それはまぎれもなく、黄褐色のヤドカリだった。巨大巻貝のサイズにふさわし
い巨体で、ぽっかりと開いた洞穴のような殻口から、ぞろりと這(は)いだして
きた。まさに度胆をぬかれる恐龍じみた大きさだ。
 かすれた悲鳴をあげながら、私はその場にしりもちをついてしまった。
 がざがざと出現した大ヤドカリの姿は、頭がくらくらする光景だった。なにし
ろ突き出た黒褐色の目玉の長さだけで、人の背丈ほどもあるのだ。人間の胴体な
ど、そのハサミで、二十人ぐらいまとめて、簡単にちょんぎってしまうにちがい
ない。
 鋭い大小の触覚に囲まれた口から、巨大ヤドカリは、細かいあぶくをぶくぶく
吹いている。甲殻類特有のつややかな光をたたえた目を、足元の小次郎たちにむ
け、ぎょろぎょろ動かしている。
 剛毛が生えて先の尖ったヤドカリの脚もとで、小次郎たちは、今度は別の踊り
をはじめた。そのとき、背後にあの気取ったワン教授の声が聞こえてきた。
「おおっ。すばらしい。あれは、変ナ短調"ヤドカリでふたを開けたらヒゲがエ
ビガニ"協奏曲ではありませんか」
 ふりむくと、いつ駅から降りてきたのか、ワン教授が立っており、熊たちの新
しい踊りに目を輝かせている。虎の肩の上には、ユカリ市長がちょこんと乗っか
っていて、懐中時計を大事そうに両手に持っている。
 コアラ市長は、うんうんとうなずいて、虎の肩から私を見つめた。
「地震で一度は離れたけどね、うんうん。ワン教授に乗せてもらって、駆け降り
てきたのだよ。宿六さんの発進だからね、気をつけなくちゃいけないのだよ。う
ん、というわけで……」
 灰色の小さな体が、私の顔にいきなりとびついてきた。
「うんうん。また人間登りの続きをさせてもらうよ。人間くん」
「わっ。やめろっ、見えない」
「だいじょうぶ。すぐに後ろに回るから。それにしても、つくづくいい抱き心地
の頭だねえ」
 短い手足のくせに、しっかりしがみついてくる。コアラの柔らかな腹の毛が、
ぞわぞわ顔をなで、横に動いてゆく。人の顔に飛びついた市長は、さっきと同じ
く慣れた動作で、後頭部にまわり、首を両足ではさみこんで鎮座する。迷惑この
上ないが、ふりはらう勇気も気力も、もうすっかりなえてしまっている。
 いっぽう小次郎たちときたら、たて続けの奇妙な踊りをやめる気配もない。ぎ
ょろぎょろ動くヤドカリの目玉にあわせ、体をたくみにゆすって面白おかしく踊
っている。

♪よっほよほほい、ヤドカリめだま。
 きっと聞きたい宿六どん。
 あなたほんとはカニですか。
 それとも殻つきエビですか。
 ハサミ、ザリガニ、ヤドカリどん。
 自信たっぷり上半身、自信ないのは下半身。
 宿を借りてもタダはだめ。
 貝殻からかい何うれしい?
 急げヤドカリ、突撃だ。
 攻撃追撃演劇過激。
 赤いヒゲ立てがんばろう。
 おやおや、突撃いやだべえ。
 だったら作戦変更だ。
 森へ行きましょ宿六どん♪
 
 月の輪熊とヒグマは、なぜかそこでタップダンスを踊りはじめた。たらたらと
花畑を足の裏で踏んでいる。もちろん、人間のようにあんなに素早くはない。ま
の抜けた調子で、もったらもったら足踏みしている。
 テンガロンハットの武太郎は、どかどかと地面を踏み鳴らし、ステップにあわ
せて威勢よくロープをふりまわしていた。
「よ−し、いくぞおっ。小次郎、宿六を操縦するのは俺だぜいっ」
 月の輪熊は、鉢巻きを両手でぎゅっとしめ直した。粋なつもりか、歌舞伎役者
のように首を斜めに回し、片足と両手を前に突き出して大見得を切ってみせる。
「ア、コレ。何をおっしゃいやすか、武太郎どん。こりゃあ、ぜひぜひ、このわ
たくしにまかせてェ、おくんなせ−イ」
 見得を切るのに疲れたか、小次郎はくすくす笑いながら、すぐに普段の口調に
戻った。「というわけなんです。なんと言っても、わたくし、車引きですから、
宿六どんもわたくしの方を好いてくださっているはずですよ。そうでなければ、
せっかく着替えた意味がないじゃありませんか。うふ、うふう」
「そうはいかねえぜ。小次郎。こっちには、なんてったって投げ縄があるんだか
らよ」
 大いばりの武太郎は、真黒な目玉を喜びに輝かせた。肩にひっかけたロープの
束をぐいと見せびらかす。ロープの先は、結んで投げ縄の輪をつくってある。
 肥った腹をつきだしながら、武太郎は、ぐほいぐほいと息をあらげた。ロープ
を頭上でプロペラのようにまわしはじめる。
「とうりゃあ!これで、つかまえたぜっ」
 太くて毛深い褐色の腕で、ロープを上空の巨大ヤドカリの頭めがけ、勢いよく
放り投げる。突き出た副触覚へ縄を打つのだが、これが全く届かない。いたずら
にヤドカリの足の毛の上に落ちるばかりだ。
 武太郎はくやしがって、ぐおんと吼えるが、吼えたところでどうしようもなか
った。
 ヤドカリの副触覚は、目玉より少し長いだけだ。標的として不足はないが、も
ともと四足の動物が二本足で立っているので、縄を投げるときのバランスが悪
い。熊のリーチでは、ヤドカリのてっぺんまでどうしても届かないのだ。
 見上げる巨大ヤドカリの頭は、二十メートル近くの高さがある。駅舎を背負っ
た貝殻自体が、三十から四十メートルもあるのだ。十階建てのビルの頂上に輪投
げするようなものだ。熊でなくとも引っかけることなどとうていできない。
 トラ教授はメガネをずりあげ、憤慨する武太郎に驚きの声をあげた。
「おお、これはいけません。熊族のかたがたが失敗するなんて、飛んでもないこ
とです。飛んでもないなら、這うか歩くか、泳いでゆけばよいのですが、まずお
困りの事態の発生です。おそれおおいことです」
 虎は小次郎の前に、すたすた歩いてゆくと、ペこりと礼をした。
「"こ"さま。さしでがましいようですが、このような事態になった以上は、ブル
ジョワジョワのツクツクホーシのプロレタリアートの天ぷら油の名にかけて、つ
いにわたしの出番が来たように思いますが、いかがなものでございましょうか。
お望みとあらば、このトラリン大学の海洋生物学博士のワン名誉教授が、どしど
しゴシゴシびしびし御奉仕いたします。お役に立ちます。絶対です」
 小次郎はうふうふ笑いながら、片手をひらひらさせておいでおいでする。
「ほんとですか。おやつのときにもお役に立ちますか。トラリン大学のゼミナー
ルは、ミンミンゼミからアブラゼミまで、みなさん優秀ですからねえ。それな
ら、ぜひぜひやってみてくだしゃんせ」
「当然です。"こ"さま"たけ"さまのためなら、たとえサーカス、檻の中。住みこ
み奉公もいといません。むかしから言うではありませんか。人は死して相続争い
と隠し子とよくない噂を残し、虎は死して皮と美と保護区を残す」
 あいかわらず訳のわからないことを言うトラ教授は、武太郎の方へ向き直っ
た。
 ヒグマは地面にべったり座りこんでいる。失敗にしょげかえり、すっかり意地
けてしまっていた。
「ふんだ。ふんだ。どうせおいらなんかさ、ロープ投げてもうまくいかないし
さ。だめなヒグマなんだ」
 テンガロンハットをなげやりに脱ぎ、胸におろして広いつばを両手でつかむ。
彼は上体をふっていやいやし、つばの縁に噛みついてだだをこねた。
「どうせ、おいらより、虎の方が役に立つんだもんね。いいんだ、いいんだ。お
いらなんか、どうせ熊族でもサイテーなんだから……」
 あまり、がっくり来ているようすなので、私も頭にコアラ市長を載せたまま、
武太郎の背中に近づいた。さすがにヒグマの肩にはさわれないが、おそるおそる
励ましの言葉をかけるぐらいはできた。
「しっかりしなよ。武太郎。おトクさんが待ってるじやないか」
 武太郎はすねて、体を左右にふり続けている。子供が「やだい、やだい」と、
だだをこるのとそっくりだった。
「ふんだ、なんだい。人間の被告の言うことなんか、信用しないぞ。聞かない
ぞ。ふんだ。たとえサンザン猿が出てきたって、見せないし聞かせないし話すこ
となんか、な−んにもないんだからな。ふ−んだ、ふんだのぷいだ」
 いじけた武太郎に困り果てているうちに、ふいに頭上から、ぼたぼたと何かぬ
れたものが落ちてきた。
 それは信じがたい大きさの泡の塊だった。ひとかかえもある巨大シャボン王
が、ブドウの房みたいに、たくさん連なって落ちてきたのだ。
 ユカリ市長が、人の頭から大急ぎで降りはじめた。後頭部から肩、胸、腹へ
と、けんめいにたどって地面に立つ。
 頭が軽くなった私は、巨大な泡の正体を確かめようと、頭上をふりあおいだ。
なんと巨大ヤドカリが、はるか上で、真赤なひげを空中でうごめかせ、見下ろし
ていたのだ。ぶくぶくと特大の泡が、ヤドカリの口から毛だらけの胸や脚をつた
って、だらだらと流れ落ちている。そのうちのひとすじが、ここにぼっとりと落
ちてきたのだ。
 ユカリさんが、足元にちょこんと座り、つぶらな黒い目で、私といじけている
武太郎を交互にみやった。さっきまで私の頭に乗っていたことなど忘れたよう
に、いつもの調子で腕組みしてうなずく。
「うんうん。これは、"たけ"さまの御機嫌を直すには、ワン教授のお手伝いだけ
では、もちっと無理だと思うね。やっぱり、ここは奥様水神さまにお願い申し上
げるのが、まあ順当なところだろう。うんうん」
「奥様水神?」
「そうだよ。人間くん。奥様水神は、キマグレコ大明神さまの奥さまと決まって
るのだよ。"おっかさんバオバブ"と縁の深い女神さまなので、奥様水神と呼ん
で、この世界ではとても大切な女神さまなのだよ。覚えておいても損はないな
い」
 トラ教授が、コアラの発言に思わずぽんと手を打った。
「なるほど。それはよい考え。それなら、きっと"たけ"さまも御機嫌をとり結べ
るかもしれません。ええ、ええ、御機嫌ななめの"たけ"さまも、きっと唐竹割り
に喜ばれることでしょう。機嫌をよくする方法は、袈裟がけ、なで斬り、胴ばら
いと色々ありますが、なんといっても唐竹割りに限ります。もともと"たけ"さま
は、脳天を唐竹割りにしたような、実にさっぱりした性格のお方ですから」
 脳天を唐竹割りとは、ずいぶんな表現だ。すぐにいじけるのが、なんで竹を割
ったような性格なものか、と私は心の中で肩をすくめた。
 それよりも、コアラが口にした"奥様水神"とはどんな女神なのだろう。キマグ
レコ大明神の妻にあたる神さまだというが、この世界の動物たちは、夫婦神をあ
がめているのだろうか。
 人間の妻の場合、神は神でも「山の神」といって大変に恐い存在である。動物
世界をお守りになる女神さまは、果してどうなんだろうか。なにしろ人間の山の
神は、夫君に対して、大蔵省と文部省と厚生省と農林省を足して三乗したような
絶大な権力を行使するのだ。女神さまが山の神をはるかにしのぐ女傑であった
ら、目も当てられないことになる。
 おまけに私は、さっきの臨時ジリリンうる裁判で罪に定められた被告だ。その
奥様水神とやらが、もし人間に敵意を抱いているとしたら、二度と元の世界へ戻
れなくなる可能性だってある。昔から、女の怒りほど恐いものはないのだ。
 コアラが小次郎の方に、急ぎ足で歩いてゆく。小次郎はいっしょうけんめい武
太郎をなだめすかしていた。肩を抱きよせて仲間を励ます小次郎だが、ヒグマは
あいかわらずいやいやをし、両腕でじゃけんに月の輪熊の手をはらった。
 ちょっと弱ったぞといいたげに、ハチマキを巻いた頭を、もぞもぞとかく小次
郎だった。コアラはそんな小次郎を見上げ、重大提案をおこなうおごそかな態度
で告げた。
「"こ"さま。どうか、お願いですから、このえら−い市長のいうことを、聞いて
もらいたいのですが。うんうん」
 もちろん、おごそかとは言っても、外見は可愛いコアラだ。灰色の身を折って
ぺこりと頭を下げるしぐさには、えも言われぬ愛嬌があった。彼は、頭を上げて
小次郎に告げた。
「ひとつ提案があるのですよ。うん、ここはもう、思いきって奥様水神さまにお
願いしてみてはいかがでしょうか」
 小次郎は、市長の意見を聞いておっと声をあげ、目を輝かせた。
「そりゃ、まんず、すんばらすいこった!」
 ユカリさんは、銀の懐中時計を指でちょっと持ち上げ、えっへんと胸をはっ
た。小次郎は両手で、口のまわりにメガホンをつくった。ついで泡を噴く巨大ヤ
ドカリのはるか上空に向けて大声でよばわった。
「お−い、や−い。奥様水神さまや−い。出てきて欲しいだあ。よっほ、よほほ
い。ふんふふふん。奥様水神さまや−い。おら、とってもお目にかかりてえだ」
 私は、小次郎が叫んだオーロラきらめく空を見上げてぎょっとした。ヤドカリ
の上空に、巨大な人の上半身がおぼろげに現れたからだ。しかも、徐々にはっき
りした形をとりはじめる。
 空の人影は、たちまち巨人の女性になった。巨大ヤドカリなど問題にならない
大きさだ。入道雲さながらに、私たちを見下ろしている。
 空中にうかんだその容姿は、なかなかの美人だが、顔だちがぽっちゃりしてい
る。円満でふくよかな地母神といった雰囲気がある。
「おやおや、おまえたちどうしたの?」
 小次郎たちを見下ろす彼女は、涼やかで若い落ちつきのある声でたずねた。弓
月のようなおおらかな眉毛の下で、大きな目をしばたたかせている。美しいだけ
でなく、愛嬌ある女神は、亜麻色の髪を優雅なシニヨンに結いあげていた。目の
色も薄い茶色で、どことなくエキゾチックだ。
 これが奥様水神かと、私はほっと胸をなでおろした。なかなかきれいで親しみ
ぶかい顔だちをしている。人間なら子だくさんなお母さんという感じだ。こうい
うミセスの女神も悪くない。
 女神はふんわりした白い寛衣をまとって、左手に大きなサファイア色の袋を持
っている。その袋にふくよかな右手をそっと差し入れ、何かのかたまりを握りし
めて抜き出した。
 奥様水神は、握った手をすぐにぱっと開き、空中に放りあげる。手から放たれ
て空中を舞うのは、いろとりどりの紙吹雪のようだった。
 私は女神の手から放ったものが、はらりはらりと降って来るのをみとめた。
 目をこらすと、それはどういうわけか、無数の動物たちの毛皮だった。茶色や
黄色、黒や虎縞、白や灰色など、さまざまな毛皮が、花吹雪のように空中に散
り、おびただしく舞っている。
 女神は空中を漂う無数の毛皮に、美しい唇をすぼめて、ふうっと息をふきかけ
る。女神の息吹を受けた毛皮は、驚くべきことに、みるみるふくらみ、たくさん
の生きた動物たちに変っていった。
 毛皮の一枚一枚が、あっというまに骨と肉と内臓を生じ、皮を剥がれる前の姿
を取り戻してゆくのだ。
 生き返る動物たちは、ミンクや狐、テンや虎、鰐に蛇、ラッコ、アザラシな
ど、ありとあらゆる動物におよんでいる。生前の姿をとりもどした彼らは、女神
の大きなてのひらのくぼみに落ちると、その場でとびはね鳴き声をあげる。女神
の白く柔らかな手の上は、復活の喜びを歌う動物たちで、たちまちいっぱいにな
ってすし詰め状態だ。

 (こんな女神様なら、ぜひ手のひらの上で踊りたい、と思いつつ次回を待て)


                              「これを巨大化すると宿六」