毛づくろいをや
め、オラン婆さんの登った柱の根元に、あわてて駆けよる。
彼女の黒いパンダのような顔が、じいっとオランウータンを見上げ、憂いをこ
めて訴えた。
「そんなこと言わないでくださいな。さびしくなるじゃありませんか。アイアイ
のウナヅキちゃんよりも、誰よりも、あたしは、ものすご−く尊敬しているんで
すよ」
オメグミちゃんは、自分のツートーンの尻尾を黒い小さな手で指さした。
「見てください、このあたしの尻尾を。根元から先っぽまで、あなたへの尊敬の
気持ちでいっぱいです。まるで、立派なライオンさんのおひげのようにピンピン
に立っているんですよ。ですから、お仕事はずっと続けてください。オランウー
タン族とワオキツネザル族は、先祖代々、親戚づきあいをしてきた古い仲じゃあ
りませんか」
「そうは言うけどねえ、オメグミちやん……」
オラン婆さんは、額の上に褐色の手をぺたりと乗せて考えこんだ。瞼(まぶ
た)をゆっくり閉じ、もの思わしげに口をもぐもぐ動かす。
「あたしゃ、やっぱりもう年だし、引退して、あんたや、ウナヅキちゃんたちに
任せた方がいいと思うんだがねえ」
オメグミちゃんは、煮え切らないオラン婆さんを見上げるや、猿らしいすばし
こさで、隣の柱にしゅるんと登った。
彼女はコアラの市長に、律儀にお辞儀をし、梁の下にしがみつく。頭ひとつお
いた梁の下で、オランウータンはじっと考えこんでいた。
オメグミちゃんの説得は続く。
「いけませんわ。オランのおばあさま。やっぱり、ウナヅキちゃんやあたしだけ
では、とても人間世界と、このべあべあ日幕ら市を往復するなんて、できやしま
せん。あんなに難しい電車の運転をするのに、おばあさまはど達者な方は、ベあ
べあ日幕ら市広しといえども、もう見つかることはないですよ」
オラン婆さんは、しぶい顔つきで目を閉じていた。
「言ってることは、わかるんだけどねえ……」
若いワオキッネザルは、気がせいたようだ。ぱっと柱から飛び下りる。頭上の
オランウータンを見上げ、手をすり合わさんばかりに哀願する。
「お願いします。お願いします。どうか、引退は想いとどまって欲しいんです。
あたしは、これからひと仕事してきますから、どうかもう一度、お考えなおしく
ださい」
オメグミちやんは、それだけ言うと、市長たちに向き直った。縞の尻尾をふっ
て、そそくさとお辞犠する。
「それではみなさん、これより、このオメグミちゃんが、列車をイケフクロウま
で回送いたします」
といいざま、運転席まではねて行く。
ユカリ市長たちが、またまたやんやの拍手喝采で見送る。オメグミ運転士は、
オラン婆さんにかわり、あきっぱなしの窓から飛び上がって乗りこんだ。
とたんに、ホームいっぱいに、ぴ−ひょろろという鳶(とんび)の鳴き声が幾
重にも錯綜した。空を見上げるが、鳶などどこにもいない。鳴き声だけが、幻の
ように響きわたっている。
ユカリ市長とオラン婆さんが、柱の上からすべり降りてきた。互いに詩のよう
なものを早口でとなえながら、
「ベルは鳴る鳴る鳶のベル」
と、ユカリ市長が鼻声で歌えば、それを追ってオラン婆さんが、
「とんでぴ−ひょろ、出発進行。運んでとんび。とんびうまいか、油あげ」
とくる。それを受けて市長が、
「あげていいのは、親爺のメンツ。電車ひとたば、いくらで売るか」
「売れるものなら、売りましょか。蛙二匹と交換か、ナマズ三匹でどうかいな」
同じ柱の根元を二匹でめぐり、儀式めいた仕種で、ぐるぐる追いかけっこす
る。信じられないことだが、電車の運賃か何かのかけあいらしい。
コアラ市長が、柱を片手でつかみ、そこを中心にくるりと回ってはしゃぐ。
「高い、高いよ、電車は高い。こんな高いの見たことない」
オラン婆さんも、あとをよたよた追いながら、楽しげにしゃがれ声でかぶりを
ふった。「いやいや安い。こんなに安いの聞いたことない」
「遅いとゆるさん、急行列車。高い鉄道、どこまでも」
「人間乗せるな、お気楽電車。安い鉄道、いつまでも」
ぴいひょろろの声は、鳴りやまない。もしかすると、これは発車の合図のベル
を、鳶の鳴き声で代用しているのではないか。
そう気づいたとき、鳶の声がぴたりとやんだ。案の定、列車のドアが閉まり、
ゆっくり動きだした。線路も地面もないホームから、なめらかに発車する。
金属のはずの列車は、疾風に巻かれる葉のように、またたく間にきりきり舞い
しながら上空高くへ駆けあがった。電車の起こした突風が駅舎にまいこみ、花畑
の馥郁(ふくいく)たる香りをホームにばらまいて去った。
それはもう、信じがたい光景だった。重力無視の軌道なき浮遊電車だ。列車
は、既に数十メートルも上空に浮かび、空を泳ぐ凧(たこ)のように何度も旋回
している。
電車というより、まるで目に見えない大翼をもった金属の巨蛇だった。連結器
がやたらとぐにゃぐにゃしており、節を持った生き物のようだ。新体操のリボン
にも似て、くるくるとループを描き、駅の真上を通りすぎてゆく。
ワオキツネザルの腕前もなかなか大したものらしい。電車にスピーカーでもと
りつけてあるのか、楽しげなオメグミちゃんの声が、駅の上空から降ってきた。
「はぁ、電車がくるりと輪をかいた。ステキッ」
うれしがるオメグミちやんの可愛い叫び声とともに、飛行電車はその場で、予
期しない変身を開始した。
頭上にくりひろげられる光景に、私は息をのんだ。蛇行電車が、同じサイズの
生き物に変貌してゆくのだ。十両編成の列車が、みるみる一体の昇竜にとってか
わる。電車から頭や手足や尾が生え、角や鱗や鉤爪をそなえた東洋の龍になって
ゆくのである。
金と銀の鱗に覆われ、牙やひげもみごとな大龍だ。オメグミちゃんがいるはず
の頭を持ち上げ、大きな目玉をぎょろりと光らせ飛んでいる。
池袋駅前で、ネズミと牛と招き虎を見てから、十二支の動物のうち竜(タツ)
だけ見なかったが、こんなところで最後のひとつと遭遇するとは……。
七色の空を遊弋(ゆうよく)する電車龍は、オーロラを抱く巨体で大きな螺旋
を描き、みるみるうちに天空はるかに上昇してゆく。
いったい、どこまで昇るのだろうと目を細める。とたんに龍の姿が忽然と消え
てしまった。あれだけの巨体が、何の前ぶれもなしに、まるごと消滅したのだ。
「そ、そんな馬鹿な……」
私は、龍電車が鳶のようにくるくる回っていた上空を茫然と見やる。腰からカ
が抜け、ホームに膝をついてうめいた。
「なんてこった……」
ひどい恐慌に襲われ、ぎりぎりと胸がさいなまれる。なんとかしなければ、な
し崩しに、この異常世界にとりこまれてしまう。もし、あの龍の電車が戻ってこ
なかったら、ここから脱出する機会は、永遠にこないかもしれないのだ。
私は目の前が真っ暗になった。深刻な危機感と恐怖だけが、ふくれあがって身
も心も破裂しそうだ。底なしの不安に、頭も足も麻痺し、ぐらぐらしてくる。
一体どうすればいいいのか、思考は空転するばかり。くるくると同じ所を、そ
れこそ、トンビのように堂々巡りする。
(電車のお値段不明のまま、次回へ続く)
ワオキツネザル(マダガスカル産)
「もっとよくワオキツネザルについて知りたい方のために」
http://naha.cool.ne.jp/naha/1414/waowao/top.htm