
ケンジ森でさよなら
1
私は、ひとりぼっちのさみしさを、ひどく辛く感じたが、あたりの空気がとて
も冷たいのにも、ひたすら耐えた。
じっと言いつけ通りに目をつむる。奥様水神が声をかけてくれるまで、耳を両
手で覆い、冷たい風の音をけんめいにふせぐ。冬の夜に、戸外へほっぽりだされ
たような、身も縮む孤独感に、歯をくいしばって耐える。
心の中では、まだかまだかとケンジ森への到着だけを必死に念じる。小次郎た
ちも、おそらく同じように、黙って寒い風だけが鳴る底深い闇を、じっと我慢し
ているのだろう。なんだか、われながら、とてもけなげな気がした。こんなに素
直に人の言いつけを守るなんて、小学校以来のことだ。
何分とも何時間ともつかない沈黙と暗闇の時が過ぎた。きつくロープを握りし
め、もう待ちきれないと思ったとたん、ぱっと目の前が明るくなった。まぶたの
外に光がいっばいに満ちるのがわかる。
(ずいぶんと、明るい場所らしいぞ……)
まだ奥様水神の声がしないから、目を開けるわけにはいかないが、ふきすさぶ
冷たい風の音がぴたりとやんでいる。
頬に当たる柔らかな風が、春の野のうららかな風のように心地よい。甘い花の
香りが濃厚だ。夢見ごこちにさせる、えもいわれない芳香の渦だった。
目を閉じたまま、小次郎たちの鼻息が、わきだすようにぐふりぐふりと聞こえ
てきた。剥製さながらに固く両足の間でこわばっていたコアラも、もぞもぞと動
きだす。ワン教授が、えへんえへんとしきりに咳ばらいするのが、うるさいほど
だ。
動物たちの気配が起こると、尻の下からいきなりずしんと強い震動がつきあげ
た。ぐらぐら揺れたが、ロープにしっかりつかまってなんとかこらえる。宿六が
着地したらしい。
じっと耳をすますと、深い森の中のようだ。さわやかな葉ずれの音が、四方か
らささやきかける。さわさわと木の枝と葉が奏でる緑の声が、ひびき渡ってい
る。音だけでも、深い安らぎが感じられる。いろいろな小烏の楽しげなさえずり
も、遠近を問わず聞こえ、とてもにぎやかだ。
あたりに満ちる香りは、本当に気持ちよく、うっとりするほどだ。充満してい
るのは甘い花の蜜の香りだけでない。、思わず目を閉じたまま鼻をうごめかせ
た。胸いっぱいに、新鮮な木の香りに満ちた空気を深々と吸いこむ。
まぶたの裏に、深山の森の光景が、一幅の想像図となってひろがった。耳をか
たむけていると、下の方で何か大きなものが泳いでいる水音が聞こえる。ゆった
りと水中を遊弋(ゆうよく)しているなめらかな水音だ。羽音や水浴びの音では
ない。鳥よりも、ずっと大きな生き物が水をやわらかくかいている音だ。
耳と鼻と肌から感じ取れるものだけでも十分にわかる。この場所もまた普通の
土地ではないのだ。自然の深さと豊かさにめぐまれた場所にちがいない。まぶた
を開いたら、罰があたって目がつぶれるのではないか。そんな疑念が、ちらと脳
裏を横ぎるほどだった。
同伴の動物たちの、もぞもぞ動く気配が大きくなった。いっしょにつながれた
ロープごしに、彼らの動きが落ち着きなく、ふるふる伝わってくる。
私は、小次郎にささやき声でたずねた。
「おい、小次郎、まだなのかい」
月の輪熊の息づかいは、うふうふ笑うだけで答えない。替わりにワン教授が、
もったいぶった口調で注意した。
「注意一秒、毛がもうない。御注意ください。奥様水神さまの、お言いつけは絶
対ですから、まだ目を開けてはだめだめです。どんなに視力がよくても、いいつ
けはきちんと守ってこその、ベあべあ日暮ら市市民憲章第九条。ご存知ですか。
すべてのべあべあ日暮ら市市民は、キマグレコ大明神さまの掟に従い、健康で野
生的でお気楽な最高の生活をしなければならないのであ−る。こほほん」
なんだか、どこかで聞いたことのある憲法の一文のようだ。
ユカリ市長が、私の股の間から起きあがって飛び出した。頭の後ろにちょこち
ょこまわり、人の目を両手で覆って目隠しした。
まぶたをおさえるコアラの小さな手はすべすべしていて、意外にひんやりして
いた。
「なっ。なにをするんだ」
「うんうん。ここはしっかりと目を閉じていることが、肝腎かなめの斜め読みな
のだよ。もうみんな目を開けているのだけれど、きみはやっばり人間だから、大
事をとってお目つぶり」
私は憤慨してどなった。
「ずるいぞ。そっちだけ先なんて!」
武太郎の声がうるさそうに、うがうが反駁した。
「あたり前の、後ろの左の右の上の下の縦の横をいうなよ。おいらは、ベあべあ
日暮ら市の立派な三大市民憲章を守るために、日夜努力を続ける、お気楽に忠実
な市民なんだからよ人間は、羽も角も毛もないくせに、ちっとものんきにできな
い忙しい、せわしい生き物だろ。飛入りの、被告の、しかも草刈りの判決もらっ
てんだから、文句いうなんて、おこガマしいぞのガマガエル。おまけに、人間っ
てのは、なんでこうせっかちなのかねえ。そんなことじゃあ、おいらのおトクさ
んに嫌われるぜい」
私は目をつむったまま、相変わらずの応対に眉をしかめた。ひがみ屋の武太郎
まで、人間の悪口を言うことには容赦がない。いつまでたっても、人間は愚か者
あつかいなのだ。少しは人の気持ちも考えて欲しいものだ。
しかし、こっちの感情などいっこうに頓着する気配もなく、小次郎がぐふぐふ
言いはじめた。
「さて、ども。お祝いです。"おっかさんバオバブ"は、なんてなつかし、お久し
ぶりです。とっても感激、ひさしブリ。ブリはハマチの出世魚。ここらでやりま
しょ、祝賀会。万歳三唱。サンショウウオもイモリさん、ヤモリさんもごいっし
ょに、どぞどぞ。ばんざいばんざい、おばんざい」
目をあけなくともわかる。彼らはきっと万歳を叫びながら、よろこんで両腕を
頭上に高々とさしあげているにちがいない。
「わたくし、ついに人間の被告を、奥様水神さまにお頼みして、ここに連れてき
てしまいましたよ。ですから、思わず出世した気分で、"おっかさんバオバブ"か
らうんとほめられたいです。うふ、うふう」
小次郎と武太郎は、コアラに目をふさがれている私をしりめに、声をあわせ、
またまた歌、をうたいはじめた。何がうれしいのか知らないが、すっかりはしゃ
いでいる。
♪遠路はるばるごっくろ−さん。
やってきたです、おっかさん。
うれし、はずかし、バオバブ樹。
さわっていいかい母の胸。
お乳がはるのは母なのに、
父よあなたはえらかった。
みんな集まれ、金いろバオバブ。
飲んで歌って、わいわいがやがや。
すべってころんで、どんぶらこ。
やれ飲め、それ飲め、もっと飲め、
おなかの皮がはりさけて、
魚がおぼれてしまうまで。
休むな止めるな飲むんだよ。
べあべあ、ガブガブ。
おっかさんバオバブ。
黄金の水でよっぱらい、
おいらはたちまち二日酔い。
みんな顔だせ赤くなれ、
金魚みたいに口ぱくで。
かあさん元気でなによりだ♪
ユカリさんが、人のまぶたをボンゴみたいに、かわりばんこに、てのひらでた
たくのには閉口した。こっちのわずらわしさなど、まるで気にせず、ぽんぽん拍
子をとっている。痛くはないが、顔をおもちゃにされて面白くなかった。
ひとしきり熊たちが歌い終わると、さらに面白くないことが起こった。ずっと
下の方から、どこか間の抜けた初めてきく声が、意地悪く叫んだのだ。
「ばーか。ばーか。飛入りのばーか。人間のば−か」
その悪口は、意地悪さの中にも、どこかあっけらかんとした解放感をともなっ
ている。もちろん、人間の私に向けられたものだ。思わずむかっぱらが立った。
「な、なんだと−っ。おい、いま悪口を言ったやつはだれだっ」
怒りのあまり、あやうくコアラの手をふりきって、目を開けそうになった。悪
口の張本人を確かめずにおくものかと思うが、なんとかここは辛抱してとどま
る。今までの我慢と忍耐を、馬鹿といわれたくらいで水の泡にしてはいけない。
ユカリ市長が、怒りをこらえる肩の上で、楽しそうに指摘する。
「うんうん。怒りにふるえて、肩肩ふるふるマッサージ。ここはこらえてヨッコ
ラショのギッチラコなのだよ。船頭さんも大変だけど、世のなか悪いことばかり
じゃない。馬鹿と言われて、怒っていいのは馬と鹿。ほかの動物、かんけいな
い。コアラのことじゃないから、なんだかとっても楽しいねえ、うんうん」
腹だたしいことだが、ユカリ市長が目を覆っているため、奥様水神の言いつけ
を、かろうじて破らずにすんでいる。
ワン教授が、ヤドカリのふもとの悪口の主に、大声で応じた。
「やあ、これは河馬のバカニさんではありませんか。お久しぶりです。相変わら
ず御達者なようで、何よりコヨリでハクションションです」
あいた口がふさがらないとはこのことだった。
「か、河馬だと……」
河馬にバカと言われては世話がない。バカニというやつは、さらに腹の立つと
ぼけた叫び声をあげた。
「おやおや、あれまあ、ベあべあ日暮ら市一の利口もの、ワン教授じゃありませ
んか。もったいないことです。"こ"さまも"たけ"さまも、こんなばか動物の人間
といっしょに、宿六どんの頭にお乗りとはね。しかし、いつ見ても人間というの
は、まったく外見からばかですな。ばかにつける薬はないと人間のことわざには
あるそうですが、そのことわざを発明した人間は、きっと自分がばかであること
に思いいたらなかったんでしょう。いやあ、これだけ離れていても、このばかぶ
りは、なかなか見ごたえがあります……」
目を閉じているのに、ひどいことばかり言われる。まったく立つ瀬がない。な
んで河馬に馬鹿にされながら、目をつむっていなければならないのか。
いきり立つ私の耳に、その時、しゃらしゃらと涼しい鈴の音が聞こえてきた。
四方八方から聞こえてくるが、何が音の源なのかわからなかった。
涼やかなその音は、やがてはっきりした声に変じた。思わず、ほっとする。奥
様水神の声だったからだ。小川のせせらぎの音や鈴の音が、そのまま声になった
ような優しい響きを帯びている。
「さあ、目をあけなさい。着きましたよ」
奥様水神の声は、さっきよりもふくよかで柔和さを増している。聞くだけで、
心に深い安心感が広がる。
どこかで聞いたような懐かしさを覚えるが、どこで聞いたのか分からない。限
りなく慕わしいのに、記憶をたぐろうとすると、逃げ去ってぼやけて見えなくな
ってしまう。
あまりに遠い過去のことなので、記憶喪失を自覚できずに苦しんでいる。そん
な、甘えと寂しさと、もどかしさの入りまじった感情だった。
奥様水神の声が、なぜそんな風に聞こえるのか。もしかすると、私もいつか動
物だったことがあり、この世界で奥様水神の声を聞いていたのではあるまいか。
あるいは、小次郎たちとの間に共感がはじまり、感じ方がこの世界になじんでき
たのだろうか。
「さあ、目をおあけ。静かに開きなさいよ……」
奥様水神は、優しい声で命じた。その声音は、涼しく心地よい。木の葉の葉ず
れの音とまじっている。声そのものが、一種のあたたかな波動となって耳から入
り、じわんと全身にしみわたる。
短いひとことだが、こごえた部分が温湯でほぐされてゆく心地がした。河馬に
馬鹿にされた怒りの心が、不思議に急速にしずまってゆく。真赤に織(お)きて
いた石炭が、瞬時に火が消えて冷えたようだ。
前口上も高らかに、ユカリさんが目を覆った手をはなしてくれた。
「うんうん。ではさっそく御開帳なんだね。めでたく刑を執行する場所についた
んだからね。うん。ここが、うわさのケンジ森、"おっかさんバオバブ"でござ
い。うん、まさにそれなんだよ。ふんむ、今日もめでたく文句なし。よしよし。
すばらしいねえ」
柔和な女神の命じるままに、私はそっとまぶたを開いた。
「うっ。ま、まぶしい」
とたんに豊かな黄金の光の渦が、視界いっばいに爆発した。一瞬、太陽の輪郭
を直視するように、巨大なバオバブ樹の影が見てとれた。輝く熱帯の巨樹だ。そ
れが見えた次の瞬間には、すごい光耀に目を射られ、うめいて思わず目を手で覆
っていた。
ユカリさんが、まぶしさにうめく私の膝を、小さな手でぺたぺたとたたいた。
「うんうん。もうだいじょうぶだからね。もう一度やってみてごらん。このえら
ーい市長のユカリさんが保証するんだから。たぶん、きっとうまくいくこと請け
合いだよ。うんうん、そうにきまってるよ」
コアラの促すままに、おそるおそる両手を目の前からのけた。不思議にも、あ
の目がつぶれるようなまぶしさはもうなかった。神秘的で明るく清らかな光景が
広がっている。今度は目を細めずに、バオバブ樹を見ることができた。
「こ、こんなすごい木が……」
あとは言葉にならなかった。鮮やかな金色の光に包まれた黄金のバオバブが、
眼前に超越的な巨木としてそびえ立っている。
高さはどうみても百メートル以上はある。頂きのあたりが長い砲弾型にすぼま
り、特徴のある幹の形をしている。信じがたいほど太い樹木だ。幹は根元で直径
五十メートルはあるだろう。超高層ビルに匹敵する天然の樹だ。
目の前に湾曲した幹の太さは、さながら黄金の壁も同然だ。円錐形にすぼまっ
た幹の頂部からは、放射状に短い枝がたくさん枝わかれして四方に伸びている。
空を覆う樹冠は豊かな葉をつけ、ひらたい雲の形に似た緑の枝ぶりを呈してい
る。
こうなると樹木というより、世界を支える生ける天の柱といったイメージだ。
「これが、"おっかさんバオバブ"……」
かすれた声をあげ、黄金の荘厳なバオバブ樹を見上げるので精いっぱいだ。巨
大ヤドカリなど問題にならない大きさだった。
猫撫隊が要求した昼寝など、できるはずもない。天を摩して枝を広げる見事な
巨木に、翼のない動物が登れるわけがなかった。
私は首が痛くなるほど、美しい光の巨樹を見上げていた。巨木そのものが、素
晴らしく発光している。しかも、心にしみいる優しさと温かさが、本の内側から
にじみ出ているのがはっきりと感じられる。
壮麗な光の放射を受け、まわりはおびただしい水晶のかけらと金箔の乱舞さな
がらだった。
「すごい光だけど、なんだか、優しくて温かい……」
理想の母の胸に抱かれているような、心の奥からこみあげる感動があった。豊
かな生命力が、金色の光となって放たれている。この世界の動物たちが、この木
をマザーツリーと崇めるのも納得できる。
それは一個の植物でありながら、生き物たちを柔らかく包みこむ大いなる母性
を持っていた。大木に宿る樹霊(こだま)の究極の姿かもしれない。
母樹が及ぼす安らぎと美しさに、胸がつまったとき、すぐそばで突然に牛の鳴
き声が聞こえてきた。とまどってあたりを見渡すが、牛の姿はどこにもない。
その上、たて続けに、豚や鶏、羊の鳴き声まで重なって聞こえる。
「ど、どこから……」
足元の方だと思って下を見た瞬間、私は呆然とした。
牛や豚、羊や鶏の鳴き声は、自分の腹の中から聞こえて来るのだ。しかも、牛
も豚も羊も鶏も、喜びいさんで、いっしょに合唱しているではないか。
♪食べられた。食われてた。
この人間に食べられた。
でも帰ってきたよ。
この人間の体になって、
戻ってきたよ。
殺されて悲しかったけれど、
やっと来たよ。
食べられて辛かったけれど、
帰ってきたよ。
めぐりめぐって、
お帰りなさいって、言っとくれ♪
「な、なんだと・…・・。食べられた?」
私は歌声が、腹から胸、胸から首へと上がってくるのを感じた。
次の瞬間、喉元からにゅっと、大きな牛の首が飛び出して、私を大目王でにら
んだ。胸からのびた、人の頭の二倍以上ある牛の生首が、よだれを垂らしながら
恨めしげに告げた。「そうさ。あんたが、今まで食べたステーキだの、牛丼だ
の、しやぶしゃぶだのだよ。ほんとはあんたを食い殺したいんだが、草食動物な
んで、できないんだ」
顔の右側に、ブヒブヒと豚の声が生まれた。はっと見ると右の肩から、丸まる
と肥えた豚の頭が生えている。豚は二つの鼻の穴を大きく広げ、怒りをこめてピ
グーッと叫んだ。「こっちは、ポークソテーとか、カレーとかシチューとか、モ
ツ鍋とか、もうさんざんさ。あんなに殺さないでくれって頼んだのに、殺してバ
ラバラにして、内臓や子宮や睾丸まで煮たり焼いたりして食っちまうんだもん
な。四つ足食うのは殺生なのにさ」
左の肩からも、ベエベエ鳴く羊の声がする。顔を向ければ、案の定、羊の頭が
生えてにらんでいる。四角い瞳の羊が灰色の毛に金色の光を浴び、血相を変えて
いる。
「"おっかさんバオバブ"の所にやっと帰れたんです。それで、ようやくこうして
出てきました。よくもラムチョップやジンギスカン鍋にして、むさぼり食ってく
れましたね。これまでずっと、あなたの体にとりついてきたのに、やっと気づい
たわけですか。四足の怨みやたたりが、怖くないんですか」
頭の上から、鶏の甲高い声がする。おそらく頭頂から、トサカをふりたてた鶏
の首が生えているのだろう。
「これは、素晴らしい止まり木だ。いい眺め。これでフライドチキンにされて、
卵を盗まれた怨みも晴れるというもんだ」
私はあまりの恐ろしさに絶叫した。気が狂いそうになる。これまで肉として食
べた牛や豚、羊や鳥が、復讐の挙に出たのだ。もうまわりのことなど目に入るも
のではない。
(助けてくれ。首が折れそうだ)
人の頭より大きな家畜の頭が突出したのだ。頭や肩が、土嚢を積まれたよう
に、どんどん重くなる。そこから生えた獣たちの肉と怨みの重さに、腰を折って
その場にばったり倒れてしまう。
小次郎たちに助けを求めようにも、ふくらんでくる牛と豚と羊の頭にふさがれ
声が出せない。倒れてくの字になってもがいていると、両足に生皮を剥がれるひ
どい痛みが走った。(わっ。鱗)
なんと下半身が、みるみるうちに青みがかった銀色の鱗に覆われ、魚の尻尾に
なってゆく。これでは人魚だ。もがけばもがくほど、陸に上がった魚のように、
びちびち尾びれがとびはねる。
パニックに陥った私に、牛がモウと鳴いて告げた。
「魚の代理で言っとくよ。あんた、釣りが好きだったろ。釣られた魚が恨んでる
って意志表明だ。釣りもハンティングと同じく、殺生をレジャーにして罪深いよ
な。せめて、食べるとき、感謝とわびごとでもしてくれれば、少しはうかばれる
のにさ」
脳裏を、食われた牛や豚たちの憎しみと怨み、どす黒い怒りの念が占めてゆ
く。獣や魚の圧倒的な怨恨に窒息し、生き埋めさながらの苦悶が訪れた。
(死ぬ……殺される……)
もう駄目だと思った瞬間、輝かしい黄金の光が、さっと視界にとびこんでき
た。とたんに、魂までおしつぶす重圧が、あっというまに離れ去った。牛がウモ
モウと鳴いて、声の出せない私に告げる。
「仕方ない。"おっかさんバオバブ"の輝きの前じゃ、ゆるさないわけにはいかな
い。ほかの苦しんでいる仲間たちにも、見せてやりたかった……」
豚や羊や鶏もいっしょになって、うれしさと残念さのまじった言葉を吐いた。
「この光は、ゆるしの光だからね。いつまでも恨んでいられないな。ありがたみ
もなく、食われた豚族の怨みは、人間界を暴れ回って、どんどん悪くなってるが
ね。いい気味だね」「羊の霊だって凶暴です。お祭りや儀式で、生贄にされるの
が、どんなに辛くて怖かったことか。ああ、でも救われてゆくのは、いい気持ち
です」
「鶏族も、右に同じ。豚殿の言う通り。われわれは幸運だよ。この人間にとりつ
いて、帰ってこれたんだから」
牛も豚も羊も鶏も、救済の喜びにうち震えているのがわかる。魚まで一緒にな
って、感謝と敬幕の念を放っているようだ。その証拠に、人魚化した足が元に戻
りだす。
こちらの意志にかかわりなく、発作に似た震えが、全身をつらぬく。牛たちは
いつしか、真の母親にめぐりあえたように、うるうると喜びの涙とよだれを流し
ている。牛たちの頭が、どんどん小さくなる。喉や肩から生えた生首が縮小して
消えてゆくのだ。ついに足も、尾びれや鱗が蒸発して元に戻った。気がかりな台
詞を吐いていた家畜動物たちの生首は、胸や肩からすっかり縮んでなくなった。
「助かった……」
私は安心のあまり、カが抜けて、その場にへたりこむ。心ならずも、目に涙が
にじんだ。どこからかまた、涼しいせせらぎと、幾重もの葉ずれのひそやかな音
が流れだした。"おっかさんバオバブ"が奏でる霊妙な音楽だろうか。
崇高な黄金の巨樹は、慈愛ぶかい聖母の木のイメージだった。食われた動物た
ちの強い憎悪や怨恨をほぐすほど、生命の樹の慈愛の輝きは強い。ベあべあ日暮
ら市の動物たちにとって、魂を委ねるマドンナ・ツリーそのものだ。
私は思わず金色のバオバブを拝み、その場に膝を折り、深い感謝とともに礼を
述べた。「あ、ありがたや。助かりました。どうも、ありがとうございました。
もう、肉は食いません。釣りも、こんりんざい、やめます」
せっぱつまった声で告げると、"おっかさんバオバブ"の輝きの中から、姿はな
いが奥様水神の嘆きが聞こえてきた。
「今後はほんとに、そうしてちょうだい。殺生な目にあった動物たちを、怨みつ
らみから解放するのも、わたしの仕事なの。人間の時間でここ百年というもの、
食べられたり殺されたりした鳥や獣や魚の魂を、癒すことでほとんど休む暇もな
いもの。でももう、こちらの救済の限界を、とっくに越えていますよ。わたしが
救える数の何十倍もの家畜たちが、毎日殺されているもの」
私は震えあがって、肺腑の底から声をしぼり出した。
「わかりました。今度こそ、よっくわかりました」
「さっきの裁判の判決は、せめてもの罪滅ぼしと思いなさい」
ひれ伏して額をこすりつけると、奥様水神の声は、それっきり聞こえなくなっ
た。
私は安堵の涙をふいて、おそるおそる立ち上がった。もちろん、すっかり安心
というわけにはいかない。これから草刈りと下枝払いの刑が残っているのだ。
きょとんとしてこちらを見つめている小次郎たちに、照れくさそうに肩をすく
めてみせる。
「しかたない。こうなったら、やるしかないな」
一体、草刈りする場所はどこにあるのだろう。腰を浮かせたあやうい姿勢で眉
に手をかざし、宿六の上からのどかな四方をながめ渡す。
(安堵するのはまだ早い・・・次回へ)

これがバオバブの木です