それにしても、この世界の動物たちは、いったいどうやって電車だの着物だの
ロープだのをこしらえるのだろうか。
 小次郎の手の中でぼろぼろに崩れた洋バサミといい、ヤドカリの背中の上の駅
舎といい、いったい誰が造っているのか見当もつかない。
 この世界は、どこまで行っても新しい謎ばかりが出現する。
 ワン教授の手早い作業のおかげで、私たちは一列に並び、垂らしたロープの前
に立った。すかさずユカリ市長が、私の足にしっかりと抱きついた。見下ろす私
の顔を、コアラはしげしげとあおぐ。それどころか、小首をかしげてウィンクま
でして見せる。
「うんうん。被告くん。きみには、おんぶか、だっこか、どっちかを選ぶ権利が
あるよ。その選択については、このえらーい市長のユカリさんが保証してあげる
からね」
 そんなことを保証してもらっても仕方ない。
 コアラは口にボタンを放り込んで、しゃぶりだす。口をもぐもぐさせるや、ま
たも、もっくりもっくりと、私の体をユーカリの木に見たてて登ってくる。
 市長にさからう気をとっくになくしている私は、背中におんぶすることにし
た。にこにこと満面の笑みを浮かべるコアラは、人の肩に両手でつかまり上機嫌
だった。
 小次郎を先頭に、武太郎、ユカリさんを背負った私の順にロープを登ってゆ
く。二頭の熊は、なんの恐怖も感じないらしく、たくみにロープをたぐり、黄褐
色のザリガニの脇腹を登ってゆく。
 だが、私はそうはいかなかった。彼らのように腕力や脚力にすぐれた生き物で
はないのだ。
(こいつは、案外てごわいぞ……)
 いくら湾曲したヤドカリの脇腹を蹴っても、うまく反動がつかず、なかなか上
へ進まない。まるでロッククライミングだ。しかも、黒く固いいぼのつきでたヤ
ドカリの腹は、でこぼこしていてぬめりがある。靴の先がつるつるすべってうま
くいかない。どんなにでかくても、やはり甲殻類だし水の生き物なのだ。
 下の花畑を見れば、あまりの高さにだんだん目がくらんでくる。
 私は、ひょこひょこ動く、前方の武太郎の黒褐色の尻と尾をみやりながら、焦
りをおぼえた。誰かに助けてもらわないと、いずれ途中でカつきてしまうだろ
う。
 のんきなのは、背中でボタンをしゃぶって鼻唄を歌っているユカリさんだけ
だ。女神の方は、上半身しか見えないながらも、肉づきのいい腕をのばし、ヤド
カリの頭を柔らかくなでている。
 さしもの巨体を誇る宿六も、女神になでられて気持よさそうだ。ぶくぶくいう
泡のつぶやきも静まり、赤い触覚を上下させながら黒い目玉で女神を一心にあが
めている。自分の脇腹をつたってくるものたちなど、女神の柔らかで優しい手ざ
わりに比べると、全く取るに足らないらしい。
 登りきるまで体力がもたない。ロープを握る手が、しっかり握ったつもりで
も、力がぬけてゆるんでゆく。てのひらが汗ばみ、ずるずるとユカリさんごと、
下へ少しずつ滑り落ちる。
「あらまあ、人間が落ちてしまうわ。これ宿六。少し手伝っておあげなさい」
 ヤドカリの頭から背中にかけて、なでりなでりとなぜていた女神が、そのとき
巨大生物の頭を柔らかい手で軽くぽんとたたいた。
 ヤドカリの巨魁(きょかい)な脚が、ゆっくりと動きだし、ごりごり音をたて
ながら、節のついた巨木さながらにひろがった。
 私は、目の前におしせまる脚の長い毛に、思いきって左手でつかまり、左足を
ついて体をささえた。右手でロープをしっかりと握り、右足はヤドカリの脇腹の
いぼの上にかける。なんだか狭い岩の裂け目をよじのぼる、小さな蜘蛛(くも)
になったような気がした。
 とにかく足場が増えたのは何よりもありがたかった。私は、お礼がわりに奥様
水神の顔を見上げた。
 女神は、目の前に豊かな上半身をもってそびえ立ち、いかにも動物たちのおふ
くろさんにふさわしかった。
 ヤドカリの腹と脚の間で格闘し、ぜいぜいいっているうちに、頭上から小次郎
の楽しげな声がよびかけた。
「よっほよほほ−い。被告のあなたは元気ですか。だいぶお疲れのようですね。
ども、御苦労さまざまです。ただいま助けてさし上げます。でもただでは、あげ
てあげませんです。揚げるなら、なるたけヒラタケ、シイタケ、山盛りフライド
ポテトにした方が、うまくて食べやすくて、わたくし、Lサイズでたっぷりうれ
しいんですけど。うふ、うふう」
 苦労して首をねじって見上げると、小次郎と武太郎はすでに、ヤドカリの頭に
登りきっていた。その隣にはワン教授が、うれしげに顔をならべている。
 小次郎は、疲れたようすもなく、くつくつ笑って口に手をあてた。
「それでは、奥様水神さま御用命ですので、上と下でつなつなひきひき致しまし
ょう」
 それを合図に、武太郎と小次郎とワン教授が、ヨーデル声も高らかに、三匹が
かりで、わたしを引っぱりあげはじめた。
「あっ、そ−れ、そ−れっ。負けるな引力、がんばれおれたち、ほいきた、よっ
ほい、ひっぱひぱ。アルプスないけど、ヨーロレイヒー」
 ロッククライミングなどしたこともない私は、たどたどしい動作で、手足をつ
っぱらせ、引かれてじょじょに上へと登ってゆく。固いヤドカリの脇腹と、寄せ
てくれた脚のおかげで、なんとか体勢が保たれる。
 苦労してやっとの想いで、ヤドカリの背中にたどりついた。せわしく激しい呼
吸を繰り返すばかりで、もう一歩も動けない。
 固くすべすべした甲殻類の背中で、よつんばいになり、はあはあ言うばかり
だ。地上十階のビルにひとしい高さに登ったのだ。くたくたで全身が、汗びっし
ょりだった。高所恐怖症というわけではないが、下を見れば、汗まみれの頭がく
らくらしてくる。
 こっちが、ぜいぜいあえいでいるうちにも、ワン教授と小次郎たちは、ヤドカ
リの副触覚とひげの間に、ロープを通して渡すのを忘れなかった。
 奥様水神も、その大きく優しい指をロープにのばし、糸をつまびくようにひっ
ぱりあげている。小次郎たちに届かない箇所は女神の手伝いで、ヤドカリ頭のあ
ちこちに、ローブを結びつけてもらう。
 全員がヤドカリの頭にまたがり、二頭の熊が隣あって御(ぎょ)せるように、
きちんとロープをとりめぐらす。
 作業が、ひととおり終わると、小次郎を筆頭に、女神の手伝いに全員でペコリ
と頭を下げる。
「ども、奥様水神さま。おかげさまで、御協力に感謝感激、甘露の雨でカンラカ
ラ。銭湯にあるのは、じゃぶじゃぶのカランの隊列でございます」
 女神はおうようにうなずくと、背後の空間をさししめして告げた。
「さあ、これからケンジ森に出発ですよ。全員そろってちゃんとまたがりました
か」
 車夫姿の小次郎とカウボーイの武太郎は、隣合って仲良く手網のロープを握っ
ている。
 彼らは大きく片手をふりあげた。武太郎はすっかり機嫌を直し、テンガロンハ
ットをうちふって女神をたたえている。
「ハイホー、ヨッホー、優しいきれいな女神さま。カッコー、ガッコー、ナット
ー、ベントー、なんとー、んめえ−!」
 そのとき女神は、私にちらと意味ありげな視線を向けた。しかし、何を言いた
いのかまではわからなかった。
 奥様水神は、私と小次郎たちを交互にみつめながら、顔の前に白い指をたてて
注意を与えた。
「ああ、そうそう。忘れないうちに注意しておくけれど、わたしが運んでいる最
中は、もういいと言うまで、絶対に目を開けないこと。わかったわね」
 頭の上からコアラが降りてきて、また私の腰の前にちょこんと座った。小次郎
たちは、とびあがらんばかりの元気さで、いっしょに頭を下げて返事する。
「は−い。よくわかりました。ましたましたで、真下はやっばり花畑。ども、ご
っつあんです」
 まるで保母さんに対する園児のような快活さだ。
 私は、熊たちとは対象的に、ひきつった笑いを浮かべて黙っていた。奥様水神
の注意に納得がいかなかった。
 目を閉じろ、絶対にあけてはいけないと命じられると、見たくなるのが人情と
いうものだ。「ケンジ森」という場所に移るだけなのに、なぜわざわざそんなこ
とを言うのか。心の中に、意地悪な疑念がふくらみはじめた。
 奥様水神は、私の疑いも知らぬげに、丸みを帯びてゆったりした背中をむけて
いる。彼女は、白くふくよかなひとさし指で、窓ガラスに絵でも描くように、空
中に大きく、縦の渦巻を描きだした。
 不思議なことに、女神の指先が触れた空間に、垂直に立った形で、虹色の円形
の水面が広がり、波だちはじめた。地面と垂直に、虚空に支えもなしに、壁掛け
鏡のように立つ不可解な虹の水面だった。直径数十メートルはある。宿六でも十
分にくぐれる大きさだ。
 きらきらときらめく水面を、奥様水神はじっと薄茶色の瞳で見つめている。そ
の奥にある世界を、深奥まで透視しているかのようだ。
 ロープの一本を握った小次郎が、虹の垂直水面を見やり、ふところから大きな
ホウの葉と筆をとりだした。筆先はたっぷりと墨を吸い、黒々と光っている。
「うふふん。とっても、すてきにいいながめです。ここで一句」
 俳句でもひねりだすつもりらしい。車夫姿ではちまきしたまま、黒い鼻先を上
空に向け、懸命に詩操を練りだす。そのさまがあまりにこっけいで、笑いをおさ
えるのに苦労した。
 虎の教授と武太郎は、ロープのはりぐあいを調ベ、ヤドカリを御するのに余念
がない。
 ユカリさんも、ボタンをしやぶったまま夢見ごこちだ。うるんだ目で女神のつ
くった虹の水面を見上げている。
 小次郎はまじめくさった演技で、うむとひとつ声をあげる。墨をつけた筆を人
の顔ほどもある大判の木の葉の上にさらさらと書きつけた。
「これは、なっとく、おみごとですよ。できました。秀句です。上の句は、"春
はけだもの。もこもこなるままに、日暮ら市べあべあに過ごせば"と来るんで
す。いい歌じゃありませんか」
 彼は、私にふりむくと白い熊の歯をみせて笑った。真黒な目を細めている。
「では、これを製本します。貴重で大事で大切で、唯一無二むにのおいらの本で
す」
 小次郎はうふふんと鼻声で笑い、もう二枚のホウの葉をふところから取り出し
た。彼は句を書きつけた葉を、同じ大きさの二枚の葉の間に、ていねいにとじこ
んだ。あらかじめ樹液のぬってある葉のへりを、歯でかんでつづる。
 しゃれた木の葉の本といったところだろう。全部でたった六ページしかない。
 小次郎は、いい出来だといいたげに、ホウの葉の本をうれしげに差し出した。
「ども、刑の執行中、疲れたらこの本を、どぞ読んでください。ささ、どぞ、ど
ぞ。きっとお役に立ちますよ。それで、もしお役に立ったら、ぴいひゃらら。お
役に立たなくても、きっとあなたの気のせいですから、おすすめ雀します。そこ
のところ、とってもよろしくです」
 私は仕方なく、小次郎の差し出す木の棄の本を受け取った。さっきの上の句を
聞いた限りでは、とても開いて読む気になれない。枕草子や徒然草をもじった書
きだしからすれば、だいたい続きも察しがつこうというものだ。いずれ暇ができ
たら、そのときに読むことにしよう。
 大きな葉を四つにたたんで胸ポケットにねじこむと、小次郎に「どうも」と頭
を下げた。小次郎も「ども、どういたしまして。ども」と桃色の舌をみせて目を
畑めた。
 奥様水神が、可愛い声で軽くこほんと咳ばらいした。ヤドカリに乗った全員の
準備を確かめると、女神は人さし指を、空中につくった虹の水面にやおら差し入
れた。
 彼女は、驚くべき現象を引き起こした。さりげない仕種で、虹色の水面を地面
に向けて引きおろしたのだ。まるで壁にかけた丸い鏡を、そのまま床へとまっす
ぐ引きおろすみたいだった。空中高くに浮かぶ謎めいた水面の下端が、花畑まで
降りて接触する。
 私はとても驚いたが、動物たちは、何の不思議も感じていないらしい。ヤドカ
リの真ん前に降りた虹の垂直水面を、わくわくする期待のまなこで見つめてい
る。ヤドカリそのものも、赤く長いひげをのばし、輝く水面を心地よげに確かめ
ている。
 まぶしい七色の光のきらめきを映した水面は、ヤドカリのヒゲのすぐ先にあっ
た。まるでヤドカリをさし招くかのように、美しいさざ波が光の波紋を描く。
 女神は大きな白いてのひらを、私たちの上にかざし、厳粛な声で命じた。
「では、みんな用意はいいですね。ケンジ森へ参りますよ。さあ、全員、目を閉
じなさい。何が起こっても、いいというまで、まぶたを閉じていなさいよ。ごま
かしは駄目ですよ。薄目を開けていてもわかりますからね」
 女神のてのひらから、花の甘い芳香とかすかな海の匂いのまじった温かい風が
放たれている。私はやむなく、奥様水神の命じた通りに、まぶたを固く開じた。
本当は全部をしっかり見てやりたいのだが、女神さまが監視しているのではどう
することもできなかった。
 尻の下で、ずしんとヤドカリが動きはじめた。いよいよ出発だ。ずるりずるり
と、はいだしたヤドカリの背の上で、小次郎たちがいきなり大声で叫び、歌いは
じめた。
「ぐおっもーん。よっほほーいで、うんとこ、こらしょのべあべあ日暮ら市音頭
だべえ」 
 まるで、幼稚園児の遠足のバスである。耳が痛くなるほどの大合唱だ。ワン教
授の虎声も、ユカリさんのうんうんうなずく声も、ちやんと間奏になっている不
思議な曲だった。

♪うっぼぽ・うぽぽとヤドカリあぶく
 奥様水神すごいだべえ。
 だんなさまでもかなわない
 ヤドカリ使いの奥様水神。
 むかし若くて乙女のころは、
 おじょうさま水神と呼ばれたべえ。
 踊りべあべあ、音頭でくまくま
 おっかさんバオバブ雲をつく
 黄金の池でおいしいね
 みんな行け行けケンジ森
 おいしい木の実はどさりんこ
 たのしい仲間も待ってるべえ♪

 歌の途中で、急に顔全体が、一瞬だけ水をあびたように冷たくなった。おそら
く、あの輝く水面を潜ったのだろう。冷たいと思ったのはそのときだけだった。
 ひんやりした水を感じた直後、声高に歌っていた小次郎たちの声が、ぱたりと
やんだ。
 音だけでなく、ヤドカリが地面をはいずる震動さえなくなっている。あたか
も、真空の宇宙空間に投げ出されたかのようだ。眼をつむっているので、何がど
うなっているのかわからない。
 異空間に入ってしまい、みんな黙ったのだろうと私は思った。
 しばらくじっと目をつむっていたが、いつまでたっても小次郎たちがしゃべり
だす気配がない。言葉だけでなく、全身から発する彼らの野生の体温が、まるで
感じられなくなってしまっていた。
 もしかしたら、自分だけがとり残されてしまったのではないか。そんな恐怖
で、私の心は、にわかにおしつぶされそうになる。

(目をつぶっていれば、水鏡にうつる自分の顔を見ずにすみますので、次回へ)