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ホームの床板のすきまから、小次郎が鋭い爪をつきだし、のんきに語りかけて
きた。
「ども、おこんばんは。小次郎の裁判長なんでございますが、こんにちはの方が
よかったですか。みなさん、こうして見上げておりますと、お元気そうで、なに
より便りはひしゃくの柄です。うふ、うふう」
くつくつと笑いながら、ホームの裏をひっかいてはノックする。
ムーンタッタ法王たちが、ヤドリギ片手にはいつくばり、小次郎をのぞきこんで
叫んだ。
「"こ"さまの、おなーり−」
狼の大声とともに、駅頭巨頭会談の面々が、ずらりと小次郎の真上に一列に並
んだ。両端にカミュとオラン婆さんを配し、最初に見た通りの順番に整列して胸
をはる。
小次郎はと見れば、待っている市長たちには、あまり興味がないようだ。ひと
りごとをもらしながら、板をがりがりひっかき続けている。どうやら、登ってく
る方角をまちがえたらしい。出口がみつからずに、困っているのだ。
「おや。何かおかしいですよ。うふふん。扉も出口も見えませんね。これは、や
っぱり鍋は土鍋と言ったので、銅鍋がおこってジェラシーしてしまったようです
よ。鍋のたたりで、たたみ鰯とすき昆布が、おたがい平たく干されてしまったと
か。でも、わたくし、くじけません。なにしろ、くじけたら痛いじゃありません
か。そんなわけで、痛いのは、わたくし、あまり好きではないので、ほかにいい
ことを思いつくことにいたしましたよ」
彼は、板をひっかくのをやめ、小さく咳ばらいすると別の方向へ動きはじめ
た。
板のすきまから見ていると、太きな螺旋の段々がもりあがるすべすべした丘の
表面を、横ばいに動きはじめた。えっちらおっちらと黒い大蟻のようだ。駅舎の
正面がある反対側へまわりこむつもりらしい。
狼の聖職者にも助けてもらえず、思いあまった私は、無駄だと知りつつ、最後
の悪あがきを試みることにした。はいつくばって板のすきまから、横ばいに動く
小次郎に呼びかける。
「おい、小次郎くん。なんとかしてくれ。どうか裁判を中止させて欲しいんだ。
やめてくれれば、できることはなんでもするから。みんなに言って、やめさせて
くれよ。裁判長なんだろ」
小次郎は、真黒い毛に覆われた耳を、ぴくりと動かしただけだ。何かほかのこ
とを考えているらしく、まったくとりあってくれない。笑いを浮かべた横顔をみ
せながら、はあはあ息を吐き、反対側へとまわりこんでゆく。肩にかついだ鮭の
銀色の頭が、はるかな空のオーロラの光で、七色にきらきらと輝いている。
「ふにゃ、あれはにゃんだ?」
オタマ隊長が、突然、天空の一画を指さした。ホームにいる全員が、オタマの
さししめす上空に視線を向けた。
それは、一羽の大きな鳥だった。近づくにつれ、コウノトリに似た姿がはっき
りしてくる。全身が白く、桜色にオレンジ色がかった翼を持った大型烏だ。長い
湾曲したくちばしが黒くのび、目のまわりを中心に顔全体が赤い。両足は濃い桃
色で、優雅な雰囲気がある。
シロ隊長が、目をみはって吠えた。
「あれは、トキの"ニッポン・イチゴロウ"さんだぞ」
天然記念物のトキだった。文字どおり朱鷺色の美しい姿だ。翼のはしからはし
まで、約一・三メートルぐらいある。
なんで、こんな所に絶滅確定の珍鳥がやってくるのだ。ニッポン・イチゴロウ
とは変な名だが、学名のニッポニア・ニッポンと関係があるのか。漢字で書け
ば、日本一五郎というところか。
トキは、駅舎の上空にやってくると、悠々と大きな輪を描きはじめた。黒いく
ちばしが細長くのびる頭を、軽くかしげてこちらを見下ろしている。
後頭部からは白い冠羽が、後光のようにのび、風になびいて真白なススキの穂
のように見えた。よく見ると首の付け根から、何か先のとがった物を、紐でぶら
下げている。
トキの目は、軽妙な明るさをたたえ、動きも活発そのものだった。風の中で、
はりのある元気な声で何か口ずさんでいる。
「ボークは、日本一五郎。誰がつけたか一五郎。高くついちゃう、トキの糞。勝
つも負けるもトキの運。トキにドキドキ、トキにワクワク。ああ、あのトキ、こ
うしておけばよかったと、トキどき思う転んだ後の杖。ボクは、ときめくトキだ
から。トキは鳥なり。ゆっくりしてても急いでる。時間がなくても、トキだか
ら」
その姿には、絶滅間近の生物の哀しみや痛みなど、みじんもない。ただ、ある
がままに飛ぶことを楽しみ、陽気に翼をひろげている。なにがあっても、明るく
元気に生きてゆきますと、羽毛にふくらんだ全身で語っている。
トキは、駅舎のスレート葺きの屋根の上に降り、羽根をたたんで、市長たちにぺ
こっと頭を下げた。
ユカリさんは小さな灰色の毛につつまれた手をふって叫んだ。
「お−い、一五郎くん。きみは、いったいどうして、ここへやってきたのかね」
トキは黒いくちばしを大きく開いて、やけに明るく妙な笑い方をした。
「な−はははっ。市長のユカリさん。なんでやって来たのかですって?やだな
あ、ボクはこうして翼でもって、飛んできたんじゃありませんか」
「いや、あのね。つまり、きみはどういう理由でここへ来たのかということなん
だよ。うんうん」
トキは翼をつくろいながら、陽気に笑って応じた。
「なは、なはっ。ですから、ボク、翼でもって飛んできたんですよ」
「いや、そうではなくてね……」
コアラは困ってしまい、シロの脇腹を小さな黒い指先でつついた。
「きみ、たのむよ。わたしはトキが苦羊なのだよ」
シロは「はいっ」としゃちほこばったが、彼もまた隣のブブヅケの脇腹を、こ
っそりつつくのだった。
「おい。市長さんの御命令だ。おまえ、やれ」
「はっ。わかりました。ですが、自分も実はトキが苦手なんであります。うまく
できるかどうかわかりませんが、やってみるのであります」
ハスキー犬のブブヅケは、尻尾をふって思い切り目をつむると、顎を空に向け
てつきだした。彼は苦しそうに天をあおぎ、トキに向かってけんめいに吠えた。
枢機卿タッチャンが腰をかがめ、隣のカミュに小声でささやいた。
「参事官。あんたも応援した方がいいべな。同じ鳥の仲間だべよ」
カミュは真赤なとさかをゆらし、ぷいと横をむいてうそぶいた。
「同じじゃない。トキは空飛ぶ。ニワトリ飛べない。大きなトリ違い。空はチガ
イ法権です」
「そうは言うだが、ほれブブヅケ副隊長も困ってるべな」
今まで、つんとすましていた猫撫隊に、動きが生じた。オタマ隊長が、ヨイト
マケの耳、に、何かごにゃごにゃとささやいた。
ヨイトマケは、一瞬、目をかっと見開き、尻尾をぴんと立てた。ベロリと舌で
口のまわりをなめ、眠そうに目を細めながらうなずく。市長たちを前に、「みな
にゃん」と呼びかける。
「オタマ隊長が、トキどのに申し上げたいことがあるそうにゃ。トキどの、ここ
まで降りて来てください、にゃのだ」
トキが、なははと笑って翼を広げるのを確認すると、ヨイトマケは続けた。
「それでは自分が、隊長に替わって申し上げますにゃ。みんにゃ、つつしんで聞
いて欲しいにゃ」
ヨイトマケは、ひげを鋭い爪でなでつけはじめた。自慢げに一本一本ていねい
にしごきながら、ホームに舞い降りてきたトキに声をかけた。
「トキに一五郎にゃん。ゴロニャンのよしみで、どうか裁判に参加して下さい。
みんな大喜びしてるにゃん。にゃんとなれば、今日の被告は、これこのとおり人
間だからですにゃ。いかがですかにゃ。いまドキ、人間が被告なんてなかなか無
(にゃ)いことですにゃ」
一行の前に立ったトキは、さっと長い首で一礼すると、美しい大きな羽をたた
んだ。首から胸元にぶらさげているのは、どういうわけか銀色の仕立て用の洋鋏
だった。まだ真新しく切れ味がよさそうだ。
なぜそんな物を持っているのか、たずねたかったが、余計な発言で、どんな不
利な立場に立たされるか知れたものではない。とにかく、事態は手におえない。
身におぼえがあろうとなかろうと、なしくずし的に被告あつかいなのだ。
ヨイトマケの頼みに、トキは軽く首をふった。黒いくちばしを空に向けて開
き、赤い顔で笑って応じた。
「なはは、なはっ。お招きいただき、ありがとうございます。実はボク、裁判と
いうのには、どうも食欲が、まったくわきません。ごめんなさい。トキを問わ
ず、ドジョウやカエルやサワガニには、たいへんに興味と食欲があるんです。で
も、裁判とは、名前からしてまずそうじゃありませんか。あ、それとアメリカザ
リガニなんか珍味で、なかなかよいですよね。でも、なはははっ。裁判料理は、
一種の悪食(あくじき)でゲテモノとしか思えません。告訴や判決という調理法
は、どんなトキでも、被告のレシピとしては、とても上等とはいえません。沼地
のグルメ、田んぼの食通と言われた、このボクの味覚にはとてもあわない。胸が
トキめかないのです。そういうわけで、申し訳ないのですが、どうか御遠慮させ
てください。なはは」
一五郎は、赤い顔に黄色い輪の目をぱちぱちさせ、どうでしょうかとヨイトマ
ケの顔を見つめた。
ヨイトマケは、ひげをしごくのをやめ、耳の裏を丸めた手でかくと、ニャオー
ンとないた。
「裁判目当てでにゃいとすると、いったい、にゃんでここへいらっしゃった訳で
すかにゃ」 一五郎は、くちばしで胸にぶらさがる洋鋏を示し、ちょっと紐をも
ちあげて見せた。
「このハサミですよ。なははっ。これを、"こ"さまに、お渡しして欲しいので
す。裁判所には、これが絶対に必要ですからね」
トキの指摘に、ムーンタッタ法王が、なるほどとうなずいた。ヤドリギをふり
ながら、、トキに近づいておごそかに頭を下げた。
「ほうほう、ほ−お−。それはそれは、どうも御苦労さまで−す」
法王はうやうやしく、トキの首からハサミをそっとはずした。おしいただい
て、自分の首にかけ直し、拝みつつ三歩退く。
トキは身軽になると、再び朱鷺色の翼を広げて飛び上がった。
「それじゃ、みなさん。ボクこれで、仕事終わりです。さよならです。な−はは
はっ」
日本一五郎は、ゆうゆうと七色のオーロラに輝く空の彼方に飛び去った。
トキを見送ったョイトマケが、法王ムーンタッタとユカリ市長に呼びかけた。
「どんなもんですかにゃ。ちゃんと、用事を聞いてすませてあげたですにゃん」
その口調には、恩着せがましい響きがあった。何にもしないのが仕事の割に
は、コアラやブブヅケにできなかったトキの相手を立派にやりとげている。なに
やら、ただではすまないなりゆきだ。
案の定、ョイトマケは細い目をさらに細め、オタマ隊長といたずらっぽく顔を
見合わせた。
オタマが、手で顔を洗ってから、ちょっと得意そうにユカリ市長に告げた。
「そこでですにゃん。御礼は何(にゃん)にもいらにゃいけれどにゃ、ひとつだ
け頼みごとがあるんにゃよ」
ユカリ市長は、しようがないと言いたげに、ぴこっと肩をすくめて見せた。ぶ
かぶかの灰色の毛に覆われたコアラが、肩をすくめるしぐさは、場違いなほど可
愛らしかった。
市長は、ステッキを両手で頭上にさしあげ、う−むと背伸びし、左右の屈伸体
操をはじめた。
「うんうん。まあ、助けてもらったんだからね。頼みごととは何かね。何もしな
いのが仕事のきみたちが、仕事をしたんだからね。うん、これは奇蹟のようなこ
とだ。なかなか珍しいことだよ、きみ。いっそ自伝でも書いたらどうかね。題
は、こんなのがよいだろう。うんうん、『私はいかにして、トキから大事な用件
を聞くという奇蹟を起こせるゴロニャンになったか』。まあ、それなりの手当て
とゴムまりははずむから、思いきって言ってみたまえよ。うんうん」
オタマは三毛のしっぽを、くねくね動かして答えた。
「では言うにゃん。お願いは、ほんのちびっとなのですにゃ。まあ、大したこと
にゃあですよ」
猫撫隊隊長は、ユカリ市長を細い猫目でうかがいながら、なかなか用件を切り
ださない。多少、気がひけるらしく、手をざらざらの舌でなめると、もう一度だ
け顔をなで洗いした。
コアラ市長の方は悠然と待っていた。ステッキを両手でもちあげ、頭のうしろ
へまわし、肩の上にのせながら屈伸体操を続ける。
「うんうん。だからね、もう裁判がはじまるし、"こ"さまもおいでになることだ
し、用件を、うん、もう少し早く言ってもらえると助かるんだけどね。オタマ隊
長」
オタマは、耳のうしろをかくヨイトマケに横顔を向けた。なんともうれしそう
に目を細め、快心の笑みといった表情だ。
「それでは、三毛猫族の名誉と、アジの開きのうまさにかけて言うにゃん。お頼
みするにょは、ひなたぼっこにいい一番場所を、提供して欲しいにゃん。夏は涼
しくて日陰があってにゃ、冬は風がなくて陽あたりのいい場所を、猫撫隊に使わ
せて欲しいのにゃよ」
ユカリさんは、ステッキを尻のあたりにまわし、フラダンスのように腰を二度
三度とふってみせた。
「うんうん。言い分はわかるけどね。うん、そんな場所は、ベあべあ日暮ら市じ
ゅうさがしたって、どこにもないと思うんだがね。きみ」
「それが、一箇所だけあるにゃん」
コアラはステッキ片手に、素足のタップダンスを踊りだし、黒い目をきらりと
輝かせた。
「ほほお。それは、いったいどこにあるのかね、うん。できれば、わたしもそこ
に登って抱きつきたいものだねえ」
オタマは耳の向きを、アンテナのようにあちこち向け、白い腹をぷんとそらし
て尾をひとふりする。
「その場所というのはにゃ、"おっかさんバオバブ"の上だにゃん」
市長たちは、とたんに目をむき、驚きの声をあげた。よほどの衝撃を受けたら
しく、天地がひっくり返るような喚声をあげ、大騒ぎになった。
コアラ市長は飛び上がってステッキを放りなげ、ホームの柱によじのぼり、固
く目をつむってぶるぶる震えだす。トキから預かった洋バサミも、彼の灰色の胸
の上で、小刻みに揺れる。
カミュは「コッケー、トリ返しがつかなくなるよ−っ」と奇声をあげて駆け出
し、激しくはばたいて飛び上がる。オラン婆さんは床の上に倒れ、手足をわくわ
く開いたあげく、ごろりと一回転して泡を吹く。ムーンタッタたちも、タブー破
りを聞いたように、ホームの端から端まで全力でばたばた走りぬけ、息を荒げて
狂ったように何度も往復する始末だ。
「はらい卵。清めたまねぎ。いやいや、いやいや、それでも足りない。えいや
っ、祓いたましい、清めたましい」
ヤドリギの枝を顔の前にかざし、大きく何度もふりながら、必死にお祓いす
る。いちばん感情的なのは、シロとブブヅケだった。
今にも、オタマにがっぷりと噛みつきそうだ。牙をむきだし、狂犬じみた怒り
のまなこでうなり声を上げる。
「おまえたち、大変なことを言ってるんだぞ。"おっかさんバオバブ"は聖地なん
だぞ。あそこには、誰も登ってはだめなんだぞ。あそこに登れるのは、"こ"さま
だけなんだぞ」
なんのことか分からないが、"おっかさんバオバブ"というのは、よっぼど大事
なものらしい。バオバブというからには、かなり大きな樹木なのだろう。ここは
生物相もめちゃくちゃのようだ。こんな豊かでみずみずしいお花畑や緑の山と、
サバンナに生えるバオバブ樹が、同じところにありえるだろうか。
(なんだか、よほど不思議な世界だぞ。ここは……)
驚愕と衝撃だけではない感覚が、ようやく私の中から生まれてきた。麻痺して
かき消されていた好奇心が、"おっかさんバオバブ"という言葉とともに、息をふ
きかえしたのだ。
いつしか、恐慌を通りこし、開きなおりに近い気持ちが生まれている。動物た
ちの狼狽ぶりを見て、逆に腹がすわってくる。
ここは質問してもよかろうと思い、および腰で市長たちに尋ねる。
「なんで、こんなにあわててるんだ。"おっかさんバオバブ"ってなんなんだ?」
最初に答えたのはカミュだった。かなりあたふたしている。
「決まってる。ベあべあ日暮ら市の命の源。ケッコ」
コアラの市長が目を薄くあけ、柱にしっかりと抱きついたまま、ふるえ声で説
明してくれた。
「名誉ある被告くん、"おっかさんバオバブ"がないと、この世界の生き物はみん
な、死んでしまうのだよ。うんうん。それはそれは大切な聖なる樹なんだから、
オタマ隊長はとんでもないことを要求しているのだよ」
狼法王は、さっさかさっさか、ヤドリギの枝を懸命に振り続けている。泡をふ
いたオラン婆さんを介抱しながら、困り果てたタッチャン枢機卿がかわって答え
る。
「はあ、太変なことだべよ。あんた、人間で、しかも被告だからわかんねえだろ
うが、"おっかさんバオバブ"は、この世界のはずれにあるスミマ山(せん)ちゅ
う山の、深いふかいブナの森の中にあるだ」
私は思わず、身を乗り出した。仏教にある宇宙亀の上の世界峰、須弥山(しゅ
みせん)と、何か関係があるのだろうか。
「命の源って、どういうことだ?」
「ここの生き物は、みんな"おっかさんバオバブ"の木の汁をなめて生きてるだ
よ」
ブナの森のただなかにあるバオバブなど、想像もできないが、この世界では、
とにかくなんでもありらしい。
「樹液で生きるって……。そんなにすごい木なのか」
タッチャンは尻尾を立て、誇らしげにうなずいた。
「そうだだよ。"おっかさんバオバブ"は、ケンジ森っちゅうブナとカシの森のま
んなかで、黄金の命の湖の中に立ってるだ。うんと広いだよ。金色の大きな湖だ
で、そりゃもう美しいだが、その湖は"おっかさんバオバブ"の流す木の汁が、長
い間にたまってできたもんだべよ。そのほとりには、茎が金色と黒のまだらにな
った葦が、いっぱい生えてるだ」
カミュが心配そうにオラン婆さんをのぞきこみ、コオーッと尾羽をふるわせて
告げた。
「ひとくち飲めば、トリ肌たつほどおいしい、命の水ケッコ。ほかに何も食べな
くても、だいじょうぶ。たいへんにケッコウなお恵みで、被告もなめれば生き生
きする。効果満点、トサカの先までまちがいなし」
どんな樹液か知らないが、他の食べ物がいらないというのは、にわかには信じ
がたい。
「旧約聖書に出てくるマナみたいだな」
ぽつりとつぷやくと、後ろからオタマの声が問いかけた。
「マニャって、どんにゃ食い物にゃ?被告の世界にゃ、そんにゃ、うまいもんが
あるのかにゃ」
この大騒ぎの原因となり、オラン婆さんを卒倒させたことなど、ぜんぜん気に
していないのんきな声だった。
いささか不愉快になったが、猫を見下ろして、仕方なく教える。
「マナなんて、いつもいつもあるものじゃない。ずっと昔、ある神様に選ばれた
ってことになってる民族が、砂漠を流浪して飢えたとき、神さまがあわれんで天
から降らせた、白くて甘い栄養満点の粉のことさ。あくまで伝説だけど、雪のよ
うに降ってきたって話だよ」
オタマはがっかりしたらしい。つまらなそうに横を向き、クシャミした。
「われわれだって、キマグレコ大明神さまに選ばれているのにやよ。それにここ
は砂漢ではないにゃん。べあべあ日暮ら市だにゃん。そんなマニャにゃんかよ
り、"おっかさんバオバブ"の命の水の方がはるかにいいのにゃよ」
私はむっとしたまま、三毛猫隊長に顔を近づけ目をのぞきこんだ。
「ところで、オタマ隊長。そんな大切な木に登って、ひなたぼっこしたいなん
て、いったのは誰だい。いい度胸だと思うよ。見てごらん。みんなびっくりし
て、オラン婆さんもこの通りじゃないか」
オタマとヨイトマケは、ベレー帽に手を上げ、ひどく不思議そうに顔を見合わ
せた。
「誰が、そんにゃことを言ったにゃん?」
きょとんとしている猫たちに、私はひとさし指をつきつけた。
「いま、きみたちが言ったことだろ。忘れたわけじゃあるまい」
ヨイトマケが憤然として牙をむいた。ひげと鼻が怒りにひくついている。
「人間の被告のくせに、隊長に難癖つけるんじゃにゃい。そんにゃこと、われわ
れが言うわけないにゃん。ひどい嘘だにゃん」
私は、猫たちのあまりにずうずうしさに呆れ、まじまじと見つめた。
「いま言ったばかりじゃないか。覚えてないはずないだろう」
「言いがかりするにゃ!」
オタマは、なぜか本気だった。目と鼻の間をくしゃくしゃにして怒り、実に迷
惑だといわんばかりだ。
「この被告は、嘘つきにやん。でたらめにゃ。困ったよ、ヨイトマケくん」
上官の冤罪(えんざい)に憤慨するように、ヨイトマケもいっしょになって牙
をむく。
「身に覚えのにゃい、ぬれぎぬですにや。罪をなすりつけたり、ウソいっておと
しいれるのは、人間の得意わざですにゃん」
どうなっているのか。猫たちは、本当に自分たちの言ったことを忘れたらし
い。
この猫たちの記憶力のなさには、呆気にとられた。さっき発した自分たちの提
案と発言すら、ぜんぜん覚えていないのだ。これは、想像以上の気まぐれさと忘
れっぽさだ。なんでも思いついた片端から忘れてしまうのだ。「なんにもしない
のが仕事」なのではなく、「なんにもできないので、なんにもしない」のだろ
う。
肩をすくめる私の前で、猫撫隊はそろってフワアと大あくびすると、尻尾を垂
れて整列する。なにごとも無かったように、体のあちこちをなめて毛づくいをは
じめる。その場に寝そべり、片足を大きくあげ、お尻の掃除までいたす所を見る
と、人騒がせな発言の記憶は本当にないらしい。
まわりに目をやれば、オラン婆さんが、ようやく息をふきかえし、のっそりと
起き上がる。カミュもユカリ市長も、ふらふらしながら小次郎を迎える列の中に
入る。
一列にならぶ市長たちを前に、私は遠慮がちに少し離れた所に立った。小次郎
の訪れを待ちながら、駅舎の方を見る。
駅舎は、かなり古くてこじんまりしている。水色に塗られた木造の山小屋のよ
うだ。生徒と先生がひとりずつしかいない、そんな過疎地の分校を思わせる。
改札口は、人ひとりがやっと通れる幅しかない。自動改札機など、あと百年以
上たたないと出てきそうもないつくりだ。改礼のしきりも、すべて木造だった。
駅の待合室と改札の間の壁は、大きなアーチ型に開けていて、そこからホームが
見演せる。
駅の様子をうかがっていると、狭い木の改札口の向こうから、ついに小次郎の
声が聞こえてきた。
「さて、ここまで登ってきたのはいいんですけれど、どうにも困ってしまいまし
たよ。どうしてかというと、うふ、うふう。わたくし、太っ腹ですので、この改
札口を、どうも通れないようですよ」
困ったと言いつつも、少しも困った風でない所が小次郎らしい。改礼口の幅が
狭くて腹がつかえ、ホームに出るのが難儀だといいたいようだ。
私は小次郎に、対策を考えるから、ちょっと待てと呼びかけようとした。が、
時すでにおそし。紫色のつんつるてんの法服をつけた月の輪熊は、改礼口に胴回
りのある体を、ぐいっと突っこんでいた。
いった先から、木のしきりの間に体がつかえ、前進不能になる。それなのに熊
は、うれしそうに大口を開いてごあいさつだ。
「おや。みなさんおそろいですね。わたくし感動いたしました。ここで一首。い
とをかし、ずらりならべたがん首を、衣ほすてふ、ベあの日暮らし」
優雅に無意味な和歌など詠んでいる場合ではない。
小次郎は笑っているが、改札口で腹がつかえて、もはやにっちもさっちもいか
ない。鮭と蜂の巣を持ったまま、真黒な熊の腹が木枠にはさまれ、立ち往生だ。
「うふ、うふう。また一句できましたよ。改札や、小次郎とびこむ、腹の音。あ
な苦し。とっても字あまり」
彼は彼なりに、この窮状を和歌や俳句に託して訴えているつもりらしい。市長
たちは、小次郎の困った姿に飛び上がり、あわてて改礼口に駆けこんだ。ヤドリ
ギを振りあげるムーンタッタを先頭に、ユカリ市長、犬兵隊と続き、オラン婆さ
んの肩に力ミュが乗り、しんがりは猫撫隊だ。私も彼らの後を追って駆けつけ
る。
(太っ腹なのも良し悪しということで、次回へ)