
開廷、臨時ジリリンうる裁判
1
駆けつけた市の巨頭たちを前に、腹がつかえて出られない小次郎だった。彼
は、そんなみっともない恰好のまま、実にうれしそうに、ペこりと頭をさげて挨
拶した。
「うふふん。ども、こんにちわですよ」
手にした蜂の巣に、白く鋭い牙でばりっとかぶりつく。流れでた黄金色の蜂蜜
が、胸の白い三日月型の輪から下を、ベとべとに汚す。怒った蜜蜂たちが、まわ
りをぶんぶん飛んでうるさかった。
とりまく動物たちは、そんな小次郎を崇敬の眼差しで見上げる。
当の"こ"さまときたら、改礼口に腹がつっかえたまま、蜂蜜をうまそうにベロ
ベロなめるばかりだ。
蜜をなめる桃色の舌の動きが、いきなりはたと止まった。熊は何か思いついた
ように、蜂の巣を口からはなした。中空に視線を向けて「おや」と小さくつぶや
く。蜂の巣ごと手を口にやり、例のごとく笑った。
「思い出しましたよ。うふ、うふう」
小次郎は、もう片方の手で、肩から背中に下げていた鮭をさぐった。えらから
突き通したクマ笹の枝を、爪の先にひっかけ、よっこらしょと下ろす。
法王ムーンタッタがいそいそと、腹のつかえた月の輪熊の前に立った。一同を
代表してうやうやしく一礼し、ヤドリギを両手で玉串のように差し出す。
「"こ"さま。ど−ぞ、こ−れを、お受け取りください、ましまし−」
小次郎は楽しげにうなずくと、ヤドリギの枝を受け取った。そのかわりに、片
手にぶらさげた活きのいい鮭を、法王の顔の前につきだした。
「どぞ。お返しに、おと−さんの、おみやげです」
なぜ小次郎が『おと−さん』なのか、さっばりわからない。ムーンタッタとタ
ッチャンは、おおっと驚き、すぐに相好を崩して喜悦の声を上げた。
「おお、"こ"さまの『おと−さんのおみやげ』。これはまことに、もったいな−
いことにあらせられまする−」
狼たちにならって全員が頭を下げ、恐縮のポーズをとる。そうしながらも、オ
タマとヨイトマケが、早くも鼻をくんくん言わせている。ひげをひくひく動かす
さまは、世にもまれなる芳香をかいでいるかのようだ。鮭のにおいでたまらない
気持ちになっているらしい。ムーンタッタが預かって抱きしめる鮭に、横目をち
らちらと走らせている。
耳をすませると、オタマ隊長が、ヨイトマケにこっそりささやくのがきこえ
た。
「おやつだにゃ。シャケだにゃ。久しぶりに、シャケの頭が食せるにゃん」
ざらざらした舌をぺろりと出し、だらしなくよだれを垂らすヨイトマケだっ
た。
「隊長。シャケは、やっぱし背骨がうまいですにゃ」
シロ隊長とブブヅケが、耳ざとくそれを聞きつけ、じろりと猫たちを横目でに
らむ。だが、そういう彼らも、直立不動でいるくせに、黒い鼻だけはしっかり、
ふんふんうごめかせている。
私は、すぐ近くにいるカミュに小声でたずねた。
「あの鮭は、いったいどうするんだい」
カミュは、とさかをぷるりと震わせ、コオーッとささやく。
「みんなで分けて食べるケッコ。肉とはらわたは、トラリン大学の聴講生のおや
つにするコッコ。骨や頭やしっぽ、ひれなんかは、みんなでトリ合いするほどケ
ッコウなお味よ。犬兵隊と猫撫隊が食べることになってるコケッコ」
トラリン大学と聞いて、あの人間をバカにした虎の大学教投を、反射的に思い
だした。「じゃあ、あの虎の教投も食べるのか」
カミュはすまして答え、くちばしで白い羽をつくろった。
「当然のコッコ。ワン教授はいちばん美味しいところをいただくケッコ。頭脳労
働者は、いわゆる一種のトッケン階級コッコ。良質のタンパクシツをトリ続ける
ことが必要」
そういえば、さっきカミュの歌では、私の教育係にワン教授の名が上がってい
た。あの下剤学専攻の変てこ教授と、また顔を会わせるのかと思うと慄然とす
る。思わず尋ねる声もふるえた。
「ト、トラリン大学なんて、ほんとにあるのか。聴講生っていうが、だれが講義
を受けるってんだ」
カミュは、私の膝の裏側をつついて、うるさそうにせがんだ。
「いずれわかるコッコ。それより、早く"こ"さまを、お助けするケッコ」
足元で胸をはるカミュに、むっとして抗議する。
「おれは被告にされたんだ。小次郎は裁判長だろ。助けてほしいのは、おれの方
だ」
雄鶏は、こっちの反発など聞いていなかった。とっとと小次郎の足元に駆けよ
り、改札前に整列した全員に叫ぶ。
「クォケッコウ。なせばなるっクォッ。みんなで、"こ"さまを、ホームに、ひっ
ぱってお助けするケッコ」
巨頭会談の面々は、たちまち勇み立った。いっせいにエイ、エイ、ウオンと鯨
波(とき)の声をあげる。
ユカリ市長は、可愛くぱっちりウィンクをして見せた。
「うんうん。カをあわせて、"こ"さまを、この信じられないような苦難から、お
救い申しあげなければならないのだよ。うん。われわれ、駅頭巨頭会談の名誉に
かけてだね、裁判をはじめる段取りをつけなければならないよ。うんうん」
市長はステッキをふりあげ、全員に号令を発して采配をふるった。
「さて、わたしとカミュ参事官、猫撫隊と犬兵隊、それに法王と枢機卿とオラン
婆さんは、ルこ祖さまを押してさしあげるために、向こうへまわるのだよ。それ
以外の残ったものは"こ"さまを、ホームヘいっしょうけんめいにひっぱるのだ
よ。うん」
"残ったもの"といっても、私ひとりではないか。
「ちょっと待った。なんで、おれひとりに引っぱらせるんだ」
ユカリ市長はその声を、あっさり無視した。ステッキとハサミを持って腹ばい
になり、「匍匐(ほふく)前進、はらばいばい。それそれ、行け行け」
と言いながら、平泳ぎみたいなかっこうで小次郎の両足の間を通る。
続いて、ぞろぞろと犬、猫、狼、オランウータンが、ぐふぐふ笑っている熊の
そばを、お辞儀しながらすりぬけた。最後にカミュが、コッコッと短く鳴きなが
ら、ばさばさはばたいて小次郎の肩の上を飛びこえる。
結局、私ひとりを残し、全員が向こうに行ってしまったのだ。腹立たしくなっ
て叫ばずにいられなかった。
「じょうだんじやない。こんなのってあるか。あんまり不公平じゃないか」
人の憤慨の声に、ユカリ市長が応じた。腹のつかえた熊の背中側で、ステッキ
をふりあげ、左右に大きくふって見せたのだ。
「きみはそう言うけどね、被告くん。これでよいのだよ。人間は万物の増長だか
らね。うんうん」
まるでとり合ってもらえないし、返す言葉もない。私は仕方なく、蜂蜜に口と
胸を、ベたべたよごした小次郎の正面に立った。
小次郎は私を、意外にきれいな澄んだ目で見つめた。楽しげで、理由のわから
ない好意さえ持っている様子だった。
疑うことを知らない、悪意と無縁なその目に、私はなぜか胸をつかれた。怒っ
た自分がなんだかとても恥ずかしくなる。確かに、ユカリ市長が、"万物の増長"
といったのは正しいかもしれない。邪気のない無垢な目だ。まるで、人のおろか
さと浅はかさを、無言でまっすぐつらぬくかのような目だった。
月の輪熊は、こっちの恥じ入った気持ちなど、全く知らぬげだ。蜂の巣をコア
ラ市長にあずけ、蜜でべたべたによごれた手を、こちらに差し出した。
「どぞ。お手をどぞ。いっしょにダンス、踊りましょう。うふふん。熊のダンス
は楽しいダンス。服を吊るのは洋服ダンス」
小次郎は有無を言わせず、人の手をむずとつかむ。興が乗ったか、またまた奇
妙な歌を歌いはじめた。
♪人と熊とが手をにぎり、
桐のタンスを背負って踊れ。
踊れ、踊れよ、踊りゃんせ。
はあ、べあべあ、くまくま。
踊りまくってひと晩明かしゃ、
踊り疲れて目にくまがでる♪
蜜でべたべたの熊手につかまれ、こっちは顔をしぶくしているのに、小次郎は
さもうれしそうに目を細めた。
「わたくし、裁判長なんですけれど、被告に助けていただけるなんて、とっても
幸福。幸いは、忘れたころにやってくる。山のあなたの空とおく、アイアイ住む
と熊のいう。熊静かならんと欲すれども、三歩下がって獅子の影をふまず。それ
でもって、飲まず食わずで、ナマズの土ふまず。補欠に入らずんば固辞を得ず。
トラリン大学のワン教授にも、ぜひ聞いてみたいと、わたくし思うんです。ベあ
べあ目暮ら市は、首都でございます。被告に助けられた、うれし、おもしろ裁判
長は、日暮ら市、はじまって以来のことなんですから。
とても名誉な噴き出す飯のようなことですよ。うふ、うふう」
とにかく、今は小次郎をなんとかホームヘあげなくてはならない。あとで、蜜
で汚れたこの手を、紫の法服でぬぐってやろう。そう思いながら、蜂蜜まみれの
べたべたの熊手を、夢中でひっぱる。
「それっ。そっちから押すんだ」
市長たちも、せ−のと声をあげる。たちまち、うんしょうんしょのわっしょわ
っしょと、動物たちのかけ声がホームいっぱいに響きわたった。
床に足をふんばるが、小次郎の胴腹はすっかりはまっている。なかなか抜け出
てくれない。それにしても、のんきな熊だ。腹がつかえているくせに、こっちが
かけ声をあげるたびに、短い足で楽しげにトトン、トントンとリズムをとってい
る。
「それっ、もう一度。せ−のっ」
小次郎は腹がつかえているが、こっちは腹が立っているのだ。
そう思って、ぐいっと小次郎の両手を力まかせに引っぱった。とたんに、これ
までびくともしなかった熊の体が、はずみですっぽぬけた。勢いあまって、小次
郎がまともにぶつかってくる。真黒で重い熊の上体が、蜂蜜だらけの法服といっ
しょに、どったりと覆いかぶさってきた。
「おわっ。た、助けてくれ。ぶっ。げっ」
まともに月の輪熊にのしかかられたのだ。あおむけに倒れて手足をばたつか
せ、悲鳴をあげる。なにしろ熊の体重だ。ほとんど息ができず、窒息してしま
う。気がつくと、月の輸熊の大きな頭が、目の前にあった。迷惑なことに、小次
郎は人の上に、うつぶせにころげて笑っていた。
小次郎は私の体の上に乗っかったまま、「うふ、うふう」と口に手を当てて笑
った。人が息もできずにいることなど、まるで考えにないようだ。がふがふ息を
吐き、鉢合わせの恰好で鼻先をくっつけあっている。蜂蜜の甘い香りと、なんと
もいえない獣臭い息がまともに顔にかかる。
熊の体重に押しつぶされているのに、勤物たちがわあっと狂喜して駆けよって
きた。彼らは、木の改札を次々に潜ってくると、うつぶせの小次郎の前に一列に
ならんだ。何をするのかと思ったら、いきなり万歳三唱をはじめた。
万歳の合唱に祝福され、熊がやっと、どっこいしょと立ち上がった。まだ倒れ
ている私を見下ろし、彼はにこにこしながら、ぺこりと頭を下げた。
「ども、ども、しつれいしました」
熊は、視線をゆっくりユカリ市長たちに向けた。同じくのんきな声で礼を述べ
る。
「みなさまも、ども、ごくろうさんさん日曜さんです。おつかれサンマで大根お
ろし、濃いくちしょうゆで一味とうがらし」
こっちは呆気にとられるばかりだ。気がつくと顔じゅうが、蜂蜜と抜けた熊の
黒毛でベたべただった。この上なく情けない気分で、蜜を袖でぬぐって起き上が
る。蜜はべとべと、毛はごわごわで最低だった。
嘆息しながら両膝をつき、その場であぐらをかく。動物たちの珍妙な行動は、
やむ気配もなく続いていた。ユカリさんなど、胸にきらきら洋バサミをぶらさ
げ、目に随喜の涙をたたえている。ステッキをシロ隊長に預けると、どってり立
った熊の前に、とことこ歩いてお辞儀する。
他の連中も、万歳三唱をやめて、輪になって踊りだした。小次郎とユカリ市長
のまわりで、フォークダンスじみた盆踊りをはじめる。興奮しきったなき声をあ
げ、ぐるぐる回って吠えだしたのだ。
まずシロ隊長が、ブブヅケと肩を組んで、たったらたらたらと踊りまくる。め
っぽう楽しげに口をあけ、はあはあ息を吐き、白い尾とステッキを盛んに振り回
している。ムーンタッタ法王もタッチャンといっしょに、"こ"さま手土産の鮭を
ぶんまわし、ウォンウォックと吠えている。
なんともおかしいのは、猫撫隊だった。ムーンタッタのふりまわす鮭に、なん
とか食いつこうと、踊りながら猫(びょう)視耽耽(たんたん)と狙っている。
すきを見つけては、銀鮭食おうと牙をむいて飛びつくが、狼の方がわずかの差で
動きがはやい。どんなに鋭くすばやい爪と牙でかすめとろうとしても、結局、空
ぶりに終わってしまうのだった。
オラン婆さんも、踊る輪の中の一員だ。ときの声を告げるカミュを頭の上に乗
せ、両腕をふりあげ、ホッホとかけ声をかけている。両手で拍手しながら、ただ
でさえしわの多い顔を、ますますしわくちゃにして踊り続けている。
コアラは、盆踊りの輪の中で、小次郎への挨拶を、ひととおり終えた。トキか
ら預かった銀色の洋バサミを、いかにも献上申し上げると言った恰好で熊に手渡
す。
小次郎はハサミを、何度もうなずきながら、にこにこ取り上げた。それを七色
のオーロラが輝く空に高々とかかげ、ぐおっも−んとまた吠える。
その叫びのこだまが、「おっも−ん、っも−ん」と響きわたり、花畑の彼方へ
吸いこまれてゆく。月の輪熊は、紫の法服をひらひらさせ、ハサミをちょきちょ
き振り上げて、トントコ踊りはじめた。
「おほほん、ほん。さあさ、いきましょ。正調『ハサミの舞い』。おらあ熊踊
(くまぶ)の家元だ。条虫(サナダ)流、裏表一家の《ムシャの食うど蜂蜜、別
名、たも阿弥地引き阿弥》ちゅうのは、おらのこっただよ。家元、親もと、腰元
も、足もと気をつけ、いっしょになって、みんなで踊ろ」
茶道と日舞と能楽の家をごっちゃにして、よくもこれだけでたらめな名を思い
つくものだ。あっけにとられるが、こちらのあきれ顔など、気づくはずもない。
動物たちはますます活気づき、やんやの喝采にうかれ、激しく踊り狂う。
茫然と見守るうちに、小次郎は愉快げに踊りながら、かん高い声で歌いはじめ
た。例のごとく、それは歌というよりは、歌詞も響きも、不思議な呪文じみてい
た。
♪鯨にゃオキアミ必要だ。
ぺんぎんあざらしほえる海
欠けちやならないプランクトン。
おいらに要るのは裁判所。
おねがいしますだ、プランクトン。
あたまのいいのはフランクリン。
早く芽をだせ木のホーム。
出さぬとハサミでちょんぎるぞ♪
"こ"さまが、ちょきちょきんと銀色のハサミを鳴らすと、信じられない現象が発
生した。サルカニ合戦さながらに、木のホームの柱という柱から、みるみる緑色
の葉が芽ぶきはじめたのだ。
乾燥して皮をむかれ、枝をはらわれたはずの木のあちこちから、美しい翡翠
(ひすい)色の芽が生じ、断ち切られた柱の根元からも、白い根がもくもくとは
い、萌えだしているではないか。
それは、死物が生物に変貌する驚異的な光景だった。木造のホームも駅舎も、
板のあちこちにある節目や枝の跡から、緑の復活現象を起こしている。新たな緑
色の小枝がそよそよと生えだし、足元から屋根の上まで、生まれたての新緑がみ
ずみずしく彩ってゆく。
所かまわずいっせいに萌えだした何千もの緑芽を、私は声なく見渡すばかりだ
った。
植物の勝利〜そんな一言が、ぽつりと脳裏を流れて去った。
小次郎は、なおもハサミを鳴らし、トントコ足ぶみしながら、いっしょに踊り
続ける。
♪ハア、ちょっきん、ちょっきん。
おらあ、マツの実くいてえだ。
カヤの実、スギの実、ヒノキの実。
おらあ、寝床が欲しいだよ。
みんな冬眠するだでな。
早く樹になれ、木のホーム。
ならぬとハサミでちょんぎるぞ。
早く実になれ、木のホーム。
ならぬと、みんな飢え死にだ。
はあ、さぷさぶさぷいぶうるぷる♪
なんとまあ、木に向かって脅しと泣き落としを同時にかけるとは。『サルカニ
合戦」のカニでも、こううまくは思いつかなかったことだろう。
仰天する目の前で、芽吹いて根づいた木という木が、みしみしめりめり音を立
てて変形しはじめた。ホームや駅舎の柱が、みるみる枝を伸ばして葉をひろげて
ゆくのだ。樹皮に覆われ、幹の太さを増し続ける。その間にも、元気な根が網目
をなして盛りあがり、しっかり床下に根をおろしてゆく。
旺盛な樹冠が、みずみずしい若葉を繁らせ、天空へともりもり伸びる。板の節
目から生じた芽も、ひこばえから立派な木立へと、めまぐるしい速度で育ってゆ
く。床板の部分は、ぼろぼろに腐って土になり、急成長をとげる何千本という
樹々の栄養になって消えてゆく。
驚いたことに、動物たちは、あたりの奇跡的な変化には目もくれない。あいか
わらず喜びいさんで踊っている。立っていたホームは、たちまち錯綜する大小の
木の根で、でこぼこになった。今やまわりはすっかり薄暗い森である。駅舎とホ
ームは、またたくまに形を失い、うっそうとした大木の森と化していた。
夢や幻覚ではない証拠に、針葉樹の深い森のただなかを、ぷんと鼻をつく木の
香りが漂っている。みごとな桧(ひのき)や杉、唐松、赤松、樅(もみ)や榧
(かや)の木などの樹林が、駅舎だったあたりを中心に、小高い丘いっぱいにも
りあがり、なお余勢をかって成長を続けている。
私と動物たちのまわりは、駅の痕跡をまったく残さない、ひんやりした巨木の
森だった。樹齢数百年にも匹敵する深い針葉樹の森が、ざわざわどうどうと風の
音に鳴っていた。途方にくれて見上げる本立の頂きに、せばまったオーロラの空
がきらめいている。
頭上はるかで、杉や松や桧の花粉が、黄色い霧のかたまりのように湧き出し、
舞っていた。
風に乗って流れる花粉は、すぐに薄くなった。今度はあたり一面に、針葉樹の
種と枯れ葉が、ばらばら降ってきた。黄色や赤褐色に色づいた落棄だ。そればか
りか、球状に割れたり、傘状に開いた刺だらけの褐色の実が、降りしきって地面
を覆いつくした。何万という松ぼっくりや杉や桧などの実だ。
落ちてくる実と葉の雨を避けようと、思わず両手で頭をかかえる。めまぐるし
い変化は、まだ続いた。今度は、たったいま落ちたばかりの木の実たちが、たち
まち芽を出し始めたのだ。小高い巻貝状の丘の斜面いっぱいに転がり落ちた実
が、芽吹いたかと思うと、つぎつぎに育ってゆく。
その伸びる速度もまたすごい。種から若い芽になったかと思うと、すぐに苗か
ら一人前の樹木に成長し、みるまに私の背丈をはるかにこえる。何万本という巨
木の針葉樹は、みるみるうちに丘の表面をおおいつくし、うっそうたる森を、さ
らにさらに深く本格的に広めてしまったのだ。
両手で頭をかかえたまま、おそるおそる顔をあげる。小次郎たちはいつの間に
か、踊りをやめていた。
目を転ずれば、彼らは深い木立の中、陽だまりの狭い窪地(くばち)に、車座
になって座りこんでいる。ぱらぱら落ちる落葉と実の雨の下、額をよせ集めて何
ごとか、ごにょごにょ相談しあっている。
(森のごにょごにょ相談に、まぜてくれませんかと、次回へ)