三分もしないうちに、黄金にきらめく琥珀の水面に、六つの影が浮かびあがっ
た。
 ぽかり、またぽかりと水輪を浮かせて近づくそれは、大きな亀たちだった。六
匹ひとまとまりになって岸辺にやってくる。
 先頭に最も大きなキンタ、その左に三匹、右に二匹とV字型の隊形で進んでく
る。
 キンタの子供たちは、親よりサイズがひとまわり小さい。甲羅の長さはニメー
トルぐらいだ。
 彼らは、すいすいと泳ぎよってくると、波うち際に四つ足で立った。私たち
を、のろのろした動作でじっと見上げる。綬慢なしぐさだが、その目には小次郎
たちへの歓迎と尊敬の念が宿っている。
 キンタはのそりのそりと、ホワイトハウスの前に立つと、しわの多い亀首をの
ばして見上げた。
「さあさ、わしらに乗って。むかって右側から、松、竹、梅……。六ッ子だか
ら、どれも同じ」
 ダチョウは、小次郎たちに、うやうやしく首を曲げてうながした。
「わが輩が、みなさんが無事に岸につくまで、キンタとともに先導いたしましょ
う」
 水辺の砂地にずらりと並ぶ大きな亀の子の甲羅の上に、小次郎たちは、喜びい
さんで次々に乗りはじめた。
 ダチョウが親亀キンタの上に飛び乗ると、さっそくするすると湖に泳ぎだし
た。どれがどれだか見分けのつかない子亀たちも、いっこう苦にならないらし
く、とぼけた表情だ。それぞれ指定の客を背中に乗せると、琥珀色の湖の中へ、
次々に泳ぎいってゆく。
 小次郎、武太郎、ワン教授、ユカリ市長と続き、ついに私の番がきた。最後の
なすびという名の亀の上に、おそるおそる尻ごみしながら乗る。
 すでに前方では、ユカリさんがちょこんと富士亀の甲羅のてっぺんに登り、ほ
くほくしている。
(こりゃ、思ったよりせまい)
 なすび亀の甲羅の表面は、意外にすべすべしている。よつんばいになって抱き
つくしか乗りようがなかった。
 甲羅に苔や藻がついているので、すべってうまく座ることができないのだ。先
をゆく小次郎や武太郎を見れば、図体が大きいのにもかかわらず、甲羅に上手に
馬乗りになっている。ワン教授もそうだが、獣の方が有利とみえる。長くて固い
毛皮がすべりどめになっているのだろう。
 現金なことに、武太郎のきげんは、いつの間にかすっかりよくなっていた。浦
島太郎きどりなのか、小次郎といっしょに、ぐふぐふ舌をみせてとても楽しそう
だ。
 ダチョウのホワイトハウスが、キンタの上に立って転ばずにいるのは奇蹟に近
かった。相当に乗り慣れているのだろう。ふつうだったら、とても二本足では立
てるまい。
 樹液と花の香りがたちこめる明るい琥珀色の水面を、私もなすび亀の上に乗っ
て進む。湖水は相当に深いようだ。底は全く見えず濃い金茶色に暗くけぶってい
る。ここで落ちたら溺れてしまうだろう。かっこ悪いが亀の甲羅に腹ばいにな
り、両手両足を広げて、しっかりとしがみつく。
 鼻先が波立つ湖面なので、むせかえる樹液のにおいの濃さに、目がまわりそう
だ。ふりかえって、背後に遠ざかる、宿六とバカニの姿をちらとみやる。
 黄金のバオバブの根元にいるヤドカリは、山そのものの巨体で鎮座し、ぶくぶ
くと泡をふいている。その泡の連なりも"おっかさんバオバブ"の光を受けて、ま
るで黄金の縁を持つ透明な葡萄の房のようだ。
 河馬の方はといえば、巨大巻貝のへりに背中をもたれさせ、優雅に手をふって
いる。実にのんきな、どってりした姿だ。あれで人をバカにしなければいいのに
と思うが、性格なのだろう。仕方がない。
 私は、次第に近づいてくる金と黒のまだら葦の群れに視線を戻した。一キロた
らずの水面を渡る亀の背の上で、ケンジ先生と呼ばれる人物のことを考える。
(もしかしたら、この亀が知っているかも)
 初対面だが思いきって尋ねることにした。
「おい、なすびくん」
 亀がちらと斜めにふりむいた。迷惑そうに目を細め、低くぶあいそな声で答え
る。
「あたし、オスじゃないもん」
 ふてたようなぶっきらぼうな言い方である。だが、もうこんなことぐらいでは
驚かない。私は続けて尋ねた。
「すまない。知らなかったんだ。なすびさん」
「あたし、"なすびちゃん"て言われてるもん」
 まるで愛嬌というものがない。ぶすりとした憎たらしいしゃべり方だった。
「ごめんよ。なすびちゃん」
 亀は泳ぎながら、撫然として、視線をまた前方にもどした。
「あたし、ひとの名前、何度もまちがえるのって、きらいだもん」
 これではとりつくしまがない。聞いても無駄なようだ。
 亀たちの泳ぐ速度は、思った以上に速かった。ほどなくして六匹の親子亀は、
動物たちと私を載せて、雑木林のほとりのまだら葦の茂みの縁へたどりついた。
 密生して見えたまだら葦は、近づいて見ると、それほどぎっしりと詰まってい
るわけではなかった。ところどころ亀たちが上陸できるぐらいの水路を残してい
る。
 キンタ・ファミリーの亀は、順番に葦原の間を通り、数分後には雑木林に面し
た砂利底の岸に泳ぎついた。
 私とナスビが、開けた岸にせまったときには、そこにすでに先行の五頭の亀た
ちが上陸していた。
 上陸した小次郎たちは、背の高い柳や太いドロノキの根元で身を休めている。
 いちばん最後に到着した私は、ぶあいそななすび亀に、いちおう御礼を言っ
て、砂利の岸に降りた。
 見渡せば、視野いっばいに、クヌギやシイやミズナラの木が、新緑の美しい樹
林をなして広がっている。ゆるやかな山地の登り斜面一帯に、黄金の光を浴びて
見事な雑木林が連なっている。強い生命力の輝きが感じられ、目を射るほどだ。
 山の樹々をながめて感動しているうちに、小次郎たちがそそくさと足音を忍ば
せ、水辺の亀の背中に戻りはじめた。
 はっとして小次郎たちを目で追うが、なんと私を載せてきたなすび亀は、水辺
から影も形もなくなっている。
「お、おい。ちょっと待ってくれ」
 待てというのに、小次郎たちは返事もそこそこに、亀たちの背中に馬乗りにな
った。葦原の間の水路へと、すいすい乗り出してゆく。
 月の輪熊が、泳ぐ亀の背中の上でふりかえり、にこやかに片手をふってみせ
た。
「そろそろ、刑のお執行のお時間ですよ。うふ、うふう。とってもうっとり、た
っぷり楽しんでください」
「なんだって。こんなとこに、置き去りにするのかっ。お〜い」
 手を上げて、じだんだ踏む私に、彼らは亀の上で背中を向けた。小次郎も武太
郎も虎教授もユカリさんも、ホワイトハウスといっしょに湖の沖合へ、みるみる
遠ざかってゆく。
 刑がいくら人間だけのものだからといって、私ひとりを置いてけぼりとは、あ
まりにもひどすぎる。
「冗談じゃないぞ。話がちがうじゃないか」
 歯がみして葦の茂みの間にざぶざぶと駆けこみ、腰まで琥珀色の水につかって
追いかける。黒と金色の葦の群れは、"おっかさんバオバブ"の輝きに、満月のよ
うにぼおっと輝いている。
「ちくしょう。こんな見送りってないぞ」
 どんどん遠くなる小次郎たちに、追いつけるはずもない。私はうなだれてあき
らめるしかなかった。岸に戻って砂利の上に腰を下ろす。
 頭をかかえていると、ふいに金と黒の葦の原が、さやさやと鳴りはじめた。涼
しい息吹を思わす澄明な風が吹いてくる。きらきら輝く気持ちのいい風だった。
 ガラスや水晶のように透明で、心の中にわだかまるもやもやさえ、いっしょに
吹き払ってくれるかのようだ。"おっかさんバオバブ"と似通った優しさと繊細
さ、類まれな透明感がある。
 その風は、見上げる間にも、急速に強さを増してくる。はるか頭上、黄金色と
澄んだ青色のまたたく空から、天空神の息吹さながらにどっと吹きつけてくる。
 金と黒のまだらの葦たちが、澄んだ涼しい風にいっせいになびく。びゅるびゅ
ると鳴って、声高なおしやべりに似た葉ずれのざわめきが、湖面じゆうに広がっ
た。
「この、風は……」
 謎めいた風を浴びながら、思わず目を細めた。脳裏に緑色の涼しい閃光ととも
に、何か人影らしきものが映った。残像にも似たイメージだが、たしかに人影の
ようだ。意識の奥におぼろげな心像が、焦点を結ばぬまま、輪郭のにじんだ人の
姿となって浮かぶ。
(だれだ? なんで、こんなイメージが…)
 どこかで見たことがあるが、どこの誰なのかまでは、思い出せなかった。"お
っかさんバオバブ"へのなつかしさと同じく、記憶の源へたどりつけないもどか
しさがあった。
 どこかで知っている人間なのに、波だつ水面に映る影のように、かきみだされ
てはっきりしない。透明感と優美な繊紬さにあふれた爽快な風に、私はずぶぬれ
の下半身も忘れて立ち上がった。あたりは森の深遠な香気が、よりいっそう濃く
たちこめている。
 どこから吹いてくる風なのか、空をぐるりと見渡すが、特定できない。方角を
探しているうちに、さらに涼やかな風が葦原にどっと吹きつけた。目の前の金と
黒の葦たちが、いっせいに風になびいてしなる。
 葦の原が、大風に乱れる草原さながらに、たちまち左右に揺れて、大きく波立
った。蜂蜜色のとろりとした水路は、黒と金の縞模様のカーテンとなった幻想的
な葦の群れによって、ぐるりと閉ざされた。
 風は野分さながらに大きく吹き渡り、いまや大地をいだいて揺さぶる大気の腕
だ。北方の山波をいろどるブナの森と雑木林が、はげしくざわめいた。銀白色の
ブナの葉が、果てなく連なってひるがえる。
 大きな風の渦が、四周の山林を巻き込んでゆく。森の美しい緑が、風にもまれ
て緑の波となり、山々を伝わっていく。
(いったい、何がはじまるんだ……)
 脳裏に浮かんだ不思議な人のイメージが、次第にはっきりした形をとりはじめ
た。
 私はおののきながら、生き物じみた風の流れと、心像の中の人に注意をこら
す。心像は、さらにディテールを増して、みるみる結像してゆく。その人の服装
や背かっこうまで、はっきりと映像化されるのだ。
(この人は、だれだ)
 私の意志とは無関係に生じたイメージの人は、冬空の季節にふさわしい身なり
だった。ソフト帽をかむり、ふるめかしい厚手のオーバーを着た、ややうつむき
かげんの男性だ。顔や年齢まではまだわからない。どうも日本人らしく、少し猫
背ぎみの人物だった。
 その男性の心像に意識を集中しているうちに、私は頭上に、奇妙な気配を感
じ、はっと上空をあおいだ。
 視界の中央、大気の頂点が黄金の輝きに満たされ、そこに銀色の光球があっ
た。大きさは、ちょうど人ひとりが立っていられるほどだ。
 私は、驚きのあまり、立ちすくんだ。その光球の内部にこそ、金と銀の光の粒
をまきちらす大風の中心があったからだ。ひどく強い風は、その銀の光体から、
とめどもなく吹き放たれているのだ。
 驚きに打たれて見上げるうちに、これまで脳裏に浮かんでいた日本人男性の姿
が、いきなり消えた。
 とたんに、今度は銀の光の円盤の中央に、まったく同じ人影が浮かび上がっ
た。
(どうなってるんだ)
 脳裏のイメージが消えると同時に、白銀の風を生む発光体の中に、今度は目に
見える人の形となって、眼前に出現したのだ。謎めいた心像の人影と、頭上の現
実の銀盤に現れた人の姿は、ところを替えただけで、同じ人物だった。
 私はこの奇妙な、イメージの実体化と交替の現象に息を飲んだ。目に見えない
心像上の人物が、五感で触れられる世界に出現し、風を起こしているのだ。
 イメージに映っていた人物は、いまや確かに実体化を遂げ、頭上の銀の光球の
中にあった。その人のまわりだけ、不思議に温かい黄色味を帯びた光が包んでい
る。
 頭上にあった風の中心が、次第に地上へと降りて来る。大風は、四方の樹林に
向けて激しくうねり、奔放に吹きつのる。森の樹々はまるで草原になびく草のよ
うに、いっせいにかしいで大気の渦にもまれた。
 銀色の光の風の中心に現れた男性の姿が、細部までしっかり実体化し、地上に
近づいてくる。すきとおった美しい大風の一筋一筋が、さらに濃厚な金色と銀色
に、みるみる輝きだした。
 空気の分子のひとつひとつが、金粉や銀粉に変貌したかのような華麗さだ。金
銀の嵐の錦繍(きんしゅう)がうねって踊り、オーロラのように変幻自在な彩り
に燃え輝く。
 大量の光の粒子を帯びた大風は、驚くべき現象を、ブナと雑木の林の山地に起
こしていった。私はその光景の奇跡的な変化に、目をみはった。
 輝く風の渦は、山々をめまぐるしく移り変わる季節の舞台に変えた。初夏の山
地が、たちまち緑を増して夏山へと景観を変えてゆく。樹々の葉が濃くなり、
刻々と増加し、もりもりと膨らんでゆくのがはっきりと分かる。
 見ている間に、繁茂する夏はすぐに盛りをすぎた。
 ブナの森と雑木林は、濃い緑の間に、目立たない白い花をつけて急速に秋へと
向かう。無数の樹木が、風の動きに従って紅葉し、緑から黄色や赤や褐色に熟し
て色づいてゆく。
 たくさんのブナの実やドングリ、クリなどがはじけ、風に飛ばされ惜しげもな
くこぼれおちる。私の立っている場所にも、ぴかぴか光るドングリやクヌギの実
が、ぽろぽろと音を立てていくつも降ってきた。
 普通の世界なら、三力月かけて生じる変化を、この山々はわずか数十秒で引き
起こしてしまったのだ。金銀の大風の起こす変化は、さらに続く。木の実ととも
に大量の落葉がはじまった。横なぐりの風に乗って、空中に散る紅棄の大渦がで
きる。
 木枯らしの冷たさとともに、広棄樹の幹や枝が、次々に裸になってゆく。私は
急に寒気をおぼえ、身を抱きしめるようにして木の下にうずくまった。
 樹々の実や葉がすっかり落ちると、あれほど暴れていた風が弱まりだした。し
んしんとしたさびしさをともない、大量の枯れ葉が山肌に降りつもる。あとから
あとから、深山の枯れ葉がサラサラと広がり、山地の果てまで冬の到来を告げ
る。
 私は膝小僧を抱え、がたがた震えてブナの森を見上げた。
 ブナの原生林は、冬でもため息が出るほど美しかった。厳しい山地の風土に鍛
えぬかれ、銀灰色や黒や茶色の地衣類に覆われた幹が、ずらりと並んでいる。ブ
ナの森は明るいけれど幻想的だ。森の奥深さと荘厳さを教えてくれる。そこに踏
み込めば、神秘的な森が無限に続く錯覚すらおぼえる。森には、森の神住まうと
いう印象が、ひしひしと追ってくるのだ。
 森はすぐに真冬に入った。下半身がずぶ濡れの身に、寒さが堪え難くなってく
る。森閑とした寒気が、いつしか頭上から粉雪となって舞い降りてきた。
 どこまでも降りしきる白い雪の幕が、広大な山地の裸の樹々に積もる。樹林は
たちまち白く硬い霧氷に覆われ、一本一本が精緻な氷の彫像と化した。
 森の空気は、たたけば涼しい音がでそうなほど、固く凍結し澄みきっていた。
雪はすぐにやんだが、寒さでくしゃみがたて続けに出る。このままでは風邪をひ
いてしまう。春はまだ来ないかと、歯をかちかち鳴らしながら、心待ちにする始
末だった。
 山々のあらゆる樹々が凍りついていた。もし、ちゃんとした冬じたくで樹々の
間に立ち、白く凍てついた枯れ葉の上を歩いたなら、きっと冬の風情をもっとす
ばらしく感じとれただろう。
 あの不思議な人物のいる銀色の風の中心は、白く凍りついた霧氷のブナの森の
はずれにゆっくりと降りた。その光の暈(かさ)が目に入ったとたん、それまで
全身を縛っていた寒気が、ふいにゆるんだ。歯の根の合わない寒さが、なぜかあ
っさりと離れ,遠ざかってゆく。
 不可解にも、ひどい寒さから免れた私は、凍った枯れ葉を踏みしめた。目の前
の一本のミズナラの木の下に、ぴかりと光るものを見出したからだ。拳を合わせ
たぐらいの黒い右がふたつ置かれ、その間に柄のついた刃物が立てられている。
 近寄って確かめてみると、刃先が鋭く切れ味のよさそうな小型の鎌だった。今
まで木の影になっていたため、わからなかったのだ。
 木の柄を握って取り上げてみると、かなり使いこまれている。よく研いである
し、きちんと手入れがしてある。刃先をひっくりかえして調べているうちに、人
の気配を背後に感じた。
 私はわけもなく戦慄し、緊張しながらふりかえった。
 雑木林のゆるやかな山肌を、右手からうねうねと一筋の踏み分け道が走ってい
る。凍りついた木陰の小道は、真白な雪と霜に覆われ、細いかすんだ帯のように
続いている。そこをたったひとりの人が、ゆっくりと歩いてくるのが見えた。
 霜柱やちいさな氷を踏み割る音が、真冬のしじまを破る。白い小道の上を踏み
しめてくるのは、はじめに心像に映ってから、風の光球の中に実体化した人物
だ。
 今はその顔だちもよくわかる。三十代なかばぐらいの日本人の男性だった。そ
の色白の横顔には、温かな穏やかさが漂い、知性と孤高と優しい憂いの影がいり
まじっている。
 眼前に現れたその人物を見て、私は息を飲んだ。今は、誰なのかはっきりと分
かる。心臓がとまるほどの驚きだった。
 信じられないことが起こっているのだ。
 記憶にまちがいがなければ、彼は、本や写真でたびたびお目にかかる有名な人
物のはずだった。それも、今でこそ著名だが、生前はほとんど認められなかった
一人の天才。
 たしかにケンジ先生だ。
 目の前にいるのは、とっくに故人となった作家、宮沢賢治だった。
 私が敬愛してやまない早すぎた天才詩人が、目と鼻の先にいる。彼の服装は、
羅須地人協会をつくった年に、花巻農学校付近の畑で撮った、有名な写真そのま
まの格好だった。
 彼は白く凍った道に立って、その場から私をじっと見つめていた。温かい光を
宿した目だった。生きることの喜びと悲哀を、とことん味わったものだけが得ら
れるまなざし、そんなきれいな目だった。
 無名のまま、彗星のように短い人生を駆けぬけた彼が、どこか気はずかしげな
優しい笑みを浮かべてそこに立っていた。
 賢治は片手をオーバーの胸にさしこんだ。無言のまま、古いぼろぼろの黒い手
帳をとり出す。少し肩をすぼめるようにして、彼は手帳のページを開き、どこか
さびしげな澄んだ目を落とした。
 (この人は……)
 そのとき私の目には、彼が人間ではなく、それ以上の輝かしい高貴な存在に見
えた。オーバーを着てソフトをかぶっているのに、その顔がなんとも言えず慈悲
ぶかい輝きに満たされているのだ。血の通った生ける菩薩や観音像があったな
ら、今の彼こそ、そんな仏性の化身に違いなかった。
 その人の放つ輝きは、胸つまる優しさと温和さに縁どられている。"おっかさ
んバオバブ"と、どこか共通する神秘的な温かさに満たされている。
 おさえようのない感動が、私の全身に満ちて、かっと熱くなっていた。彼は、
確かにまばゆい慈悲の後光に包まれた観世音菩薩だった。
 私は、彼が手帳に視線を無心に走らせながら、唇を動かしているのを見つめ
た。気高い菩薩の顔をした宮沢賢治は、開かれたページを小声で音読していた。
 私は鎌を握りしめたまま、身動きもできなかった。ただ耳をすませ、その声が
何を読んでいるのか必死に聴き取ろうとする。聞こえてくる声は、しみとおるよ
うに響きのよい声だった。それにもかかわらず、しゃべっている言葉は不明瞭だ
った。どんな言葉づかいなのかさえ、はっきりしない。
 天才作家はそこで唇を閉ざし、祈りの念に満ちた目をあげる。"おっかさんバ
オバブ"を優しく懐かしげなまなざしで見つめた。悲哀を越えて温順さをたたえ
た顔は、えもいわれない慈顔だ。
 その澄み切った輝きを帯びた人が、何ごとかをそっとつぶやき、満足したよう
に黙って二度三度とうなずいた。
 衝撃にしびれた私の目の前で、官沢賢治は思いがけず、自らその姿を変じはじ
めた。
"おっかさんバオバブ"を見つめる賢治先生は、わずかの間に、もやもやした金色
の光の塊になってしまったのだ。
 人の形を失った彼は、金色の後光が集まる美しい球体となった。その光球は、
ミズナラの大木の枝の上に、鳥がはばたくようにゆっくりと浮上し、ふわりと飛
びうつった。
 もやもやした金色の光の球は、なおも変化した。光のもやが凝結し、枝の土で
全く別の生き物に変貌したのだ。それは、一羽の白い気品のあるフクロウだっ
た。半透明のガラスでできたように、体全体が淡く透き通っている。
 半透明のフクロウは、ひと声も発することなく、真黒な瞳を持つ黄色っぽい目
で、私をちらと見下ろす。それも一瞬のことだった。そのまま大きく翼を広げ、
上空へと飛び立ったのだ。
(ああ、行ってしまう……)
 心の中であわてるが、体は金縛りにあったように動かない。あまりに突然で、
短すぎる邂逅の戦慄が、身動きすることを許さなかったのだ。
 私は凍てつく木立の枝をすかし、フクロウの飛び立った輝く空を見上げる。
 頭上の視界の中央で、半透明のフクロウは高く舞い上がり、見ているうちにま
た別の鳥に姿を変えた。
 とたんに上空から、キシキシキシッ、コワッ、コワッと、決してきれいとは言
えない鳥の声が降ってきた。どことなく悲しげで切なげな、胸をつくヨダカの声
だった。
 フクロウは青白く輝く光のヨダカに変じていた。星の光を放つヨダカが、たし
かに空のはるかなきわみめざして飛んでいるのだ。
 宮沢賢治のヨダカは、コワッ、コワッ、キシキシキシッと鳴きながら、高く高
く黄金の空へと、限りなく昇りつめる。
 青白い星の光を身にまとうヨダカは、醜い声で鳴きながら一個の青く輝く流星
となって、"おっかさんバオバブ"の壮大な木の頂きに向かい、消えてゆく。
(よだかの星が……)
 私は鎌を握りしめて立ち尽くした。胸つまる賢治の星が、なすすべなく遠ざか
り、天空の彼方に溶け去ってゆく。
                                 
                             (次回に続く)

「ケンジ先生」