宮沢賢治の変身した青白く輝く星が、"おっかさんバオバブ"の上空に消えたと
たん、山々を覆っていた厳冬が、まちかねたようにいっせいに融けだした。森は
再び春の復活をむかえた。枝いっぱいにエメラルドグリーンの若芽が芽吹き、翡
翠色の葉の連なりに覆われてゆく。
 山地のあちこちで、春の草花が若草となって萌えだし、下草がみるみる生い茂
りはじめた。腐葉土と枯れ葉の層を押し破って現れる草の緑の鮮やかさは、目を
射るばかりだった。あれよあれよという間に春は深まり、森は再び初夏の活気を
取り戻した。
 スミマ山の山地一帯に、夏の景色がめぐってきたのはいいが、まだ刑は終わっ
ていない。果たして草刈りや枝払いは、どこで行えばいいのだろうか。私は大い
にとまどい、鎌を握ったまま、緑濃い樹林の涼しい木陰に立ちつくした。
(さて、困ったな……)
 そうでなくとも、宮沢賢治との邂逅に気が動転し、何をどうしたらいいのか、
わからなくなっている。
 途方にくれているうちに、木陰の薮や下生えのあちこちに、おかしな現象を発
見した。(草が、変だ)
 下生えの草や木の枝の中で、銀白色に輝いて点滅しているものがある。自ら発
光していて、まるで私に何か教えているようだ。
 どこをどう刈るか、迷い焦っていた私には、刈るべき草や枝はこれだよと、そ
の輝きがさし招いているように見えた。
(ぐずぐずしちゃいられないな)
 決意して白銀色の輝きを目印に鎌をふるう。細かいことをうんぬんできる状況
ではなかった。思いつきで行動する以外に為すすべがない。
(やってやるぞ)
 宮沢賢冶の残像を脳裏に宿しながら、銀色に点滅する草を刈り、枝をはらって
山の中へ分け入る。
 いったん作業をはじめたら、あとは没頭して時間を忘れた。どれだけの枝をは
らい、草を刈ったか、いちいち確認もしない。腕がしびれて汗みずくになって
も、思ったほどきつくは感じられなかった。
 やっと我に帰ったとき、私は雑木林の一画をぐるりと刈り払い、湖の別の岸に
出ていた。肩で息をし、汗まみれの顔を、草汁と木の繊維に汚れた鎌を握った拳
でぬぐう。よく道に迷わなかったものだ。どうやら銀白色の目印は、道に迷わな
いよう、誘導標識がわりでもあったようだ。
 荒い息をしずめて、鎌を波打ちぎわで洗っていると、密生している金色と黒の
まだらの葦の連なりが、がさがさと昔を立てて動きだした。および腰で見ている
と、葦の茎の群れを割って、ぬっと真黒な熊の顔が現れた。
「ども。ごくろうさんです。ども、わたくし、何度目か、たいへんに感動いたし
ました」
 月の輪熊が、うふうふうと笑いながら、石亀キンタに乗って琥珀の水面上に姿
を現す。「ども、刑の執行が無事に終わったこと、わたくし、葦の葉陰でどんじ
ゃらほい。すっかりはっきりしっかり見せていただきましたよ。隠さずはずかし
がらず、ありのままのお仕事で、たいへんにけっこうですので、春がきたんでめ
でたいんでございます。被告のあなた、ちゃ〜んと、草と枝を刈ってお仕事しま
したね。とっても、よかよか、よかですたい。オタマジャクシのおなかの渦巻き
のように、とりあえず、うれしさグルグルなんです」
 私は鎌を顔の前にあげ、曖昧にうなずいた。本当にこれで刑を終えたかどう
か、自信がなかったからだ。
「なんとか、終わったと思うけどね。銀色に光ってたのを刈ったよ」
 熊は、胸の月の輪を手でなでながら、ぐふぐふ笑って目を細めた。
「よいです。グッドです。わたくし、メルシー・ボークーの月の輪小次郎でござ
います。証拠に、ここのところの白い輪っかは正義の印。からだ真黒、夜空の毛
皮。昇る三日月、弦(つる)なし弓で、あなたのハートに矢をちっくり」
 私がほっと吐息をもらすと、熊は珍妙なしぐさで挙手の礼をした。
「ところで、どうして、孫の手、ヒトデ。あなた、ケンジ先生にお会いになった
でしょう。わたくし、遠くから見て、はらはらドキドキむねむねしてました。と
っても、素敵でもったいないのことです。ぜひぜひ、もりあがって、お出かけの
お祝いしなければなりません」
「お祝い?」
「そです。刑が終わったのと、ケンジ先生の御来訪を祝して、楽しくよろしく宴
会なんか、いかがでしょう。とっても気持ちよく、大風びゅご−と吹きました。
あの風、ケンジ先生の足跡なんでございます」
 小次郎はキンタから降りると、肉球のぶあついてのひらで、鎌を差し示した。
「ささ、鎌を元の場所に、どぞ、お返ししてください。洗い終わったら、後はお
カマいなく」
 小次郎の言う通り、洗った鎌の水をよく切り、服のすそでふいた。刈った草や
枝の跡をたどって駆け戻り、ミズナラの大木の根元の黒い二つの石の間にはさ
む。もう一度、小次郎の待つ場所にU夕−ンすると、月の輪熊は、ブナの森と雑
木林にぺこりと一礼する。
「では、刑の執行も終わりましたので、兎(と)にも角(かく)にも、ウサギに
角で帰ります。ケンジ先生、森の春夏秋冬さん、ども、ありがとうございました
です」
 私もいっしょになって、あわててお辞儀した。
 顔を上げて水辺に目をやると、いつの間にやってきたのか、大亀キンタとナス
ビ亀の姿があった。父娘そろってこっくりいねむりしている。
 ぶあいそなナスビも、波打ちぎわの大きな平たい岩の上で、黒褐色の背中を、
"おっかさんバオバブ"の金光にさらして心地よさそうだった。
 小次郎は、私の背中を手で押しやり、ナスビに乗るよう促した。
「ささ、帰りましょう。お時間ですよ。ささ、どぞ。どぞ」
「ああ、わかった。わかったよ」
 小次郎には、宮沢賢治について聞きたいことが山ほどあった。だが、今はそれ
を口にできる雰囲気ではない。聞いても、すぐに答えてくれるかどうか分からな
かった。
 月の輪熊は、どってらどってらとキンタ亀のところにいき、うれしそうに目を
細めた。両手を胸の前にだらんと垂らし、天空を見上げて口吻をつきあげ、いき
なりほえだした。「ぐおっも−ん。なんだか、わたくし、とってもうれしんでご
ざいます。ぐおっも−ん」 
 小次郎の大きなほえ声に、キンタとナスビが冬眠からさめたように、のろのろ
と目を開いた。
 二匹は、岩から降りて、ずるずると水辺に移動する。
 私と小次郎は、用意の整った亀の背中に乗った。来た時と同じく、ナスビ亀の
甲羅に腹ばいになり、大の字の格好でしがみついた。
 月の輪熊は、キンタの上に馬乗りになると、片手をさしあげて山々にふりかえ
る。
「やっほのほっほ。ども、ありがとござんした、スミマ山。ども。わたくし、ま
たケンジ先生のとこに、人を連れにきますです」
 思わず私は、満足そうな小次郎の言葉を聞きとがめた。
「ちょっと待ってくれ。人を連れて来るって、そりゃ、いったい……」
 小次郎は、驚いたように目を丸くすると、不思議そうに首をかしげてみせた。
「おや、ごぞんじない?それはとっても拍子ぬけのヒョウタンドックリです」
 月の輪熊は頭の後ろに手をやって、おかしそうにくつくつと笑った。
「スミマ山の向こうは、ケンジ先生の世界なのです。この辺は、ケンジ先生の世
界との境目で、ときどき"おっかさんバオバブ"との約束で、こちらにいらっしゃ
るのです。わたくし、それぐらいは知ってます。森が荒れるといけないので、と
きどき人を連れてきて、草刈りや枝はらいをしてもらいますです。そのときに、
誰を連れてくるか、選ぶのがケンジ先生なのです」
 私は腕組みをして、信じるべきかどうか、迷い悩んだ。ケンジ先生の世界とい
うのは、もしかしてあの"イーハトーブ"のことだろうか。
 仮に小次郎の説明通り、宮沢賢治が人選をして、定期的に雑木林の管理をさせ
ているのなら、私を選んだというのはどういうことなのだろう?
 父娘亀は、背中に乗った者たちの重さなどものともせず、しずかに湖面へ泳ぎ
だした。となりあって葦の原をくぐりぬけ、明るい琥珀色の湖面へと進んでゆ
く。
 亀は次第に中央の島に接近してゆく。広々とした湖面の前方に、"おっかさん
バオバブ"の慈悲深い輝く偉容と、その根元に鎮座する宿六の大巻貝がみえる。
 亀に乗りながら、不安と疑念がまた頭をもたげて強くなる。せめてこの世界
が、誰かのイメージか、あるいは幻想の類かさえわかれば、なんとか対処のしよ
うがある。
 宮沢賢治と会えたのは大変にうれしいが、これでは肝腎なことが何ひとつ分か
らない。
 私は小次郎の、いつも楽しそうな横顔をみやった。"こ"さまは全く屈託がな
い。"おっかさんバオバブ"の明るく無邪気な面が、そのまま熊になったようだ。
無上ののどかさだった。
 私の方は、そうはいかない。あのフクロウとヨダカに変じた宮沢賢治が、確か
に本人なのかどうか、はっきりさせかった。
 問題はそれだけではない。この世界の正体が不明な限り、元の世界へ帰る方法
も見つからないということだ。
 だが、そんな悩みも、眼前に大きく近づく宿六を見て、中断してしまった。見
送ってくれたときよりも、多くの動物たちが、その下で待っていることに気づい
たからだ。
 亀たちは、島に近づくにつれて、泳ぎをはやめた。琥珀色の水面を波をたて
て、一心に、進んでゆく。みるみるうちに、大巻貝のふもとにならぶ動物たちの
姿が、はっきり見えてきた。
 私は目をみはり、顔をあげてその光景を見つめた。なんと、先刻別れた面々に
加え、あの犬兵隊と猫撫隊、カミュや狼法王たちがいるではないか。しかも、全
員が喉首に黄色い蝶ネクタイをつけ、大歓迎といった感じで岸辺にずらりとなら
んでいる。
「おい、"こ"さま。あれは、なんのつもりだい」
 小次郎は一列にならんだ動物たちを見渡し、ふがふが鼻を鳴らして喜んだ。
「あなたの刑執行終了記念コンサートです。みなで楽器を持って、よいしょとお
待ちしているのです」
「な、なに?コンサートだって?」
「そです。ほら、あの赤い服を着ているのが、指揮者ムーンタッタです」
 びっくりして身を乗り出すと、たしかに法王の白狼が、手にヤドリギのまっす
ぐな枝をもち、真赤なタキシードを着ている。背筋をのばし、しっぽを起こして
水辺に立っているのだ。楽団の指揮者をきどり、黄色い蝶ネクタイをみせびらか
すように胸をはっているのがおかしい。
 狼指揮者の右側には、トライアングルをぶらさげた柴犬シロとシベリアンハス
キーのブブヅケがならんでいた。反対側には、三毛猫オタマと虎猫ヨイトマケ
が、赤と青のカスタネットを持って大きなあくびをしている。
 犬も猫も身につけているのは蝶ネクタイだけで、もうへルメットもベレーもか
ぶっていない。
 犬たちは桃色の舌をだして笑いながら待ちかまえ、猫たちはすっかり目を細く
して眠った顔つきだ。
 あの駅頭巨頭会談の面々が、いつの間にか全員そろっている。ブブヅケの隣に
は、巻貝の縁によりかかった灰色狼のタッチャンが、しぶい赤褐色のチェロをさ
さえている。演奏家っぽい神妙な顔つきで弓をかまえ、チェロの弦に当てている
さまは、なかなかきまっている。
 ヨイトマケの足元には、河馬のバカニが座り、普通のハープよりひとまわり小
さなアイリッシュ・ハープを立てている。その弦の前にはカミュが、昂然と真赤
なトサカをあげて、黄色いくちばしをつきだしている。河馬といっしょにハープ
の弦をつまびこうというのだろう。
 カミュの隣では、草地に腰をおろしたワン教授が眼鏡をかけてすましている。
真新しい木琴を前に、ばちをかまえている。
 列のいちばん左はしにいるのは、黄銅色のシンバルを持って座っている武太郎
だった。反対側の右はじには、ダチョウのホワイトハウスが、どこから持ってき
たものか、大太鼓の土に立っている。カの強い二本の足を、ばちのかわりにする
つもりらしい。
 岸までは、あと十メートルもない。全員が私と小次郎に注目しているのがわか
る。意外にも、期待にうずうずしているのが感じられる。最初に会ったころの、
人間への警戒心や仲間はずれの空気はだいぶ薄らいでいた。
 見渡して、コアラの姿が見えないことに気づいた。
「あれ、ユカリ市長がいないぞ」
「だいじょぶです。今すぐ来ます。ヌカ味噌漬けはあっても、ぬかりはありませ
んです」
 小次郎は悠然と頭をふって、大巻貝の向こう側を手で示した。
 うながされるまま目をやると、ヤドカリの反対側の水面を、灰色の見慣れたコ
アラの姿がやってくる。
「な、なんだ……」
 ユカリさんは、キンタの息子の富士亀の背中に立っていた。そのまわりには、
ほかの三匹の亀が随伴している。四匹の亀とコアラは、すいすい水面をすべって
くると、にわか動物楽団の前にやってきた。
 いったいどうするつもりなのだろうと見ていると、ユカリさんたちはムーンタ
ッタの正面の波打ちぎわに、ぴたりと止まった。ちょうど私たちと、赤いタキシ
ードの指揮者の間に入って、一直線にならんだことになる。
 小次郎が、眼前のコアラに、目を細めてぐふぐふ声をかけた。
「ども、市長どん。おいしく準備ができましたよ。わたくし、いつでもオッケー
の観客です。どぞ、湖面にうきうきで、気分はわくわくですので、演奏をはじめ
てください。なんと、お楽しみの刑執行終了コンサートの開始です」
 コアラがこちらに向き直り、小次郎に灰色のふかふかした頭をさげ、ぺこりと
挨拶した。「うんうん。ついに人間くんは、被告から解放されたんだね。では、
これから、このえら−い市長のユカリさんがヴォーカルで、ベあべあ日暮ら市の
巨頭のみんなが、すんばらすい極楽演奏をしてあげるからね。耳の穴をボーリン
グして、よく聞いているんだよ。うん」
 固唾を飲んでいると、ユカリさんは手で耳の毛なみをそろえ、きちんと気をつ
けの姿勢をとった。
「それでは、これより、ベあべあ日暮ら市アニマル楽団による人間へのお祝いの
歌、「うんうんめでたいよ小唄』を歌います」
 ユカリさんは、小さな灰色の体をせいいっぱいにそらし、うしろにならんだ楽
団に銀の懐中時計をふって合図した。
「では、いくよ」
 赤いタキシードの白狼が深くうなずき、指揮棒がわりのヤドリギを一、二、三
と振った。
 たちまち珍妙な音楽が湖じゅうに広がった。チェロと太鼓とシンバル、木琴と
カスタネット、トライアングルにアイリッシュハープという、変わったとりあわ
せの演奏がはじまったのだ。
 何よりおかしいのは、どんな音楽にもない奇妙な旋律だった。ある程度、楽譜
があるような演奏だが、ずっと鑑賞していたいメロディーとは言い難かった。
 楽団というよりは、まるで譜面からはみだして、道草とより道の音ばかり出し
ている演奏家の集団だ。
 動物たちはムーンタッタのタクトにあわせ、一所懸命に演奏している。いつも
駄洒落と騒ぎをふりまく、おもしろがりの彼らが、こんなに真剣なのは初めて見
た。それも「万物の増長」といわれる人間ひとりのために、慣れない演奏を、へ
たながら無心に続けているのだ。
(まいったな……)
 そう思いながらも、ちょっと感激してしまう。あれほど怒ったりわめいたり
し、いやがっていた動物たちなのに、こうしてねぎらいと歓迎の催しをしてもら
えると、やはりうれしい。動物たちの気持ちの優しさが、素直に伝わってきて面
映ゆいほどだ。
『うんうんよかったね小唄』は、五秒ほどの前奏のあとに続いた。突然にコアラ
が黄色い声できゅうきゅう歌いはじめた。

♪うんうんめでたい、めでたいよ。
 コアラがユーカリ食べること。
 "こ"さまがドングリ食べること。
 "たけ"さまシャケをかじること。
 うんうんめでたい、めでたいよ。
 人間きたきた草刈りに、
 聖なるお山のスミマ山、
 ケンジ先生もやってくる。
 おっかさんバオバブおよろこび。
 お裁きおわってよかったね。
 うんうん終わって、おめでとう。
 草刈り、枝うちすんだから、
 おつとめどうもごくろうさん。
 うんうん人間解放します♪

 コアラの歌は終わったが、楽団の演奏は続いていた。それどころか、ますます
熟が入って調子をあげている。
 コアラの歌が終わると、水面に浮かんでいた亀たちが、次々と岸辺に泳ぎつい
た。私も亀も、熱の入った珍妙な演奏に迎えられ、ユカリさんといっしょに島に
上陸する。
 コアラと私と小次郎が亀から降りると、ワン教授と武太郎が演奏をやめ、楽器
を置いて立ち上がった。どちらも、私の前にやってくると、ぺこりと頭を下げ、
感謝している様子だった。
 コアラは私の隣に立ち、手をひいて泡ふく宿六の上を指さした。
「うんうん。まずは登るんだね。さあ、帰ろう」
 私は驚いてたちどまり、コアラのにこやかな顔をみおろした。
「帰るって……」
 ワン教授が、仲間の演奏を背景に、黒縁眼鏡をあげ、大ヤドカリを見上げた。
「解放された被告は、お祝いのコンサートに送られて、すみやかに花畑に戻るの
が、正統で古式ゆかしい、日暮らし流の礼儀とたき木とすりこぎです」
「で、でも……」
 口ごもる私の背中を、武太郎が爪をひっこめた手でつついた。
「べあべあ日幕ら市のために、被告専門の仕事をおえたんだからよ、さっさと行
けよ。お花畑の上で宴会するんで、みんな待ってんだ。はやく帰らなきゃな」
 小次郎の方を見ると、彼は手足でリズムをとりながら、ふんふんと楽しく鼻を
鳴らしている。
「はあ、解放の宴会はとっても楽しみ。お楽しみはこれからで、悲シミや苦シミ
なんかのシミは早めに抜きましょう。そのための、おえらくめでたい宴会です
よ」
 月の輪熊の説明とともに、ヤドカリの正面の湖上に異変が生じた。動物楽団の
前で、再びあの垂直の水面が、虹色の輝きを発して出現したのだ。
 ワン教授は驚くようすもなく、奥様水神がつくったのと同じ空中の水面を、手
で指し示した。
「ほら、奥様水神お手製の出入口が現れました。すぐにいかないと閉じてしまっ
て乗り遅れます。そうなると、次のキマグ零時まで待たないといけません」
"こ"さまが、そのとき「ぐおっも−ん」と叫んで、両腕を虹色の垂直水面にむけ
てふり上げた。
「おらあ、いよいよ、お待ちかねの、あっちへ戻って宴会するだよ。キマグレコ
大明神さまのお墨つきのお焦げつきの祝賀会で、すんごくすてきではがれません
です。どっとお祝い、歌い踊って騒いで、熊といっしょにクマなく笑うべえ」
 小次郎はそう叫ぶなり、演奏に乗って、とんたら踊りだした。滑稽な動きを続
けながら、宿六に登るロープに向かって歩きだす。
 そのあとを、武太郎とワン教授、ユカリ市長が、同じようにおかしなおどりを
踊りながらついてゆく。私もあわてて、でたらめに手足をふりあげて後を追う。
どのみち、人間がついてゆけるテンポではないのだ。
 動物楽団の演奏に見送られ、私たちはロープをつかんで登った。不思議なこと
に、来るときの大変さに比べて、今度はやけに体が軽い。信じられないほど容易
に、宿六の背中にたどりついた。
 小次郎と武太郎は、さっそく脱ぎちらかしていた衣服をひろい、身につけはじ
めた。小次郎は、車夫の半纏(はんてん)とはちまき、武太郎は、テンガロンハ
ットと黄色いスカーフだ。
 二頭の熊は服装を整えると、ヤドカリの頭の上に隣あって腰をおろし、手綱が
わりの口ープをたぐってつかんだ。
 熊の御者席の後ろに、ワン教授がすまして座り、私もその背中を見ながら末席
につく。ユカリさんは、ボタンをなめながら、私の両腿の間に、指定席だといわ
んばかりに鎮座する。
 ぴしりとロープを鳴らすと、熊たちは楽しげにそろって声をはりあげた。
「さあ、行くどん。熊族、手綱をとるときにゃ元の場所へ戻るだよ。奥様水神よ
ろしくよろしく、お願い致します。いけない人間、目をつぶれ。途中で開けては
いけないどん」
 私は固く目をつむり、移動に備えた。
 とたんに、大ヤドカリの動きだす震動が、ずしんと尻の下からつきあげた。動
物楽団の演奏が、下から後方へと去ってゆく。宿六の巨体が、前進を開始したの
だ。
 来た時と同じく、ほんの一瞬、顔が冷水を浴びたように冷たくなった。動物コ
ンサートは、そこでぷっつりととだえた。
 再び、向こうに着くまで、辛抱のいる暗闇と沈黙の世界がはじまった。耐え難
いほど暗く、冷たい風の音の他、何もない時間がまた続くのだ。
                            (次回、最終回)

「ケンジ先生直筆のフクロウの絵」