元の花畑へは、いつになったら着くのだろうか。目をつむったまま、ただじっ
と待つ。聞こえるものといえば冷たい風の音だけだ。
 何分とも何時間ともつかない時が過ぎるうちに、私は孤独感にたえきれなくな
った。"おっかさんバオバブ"や宮沢賢治の姿が脳裏に明滅する。あれだけの感動
体験のあとに、この訳のわからない暗黒は、あまりに落差がありすぎて苛酷なほ
どだった。
 私は思わず、目を閉じたまま小次郎たちに、たよりなげに声をかけた。
「おい、"こ"さま。だいじょうぶなのか。だれでもいいよ、教えてくれ。"たけ"
さま。ワン教授、ユカリ市長、どうなってるんだ」
 必死に問いかけても、なぜかまるで返事がない。来るときは無我夢中だった
が、二度目のせいもあって、私は周囲の状況に敏感になりすぎていた。
 動物たちの気配は、一度目と同じく、どうしたことかまったく絶えている。大
ヤドカリが、前方に直進していることしかわからないが、意識する分だけ、よけ
いなことを考えてしまう。
 暗黒の中で頭から墜落し続けているような錯覚さえ生まれ、不安と恐れがふく
れあがってくる。さっきまでのにぎやかな演奏を考えると、この静けさはあまり
に不審だった。それほど深い暗闇と静寂の中の移動だ。
 得体の知れない空間に放りだされた孤絶感に、目が見えない分だけ、重圧が増
して悲鳴を上げたくなる。いつまで目を閉じていなければならないのか。恐怖と
不安と焦燥にとりつかれ、いてもたってもいられなくなる。
 とっさに、腹の前にいるコアラを、手探りでつかんでゆすった。
「おい、ユカリ市長。まだなのか。まだつかないのかい」
 その瞬間、私は戦慄した。手に触れたユカリ市長の体があまりに冷たかったか
らだ。
 来るときは、よく分からなかったが、両手で触ってみると、コアラの体は生き
物とは思えない冷たい感触をもっていた。
(まさか……)
 動物たちが、死んだかもしれないという真黒な強迫観念が、胸に生まれて押し
つぶされそうになる。
「ど、どうしたんだ」
 もはや、とうてい我慢ができなくなっていた。まわりがどうなっているか、ど
うしても知りたい。それに、刑期をちゃんとつとめあげたのだ。ちょっとぐらい
ならいいだろう。
 強迫観念と甘い油断の気持ちにそそのかされ、私は思わず目をあけてしまっ
た。あれほど奥様水神に禁じられたのに、約束を破って自ら、まぶたを開いてし
まったのだ。
 とたんに視界がいっきょに開けた。
(これは!)
 そこは、ベあべあ日暮ら市ではなかった。私は、巨大なヤドカリに乗って、な
んと高い空の上を飛んでいた。宇宙空間さながらの星ばかりの夜の大空だ。
 空とわかったのは、眼下に黒々と沈む大地が広がっていたからだ。飛行機がゆ
きかう高さなのはまちがいなかった。どこの町ともしれない街の灯が、さみしげ
にまたたいている。
 街なみや山や川の雰囲気から、どうも日本ではなさそうだ。
 巨大ヤドカリは、殻ごと全身に真青な微光を帯びて、流星さながらに上空のあ
る一点をめざして飛行していた。墜落どころか、確実にその一点に向かって上昇
しているのだ。
 後ろをふりかえるが、あの輝かしい"おっかさんバオバブ"の湖はおろか、スミ
マ山の姿さえどこにもなかった。
 私は茫然としたまま、頭上の星の天蓋と、地上の街の光をかわるがわる見つめ
た。
(ここは、どこなんだ……)
 おそらく、今飛んでいるこの空間は現実の世界なのだ。この身心をしめつける
寒さと重苦しさは、楽しい小次郎たちの世界にはありえないものだ。
 不思議なことに、地上に広がる光の群れに、私は何のなつかしさも憧憬(しょ
うけい)もおぼえなかった。あれほど帰りたがっていた世界なのに、ずっと疎遠
で虚ろに感じられる。宮沢賢治や"おっかさんバオバブ"に出会ったせいだろう
か。
 人間の世界の救いのなさと汚らわしさが、眼下の世界から目に見えない波とな
って放たれている。そのうとましさと絶望感が、刃となって胸につきささるよう
だった。
 奇妙だが楽しい世界〜ベあべあ日暮ら市に比べると、人間がのさばる地上は、
動物にとっても、いや人間にとってさえ悪夢のような場所に見えてくる。うんざ
りして目をそむけたいほどだった……。
 私は腰にゆわえたロープをひきずりながら、青い微光に照り映えるユカリさん
の小さな肩をつかんだ。
「おい、ユカリさん。こりゃ、いったい……」
 ユカリさんは返事をしなかった。手に触れる冷たい感触はまるで置物だった。
その灰色の毛の塊そのままの体に、生き物の命の輝きは一片もなかった。
 私は、市長の冷たく硬い体をかかえて、ぐるりと正面を向かせた。
 ユカリ市長は、そこにいなかった。
 かわりに、ユカリ市長の形をした、一体のコアラの剥製があるばかりだった。
肉の温かさも生きて活動する動物の重みもまるでなく、ただ中に詰め物をされ、
偽ものの目玉を入れられた動物の残骸があるだけだ。
「こ、こんなばかな……」
 衝撃のあまり混乱して、何がなんだかわけがわからなくなった。剥製のユカリ
さんの口には、私から奪ったあのボタンが、ちゃんとくわえられていたからだ。
「ど、どうしたんだ……」
 剥製と化したユカリ市長を小脇にかかえ、私は青い光を放つ巨大ヤドカリの背
中を、がくがく震えながらはった。
 前列でひとり虎縞の背中を見せるワン教授と、その前で御者を気取る小次郎た
ちに近づいてゆく。
 上空はるかを飛ぶヤドカリの背で、こわくてたまらなかったが、どうしてもこ
の変事を小次郎たちに伝えたかった。
「ワ、ワン教授。ユ、ユカリ市長がへんだ」
 小脇にかかえたユカリさんを見せ、おろおろと訴えるが、ワン教授は全く何の
反応もしめさなかった。
 黒縁の眼鏡をかけた虎の教授もまた、触れてみるまでもなく、もの言わぬ虚ろ
な剥製と化していた。先刻までの精彩のある毛並みはすっかりあせ、ひげやくち
びるからも艶が全く失われている。
 その横顔には何の表情もなく、かつて虎だったものの皮袋が、ただ詰め物をさ
れてそこにあるばかりだった。
 ショックのあまり、悲鳴をあげかけるが、必死にこらえる。
(こんなばかな。こんなばかな。剥製になるなんて、そんなばかな)
 パニックに襲われた私は、車夫とカウボーイ姿の熊たちの横にはいよった。
「こ、小次郎、みんな変なんだ。みんな、剥製……」
 次の瞬間、私は身も凍る衝撃に言葉をなくした。
 鉢巻きをした月の輪熊と、テンガロンハットをかぶったヒグマの横顔もまた剥
製だったからだ。
 小次郎の顔などは、かすかに笑みを浮かべたまま虚ろに凍りついている。
 私は二頭の間に、ユカリさんを置くと、その場にへたりこんでしまった。真っ
暗な絶望感にうちのめされ、やり場のない悲しさと情けなさが、腹の底でとぐろ
を巻く。体じゅうからすっかりカがぬけ、胸の奥からせきあげるものをおさえら
れなかった。
 頭の中では、こんな馬鹿なという言葉を繰り返すばかりだ。目からはとめども
なく涙があふれだしてとまらない。
「い、いったい、どうなってるんだよ。ま、またからかってるんじゃないのか…
…」
 情けない涙声をあげておろおろするうちに、ふいに背後から明るい黄金色の光
が、閃きながら差しこんできた。
 ふりかえると、巨大ヤドカリが飛んできた進路のはるかかなたに、強い光を放
つ大きな黄金の星が輝いていた。
(まぶしい……)
 目の上に手をかざすが、背後に生じた黄金の星の光は、みるみるうちに広が
り、あっという間に夜空を圧倒した。太陽の五倍もある燃える恒星となって空を
金色に染める。
 それは、見覚えのある美しい光だった。指の間から涙に濡れた目を細めて見る
と、その清浄な星光の中に、あの神々しくも優しい黄金色の巨樹の姿がみえた。
("おっかさんバオバブ"……)
 恒星と見えたのは、たしかに輝けるあの"べあべあ日暮ら市"の光だった。生命
のバオバブの光耀が、この夜間の現実世界にもれているのだ。
「ああ、なんてことをしてしまったのだろう……」
 私は顔をおおってうずくまった。燦然と輝く黄金の浄光に縁どられているの
は、巨大なバオバブ樹のシルエットだった。
 長い砲弾を立てたような、円柱から円錐形へとすぼまる奇妙な形の幹。そこか
ら半球状に空へとのびる短くて枝分かれの多い枝。それが、夜空の一画を占め
て、神々しくあざやかに輝きわたっている。
「ゆるしてください、"おっかさんバオバブ"」
 遠くにありながら、なんと美しく、なんと豊饒(ほうじょう)な金色の光なの
だろう。
"彼女"は、温かで受容性に富んだ母性の象徴だった。人間に殺された動物たち
の、凝り固まった憎しみや怨みを溶かし、復活させ続けているのだ。しかし、そ
の光がもたらす、動物たちの苦しみを癒す作用も、この現実世界には及ばないの
だろうか。
 深刻な後悔にもだえていると、地上に予想もしないことが起こった。
 夜闇と街のあかりに彩られた家並みの広がりの中、そこいらじゅう何百何千と
いう箇所から、いっせいに不思議な蛍じみた光の玉がまたたきだした。
 ばらばらに立てられたロウソクの火が、次々に灯るように、さまざまな色の光
球が、点々と何千個も燃え出し、ゆっくり空中に浮かびはじめたのだ。街のあた
りの家々を中心に、点々と灯っては浮遊する、大小無数の柔らかな光の球の群れ
だった。
(なんだろう?)
 それらは、ふわりと空中に浮かびあがると、音もなく舞いながら速度をあげ、
いっせいに上空へと飛翔しはじめた。大きな蛍の光のようでもあり、さまざまな
色の人魂のようでもあった。
 なぜか気味の悪い感じはおぼえなかった。それらの光球からは、邪気も悪意も
感じられなかったからだ。
 何が起こったのか分からないが、とにかく地上のあちこちから、たいへんな数
の光の球が上空へと飛び出している。しかも、それらは、はっきりと"おっかさ
んバオバブ"の黄金の恒星めがけて昇ってゆくのだ。
 神秘的で幻想的な光景だった。
 天空の黄金のバオバブめがけて、無数の光の筋が四方八方からかけ昇ってゆ
く。私の目には、そのひとつひとつが喜びをこめて、飛び上がっていくように見
えた。
 地上で生まれた無数の謎の光の球は、巨大ヤドカリの側までやってきて、みな
一様にすれちがってゆく。あたかもそれは、巨大ヤドカリへの親しげな挨拶を思
わせた。
 涙をこぼす私の耳に、そのとき、あの奥様水神の声がひびいてきた。
「ああ、やっばり約束を破ってしまったのね。あれほど強く言ったのに」
 嘆かわしげな声だ。胸がどきりとして、涙がたちまち目の縁から干上がった。
 私の胸は、すっかり罪悪感につぶされ重苦しくなった。小学生の頃、こづかい
欲しさに、親の財布から金をくすねたのがばれた時のような、追いつめられた心
境になる。
「奥様水神……」
 夢中で天をあおぎ、声のする方にふりむく。優しい女神の声は、"おっかさん
バオバブ"の恒星の中から発せられ、黄金の輝きに乗って聞こえてきた。
「わたしは、動物たちの前では奥様水神。でも、本当は"生命のバオバブ"の化身
なの。あれほど目を開いてはいけないと言ったのに。とうとうあけてしまったの
ね……」
 本当に残念そうな声だ。そこには、してはならない悪事を犯した息子をいた
む、母の痛切な後悔に似た感情が宿っている。
「人間はいつも、どうして大切な約束を破るのかしら。水や土や風や火、植物や
動物たちと交わした基本のルールを、どうしていつも簡単に破っておしまいな
の?」
 答えることもできずに、がくりと肩を落とす。私の心は罪悪感に鈍く重くしび
れ、そして冷たかった。
 人類が自然界のルールを破り、唯我独尊の破壊を続けてきたのは事実だ。もし
かすると、人類がいつまで経っても理想世界を生み出せないのは、そうしたルー
ル違反への罪深いペナルティなのかもしれない。
 奥様水神は、大きなため息をついて続けた。
「だから、いつまで経っても、人間はべあべあ日暮ら市に住むことが許されない
のよ。これまで二、三人の例外はいたけれど、あなたはその例外に入りそこねた
ようね」
 二、三人の例外とは、宮沢賢治のような人物のことを言うのだろうか。
 私は絶句したまま、涙をぼろぼろこぼした。約束を破ったことも悲しいが、剥
製になってしまった小次郎たちを見る破目になったのが、何よりも辛く悲しかっ
た。
 奥様水神は、そんな私の心もすっかりお見通しのようだった。
「ルールを破るから、味わわなくてもいい苦しみや悲しみを、自分の身に引き寄
せてしまうの。せっかく楽しい宴会が待っていたというのに、あなたはもうこれ
以上、ベあべあ日暮ら市にいられなくなってしまった……」
 奥様水神の悲しみの声に押しつぶされ、私の頬に再び涙がつたった。それは、
苦々しさと惨めさの凝結した冷たい悲哀の涙だった。
 このまま元の世界に戻されてしまうのか。私はおのれの犯した過ちを、死ぬほ
ど後悔しながら、必死で"おっかさんバオバブ"を見上げた。
「教えてください。どうして小次郎たちは、こんな剥製になっちまったんです
か。人間の世界に戻されるのは仕方ありません。ですが、せめてどうか教えてく
ださい。小次郎たちはいったいどうしたんですか」
"おっかさんバオバブ"の分身は、安らぎと慰めの温かい金色に包まれながら、私
に別離の悲しさをこめて告げた。
「それはね、ただの依り代なの。なぜなら、ベあべあ日暮ら市は、世界じゅうの
動物園や、人に飼われているたくさんの動物たちの夢が集まってできた世界だか
ら。檻やカゴの中で、野生に戻りたい、自由に草原をかけめぐりたい。毎日毎
日、そればかりを思っている悲しい動物たちが、夜ごとに見る夢が集まってでき
た世界なの」
「それじゃあ、小次郎も武太郎も、みんな……」
「世界じゅうの動物園で飼われている熊たちの願望が、小次郎や武太郎となって
べあべあ日暮ら市で暮らしているの。ユカリさんもワン教授も、みんなそう」
 女神は、深い痛みをこめて黄金の輝きの中から続けた。
「野生にかえりたい。狭い檻やカゴから解放されて、自由にはばたき、野や森や
草原を駆けまわりたい。大勢の仲間と群れをつくって暮らしたい。そんな動物た
ちの願いの念が、その剥製に宿って動かしているのよ」
 私の脳裏に、コンサートを催して歓迎してくれたカミュや犬兵隊や猫撫隊の
面々の顔が通りすぎてゆく。オラン婆さんにオメグミちゃん、トキの日本一五
郎、裁判に列席した動物たちの姿も、鮮明にフラッシュバックして私の胸を熱く
した。
 奥様水神は、悲しげに続けた。
「不幸な動物たちの魂が見るつかの間の楽しい夢。それがべあべあ日暮ら市。だ
から、それだけは、人間に壊させてはならないの」
 女神は、夜の地上から舞い上がる無数の光球の群れを見るよう促した。
「ほら、ごらんなさい」
 女神の指摘とともに、それまで見えなかったものが見えはじめた。すれちがう
光球たちの内部が、はっきりと観察できる。
 光球の中でうごめいているのは、檻に入れられ、自由と野生を奪われた動物た
ちの呻吟(しんぎん)する姿だった。
 私は言葉を失い、めまいがする想いだった。地上に湧いて次々と天空へ駆けの
ぼる光球のひとつひとつが、不遇な境遇にある動物たちの、せつない夢と願望の
かたまりなのだ。鞭うたれ、檻やカゴや柵の中に押しこめられ、捨てられた動物
たちの想念だ。
 あらゆる人為によって虐げられ、本来の明るさと力強さを失った痛ましい鳥獣
の姿が、すべての光球の中にあった。その中で嘆き苦しむ動物たちは、動物園で
見ることのできるあらゆる鳥獣から、誰もが飼っている家畜や禽獣にまでおよん
でいた。
 動物たちの魂が放つ切実な希求が、彼らが眠りについた今、輝ける"おっかさ
んバオバブ"めがけて昇天してゆくのだ。
 救いがたい後悔と悲哀にうなだれていた私は、静かに顔を上げた。無数の悲し
い動物たちの魂と、彼らを待ち受けて輝く母なるバオバブをあおぐ。
「どうか最後に、もうひとつだけ教えてください」
 胸に渦巻く言いつくせぬ想いのまま、たずねる。
「宮沢賢治さんは、なぜこの世界にい続けられるんです。どうして私を選んだん
ですか」
 その問いかけへの答えは、意外なものだった。
「あなたは、まだ生きているもの。ケンジ先生は、そうではないでしょう。選ば
れた理由は、この世界のことを伝えて欲しいから。ケンジ先生が菜食主義だった
のはご存知ね。ひとりでも多くの人間が、殺生の怨みを免れて欲しいから。ここ
が、人間にとっても、いつか天国となるように」
 黄金の光に包まれた"おっかさんバオバブ"が、深い哀しみとともに別離を告げ
た。
「ああもう、宴会を開くことはできないわ。せめて小次郎たちと別れの挨拶ぐら
いは、させてあげたかったけれど。さあ、元の世界へおかえり……」
 その言葉が終わると同時に、体の前に目に見えないガラスのようなバリアが突
然に現れた。
(なんだ?)
 不可視の障壁は、ヤドカリの背中の上を一枚の壁となって横ぎり、小次郎たち
と私との間を、はっきりと分断していた。
 そう気づいたとたん、私の足もとからヤドカリの巨大な背中がすりぬけていっ
た。懸命に足をぱたつかせたがかなわなかった。ヤドカリのとてつもない体と巨
大な殻だけが、私を残して何ごともなく通りぬけていく。
 バリアにはばまれ、空中に取り残されてしまったのだ。絶望的な墜落の恐怖に
とらわれ、悲鳴を上げた。なにしろ足の下には、体をささえるものが何も無いの
だ。
「ま、まってくれ。こ、小次郎!」
"おっかさんバオバブ"を背にして進む大ヤドカリは、たちまち青白い流星となっ
て、目指す上空の一点に向かい小さくなってゆく。
 ふりかえれば、動物たちを生かし続ける慈母のように情けぶかい存在もまた、
まぶしい恒星とともに、急速に色あせ遠ざかってゆく。
 必死に空中でもがくうちに、私は見えないバリアが、なぜかつかまりやすい鉄
格子型になっているのを知った。目には見えないが、確かにつかめる手ごたえが
ある。
 冷たい夜の虚空に、不可視の鉄格子に両手でしがみつき、抱きつくようにしな
がら、かろうじて宙づりになる。その感触は氷柱のようで、つかんだ両手が凍え
るほどだ。
 私はまるで檻に入れられた動物のように、遠ざかる青いヤドカリの姿を求めて
泣きわめいた。
「助けてくれっ。俺を置いていかないでくれ!」
 耳元を夜空の冷たい風が、びょおびょおと鳴って通りすぎた。あまりの寒さに
手がかじかみ、体が急速に冷えてゆく。
 ヤドカリから切り離されたとたん、現実世界の冷たさと暗さが鮫の歯のように
食い込んでくる。何よりも、ベあべあ日暮ら市から、いきなりはじき出されたシ
ョックは大きかった。寒さはますます体温を奪い、恐怖と衝撃と悲嘆のうちに、
意識がだんだん遺くなってゆく。
「ううっ。もうだめだ。小次郎……、賢治先生……」
 ついに目に見えない鉄格子から、こごえきった手がはなれた。
 そのぞっとする感触を最後に、私はまっさかさまに地上めがけて墜落していっ
た……。

 気がつくと、そぼふる雨の中だった。
 雨にうたれながら、黒い鉄の柵につかまってひざまずき、気を失っている。ひ
どく冷たい雨だった。
「ここは……」
 頭がぐしょぬれだった。雨水を吸った膝を起こし、呆然としながら周囲を見渡
す。
 そこは、ベあべあ日暮ら市でも、夜の異国の上空でもなかった。私の知ってい
る日本の昼間、しかも雨の景色だった。
 しばらく何が起こったのかわからず、ぼんやりしていたが、顔をぬらす雨の冷
たさに意識がはっきりしてくる。
 自分のいる場所がどこか、確かめようとあたりを見上げた。
 頭上に、何かのアーチがかかげられている。そこには「御玉(おたま)動物
園」という看板文字が虹の形にならんでいる。
(おたま、動物園?)
 私はぬれた頭をふって、自分の目を疑った。なんと、今いる場所は、私が池袋
から乗った鉄道の終点だった。都内でも有数の動物園の門だ。開園前の時間帯ら
しく、背の高い門の金属柵がぴったりと閉じられている。
 私はいつの間にか、終点までやってきて、動物園の門柵につかまったまま意識
を失っていたのだ。
 頭の中が混乱して、その場に座りこみそうになる。だが、年配の守衛がすぐに
やってきた。ろくに記憶を整理することもできなかった。挙動不審の人物と思わ
れたらしく、あれこれ問いただされ、閉口する破目になったからだ。
 守衛の話によると、終点の改札から降りてふらふらと門にたどりつき、そのま
まめそめそ泣きながら崩折れてしまったのだという。四〜五分もそうしていたの
で、気になって見張っていたらしい。
 私は自分が作家であることを告げ、ちょっと小説の取材に来て、とてもつらい
ことを思い出してしまったのだと苦しい言い訳をした。タオルを貸してくれた守
衛は、最後まで疑いを解こうとしなかった。
 やむをえず、出版社に確認してもいいと念をおし、名刺を渡してようやく解放
された。作家というのは本当に変わりものだね、と頑固そうな守衛が、あきれ顔
で嘆息するのを後に、私は駅に向かった。
 頭の半分が、「ベあべあ日暮ら市」に置き去りにされたようで、まだぼおっと
して、現実感がもどってこなかった。
 自動券売機の前に立ち、ぬれたシャツの胸ポケットから、小銭入れをとりだそ
うとしたときだった。
 思いがけないものがぱさりと落ちた。
 拾いあげると、みおぼえのある四つ折りのホウの葉だった。三枚ほど重ねてあ
る。
(これは、小次郎の詩の本……。すると)
 私は、自分のシャツのボタンを調べた。やはり一つなくなっている。あの奇妙
だが夢のように楽しい世界、ベあべあ日暮ら市は本当にあったのだ。
 うれしいような泣きたいような気持ちで、慎重にホウの葉を開いた。手の震え
をおさえることができない。
 そこには、大きな葉いっぱいに、ミミズがのたくったような下手くそな墨文字
で、全ページにわたって、こう書かれてあった。
「春はけだもの。もこもこなるままに、日幕ら市べあべあに過ごせば、鼻よりい
ずる泡沫(うたかた)は、かつ消えかつむすびて、お嬢さん必殺のことわざをあ
ぶりだす。土破れてフキノトウあり。またおいしからずや。いとをかし。うふう
ぶう軒こじろう」

                     (『べあべあ日暮ら市』おわり)




 「あとがき」