しょーじ  考えていること etc.…
                                                       本当は万般あんまり考えていないことに最近気づいている。

                                              2008.4.20 更新

                                                      当ページ表中の(世相)のところはshochandas様のホームページ《
                                                           私の備忘録 「日本・世界の出来事」》から拝借させていただきました。

※この時計の時刻は、閲覧しているパソコンのものであり、必ずしも正確な時間とは限りません
戦争は?
交通事故は?
自殺は?
殺人は?
少年の殺人は?
少年の自殺は?

2008. 4.20 「読みの障害」を克服された養護学校教諭 神山忠氏の言葉

2004.11. 3 日本人香田さんの死

2004. 9. 8
 劣等生だった私の太陽

2004. 9. 8 学校のホームページののっぺらぼうの写真

2004. 9. 4 戦争平和   






















                        
                          

                           
2004年 9月4日

                               
戦争と平和


     戦争と平和、永遠の課題なのか?何で殺し合うのか?今日もロシアのテロ、320人以上死亡。
   その内150人以上もの幼い子ども達の死、復讐のテロ。
同じ肉親の死に苦しみ悲しんだ者たちの犯行
     悪の、死の連鎖。嘆息 嘆息 あーー嘆息。何で殺し合うのか?!

   
宗教  この大いなるもの 宗 教 。石油の利権があるという。宗教だけではないのだろう。欲望には違いない。  

    もしかしたら、宗教があるから殺戮の、死の連鎖が起きるのか。即ち、天国、極楽、
あの世があると思うから、
   あの世での名誉があると思うから、死後、その死を称えてくれるから命を絶ってしまうのか。
   あの世も何もなければあんなに簡単に命を捨て、殺戮できるだろうか。
    
    人間であろうとすればするほど、ヒトであればあるほど、誇りを持って生きようとすればするほど戦争に、
   死につながってしまう…、大矛盾。

    ヒトは牛や豚を食い、ニワトリ、ヒツジ、魚、いっぱい食べてきたなー。
問題はヒト同士の殺し合いだけ?
   生きることは、人生というものは本当は罰ゲームなのかもしれない。本当に苦しいことが満載だもの。

    人間である限り戦争はなくならないのかもしれない。
  
   
戦争のない平和な世界を実現する方法は? 日本はアメリカのお陰?で戦争をしないで60年有余。
  しかしながら世界では
紛争、戦争が連続して起きている

   1,259gの私の脳では限界がある。平和実現の方法? 近いうちに考えることにいたしましょう。

                        
(Yahoo検索の結果)  第一次世界大戦の死者   700万人〜1,000万人
                                                第二次世界大戦の死者 3,000万人〜5,000万人   
ほーーしたい!!







                                                                                                

























                                           



                                            2004年 9月8日





                      
学校のホームページのっぺらぼうの写真



    学校のホームページについての記事が目についた。いつも思っているわけではないが、不快に思っていた。
   学校のホームページの画像を見てみた。明るい生き生きとした表情の画像を載せている学校もある。
      しかし、記事にあるように 
後姿のものばかり‥や顔をのっぺらぼうのように塗りつぶしてある学校もある。
   それなら、遠景や遠くから写したものの方が雰囲気が伝わって快い。

     プライバシーや犯罪と結びつかないような配慮ではあるのだろうが、不快極まりない。
   家の息子は養護学校に通っているが、そんな写真を見ると、
誰のための学校??と思ってしまう。

     息子は知的障害者だが、
人様に顔を隠さなければ生きてゆけない存在なのだろうか。
   顔を隠して欲しい保護者はいるのでしょう。そんな人は子女の顔だけ塗りつぶしてもらったらいいでしょう。

     こういうのを「御為ごかし」というのでしょう。
   「事勿れ主義」は昔も今もおんなじかー…と思う私は間違っているのでしょうか?

       

  先生方、いつもお疲れ様です。ありがとうございます  これも偽らざる 心からの言葉なのです。両価性と言いましたっけ。悪しからず…



                                                              


























                            
2004年 9月8日

                          劣等生だった私の太陽


    私は立派な劣等生でした。高校時代は灰色でした。毎日が針の莚、屈辱の日々でした。
  成績の悪い者の価値はないと思いました。勉強しない→成績が悪い→劣等感→勉強しない→
    成績が悪い→… … …の悪循環。成績の悪い者は救われないと思っていました。

  実際は、実社会はそうではないと思いつつも本当に成績は重い重い
足枷でした。
    ところが、この方の存在を知って
心が非常に軽くなりました。素質や能力が大きく大きく違うのはわかっています。
  しかしながら、そう感じたのでした。
                     
    その方の半生記です。
 2008年(平成20年)4月、この方は熊本県知事になられました。

                                   

                            『日本経済新聞 2001年 2月19日〜23日 夕刊』 より       

第一回                
■日本では大学受験の選択肢なかった
人間の可能性 学力だけでは測れず
大学で一番開花する形の教育制度がベスト

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第四回
第五回
●大学受験シーズン真っ盛りである。二十五日からは国公立大学の前期試験もはじまる。赤貧洗うがごとき中で熊本の高校を卒業し、地元の農協に勤務したあと渡米、米国で大学教育を受けて、現在、東京大学教授を務める蒲島郁夫氏(54)。その半生を知ると、大学受験などいかに、ちっぼけなものかがよく分かる。

 日本で大学受験を一度もやったことがないんですね。少なくとも大学を受けるほどの学力がなかった。高校時代は大変な落ちこぼれでしたし、経済的にも、そもそも大学受験という選択肢がなかった。
 日本社会の問題点は、敗者復活を許さないところでしょうね。大学受験でも、小さい時から、塾、塾、でやってくるグループがある一方、早い段階で落ちこぼれ、受験レースに加わらないグループも相当いる。その中にも優秀な人はいるわけですね。必ずしも大学受験がすべて優秀な人材をリクルートするシステムとはいえないでしよう。
 年をとると分かってきますが、人問の可能性や能力は多方面・多次元で、人柄やほかの能力も大事だし、学力一本やりでは測れません。高度成長期にはたぶん学力評価は役に立ったのでしょう。与えられた問題に関し、明快に短期間に答える効率的な人間かどうかは分かりますから。
 でも、今求められている創造的な人材の育成と入試制度がマッチしているとは言いがたいですね。人の能力を測る尺度が複雑なため、大学の方も学力で一点でも多い方が勝ちとした方が批判がないわけです。日本はやすきに流れているということでしょうね。


日本社会の問題点は,敗者復活を許さないところ

●ネブラスカ大の農学部でブタの精子を研究し、そのあとハーバード大の大学院で政治学を学んで博士号を取得した。筑波大の講師として帰国し同大教授から、純粋培養が多い東大法学部で異色の教授となる。日本の大学教育は未来を拓(ひら)けるのだろうか。

 これからは夢があるのではないですか。大学はたくさんあって、余り小さいときから入試に気を配らなくても、必ずどこかに行けるようになる。学生が大学を選ぶ時代になる。新しい入試や大学のあり方を考える時代が、もうそこまで来ているのでしょう。
 でも、親の考え方が昔のままだと、せっかくのチャンスをいかしきれない。一回勤めたら会社が最後まで面倒を見てくれ、それは学歴で決まるという時代はもう終わったんです。何らかの才能、創造性で勝負していく時代ですね。
 問題はやる気です。大学に入るまでに活力が枯渇している状況が最悪で、大学で一番開花する形の教育制度がいいと思います。大学はもう自由に行けるのだから、高校まではやりたいことをやり、これをやりたいといった何かをつかんだあとで大学へ行く。
 それで聞違ってもいいのですよ。自分の経験からいうと、最初は農学部に入り繁殖生理学を勉強していたわけで、政治学の"せ"もやったことがなかった。大学院に行くとなって自分で勉強したいのは何かと考えて、それが政治学だった。自分が最もやりたいことだからすべてが輝くようで、必死でやりますよね。
 だいたい、高校までにやりたいことが分かるはずがないんですよ。僕は二十四歳で大学に入り、卒業するときに本当にやりたいことがわかって方向転換したんです。若い人には失敗や方向転換も恐れるなと言いたいですね。

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第二回
■白いご飯を食べたことのない貧乏生活
小学校の通知表で「5」は1度だけ
高校時代は小説家や牧畜家になりたかった

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第五回
●1947年1月、熊本県北部の鹿本(かもと)郡稲田村で、旧満州(中国東北部)から引き揚げた父・益太氏、母・よし子さんの八番目の子どもとして生まれる。下に妹が2人。17歳のときに父親は亡くなる。

 父は、満州国で警察庁長官にあたる警務総局長をつとめた星子敏雄さん(のちに熊本市長)の友だちで、その縁で満州に渡り、かなりいい生活をしていたようです。戦争が終わって、1人が亡くなったので上の6人の子どもを連れて、一文なしで帰国してきたわけです。定職がなく農業も二反半の借地で、想像を絶する貧乏生活だったですね。
 白いご飯は食べたことがなかった。麦飯にサツマイモや大根が入っている。大根が入っているのが一番おいしくなかった。二番目においしくなかったのが、おじやです。女房が正月に七草がゆをつくるんですが、昔を思い出して嫌ですね。
 小学生のころ普通の運動靴は買ってもらえなかった。代わりにゴムの靴をはくんですけど、当時五十円ぐらいかな、これがすぐ破れるんです。思い出すのは、弁当もご飯に粟(あわ)が入っていて、黄色く見えるんで、友達からたまご弁当だと言われたことですね。当時、もうだれも粟なんて食べてませんからね。
 小学校6年間、通知表で5は一度だけです。6年生の最後の学期に国語でもらったんです。図書館の本をほぼ全部読んだので、ご褒美だったんでしょう。遅くまで学校に残って読んでいました。本を通し、知らない世界を見て、夢を持つのが好きでした。


鹿本高校2年のころ

●小学校から中学校に進み、新聞部に所属、部の活動には熱心だったが、受験勉強などほとんどせず県立鹿本高校に入学する。ここでもまた、勉強とは縁遠い生活が続く。

 大変だったのは小学2年から高校3年まで続けた新聞配達ですね。風の日も雨の日も雪の日も、午前5時半から6時には起きる、兄弟数人で一緒にやるんです。兄がいたころは、兄が自転車で遠くの販売店まで行ってまとめて取ってくるんです。それを家で分けて近所は自分が配達する。しぶとさを植え付けられましたね。11年間、1日も休まなかった。病気はしないんです。よく学校に遅刻して先生に怒られました。
 高校では就職クラスが2つ、進学クラスが4つあって、進学クラスの中では1組がトップで、僕は4組でした。卒業のときの成績は220人中で、200番台だったと思います。 なにしろ学校に行かないんです。あと3日学校に行かなければ卒業できなかった。登校拒否じゃあないんだけど、学校に行かず、阿蘇山の噴煙が見える丘に登ったり、麦畑に入って1日中、寝てるか、本を読むか、空想にふけるわけです。空想の第一は小説家になりたい、第二は阿蘇山のふもとで牛を飼いたい、第三は政治家になりたい、ということですね。
 卒業式にも出ませんでした。当時の先生は偉かったと思います。卒業式のあと親が先生に呼ばれて、この子は注意して育てないと将来どうなるか分からない、と怒られたそうです。そういう状況ですから、大学入試など想像もできない世界です。しかし、それはそれで私の人生にとっては良かったかもしれない。少なくともずっと夢があったわけですからね。

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第三回
■20歳の時、農業青年の米国研修に応募
米ネブラスカ大で学問の楽しさに目覚める
猛勉強で特待生、農業経済学修士の学位も取得

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●1965年、熊本県立鹿本(かもと)高校を卒業したあと、地元の稲田村農協に就職する。そこで人生の転機が訪れる。

 農協では肥料の配達、プロパンガスの配達、一般の事務などいろんなことをやりました。2年して20歳のとき、どうも農協には向いていないと思い、そこでどうするかとなった。高校のころに空想していた牧場を持ちたいという夢がまたわいてきました。当時、米国に農業青年を送り研修させるという制度があって、それに応募したんです。
 全国で200人の枠があり、試験に合格して農協を辞め、米国に渡ったのが68年、21歳のときです。研修生という名目ですが、米国から見ると安い賃金で使える労働者ですね。ワシントン州で語学研修をしたのち、肉牛と羊を数百頭飼っているアイダホ州の農場で働き出したのですが、本当に大変で農業も向いていないと思いはじめました。
 研修プログラムの一環としてネブラスカ大で3カ月問の学科研修があり畜産学を教えてくれるんです。これがすこく面白い。それまで農奴のようにやっていたから、勉強することが天国みたいなんですよ。学問とは何と簡単で、楽しいかと思いました。本当に苦しいのは肉体労働ですね。
 それで、とても大学に行きたくなったんです。アイダホに戻り、70年7月に帰国するのですが、ネブラスカ大の研修の担当者に大学に帰ってきたいと言ったところ、次の年の研修生の通訳として雇ってくれる、というんですね。


肉牛の授業の通訳(ネブラスカ大学時代)

●渡米するには旅費が必要になる。帰国後、名古屋の義兄のもとで半年間、牛乳配達をした。旅費を払って残ったのは50ドル。それを持って71年の冬に再度、渡米する。

 農業研修生の通訳を3カ月問つとめたあと、米国の大学入試の共通テストであるSATを受けました。英語もできませんし、成績も良くありませんでした。ところが、研修担当の先生の推薦がきいて様子見入学でネブラスカ大の農学部に人りました。71年9月、24歳のときです。
 当時、熊本県庁に勤めていた婚約者も、今の女房ですが、呼ばなければならないし、いい成績をあげ奨学金ももらわないとやっていけないので、ものすごく勉強しました。アルバイト以外は文字通り、寝てもさめても、あれほど勉強したことはありません。
 その結果、1学期の成績がオールAで、授業料免除となり、いくつかの奨学金がきて、学部で特待生になったんです。自信がついたので翌72年の4月、米国で結婚式を挙げました。
 指導教官は繁殖生理学で有名なD・ジーママンという人です。学部時代に彼と共同研究したブタの精液の保存法についての研究は学会でも発表されました。学部を3年で卒業し、大学院の修土課程に1年間いました。政治学をやりたくて途中でハーバード大の博士課程に移ったのですが、ブタの人工授精の経済的効果についての修土論文を書いて、農業経済学修土も取りました。
 ブタの精子の行動と、現在研究している選挙に関係はありませんが、選ばれるパターンは似ています。無数の精子が卵子に向かって進んでいき、神秘的な化学反応でその中のひとつだけ選ばれて卵子に入っていくのです。ただ、精子の選ばれかたの方が純粋で、1番優秀なものが選ばれる。そうでなければ種の保存はできません。選挙はカネとか世襲とかありますからね。

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第四回
■ハーバード大へ入学、政治学と出合う
帰国後、私大での講師就任が否決される
筑波大教授の時に東大から「予想外」の誘い

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●ブタの精子の研究から政治学に方向転換するきっかけとなった米ハーバード大の大学院博士課程への入学は1975年、28歳のときだった。政治経済学のコースで、合格者はわずか4人の狭き門だった。

 ハーバード大の大胆な学生の採り方はすこい。1度も政治学を学んだことがなく、外国人で貧乏で、子どもを2人も連れたような人間を奨学金つきでよく採った。あれが学者となる人生の転機でした。
 しかし、本当に大変でした。政治学など何も知らないのですからね。分厚い本は読まなければならないし、それもむずかしいことが書いてあるし、ひたすら勉強しました。
 奨学金は授業料と自分の分の生活費は面倒を見てくれますが、家族の分は稼がなければならない。女房はベビーシッターをして生活を支えてくれました。住んでいたボストンは観光客が多く、ガイドのアルバイトなどもしました。
 経済人ではユニ・チャームの高原慶一朗社長のガイドをしたこともあります。終えたあと、日本食の店に行って寿司(すし)を食べたんですけど、めったにないことだから、おいしい、おいしいとほおばっていると、高原さんから、日本のはもっとおいしいですよ、と言われました。


娘たちと(ハーバード時代)

●博士課程を修了するのには6年ぐらいかかるのが普通だが、3年9力月と短期問だった。

 別に優秀だったわけではなく、早く終わらないと食べていけなかったんです。博士論文を書くためには資格試験があって、1番残酷なのは、それに通らずに学期の途中に大学院から出されることですね。大学院ではできる学生は、とても大事にするけど、できないとそれは冷淡です。
 いい先生に会えたことが大きいですね。最初にとった政治学のコースがヴァーバという有名な政治学者で、参加と民主主義をテーマとするものです。『文明の衝突』で有名なハンチントン教授にはセミナーで発表した論文をぜひ出版しなさいと言われ、政治学者として生きる勇気を与えてもらいました。
 ライシャワー先生(元駐日大使)にもお世話になりました。2年終わったところで奨学金が出なくなる話をしたら、ハーバードの研究所に話をつけ、そのあと2年間、カネの心配なく勉強できるようにしてくれました。
 旅費を安くあげるため、半年前に日本に帰る切符を買って、それを捨てないで済むよう頑張った。博士論文を図書館におさめたのは帰国の前の日で、ギリギリでした。
 そのとき、やさしいなと思ったのは、研究所の事務局長が、米国まで来て頑張ったのだから帰りにハワイに寄っていけ、とおカネをくれるわけですよ。3番目の子どもができたときも、学部から大変だろうからと奨学金を700ドルくれました。そうした弾力的なおカネの使い方はすばらしいと思います。ハーバードにはとても感謝しています。


恩師ヴァーバ教授と(京都)

●帰国したのは79年、32歳のときだった。ある私立大学の講師としての採用が教授会で否決された。

 拒否された理由はいろいろあったのだろうけど、伝統的な大学からすると経歴が不可思議すぎたのでしょう。結局、80年9月、筑波大の講師に採用され、助教授、教授となり、筑波に一生住むつもりで家も建てたんです。
 96年秋に東大から政治過程論の講座を担当してほしいという話があった。自分でも想像もしなかったけど、多くの政治学者や世間もショックだったでしょう。東大法学部の教授といえば東大法学部の出身者が圧倒的ですからね。

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第五回
■学生の能力を引き出し、参加させるのが大事
ゼミ生には方法だけ教え、あとは任せる
状況が悪い時ほど将来には可能性

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第五回
●1997年4月から東大・法学部で政治過程論の教授として教壇に立った。ゼミの学生には研究室も開放して、蒲島ゼミの共同研究として、すでに2組の本を出版、この3月にも新刊を上梓(じょうし)する。

 自分の経験からも、基礎学力があるかないかなど関係ない。今はできなくても、これからやろうとする気持ちこそ大事なんです。学生の指導方針も能力を最大限に引き出すことにあり、それによって東大生として生きた証(あかし)を彼らに経験させたいと思っているわけです。
 僕は参加民主主義論者だから、エリートが指導すればいいというのではなく、人々は参加することにより、優れた資質を持つ市民になるという考え方に立っている。参加するのが大事なんです。
 まず第1期のゼミは、93年の自民党分裂の前後に登場し消えていった新党の研究をやることにして、1年以上かけて『「新党」全記録』(木鐸社刊)という全体で1200ページにのぼる3巻の本を出しました。2期生も、自民党一党体制のあとの政治変動の中で政治家がどう行動してきたかを分析した全2巻の『現代日本の政治家像』を出版しました。3期生は、変動期の有権者の投票行動を分析した『有権者の肖像』という本を3月に出します。
 大学のコンピューターは遅れているので、研究室のパソコンをゼミ生に使わせています。その間、私が図書館に行っていることもあります。彼らは徹夜でデータを入力し分析するなど、本当に優秀です。今の学生はやる気がないというけど、全然そうは思わない。
 4期生が今やっているのは『政治的コミュニケーションの研究』です。研究者が1人ではできない第1級のテーマを与えます。もちろん分析の方法は教えますが、あとはゼミ生がすべて計画して、僕は何もしないんです。


本郷キャンパスにて

●2000年5月に日本選挙学会の理事長に選ばれ、同8月には世界政治学会の副会長に選出された。


 1月末に南アフリカで世界政治学会の執行委員会が開かれ、2006年の世界政治学会を日本で開くことが決定しました。開催には1億円の資金が必要です。これから苦手なカネ集めの仕事もしなければなりません。
 これまでの人生を振り返ってみると、逆境のときほど、将来に可能性があると思います。逆に言うと、目標に到達してしまうと人生は面白くない。本当は最悪の状況が1番幸せなことかもしれない。企業のどん底でも、入試に落ちても、そこから上がっていく喜びがあるのだから、期待度の高さは最大です。
 もう1つは、人間の可能性は無限だということです。落ちこぼれだった高校時代や高校を卒業したころから考えると、ハーバード大に行ったとか、東大の教授になっているとか、想像を絶することですよね。何と言っても、人生は夢を持つことでしょうね。転身した時も夢があったから、それに向かって進めた。夢は小さいころの読書からはぐくまれました。知らない現実がそこにあるわけですから。
 本当に人生というのは、何が起こるか分からない。可能性を信じて夢を持って一生懸命やっていると、いつかどこかで救われる−−しみじみとそう思います。

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                             2004年 11月3日



                           日本人香田さんの死




香田さんが殺害されてしまった。日本に帰りたかった…香田さんが殺された。悲しい。悲しい。悔しい。悔しい。


  イラクの戦争はまだ終わらない。残酷無比な武力集団。宗教なら許されるのか。
罪の無い若者、女性等への容赦のない殺戮
何が宗教だ。決して許さないぞ。
  
イスラムだけが宗教ではないぞ。卑怯者達め。怒りが込み上げてくる。

   一部の過激な人達の行為であることを忘れてはならない。
勿論、イスラム教を否定、非難するものではないことは強調、銘記しなければなりません。


   性善説か、性悪説か、おそらく、どちらも本当なのでしょう。
一人の人間の中に善と悪と、悪魔と天使と、きっと、どちらも棲んでいます。


   いささか強引なアメリカ合衆国、イラクのフセインも強引だった。
自分が何も知らなかった事に気付かされる。なぜイラクのフセインが独裁者になりえたか、
なぜイスラムの人々はアメリカを敵視するのか、等々 本当には知らないことだらけじゃないか!


  知ることから始めるしかないなー。



  戦争で亡くなった人々を決して忘れてはなりません。
亡くなった家族を思い出す様に、戦争で亡くなった人々を思い出しましょう。






                                                                                                












































                                            2008年 4月20日  




             「読みの障害」を克服された養護(特別支援)学校教諭 神山 忠氏の言葉

                             http://home.wondernet.ne.jp/~aaanet/main/index.htmlより



                          努力では何ともならないこと、誰にでもありませんか?

                         でも、自分にしかできないことってありますよね。

            これで良いのではないでしょうか?

            もし、人の理想が完全自立であるなら、

            人が全員誰にも頼らずに生きていけたなら、

            人は人でなくなるのかも知れません。

            「お互い尊敬し合う」そんなこともなくなりますよね。

            そんな社会よりも、「もちつもたれつ」の社会。

            この方が人間らしい生き方だと思います。



            誰もが命を授かったと同時に、

            一人一人にさずかった素敵な物があります。

            その人にしかない、さずかった良さが絶対にあります。

            それを大切にしていけば良いのではないでしょうか。

            人に勝ち負けや優劣を付ける必要はない。

            みんなが輝いて助け合い、尊重し合って共に生きて行ければいい。

            だれもが存在価値を実感して生き甲斐を持って生きるために。






                                                                                                





































                 戦争





         戦争(1937年〜1945年)における日本人の死者朝鮮半島、台湾出身者を含む
              ↓↓↓↓↓
             
310万1千人
 


                                              1995年(平成7年1月1日)朝日新聞より 
 

樺太・千島・アリューシャン    24,000人
中部太平洋諸島   247,000人
蘭印・ニューギニア・ソロモンなど   343,000人
日本(沖縄、周辺海域を含む)   907,000人
朝鮮半島    54,000人
シベリア    53,000人
満州・モンゴル   247,000人
中国本土   466,000人
フィリピン   518,000人
仏印・マレー・タイ    33,000人
ビルマ・インド   167,000人
台湾    42,000人
         計 3,101,000人


                                             



    ■太平洋戦争中のアジア各国の戦争犠牲者数(中国を除いて期間は1941年〜1945年
              ↓↓↓↓↓
                     3,220万人

中国 21,000,000人
   1937年〜1945年 
     中国政府資料
 宮地正人東大教授調べ  
 12,215,000人
          「高校日本史B」            
 10,000,000人(1931年の満州事変から通算)
朝鮮半島  少なくとも
   350,000人〜360,000人
     韓国政府の推計     210,000人     200,000人
台湾     29,000人     日本軍に加わった
     軍人・軍属を含む
     33,000人
日本軍に加わった軍人・軍属を含む
香港        365人 ( 軍人 )
    10,000人 (民間人)さらに 60,000人 (飢餓で)
シンガポール  華僑40,000人〜50,000人 (虐殺)
  日本の陸軍省機密文書
には6,000人〜7,000人虐殺 
     80,000人
マレーシア  華僑40,000人〜50,000人
フィリピン  1,111,900人
  1,000,000人
タイ      7,928人
インドネシア  4,000,000人
  2,000,000人   2,000,000人
ベトナム  2,000,000人 (ほとんど餓死)
ラオス        公式数字なし
カンボジア        公式数字なし
ミャンマー     50,000人
     50,000人
インド  3,500,000人 強 (ほとんど餓死者)   3,500,000人強
  (ほとんど餓死者)
              32,199,193人







          ■アジア地域以外の主要国の第二次世界大戦の犠牲者数
              ↓↓↓↓↓
            30,39万5,678人


ソ連        16,115,000人                軍人 6,115,000人  民間人 10,000,000人
ドイツ         6,600,000人  軍人 3,250,000人  民間人  3,350,000人
ポーランド         5,550,000人  軍人   550,000人  民間人  5,000,000人
米国           545,108人  軍人   545,108人 
英連邦           592,767人  軍人   532,172人  民間人     60,595人
イタリア           559,803人  軍人   380,000人  民間人    179,803人
フランス           433,000人   軍人   245,000人  民間人    188,000人
  計         30,395,678人  軍人11,617,280人  民間人 18,778,398人







 ■太平洋戦争中(1941年12月8日〜1945年8月15日空襲や艦砲射撃で死亡した民間人の数
              ↓↓↓↓↓
             55万5,549人

広島 199,138人 鹿児島  3,719人 岐阜  1,377人 埼玉   713人 秋田    73人
沖縄  94,000人 三重  3,600人 愛媛  1,346人 宮崎   708人 奈良    68人
東京  92,778人 茨城  2,626人 宮城  1,317人 岩手   688人 長野    53人
長崎  75,215人 山口  2,568人 山梨  1,198人 高知   647人 滋賀    45人
大阪  12,620人 富山  2,361人 新潟  1,188人 栃木   602人 石川    35人
愛知  12,192人 和歌山  1,937人 群馬  1,178人 徳島   581人 山形    24人
兵庫  11,246人 岡山  1,782人 熊本  1,008人 大分   550人 島根    19人
神奈川    6,637人   千葉  1,782人 北海道    835人 京都   346人
静岡   6,473人 福井  1,758人 福島    783人 佐賀   225人
福岡   5,259人 香川  1,381人 青森    750人 鳥取   120人   計   555,549人






                                                                                               





































               交通事故



                       ■30日以内死者数              

                        
警察庁交通局統計より  

       厚生統計 
 1993 平成 5   1万3269人    1万4168人
 1994     6   1万2768人   1万3712人
 1995     7   1万2670人   1万4840人
 1996     8   1万1674人   1万4343人
 1997     9   1万1254人   1万3981人
 1998    10   1万 805人   1万3464人
 1999    11   1万 372人   1万3111人
 2000    12   1万 403人   1万2857人
 2001    13   1万  60人   1万2378人
 2002    14      9575人   1万1743人
 2003    15      8877人   1万 913人
 2004    16      8492人   1万 551人
 2005    17      7931人     1万  28人 
 2006    18          7272人      9048人
14年間の   合計  14万5422人  17万5137人

          厚生統計の交通事故死者数というのは陸上、水上および航空交通の事故を原死因とする死者数(事故後1年間)のこと。…ということのようです。


    少なくはなってきたようですが、14年で14万5422は多いのでしょうか、少ないのでしょうか?




                    14年間(平成5年〜18年)
                30日以内死者数
14万5422
           厚生統計14年間の死者数17万5137  





                                欧米諸外国の30日以内死者数H16.3.25現在の警察庁交通局統計より

       人口 
 イギリス     3,581人        5941万人    16,590人に 1人 
 日本   8,877人   1億2761万人  14,375人に 1人
 ドイツ   6,842人      8260万人  12,072人に 1人
 イタリア   6,410人      5867万人   9,153人に 1人
 フランス   7,655人      6070万人   7,929人に 1人
 アメリカ  42,815人   2億9034万人   6,781人に 1人
 六ヶ国の合計  76,180人


 さすがイギリスは紳士の国 か。 日本はしっかり やっておられる… が、
目標 5,000人 …ってー、やっぱ 殺すのかー ‥って  (警察庁は、そうは絶対に言ってませんよー!念のため

1年間で、 6カ国だけで、 7万6,180人は 少ない‥ 訳 ないじゃないかー。
世界には国が191もあるんだからね。



                                                                                                












































                          自殺(自裁)




    1978年(昭和53年)から 2006年(平成18年)までの29年間の自殺者数 
              ↓↓↓↓↓
             74万5076  



例えば、1学年400人、全校1,200人の中学校(高校)生徒が621校 消滅するほどの数です。驚きです。


                                ■警察庁生活安全局統計より
                             

 1978   S 53   20,788人  イギリスで試験管ベビー誕生  
 1979    54  21,503人 日本語ワープロ新発売
 1980    55  21,048人 省エネルック
 1981    56  20,434人 FOCUS創刊
 1982    57  21,228人 東北・上越新幹線開業
 1983    58  25,202人 戸塚ヨットスクール事件
 1984    59  24,596人 コアラ、多摩動物園で初公開
 1985    60  23,599人 NTTとJT発足
 1986    61  25,524人 宅配ピザ屋登場
 1987    62  24,460人 バブル経済始まる
 1988    63  23,742人 東京ドーム落成
 1989  H  1  22,436人 ベルリンの壁崩壊
 1990     2  21,346人 ヒトゲノムプロジェクト開始
 1991     3  21,084人 雲仙普賢岳噴火
  1992     4  22,104人 育児休業法施行
  1993     5  21,851人 東北地方大冷害による米不足
 1994     6  21,679人 日本女性(向井千秋)初宇宙飛行
 1995     7  22,445人 プリクラ登場
 1996     8  23,104人 使い捨てカメラ「写ルンです」発売
 1997     9  24,391人 消費税5%
 1998    10  32,863人 サッカーW杯フランス大会初出場
 1999    11  33,048人 東海村臨界事故
 2000    12  31,957人 三宅島火山噴火
 2001    13  31,042人 狂牛病
 2002    14  32,143人 欧州通貨統一
 2003    15  34,427人 ヒトゲノム解読完了 遺伝子32,615
 2004    16  32,325人 スマトラ沖地震 12.26
 2005    17  32,552人 自民党歴史的大勝利
 2006    18  32,155人 トリノ冬季五輪で荒川静香が金
  合計 745,076人


 まるで計画でもあったかのような数字である。大いなる神の采配なのか、死の番人の所業なのか。
懸命に生きられたが故の結着であったかもしれない。
私はあなた方を弱者だとは思わない。 
あなた方の苦しみをどれほど理解できるでしょうか。
せめて、あなた方のご家族の幸せを切に願っております。   合掌。