宮沢賢治の変身した青白く輝く星が、天頂に消えたとたん、山々を覆う厳冬が、いっせいに融けだした。
 森は春の復活をむかえた。枝いっぱいにエメラルドグリーンが芽吹き、翡翠色の葉の連なりを開いてゆく。
 地面から春の草花が萌えだし、下草がみるみる生い茂りはじめた。腐葉土と枯れ葉の層を押し破って現れる緑の鮮やかさは、目を射るばかりだった。あれよあれよという間に春は深まり、森は再び初夏の活気を取り戻した。
 まだ刑は終わっていないのだ。草刈りや枝払いは、どこをやればいいのか。鎌を握ったままとまどい、緑濃い涼しい木陰に立ちつくした。
(さて、困ったな……)
 そうでなくとも、宮沢賢治との邂逅に動転し、途方にくれているのだ。
 ためいきをついているうちに、木陰の薮や下生えのあちこちに、おかしな現象を発見した。
 下生えの草や木の枝の中で、銀白色に輝いて点滅しているものがある。まるで私に何か教えているようだ。
 迷い焦っていた私の目には、刈るべき草や枝はこれだよと、その輝きがさしているように見えた。
(よし、いちかばちかだ、ぐずぐずしちゃいられない)
 決意して白銀色の輝きを目印に鎌をふるう。細かいことをうんぬんできる状況ではなかった。とにかく行動する以外に為すすべがない。
(やってやるぞ)
 宮沢賢冶の姿をかみしめながら、銀色に点滅する草を刈り、枝をはらって山の中へ分け入る。
 作業をはじめたら、没頭して時を忘れた。どれだけの枝をはらい、草を刈ったか、おぼえていない。腕がしびれて汗みずくになっても、あまりきつくなかった。
 痛む腰をあげて我に帰ったときには、雑木林の一画をぐるりと刈り払い、湖の別の岸まで出ていた。
 肩で息をし、汗まみれの顔を、草の汁と土に汚れた拳でぬぐう。よく道に迷わなかったものだ。銀白色の目印は、誘導標識もかねていたようだ。 
 鎌を波打ちぎわで洗っていると、金と黒のまだらの葦の群れが、がさがさ動きだした。見ていると、葦の群れを割って、ぬっと小次郎の顔が現れた。
「ども。ごくろうさんです。ども、わたくし、何度目かですけど、とってもたいへんに感動いたしました」
 うふうふうと笑いながら、大亀キンタに乗って琥珀の水面上に姿を現す。
「ども、刑の執行が無事に終わったこと、わたくし、葦の葉陰でどんじゃらほい。すっかりはっきりしっかり見せていただきましたよ。隠さずはずかしがらず、ありのままのお仕事で、たいへんにけっこうですので、春がきたんでめでたいんでございます。被告のあなた、ちゃ〜んと、草と枝を刈ってお仕事しましたね。とっても、よかよか、よかですたい。オタマジャクシのおなかの渦巻きのように、とりあえず、うれしさグルグルなんです」
 私は洗った鎌をふって水をきり、目をぱちぱちさせた。本当にこれで刑を終えたかどうか、自信がなかったからだ。
「なんとか、終わったと思うけどね。銀色に光ってたのを刈ったよ」
 熊は、月の輪を手でなでながら、ぐふぐふ笑って目を細めた。
「よいです。グッドです。わたくし、メルシー・ボークーの月の輪小次郎でございます。証拠に、白い輪っかは正義の印。からだ真黒、夜空の毛皮。昇る三日月、弦(つる)なし弓で、あなたのハートに矢をちっくり」
 刑は、本当に終わったらしい。吐息をもらすと、熊は珍妙なしぐさで挙手の礼をした。
「ところで、どうして、あなた、なかなかです。ケンジ先生にお会いになったでしょう。わたくし、遠くから見て、はらはらドキドキむねむねしてました。とっても、素敵でもったいないのことです。ぜひぜひ、もりあがって、お出かけのお祝いしなければなりません」
「お祝い?」
「そです。刑が終わったのと、ケンジ先生の御来訪を祝して、楽しくよろしく宴会なんか、いかがでしょう。とっても気持ちよく、大風びゅごーと吹きました。あの風、ケンジ先生の足跡なんでございます」
 小次郎はキンタから降りると、肉球のぶあついてのひらを差し出した。
「ささ、鎌をどぞ、お返しください。洗い終わったら、後はおかまいなく」
 鎌の水をよく切り、服のすそでふいた。それを小次郎に渡すと、月の輪熊は、ブナの森と雑木林にぺこりと一礼する。
「では、刑の執行も終わりましたので、兎(と)にも角(かく)にも、ウサギにツノで帰ります。ケンジ先生、森の春夏秋冬さん、ども、ありがとうございましたです」
 私もいっしょになって、あわててお辞儀した。
 顔を上げて水辺に目をやると、いつの間にやってきたのか、ナスビ亀の姿があった。
 ぶあいそなナスビも、波打ちぎわの大きな平たい岩の上で、黒褐色の背中を、〈おっかさんバオバブ〉の金光にさらして気持ちよさそうだった。
 小次郎は、私の背中を手で押し、ナスビに乗るよう促した。
「ささ、帰りましょう。お時間ですよ。ささ、どぞ。どぞ」
「ああ、わかった。わかったよ」
 宮沢賢治について聞きたいことが山ほどあった。だが、今は口にできる雰囲気ではない。聞いてたとしても、すぐに答えてくれるかどうか。
 月の輪熊は、どてどてとキンタ亀の前まで歩き、うれしそうに目を細めた。両手をだらんと垂らすと、口吻をつきあげてほえだした。
「ぐおっもーん。なんだか、わたくし、とってもうれしんでございます。ぐおっもーん」 
 小次郎の大きなほえ声に、キンタとナスビが、のろのろと目を開いた。岩から降りて、ずるずると水辺に移動する。
 私と小次郎は、亀の背中に乗った。来た時と同じく、ナスビ亀の甲羅に腹ばいになり、大の字の格好でしがみついた。
 月の輪熊は、キンタの上に馬乗りになると、片手をさしあげて山々にふりかえる。
「やっほのほっほ。ども、ありがとござんした、スミマ山。ども。わたくし、またケンジ先生のとこに、人を連れにきますです」
 思わず私は、小次郎の言葉を聞きとがめた。
「ちょっと待ってくれ。人を連れて来るって、そりゃ、いったい……」
 小次郎は、おかしそうに首をかしげてみせた。
「おや、ごぞんじない?それはとっても拍子ぬけのヒョウタンドックリです」
 月の輪熊は頭の後ろに手をやって、くつくつと笑った。
「スミマ山の向こうは、ケンジ先生の世界なのです。この辺は、ケンジ先生の世界との境目で、ときどき〈おっかさんバオバブ〉との約束で、こちらにいらっしゃるのです。わたくし、それぐらいは知ってます。森が荒れるといけないので、ときどき人を連れてきて、草刈りや枝はらいをしてもらいますです。そのときに、誰を連れてくるか、選ぶのがケンジ先生なのです」
 信じるべきかどうか、迷うような言葉だ。ケンジ先生の世界というのは、もしかしてあの『イーハトーブ』のことだろうか。
 仮に小次郎の説明通り、宮沢賢治が人選をして、定期的に雑木林の手入れをさせているなら、私を選んだのはどういうことなのだろう?
 父娘の亀は、湖面へ泳ぎだした。となりあって葦の原をくぐりぬけ、明るい琥珀色の湖面へ出る。
 亀は中央の島に近づいてゆく。広々とした湖面の前方に、〈おっかさんバオバブ〉の慈悲深い金色の偉容と、根元に鎮座する大巻貝の丘がみえる。
 亀に乗りながら、不安と疑念がまた頭をもたげる。いったいこの世界は、なんなのだろう。どういう理由で存在するのだろうか。
 宮沢賢治と会えたのは大変にうれしいが、肝腎なことは、いまだ何ひとつ分からない。
 私は小次郎の、いつも楽しそうな横顔をみやった。〈おっかさんバオバブ〉の明るく無邪気な面が、そのまま熊になったようで、全く屈託がない。
 私の方は、そうはいかない。この世界の正体が不明な限り、元の世界へ帰る方法も見つからないということだ。
 亀たちは、島に近づくにつれて、泳ぎをはやめた。琥珀色の波をたてて、一心に進んでゆく。みるみるうちに、大巻貝のふもとにならぶ動物たちの姿が、はっきり見えてきた。
 私は目をみはり、顔をあげてその光景を見つめた。なんと、先刻別れた面々に加え、あの犬兵隊と猫撫隊、カミュや狼法王たちがいるではないか。しかも、全員が喉首に黄色い蝶ネクタイをつけ、大歓迎といった感じで岸辺にずらりとならんでいる。
「おい、〈こ〉さま。あれは、なんのつもりだい」
 小次郎は一列にならんだ動物たちを見渡し、鼻を鳴らして喜んだ。
「あなたの刑執行終了記念コンサートです。みなで楽器を持って、ちゃあーんとお待ちしているのです」
「な、なんのコンサートだって?」
「ほら、あの赤い服を着ているのが、指揮者ムーンタッタです」
 よく見ると、たしかに法王の白狼が、手にヤドリギのまっすぐな枝をもち、真赤なタキシードを着ている。背筋をのばし、しっぽを起こして水辺に立っているのだ。
 楽団の指揮者をきどり、黄色い蝶ネクタイをみせびらかすように胸をはっているのがおかしい。
 指揮者の右側には、トライアングルをぶらさげた柴犬シロとシベリアンハスキーのブブヅケがならんでいた。反対側には、三毛猫オタマと虎猫ヨイトマケが、赤と青のカスタネットを持って大きなあくびをしている。
 犬たちは桃色の舌をだして笑いながら待ちかまえ、猫たちはすっかり目を細くして眠った顔つきだ。もうへルメットもベレーもかぶっていない。
 ブヅケの隣には、巻貝の縁によりかかった灰色狼のタッチャンが、しぶい赤褐色のチェロをささえている。演奏家っぽい顔つきで弓をかまえ、チェロの弦に当てているさまは、なかなかきまっている。
 ヨイトマケの足元には、河馬のバカニが座り、普通のハープよりひとまわり小さなアイリッシュ・ハープを立てている。その弦の前にはカミュが、昂然と真赤なトサカをあげて、黄色いくちばしをつきだしている。河馬といっしょにハープの弦をつまびこうというのだろう。
 カミュの隣では、草地に腰をおろしたワン教授がすましている。真新しい木琴を前に、ばちをかまえている。
 列のいちばん左はしにいるのは、黄銅色のシンバルを持って座っている武太郎だった。反対側の右はじには、ダチョウのホワイトハウスが、どこから持ってきたものか、大太鼓の土に立っている。力の強い二本の足を、ばちのかわりにするつもりらしい。
 岸までは、あと十メートルもない。全員が私と小次郎に注目し、期待しているのがわかる。最初のころの、人間への警戒心や仲間はずれの空気は薄らいでいた。
 見渡して、コアラの姿が見えないことに気づいた。
「あれ、ユカリ市長がいないぞ」
「だいじょぶです。今すぐ来ます。ユーカリがある限り、ぬかりはないので、ごらんくださいでありんす」
 小次郎は、大巻貝の向こう側を手で示した。
 目をやると、反対側の水面を、見慣れたコアラがやってくる。
「な、なんだ……」
 ユカリさんは、富士亀の背中に立っていた。そのまわりには、ほかの三匹の亀が随伴している。亀たちとコアラは、水面をすべって、動物楽団の前にやってきた。
 見ていると、ユカリさんたちはムーンタッタの正面の波打ちぎわに、ぴたりと止まった。ちょうど私や動物楽団と、赤いタキシードの指揮者の間に入って、一直線にならんだことになる。
 小次郎が、眼前のコアラに、ぐふぐふ声をかけた。
「ども、市長どん。おいしく準備ができましたよ。わたくし、いつでもオッケーの観客です。どぞ、湖面にうきうきで、気分はわくわくですので、演奏をはじめてください。お楽しみの刑執行終了コンサートの開始です」
 コアラがこちらに向き直り、小次郎に灰色のふかふかした頭をさげ挨拶した。
「うんうん。ついに人間くんは、名誉ある被告から解放されたんだね。では、これから、このえらーい市長のユカリさんがヴォーカルで、ベあべあ日暮ら市の巨頭のみんなが、すんばらすい極楽演奏をしてあげるからね。耳の穴をボーリングして、よく聞いているんだよ。うん」
 ユカリさんは手で耳の毛をそろえ、気をつけの姿勢をとった。
「それでは、これより、ベあべあ日暮ら市〈とり&けもの楽団〉による人間へのお祝いの歌、『うんうんめでたいよ小唄』を歌います」
 ユカリさんは、小さな灰色の体をせいいっぱいにそらし、楽団に銀の懐中時計をふって合図した。
「では、いくよ」
 赤いタキシードの白狼が深くうなずき、指揮棒がわりのヤドリギを一、二、三と振った。
 たちまち珍妙な音楽が湖じゅうに広がった。チェロと太鼓とシンバル、木琴とカスタネット、トライアングルにアイリッシュハープという、変わったとりあわせの演奏がはじまったのだ。
 どんな音楽にもない奇妙な旋律だった。楽譜があるようなないような演奏だが、ずっと鑑賞していたいメロディーでもない。
 楽団というよりは、まるで譜面からはみだして、道草とより道の音ばかり出している演奏家の集団だ。
 動物たちはムーンタッタのタクトにあわせ、一所懸命に演奏している。いつも駄洒落と騒ぎをふりまく、おもしろがりの彼らが、こんなに真剣なのは初めて見た。それも「万物の増長」といわれる人間ひとりのために、慣れない演奏を、へたながら無心に続けているのだ。
(まいったな……)
 思わず感激してしまう。あれほど怒ったりわめいたりし、いやがっていた動物たちなのに、こうしてねぎらいと歓迎の催しをしてもらえると、やはりうれしい。動物たちの気持ちの優しさが、素直に伝わってきて面映ゆいほどだ。
『うんうんよかったね小唄』は、十秒ほどの前奏のあとに続いた。突然にコアラが黄色い声できゅうきゅう歌いはじめた。

♪うんうんめでたい、めでたいよ。
 コアラがユーカリ食べること。
 〈こ〉さまがドングリ食べること。
 〈たけ〉さまシャケをかじること。
 うんうんめでたい、めでたいよ。
 人間きたきた草刈りに、
 聖なるお山のスミマ山、
 ケンジ先生もやってくる。
 おっかさんバオバブおよろこび。
 お裁きおわってよかったね。
 うんうん終わって、おめでとう。
 草刈り、枝うちすんだから、
 おつとめどうもごくろうさん。
 うんうん人間解放します♪

 コアラの歌は終わっても、楽団の演奏は続く。コアラと私と小次郎が亀から降りるまで、熱心に演奏してくれた。
 私たちが上陸すると、動物たちは楽器を置いて立ち上がった。私の前にやってくると、みんなぺこりと頭を下げ、感謝している様子だった。
 コアラは私の手をひいて、泡ふく宿六の上を指さした。
「うんうん。まずは登るんだね。さあ、帰ろう、うんうん、そうしよう」
 私は驚いてたちどまり、コアラのにこやかな顔をみおろした。
「帰るって……」
 ワン教授が、楽器をしまう仲間を背景に、大ヤドカリを見上げた。
「解放された被告は、お祝いのコンサートに送られて、すみやかに花畑に戻るのが、正統で古式ゆかしい、べあべあ日暮らし流の礼儀というものです」
「で、でも……」
 口ごもる私の背中を、武太郎が手でつついた。
「べあべあ日幕ら市のために、被告専門の仕事をおえたんだからよ、さっさと行けよ。お花畑の上で宴会するんで、みんな待ってんだ。はやく帰んなきゃな」
 小次郎の方を見ると、手足でリズムをとりながら、ふんふん楽しく鼻歌気分でいる。
「うふふん、解放の宴会はとっても楽しみ。お楽しみはこれからで、悲シミや苦シミなんかのシミは早めに抜きましょう。そのための、やりたい放題おめでたい宴会ですよ」
 小次郎の言葉とともに、ヤドカリの正面の湖上に異変が生じた。動物楽団の前に、再びあの奥様水神がつくった垂直の虹色の水面が出現したのだ。
 ワン教授は、波立つ空中水面を、指し示した。
「ほら、奥様水神お手製の出入口が現れました。すぐにいかないと閉じてしまって乗り遅れます。そうなると、次のキマグ零時まで待たないといけません」
 小次郎が、「ぐおっもーん」と叫んで、両腕を垂直水面にむけてふり上げた。
「おらあ、いよいよ、お待ちかねの、あっちへ戻って宴会するだよ。キマグレコ大明神さまのお墨つきのお焦げつきの祝賀会で、すんごくすてきで、忘れませんです。どっとお祝い、歌い踊って騒いで、熊といっしょに、くまなく笑うべえ」
 小次郎はそう叫ぶなり、滑稽な踊りをはじめ、宿六に登るロープに向かって歩きだす。
 そのあとを、武太郎とワン教授、ユカリ市長が、同じようにおかしなおどりを踊りながらついてゆく。私もあわてて、でたらめに手足をふりふり後を追う。
 動物たちに見送られ、私たちはロープをつかんで登った。不思議なことに、来るときに比べて、今度はやけに体が軽い。信じられない容易さで、宿六の背中にたどりついた。
 小次郎と武太郎は、脱ぎちらかしていた車夫とカウボーイの服をひろい、身につけはじめた。
 熊たちは服装を整えると、隣あって腰をおろし、手綱がわりのロープをたぐってつかんだ。
 熊の御者席の後ろに、ワン教授がすまして座り、私もその背中を見ながら後ろにつく。ユカリさんは、ボタンをなめながら、私の両腿の間に、指定席のつもりで鎮座する。
 熊たちは、ぴしりとロープを鳴らすと、楽しげにそろって声をはりあげた。
「さあ、行くどん。熊族、手綱をとるときにゃ元の場所へ戻るだよ。奥様水神よろしくよろしく、お願い致します。いけない人間、目をつぶれ。途中で開けてはいけないどん」
 私は固く目をつむり、移動に備えた。
 大ヤドカリの動きだす震動が、ずしんと尻の下からつきあげた。動物たちの見送る声が、後方へと去ってゆく。
 来た時と同じく、一瞬、顔が冷水を浴びたように冷たくなった。〈おっかさんバオバブ〉の世界の光と温かさは、そこでぷっつりとだえた。
 向こうに着くまで、辛抱のいる暗闇と沈黙の世界が、またはじまった。耐え難いほど暗く、冷たい風の音の他、何もない時が続くのだ。



 元の花畑へは、いつになったら着くのだろうか。目をつむったまま、じっと待つ。聞こえるのは、冷たい風の音だけだ。
 何分とも何時間ともつかない時が過ぎるうちに、私は孤独感にたえきれなくなった。〈おっかさんバオバブ〉や宮沢賢治の姿が脳裏に明滅する。あれだけの感動体験のあとに、この訳のわからない暗黒は、あまりにつらすぎた。
 私は思わず、目を閉じたまま小次郎たちに声をかけた。
「おい、〈こ〉さま。だいじょうぶなのか。だれでもいいよ、教えてくれ。〈たけ〉さま。ワン教授、ユカリ市長、どうなってるんだ」
 必死に問いかけても、まるで返事がない。来るときは無我夢中だったが、二度目のせいもあって、私は周囲に敏感になりすぎていた。
 動物たちの気配は、前もそうだったが、なぜかまったく絶えている。大ヤドカリが、前方に直進していることしかわからない。その分、よけいなことを考えてしまう。
 暗黒の中で頭から墜落し続けているような錯覚さえ生まれ、不安と恐れがふくれあがってくる。
 さっきまでのにぎやかな演奏を考えると、この静けさはあまりに不気味だった。それほど深い暗闇と静寂の中の移動だ。
 知らない場所へ放りだされた孤絶感の重圧が、目が見えない分だけ増して悲鳴を上げたくなる。いつまで目を閉じていなければならないのか。恐怖と不安と焦燥にとりつかれ、いてもたってもいられなくなる。
 とっさに、腹の前にいるコアラを、つかんでゆすった。
「おい、ユカリ市長。まだなのか。まだつかないのかい」
 その瞬間、戦慄した。手に触れたユカリ市長の体があまりに冷たかったからだ。
 来るときは、よく分からなかったが、両手で触ってみると、コアラの体は生き物とは思えない冷たい感触しかない。
(まさか……)
 動物たちが、死んだかもしれないという真黒な強迫観念で、胸が押しつぶされそうになる。
「ど、どうしたんだ!」
 我慢ができなくなっていた。まわりがどうなっているか、どうしても知りたい。刑期をちゃんとつとめあげたのだ。ちょっとぐらいならいいだろう。
 強迫観念と甘い油断の気持ちにそそのかされ、私は思わず目をあけた。あれほど奥様水神に禁じられたのに、約束を破って、まぶたを開いてしまったのだ。
(ここは、どこだ!)
 そこは、ベあべあ日暮ら市ではなかった。
 私は、巨大なヤドカリに乗って、見知らぬ高い空の上を飛んでいた。月のない星ばかりの夜の大空だ。
 眼下に黒々と沈む大地が広がっていた。飛行機がゆきかう、かなりの高度なのはまちがいなかった。どこの町ともしれない街の灯が、さみしげにまたたいている。
 街なみや山や川の雰囲気から、どうも日本ではなさそうだ。
 巨大ヤドカリは、殻ごと全身に真青な微光を帯びて、流星さながらに上空のある一点をめざして飛行していた。墜落どころか、確実にその一点に向かって上昇しているのだ。
 後ろをふりかえるが、べあべあ日暮ら市も、あの輝かしい〈おっかさんバオバブ〉の世界をしのばすものも、何ひとつなかった。
 私は茫然とし、頭上の星の天蓋と、地上の街の光をかわるがわる見つめた。
(これは、どうなってるんだ……)
 おそらく、今飛んでいるこの空間は現実の世界なのだ。この身心をしめつける寒さと重苦しさは、楽しい小次郎たちの世界にはありえない。
 地上に広がる光の群れに、私は何のなつかしさも憧憬(しょうけい)もおぼえなかった。あれほど帰りたがっていた世界なのに、ずっと疎遠で虚ろに感じられる。宮沢賢治や〈おっかさんバオバブ〉に出会ったせいかもしれない。
 人間の世界の救いのなさと汚らわしさが、眼下の世界から目に見えない波となって放たれている。そのうとましさと絶望感が、刃となって胸につきささるようだった。
 奇妙だが楽しい世界〜ベあべあ日暮ら市に比べると、人間がのさばる地上は、動物にとっても、いや人間にとってさえ悪夢のような場所に見えてくる。
 私は腰にゆわえたロープをひきずりながら、青い微光に照り映えるユカリさんの小さな肩をつかんだ。
「おい、ユカリさん。こりゃ、いったい……」
 ユカリさんは返事をしなかった。手に触れる冷たい感触はまるで置物だった。その灰色の毛の塊そのままの体に、生き物の命の輝きは一片もなかった。
 私は、市長の冷たく硬い体をかかえて、ぐるりと正面を向かせた。
 ユカリ市長は、そこにいなかった。
 かわりに、ユカリ市長の形をした、一体のコアラの剥製があるばかりだった。肉の温かさも生きて活動する動物の重みもまるでなく、ただ中に詰め物をされ、偽ものの目玉を入れられた動物の残骸があるだけだ。
「こ、こんなばかな……」
 衝撃のあまり、何がなんだかわけがわからなくなった。剥製のユカリさんの口には、私から奪ったあのボタンが、ちゃんとくわえられていたからだ。
「ど、どうしたんだ……」
 剥製と化したユカリ市長を小脇にかかえ、私は青い光を放つ巨大ヤドカリの背中を、がくがく震えながらはった。
 前列で虎縞の背中を見せるワン教授と、その前で御者を気取る小次郎たちに近づいてゆく。
 上空はるかを飛ぶヤドカリの背は、こわくてたまらなかったが、どうしてもこの変事を、小次郎たちに伝えたかった。
「ワ、ワン教授。ユ、ユカリ市長がへんだ」
 小脇にかかえたユカリさんを見せ、おろおろと訴えるが、ワン教授は何の反応もしめさなかった。
 黒縁の眼鏡をかけた虎の教授もまた、触れてみるまでもなく、もの言わぬ虚ろな剥製と化していた。先刻までの精彩のある毛並みはすっかりあせ、ひげやくちびるにも艶がうせている。
 その横顔には何の表情もなく、かつて虎だったものの皮袋が、詰め物をされてそこにあるばかりだった。
 ショックのあまり、悲鳴をあげかけるが、惑乱して声も出せない。
(こんなばかな。こんなばかな。剥製になるなんて、そんなばかな)
 パニックに襲われた私は、車夫とカウボーイ姿の熊たちの横にはいよった。
「こ、小次郎、みんな変なんだ。みんな、剥製……」
 次の瞬間、身も凍る衝撃に言葉をなくした。
 鉢巻きをした月の輪熊と、テンガロンハットをかぶったヒグマの横顔も、また剥製だったからだ。
 小次郎の顔などは、かすかに笑みを浮かべ虚ろに凍りついている。
 私は二頭の間に、ユカリさんを置くと、その場にへたりこんでしまった。真っ黒な絶望感にうちのめされ、やり場のない悲しみと情けなさが、腹の底でとぐろを巻く。体じゅうからカがぬけ、胸の奥からせきあげるものをおさえられなかった。
 頭の中で、こんな馬鹿なという言葉を繰り返すばかりだ。目からはとめどもなく涙があふれてとまらない。
「い、いったい、どうなってるんだよ。ま、またからかってるんじゃないのか……」
 情けない涙声をあげておろおろするうちに、ふいに背後に明るい黄金色の光が閃き、差しこんできた。
 ふりかえると、巨大ヤドカリが飛んできた背後のはるかかなたに、強い光を放つ大きな黄金の星が輝いていた。
(まぶしい……)
 目の上に手をかざすが、後ろに生じた黄金の星の光は、みるみる広がり、あっという間に燃える恒星となって、夜空を金色に染める。
 それは、見覚えのある美しい光だった。指の間から涙に濡れた目を細めて見ると、清浄な星光の中に、あの神々しくも優しい黄金色の巨樹の姿がみえた。
(おっかさんバオバブ……)
 恒星と見えたのは、たしかに輝けるあの生命のバオバブの光だった。それが、この夜の現実世界にもれているのだ。
「ああ、なんてことをしてしまったのだろう……」
 私は顔をおおってうずくまった。燦然と輝く黄金の浄光に縁どられているのは、巨大なバオバブ樹のシルエットだった。
 長い砲弾を立てたような、円柱から円錐形へとすぼまる奇妙な形の幹。そこから半球状に空へとのびる短くて枝分かれの多い枝。それが、夜空の一画を占めて、神々しくあざやかに輝きわたっている。
「ゆるしてください、おっかさんバオバブ」
 遠くにありながら、なんと美しく、なんと豊饒(ほうじょう)な金色の光だろう。
「彼女」は、温かで受容性に富んだ母性の象徴だった。人間に殺された動物たちの、凝り固まった憎しみや怨みを溶かし、復活させ続けているのだ。
 しかし、その光がもたらす動物たちの苦しみを癒す作用も、この現実世界には及ばないのだろうか。
 深刻な後悔にもだえていると、地上に予想もしないことが起きはじめた。
 夜闇と街のあかりに彩られた家並みの広がりの中、そこいらじゅう何百何千という場所から、いっせいに不思議な蛍じみた光の玉がまたたきだした。
 街だけでなく、黒く沈んだ山々の間にも、光の玉がいくつもちらついている。
 ばらばらに立てられたロウソクの火が、次々に灯るように、さまざまな色の光球が、地上に点々と何千個も燃え出し、ゆっくり空中に浮かびはじめたのだ。
 街のあたりの家々を中心に、点々と灯っては浮遊する、大小無数の柔らかな光の球の群れだった。
(なんだろう?)
 それらは、ふわりと空中に浮かびあがると、音もなく舞いながら速度をあげ、いっせいに上空へ飛翔しはじめた。大きな蛍の光のようでもあり、さまざまな色の人魂のようでもあった。
 なぜか気味の悪い感じはおぼえなかった。邪気も悪意も感じられなかったからだ。
 何が起こったのか分からないが、とにかく地上のあちこちから、たいへんな数の光の球が上空へと飛び出している。しかも、それらは、はっきりと〈おっかさんバオバブ〉の黄金の恒星めがけ、四方八方からかけ昇ってゆくのだ。
 私の目には、そのひとつひとつが喜びをこめて、飛び上がっていくように見えた。
 地上で生まれた無数の謎の光の球は、巨大ヤドカリの側までやってきて、みな一様にすれちがってゆく。あたかもそれは、親しげな挨拶を思わせた。
 涙をこぼす私の耳に、あの奥様水神の声がひびいてきた。
「ああ、やっばり約束を破ってしまったのね。あれほど強く言ったのに」
 嘆かわしげな声だ。私の胸は、罪悪感につぶされ重苦しくなった。小学生の頃、こづかい欲しさに、親の財布から金をくすねたのがばれた時のような、追いつめられた心境になる。
「奥様水神……」
 夢中で天をあおぎ、声のする方にふりむく。優しい女神の声は、〈おっかさんバオバブ〉の恒星の中から発せられ、黄金の輝きに乗って聞こえてきた。
「わたしは、動物たちの前では奥様水神。でも、本当は『生命のバオバブ』の化身なの。あれほど目を開いてはいけないと言ったのに。とうとうあけてしまったのね……」
 本当に残念そうな声だ。してはならない悪事を犯した息子をいたむ母にも似た、痛切な感情が宿っている。
「人間は、どうしていつも大切な約束を破るの?。水や土や風や火、植物や動物たちと交わした基本のルールを、どうしてくりかえし簡単に破っておしまいなの?」
 答えることもできずに、ひざと両手をがくりとつく。私の心は罪の意識に鈍く重くしびれ、そして冷たかった。
 人類が自然界のルールを破り、唯我独尊の破壊を続けてきたのは事実だ。もしかすると、人類がいつまで経っても理想世界を生み出せないのは、そうしたルール違反への罪深いペナルティなのかもしれない。
 奥様水神は、大きなため息をついて続けた。
「だから、いつまで経っても、人間はべあべあ日暮ら市に住むことが許されないのよ。これまで二、三人の例外はいたけれど、あなたはその例外に入りそこねたようね」
 二、三人の例外とは、宮沢賢治のような人物のことを言うのだろうか。
 私は絶句したまま、涙をぼろぼろこぼした。約束を破ったことも悲しいが、剥製になってしまった小次郎たちを見る破目になったのが、何よりも辛く悲しかった。
 奥様水神は、そんな私の心もすっかりお見通しのようだった。
「ルールを破るから、味わわなくてもいい苦しみや悲しみを、自分の身に引き寄せてしまうの。せっかく楽しい宴会が待っていたというのに、あなたはもうこれ以上、ベあべあ日暮ら市にいられなくなってしまった……」
 奥様水神の悲しみの声に押しつぶされ、私の頬に、なおも涙がつたった。それは、苦々しさと惨めさの凝結した冷たい悲哀の涙だった。
 このまま元の世界に戻されてしまうのか。私はおのれの犯した過ちを、死ぬほど後悔しながら、必死で〈おっかさんバオバブ〉に懇願した。
「教えてください。どうして小次郎たちは、こんな剥製になっちまったんですか。人間の世界に戻されるのは仕方ありません。ですが、せめてどうか教えてください。小次郎たちはいったいどうしたんですか」
〈おっかさんバオバブ〉の分身は、安らぎと慰めの温かい金色に包まれながら、別離の悲しさをこめて告げた。
「それはね、ただの依り代なの。なぜなら、ベあべあ日暮ら市は、世界じゅうの動物園や、人に飼われているたくさんの動物たちの夢の世界、そして、人間に住みかを奪われ、追いつめられている動物たちの念が集まってできた世界だから。檻やカゴの中から、狭くなった自然の森の中から、広い野生に戻りたい、自由に森や草原をかけめぐりたい。毎日毎日、そればかりを思っている悲しい動物たちが、夜ごとに見る夢が集まってできた世界なの」
「それじゃあ、小次郎も武太郎も、みんな……」
「世界じゅうの動物園や人間に飼われている熊たちの願望が、小次郎や武太郎となってべあべあ日暮ら市で暮らしているの。森を人間の開発で奪われてしまった熊たちの夢でもあるのよ。ユカリさんもワン教授も、みんなそう」
 女神は、深い痛みをこめて黄金の輝きの中から続けた。
「本当の野生にかえりたい。人間から解放されて、自由に大勢の仲間と暮らしたい。そんな動物たちの願いの念が、その剥製に宿って動かしているのよ」
 私の脳裏に、コンサートを催して歓迎してくれたカミュや犬兵隊や猫撫隊の面々の顔が通りすぎてゆく。オラン婆さんにオメグミちゃん、トキの日本一五郎、裁判に列席した動物たちの姿も、鮮明にフラッシュバックして私の胸を熱くした。
 奥様水神は、悲しげに続けた。
「不幸な動物たちの魂が見るつかの間の楽しい夢。それがべあべあ日暮ら市。だから、それだけは、人間に壊させてはならないの」
 女神は、夜の地上から舞い上がる無数の光球を見るよう促した。
「ほら、ごらんなさい」
 女神の指摘とともに、それまで見えなかったものが見えはじめた。すれちがう光球たちの内部が、はっきりと観察できる。
 光球の中でうごめいているのは、自由と野生を奪われた動物たちの呻吟(しんぎん)する姿だった。
 私は言葉を失い、めまいがする想いだった。地上に湧いて次々と天空へ駆けのぼる光球のひとつひとつが、不遇な境遇にある動物たちの、せつない夢と願望のかたまりなのだ。
 鞭うたれ、檻やカゴや柵の中に押しこめられ、あるいは住みかを奪われて射殺され、捨てられた動物たちの想念だ。
 あらゆる人為によって虐げられ、本来の明るさと力強さを失った痛ましい鳥獣の姿が、すべての光球の中にあった。
 その中で嘆き苦しむ動物たちは、動物園で見ることのできるあらゆる鳥獣から、誰もが飼っている家畜や禽獣にまでおよんでいた。
 動物たちの魂が放つ切実な希求が、彼らが眠りについた今、輝ける〈おっかさんバオバブ〉めがけて昇天してゆくのだ。
 救いがたい後悔と悲哀にうなだれていた私は、静かに顔を上げた。無数の悲しい動物たちの魂と、彼らを待ち受けて輝く母なるバオバブをあおぐ。
「どうか最後に、もうひとつだけ教えてください」
 胸に渦巻く言いつくせぬ想いのまま、たずねる。
「宮沢賢治さんは、なぜこの世界にいられるんです。どうして私を選んだんですか」
 それへの答えは、意外なものだった。
「あなたは、まだ生きているもの。ケンジ先生は、そうではないでしょう。選ばれた理由は、この世界のことを伝えて欲しいから。ケンジ先生が菜食主義だったのはご存知ね。ひとりでも多くの人間が、殺生の怨みを免れて欲しいから。ここが、人間にとっても、いつか天国となるように」
 黄金の光に包まれた〈おっかさんバオバブ〉が、深い哀しみとともに別離を告げた。
「ああもう、宴会を開くことはできないわ。せめて小次郎たちと別れの挨拶ぐらいは、させてあげたかったけれど。さあ、元の世界へおかえり……」
 その言葉が終わると同時に、体の前に目に見えないガラスのようなバリアが突然に現れた。
(なんだ?)
 不可視の障壁は、ヤドカリの背中の上を一枚の壁となって横ぎり、小次郎たちと私との間を、はっきりと分断した。
 私の足もとからヤドカリの巨大な背中がすりぬけていった。懸命に足をばたつかせたがかなわなかった。ヤドカリのとてつもない体と巨大な殻だけが、私だけを残して何ごともなく通りぬけていく。
 バリアにはばまれ、空中に取り残されてしまったのだ。絶望的な墜落の恐怖にとらわれ、悲鳴を上げた。なにしろ足の下には、体をささえるものが何も無いのだ。
「ま、まってくれ。こ、小次郎!」
〈おっかさんバオバブ〉を背にして進む大ヤドカリは、たちまち青白い流星となって、目指す上空の一点に向かい、小さくなってゆく。
 ふりかえれば、動物たちを生かし続ける慈母のように情けぶかい存在もまた、まぶしい恒星とともに、急速に色あせ遠ざかってゆく。
 必死に空中でもがくうちに、私は見えないバリアが、見えない鉄格子型になっているのを知った。目には見えないが、確かにつかめる手ごたえがある。
 冷たい夜の虚空に、透明な鉄格子に両手でしがみつき、抱きつくようにしながら、かろうじて宙づりになる。その感触は氷柱のようで、つかむ両手はたちまち凍えた。
 私はまるで檻に入れられた動物のように、遠ざかる青いヤドカリの姿を求めて泣きわめいた。
「待ってくれっ。俺を置いていかないでくれ!」
 耳元を夜空の冷たい風が、びょおびょおと鳴って通りすぎた。すぐに手の感覚がなくなり、体が急速に冷えてゆく。
 ヤドカリから切り離されたとたん、現実世界の冷たさと暗さが、鮫の歯のように食い込んでくる。
 何よりも、ベあべあ日暮ら市から、いきなりはじき出されたショックは大きかった。寒さはますます体温を奪い、恐怖と衝撃と悲嘆のうちに意識がだんだん遠くなってゆく。
「ううっ。もうだめだ。小次郎……、賢治先生……」
 ついに目に見えない鉄格子から、凍って麻痺した手がはなれた。
 そのぞっとする感触を最後に、私はまっさかさまに、地上めがけて墜落していった……。

 気がつくと、そぼふる雨の中だった。
 雨にうたれながら、黒い鉄の柵につかまってひざまずき、気を失っていた。ひどく冷たい雨だった。
「ここは……」
 頭がぐしょぬれだった。雨水を吸ったズボンの膝を起こし、呆然としながら周囲を見渡す。
 そこは、ベあべあ日暮ら市でも、夜の異国の上空でもなかった。私の知っている日本の昼間、しかも雨の景色だった。
 しばらく何が起こったのかわからず、ぼんやりしていたが、顔をぬらす雨の冷たさに意識がはっきりしてくる。
 自分のいる場所がどこか、確かめようとあたりを見上げた。
 頭上に、何かのアーチがかかげられている。そこには「御玉(おたま)動物園」という看板文字が虹の形にならんでいる。
(おたま、動物園?)
 私はぬれた頭をふって、目を疑った。なんと、今いる場所は、私が池袋から乗った鉄道の終点だった。都内でも有数の動物園の門だ。開園前の時間帯らしく、背の高い門の金属柵がぴったりと閉じられている。頭の中が混乱して、その場に座りこみそうになる。
 私はいつの間にか、終点までやってきて、動物園の門柵につかまったまま意識を失っていたのだ。
 年配の守衛がすぐにやってきた。挙動不審の人物と思われたらしく、あれこれ問いただされ、閉口する破目になった。だが、相手を納得させられるような話は何もできなかった。
 守衛の話によると、終点の改札から降りてふらふらと門にたどりつき、そのままめそめそ泣きながら崩折れてしまったのだという。四〜五分もそうしていたので、気になって見張っていたらしい。
 私は自分が作家であることを告げ、ちょっと小説の取材に来て、とてもつらいことを思い出してしまったのだと苦しい言い訳をした。ぬれたのを気の毒がってタオルを貸してくれた守衛は、最後まで不審そうだった。
 やむをえず、出版社に確認してもいいと念をおし、名刺を渡してようやく解放された。作家というのは本当に変わりものだね、と頑固そうな守衛が、あきれ顔で嘆息するのを後に、私は駅に向かった。
 頭の半分が、「ベあべあ日暮ら市」に置き去りにされたようで、まだぼおっとして、現実感がもどってこなかった。
 自動券売機の前に立ち、ぬれたシャツの胸ポケットから、小銭入れをとりだそうとする。
 思いがけないものがぱさりと落ちた。拾いあげると、みおぼえのある四つ折りのホウの葉だった。三枚重ねてある。
(これは、小次郎の詩の本……。すると)
 私は、自分のシャツのボタンを調べた。やはり一つなくなっている。あの奇妙だが夢のように楽しい世界、ベあべあ日暮ら市は本当にあったのだ。
 うれしいような泣きたいような気持ちで、慎重にホウの葉を開く。手の震えをおさえることができない。
 そこには、大きな葉いっぱいに、ミミズがのたくったような下手くそな墨文字で、全ページにわたって、こう書かれてあった。
「春はけだもの。もこもこなるままに、日幕ら市べあべあに過ごせば、鼻よりいずる泡沫(うたかた)は、かつ消えかつむすびて、お嬢さん必殺のことわざをあぶりだす。土破れてフキノトウあり。またおいしからずや。いとをかし。うふうふう軒こじろう」

    (『ベあべあ日暮ら市』おわり)