G・F に
A Short Story

                       Fauret

 陸繋島の小さな山は遠くから見ると食事を終えた牛が草地に臥して休んでいる姿に見えることから臥牛山と呼ばれ、赤土色した屋根の家々はその山の麓まで軒をならべる。
 夕方ともなるとその頂きからの眺望は人をして恍惚にいたらしむ景勝の地であった。
 山の中腹の森を背に、緩やかな坂のうえに、ひとりの娘が住んでいた。
 娘はそのころ十六であった。
 坂下の学校に通い、生来の明るさは周りから好感を呼び、友達は多く、年ごろの恋愛や将来の悩みを黙って聞いてあげる、まさに愛すべき少女であった。娘の笑みはたえることがなく、快活な言動は娘を慕う人々の支えとなり、娘自身の悲しみに対する力でもあった。 だが娘にも悩みはある。ただ人に見せないだけであった。
                    *
「あのね、聞いてほしいことがあるの」
 愛すべき娘の顔からはいつもの笑顔が消えていた。
 そんな娘の顔を見たことがない友達は皆、冗談だと思ってしまい、逆に茶化されているという誤解を抱かせてしまうのであった。
 元来、悩みというものは他人に聞いてもらうことで減るはずなのに、耳を貸してばかりの娘には、だれも耳を傾けようとしなかった。
                             *
 悲しくなると娘はやってくる。臥牛山の頂きに。
 家にいるのは切なくて、人に涙を見られるのは恥ずかしくて、森のなかの道を駈けてゆく。麓は緩やかな道も、いただきに近づくにつれ険しさを増してゆく。
 悲しみの涙で乱れた息は道が急勾配になるにつれだんだんと整ってくる。小さい声で怒りながら歩いていたのが、しらぬまに、
「いちに、いちに」
 の掛け声に変っていた。
「いちに、いちに」
 そうなると娘の頬には涙はなく、瞳を濡らしていた涙も森の冷気に吸い取られてしまっていた。
 どれくらい歩いただろう。やがて土の道が木の根の段になる。
「いっちに、いっちに」
 森は山の中腹で終わる。そこからは石の階段になる。娘の目にも木々のさきっちょが見えてくる。幾度も歩く道、娘はいま、自分がどこを歩いているのか知っていた。けれど娘はうしろを振り向かなかった。歩くのをよしてしまうと、その場で泣き崩れてしまうからであった。娘はうえをも見なかった。いただきはまだ先にある。石の階段の、そこから先こそがいちばん辛い道なのであった。
 石の階段を登り始めると森のなかの冷たさは失せて暖かい風が頬を掠める。すると、また娘の瞳にうっすらと涙が浮かんできた。暖かい風では娘の熱い涙を乾かせないのであった。娘は溜息混じりの声になる。が、急な石段がそれを許さない。立ち止まれば涙はとめどなく流れてしまう。娘は足を止めるわけにもゆかず、ただひたすらに登っていくのであった。
 道は大きな石の段で終わった。
「よいしょ」
 といって、
「頂上だ」
 娘は最後の石段を踏み越えると足を揃えて直立する。そしてホウッと一息つくのであった。あと数歩のところに、いつも娘が腰かける石が見えた。娘は駈けたい気持ちを抑え一歩づつ歩いていった。
「着いた」
 見おろすと夕暮れの街には白い灯りが散らばっているのが見えた。東の空の彼方、海に沈みゆく太陽が真赤に燃えていた。
 娘は泥で汚れた赤い靴を脱ぎ揃え、石のうえに寝そべった。見あげると、群青の空のなかに白く輝く星を見つけた。
「一番星かな」
 空に輝いているのはその星だけであった。
 風は暖かく優しく頬を撫でる。娘はもういちどホウッと深呼吸すると目をつぶった。閉じた目を開けるものはもうなにもない。とうとう娘は眠ってしまった。
 汽車の汽笛、船の警笛、鳥たちのさえずり、ぶーんと聞こえる街の音。それらの音に娘は子守歌のような安らかさを覚えるのであった。
                        *
 そのとき娘は夢を見た。
 ひとりの老人が現れて娘に声をかけた。
「こら、娘、そこの娘」
「はい」
 娘は答えた。
「おい、娘、返事をしなさい」
 娘は答えているのだが老人には聞こえていないのか、
「はい、なんですか」
 老人は娘の傍らにきた。盲ているのか目をつぶり、長く白い髭を生やし白い衣服をまとっている。
「おい、こら、娘。そこの娘じゃよ。わしのいうのが聞こえないのか」
 老人は怒ってしまった。
「聞こえています。さきほどから聞こえております」
 すると老人は顔をしかめ長い袖から両の手を出して娘の顔に触れた。娘の髪毛に触ると、「うむ」
 と頷き、
「ここだな」
 という。
 指で軽く叩くように目尻をたどり、口唇の端に触れると辺りを撫で始めた。
「なんだ、おまえ、口を持っておるじゃないか。さっきからわしが呼んでいるのに聞こえないふりをしたな」
 老人は今度は娘の目蓋に手を当てた。
「おおっ」
 というと、
「目もあるではないか」
 ふたたび、
「おおっ」
 というと、老人は娘の耳を摘んでいた。
「口もある。目もある。耳もある。こらっ娘、わしの声が聞こえなかったとはいわせぬぞ」 娘は驚いてしまい、吃りながら、
「き、聞こえています。さきほどからずうっと聞こえております」
 というと、娘は急に悲しくなって、
「それなのに…」
 そういいながら娘は俯いてしまった。
「こらっ娘、わしを欺こうとしても無駄じゃぞ。欺ける術はおまえにはないはずじゃ」
 老人は高笑いした。そして踵を返した。
 娘は黙ってしまった。
「悲しいわ」
 娘は心のなかで呟いた。
 すると老人は振り向いて、
「いまなにかいったかな」
 娘は老人の声を気に留めず、
「悲しいわ」
 娘はまた心のなかで呟いた。やるせぬ思いに娘は頬を濡らす。
「おい娘、こらっ、そこの娘、いまなんていったのじゃ」
 娘は老人のほうを見ようとしなかった。
「もういいの」
 老人はいつの間にか娘のよこにいた。老人には、悲しいわ、もういいの、としか聞こえない。
 娘の心には思い出したくもないことが思い出されていた。
「……わたしはあの街に住んでいるのです。どうしてかわたしの父母は喧嘩が絶えません。おまえが悪い、いや、あなたが悪いというばかりで、わたしは居たたまれないのです。父には母の、母には父の悪い面ばかりが写るのでしょう。おたがいに嘲っては罵って、わたしのいるときはそんな姿を見せたくないのでしょう。なにもいわず、黙っているばかりです。わたしがいなくなるとまた始まるのです。わたしは部屋に入ってしまうのですが、聞こえてくるのです。おまえのせいだ、いや、あなたのせいよ、と。聞けばわたしのことで口論しているのです。おまえのような母親を持ってあの娘は可哀そうだ。いつぞやあの娘にだけはこんなところを見せたくないといって、どうしてあの可哀そうな娘を生んだのだといっているのです。わたしのせいでふたりが喧嘩しているのです。わたしにはどうしてよいのか判らないのです。わたしにはなにもできないのです。なにか仲良くなるための糸口を求めているのですが、判らないのです。わたしにはどうしてよいのか判らないのです」 娘は肩をポンポンと叩かれた気がした。顔をあげると老人が笑みを浮かべながらも、閉じた目から涙を流していた。娘は老人を幻だと思って語っていたのであった。
「おまえさんは落っこちたのじゃよ。わしは見ておった。おまえさんが石のうえで寝こんじまって寝返りうったんじゃな。わしは見ておったのじゃよ。真っ逆様に落っこちたんじゃ。ハッハッハッ」
 そういうと老人は笑い声をあげながら彼方に消えてしまった。
 山の背は断崖であった。娘は寝返りをうったために、砂浜までいっきに転がり落ちてしまっていたのである。
 おぼろげな意識のなかで娘は老人の顔を思い出そうとした。が、できなかった。ただ、娘には老人の口元が妙に印象に残っていた。
 ご機嫌よう、と老人がいったとき、老人の口は動いていなかった。そんな気がした。
「……ううん」
 娘は思い出す。
「……老人の口は初めから動いていなかったわ」
 老人が彼方へ消え去ってしまうと同時に娘の意識も次第に薄れていった。
                       *
 だれかが娘の名を呼んだ。
「Fauret」
 娘は目を覚ました。わずかに開いた目のまえには、ぼやけて見えるがまぎれもない母親の顔があった。うしろには父親が涙混じりの顔で娘を見つめていた。
「Fauret」
 母親の目から涙が一滴こぼれ落ちた。それは娘の瞳を濡らし、乾いた目蓋に滲んでいった。
 母親も父親もなにも語ろうとしない。ただ両の目に涙を溜めて手を合わせているだけであった。
 娘にはふたりの声はよく聞こえていた。
 娘はなにもいわなかった。重傷の体にはその力はなかった。
 娘は心の中で呟いた。
「もう泣かないで」
 すると、ふたりは小さくうなずいた。
「心配かけたね。ゴメンなさい」
 ふたりの声がそろって聞こえた。
 父親はひざまづき、娘の両足に顔を埋め、見つめている。
「わたしが悪かったのだね。おまえに心配をかけてしまったのだね」
 父親の声であった。
 母親はわが娘の手を握り、その手を額に当てている。
「かあさんが悪かったんだね。ゴメンしてね」
 優しい母親の声であった。
                       *
 やがて娘のからだは回復した。が、娘はもう二度と喋ろうとはしなかった。喋ろうとしたにせよ、娘には喋る力はなくなっていた。
 その代わりに、娘は幾編もの音楽を作った。子守歌の数々を。
 娘が作った音楽であることを知らず皆口ずさんでいる歌である。
 フルートとハープの音楽には感傷は微塵もなく、冷徹な調べの音符が配列されているにすぎない。
 だがそれは人々のあいだには喜びの歌として広まっていった。
 悲しみに娘の歌を歌えば眠れぬ夜も眠れるようになる。
 楽しみに歌えば、その楽しさは無量のものとなった。
 なによりも言葉を解さぬ幼な児たちが、娘の作った音楽で眠りにつくのは当然といえば当然なのかもしれない。

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