| E・H に |
| A Short Story |
| 日の出しところに 日は出で日は入り またその出しところに… 伝道之書 たとえばアーネスト・ヒギンスがいた。 「意味のないものだとすれば、まったくすべては意味がないのだ」 左手で頬を掻きながら、かれはいった。 「そんなことはないわ」 テーブルをはさんでかれの妻メアリ・ヒギンスが座っていた。彼女は朝刊を読み終えて、眼鏡をケースに入ながら、 「なげやりね」 といった。 かれは掻くのをやめると、ポカンと口をあけ、妻に微笑み、 「そんなものだよ」 といった。 彼女の表情は変わらなかった。 「コーヒーでも飲む?」 といって、彼女は眼鏡ケースごとテーブルに置いた。 「もらおうか」 かれはいった。 「トムに会えるのね」 彼女の頭のなかはそのことでいっぱいであった。 「疲れるためにいくようなものだ」 「あなたの親友でしょう」 「昔のことだ。すべては変わったのだ」 「あなたは変わっていないわ」 彼女はそういうと立ち上がり、 「あの頃のままよ」 と夫に微笑みを返した。 「ミルクはいらないよ」 「判ってますよ」 そういいながら彼女は台所のほうに消えた。 快晴の空を見あげながら、しばらくはアルコールを控えてみよう。アーネスト・ヒギンスは思っていた。 プラザホテルの入口に続々とリムジンが入ってくる。リムジンが止まると散漫な光がキリッと一点に集中する。きらびやかな衣装を身にまとった夫婦が降りてくる。どの女達も終始にこやかな表情でホテルに入っていった。ディオールやジヴァンシーの服が場慣れした雰囲気をかもしだす。カメラマンのフラッシュが絶え間なくたかれた。その光景は花火さながらであった。 サロンはまばゆいばかりの光にあふれ、華やかな服がキラキラと輝いた。どこからともなく強い香水が鼻を掠めた。 パーティは4時に始まった。 「浮かれている」 アネストは顔をしかめていった。 「なにが嬉しいと言うのだ」 「始まったばかりよ」 かれの妻はアネストの口を手でふさいだ。 「だから嫌なのだ」 かれは妻の手をはらった。 「黙っていてね。お願い」 彼女は夫の肩を抱き、隅へ連れて行こうとした。 その時である。この日のパーティ主催者トーマス・ウドコックがヒギンス夫妻を呼び止めた。 「ミスターヒギンス」 その瞬間、メアリは夫から離れた。 「久し振りだ。トム、今日はおめでとう」 握手する二人のまわりに、たちまち人の輪ができあがった。 「本当に久しぶりだ。ありがとう。今夜は楽しくすごしてくれ」 ウドコックはヒギンズ夫妻にウィンクすると大きな声で続けた。 「パーティぎらいのヒギンス氏の出席です。それだけでも今日のパーティの意義は大きい。みなさんも楽しくすごしてください。よき思い出として」 トム・ウドコックが手を広げ、満面に笑みをたたえ、いきとどいた目配せも忘れず得意気にいうと、まわりの人たちは拍手でこたえた。 「ありがとう」 ウドコックはかれ最良の日に御満悦であった。 やとわれ楽団は15名。ウドコックが左手で合図をすると、アップテンポの演奏に変わった。 アネスト・ヒギンスは俯いていた。顔を上げればフラッシュの嵐。覚悟はしていたものの、 「やめてくれ」 というよりほかなかった。が、だれひとりやめる者はいなかった。 「あなた、どうしたの」 メアリはいった。 かれは答えず、姿勢も変えなかった。 「いつまでそこで突っ立っているつもりなの」 そういって彼女は夫の手を引いた。 アネストの体は一瞬、揺らいだが、かれもまたかたくなに引かれまいとする。そこは男の力、逆にメアリのほうが引き寄せられてしまい、アネストの肩に顔をぶつけた。 「痛いじゃない」 「わたしに構うからだ」 「退屈しているんじゃないかと思ったのよ」 「きみがどう思おうと勝手だが、言葉だけなら許そう。言葉でならば、なにをいっても構わない。だが、腕を組んだりはかんべんしてくれ」 「いったわね」 メアリは笑いとばした。 「ねえ、なに飲むの」 彼女の声は弾んでいた。三日まえに家を出たときから、いや、ウドコックからの報せを受けたときから声の調子は明らかに変わっていた。 「ブランデー」 「マティーニはどう」 「ブランデー」 「頑固者のおばかさん」 彼女はアネストの耳元でささやいた。 「マティーニをもらうわね」 「勝手にしなさい」 かれはメアリと反対方向の扉に向かった。そのとき、 「やあ、アネスト」 背後から声がかかった。しかしかれは振り向かなかった。 「アネスト」 声の主は駆け寄り、アネストのまえに出て、かれの行く手をさえぎると、 「アネスト、わたしだよ」 といった。 アネストはやっと顔を上げた。 「きみも来ていたのか、アネスト。久しぶりだ」 アネスト・ヒギンスの肩越しに、ヒギンズ夫人の姿を認めると、男は調子を変えて、急に小声で、 「あれはいつのことだったかな。きみがわたしの妻と、いや、まだ結婚するまえのことだが、わたしの妻と一緒に踊っていただろう。モンパルナスのロワゾウで。羨ましかった」といった。そこでメアリ・ヒギンスが近づいて来たのでもとの声にもどすと、 「きみはあのころから有名だったからな。アネスト、ちょっと待ってくれ。やあメアリ」 その男はメアリ・ヒギンスと握手した。 「元気かい。元気そうで安心したよ。ちょっと待ってくれ、家内を呼んでくるから。いいかいアネスト。ここにいておくれよ」 「すまないが失礼する」 アネストは無愛想にいった。 「なんだって、ちょっと待ってくれ。あいつどこへ行ってしまったんだ」 「すまないが、疲れているんだ。失礼するよ」 「あいつ、アネストが来ているというのに。アネスト、おいアネスト。待ってくれよ」 アネスト・ヒギンスは二度と振り向かなかった。 「すまない」 かれは片手を掲げ、人ゴミのなかへ消えていった。 「やあメアリ、元気そうだね」 男はしようがなしに彼女に声をかけた。 彼女は夫の背を見ながら、 「いつもああなの」 といった。 「悲しいわ」 「あいつときたら、いつも大事なときにいないんだからな。娘が熱をだしたときだってそうだ。いったいなにをやっているんだ。せっかくアネストに会えたっていうのに」 アネスト・ヒギンスが会場から出てきたとき、ボーイがかれの行く手を遮った。 「お客様、どちらへいらっしゃるのですか」 「部屋にもどってはいけないかね」 「それを持っていらっしゃるのですか」 ボーイはかれが持っているグラスを丁寧に指した。 「いけないかね」 「かまいませんが…」 ボーイは見覚えのある顔に驚いて、たじろいだ。 「ヒギンス氏でしたか」 「よくいわれる」 ボーイは屈めがちな背を伸ばすと、 「困ります」 といった。 「判った。置いて行けばよいのだな」 「そうでございます」 「ではすまないが、クルボアジェを部屋まで持ってきてくれないか」 「かしこまりました。ヒギンス氏」 かれはボーイにグラスを手渡した。 「部屋は40の…」 「承知しております」 ボーイはいった。 「上出来だ」 「ありがとうございます」 「きみじゃない。これからの過ごしかたがだ。なるべく早く頼む」 「かしこまりました」 ロビイは静かで淡い光に満ちていた。 レセプションカウンターの近く、子供づれの若い夫婦がアネスト・ヒギンスをみるや、こそこそ話をし始めた。若い夫婦は互いに微笑みあうと、子供に一言いって、その子の背中を軽く押した。子供はかれに近寄ると右手を差し出して握手を求めた。恥ずかしそうに体をくねらせ、舌で唇をなめながらかれに微笑んだ。 「わたしのようになってはいけないよ」 アネストは掌の半分にも満たない子供の手を握り、もう一方の手でその子の頭を撫でた。 フラッシュがいっせいに二人を襲った。 「ありがとうイギンスさん」 「どこにでもついてくる気かね」 写真を撮る男たちはアーネストのあとを付いてくる。かれは舌打ちし、 「坊や、おじさんの姓はイギンスではなくて、ヒギンスなんだよ」 といって、子供に作り笑いで応えた。 「ありがとう。イギンスさん」 アネストはエレヴェーターに向かっていた。 すれちがう人はかれに行く手をあけた。 かれがエレヴェーターを待っていると、ボーイがワゴンを押してきた。 「さっそく持ってまいりました」 扉が開くと、アネストはまた俯いた。 「どうぞお先に」 ボーイはいった。 「四十八階ですね」 「そうだ」 ボーイはボタンを押した。 「ひどくお疲れのようですね」 アネストは目をつぶっていた。 「あなたのお書きになったものはすべて読んでいます。かれこれ十数年になります。わたしも闘牛が好きでして。それから…」 ボーイはひとりで喋り続けた。 アネストは黙ったままであった。 「着きました」 扉が開くと、 「お先にどうぞ」 ボーイはいった。 アネストは部屋に入るまで口を開かなかった。 部屋に入ると、すぐさま服を脱ぎ始めた。 「いつまでいるきだね」 ズボンのポケットから小銭をとってボーイに放った。 「すまないが、そのままでいいから、さっさと出ていってくれないか」 「はい。御用がおありかと思いまして」 「判った、判った。早くドアを閉めて出ていってくれ」 「では御用のさいはホセとお呼びください」 ボーイはそういって出ていった。 アネストは静かな部屋の灯りをすべてつけた。 「明るすぎるのだ」 と、不満げに呟いて、ブランデーの栓をはずした。苛立たしさを抑えながらグラスに注ぎ、窓辺の椅子に腰をおろした。そして、ゆっくりと息を吸い、窓のそと、目のまえに広がる街を見下ろした。 眠りたくなるまで、ここにこうして座っていよう、とかれは思った。 都会はどうしても好きになれなかった。が、夜だけは別であった。だれもいないところから、夜の都会を眺める。しかも、たったひとりで。できればそこに風が吹いて、それも、ほんの少し温もりのある風が吹いてくれればよい。けれど、高層ホテルの窓はたいてい閉じたままである。開いたとしても、車の警笛音やサイレン、ときには銃声が聞こえてくるばかりである。音はいらない。 「そうだ。音はいらない」 かれは心のなかで呟いた。まわりは適度な明るさが保たれている。ここならば騒音に煩わされることもない。 グラスを持ったまま、ただぼんやりと窓のそとを見ていた。 グラスにたっぷりと三杯のブランデーを飲み干し、ほんのすこし酔いが感ぜられ、長旅の疲れも混じって、忘我の入口をうろついていた。そのとき、突然、大声とともにドアの開く音がし、ドタドタと足音が聞こえた。 「無礼なやつらだ。もう我慢ならぬ。意見してやる」 かれは立ちあがった。 「なんだ、ここにいたの」 きょとんと突っ立っているのはメアリであった。 「どうしたの」 彼女には夫の震える拳がわからず、ただ、ぼうっと立っていた。 「おまえか」 彼女はふらふらと歩きだし、上着のボタンをはずしながら、 「なに飲んでいるの」 といってテーブルのうえを見た。 「マティーニじゃないのね。それブランデーね。マティーニにしない、どうあなた。わたしもっと飲みたいの。ねえ、マティーニにしましょうよ。マティーニが欲しいわ」 メアリは夫がいままで座っていた椅子に腰をおろした。酔いのために頭が不規則に動いている。すると突然彼女は奇声をあげて、手で顔を覆った。「くやしいわ」 「くやしいわ。くやしいったらないわ。みんなでわたしを馬鹿にするのよ。くやしいわ」 その声は次第に涙声に変わった。 「そうよ、あなたがいけないんだわ。そうだわ。あなたがあまりに有名だから」 「そとにだれかいるのか」 「そんなこと、どうでもいいんじゃない」 「だれかいるんだな」 かれはドアに向かった。 「だれもいないわよ」 アネスト・ヒギンスは立ちどまり妻のほうへ振り返ると、 「だいぶ飲んだな」 といった。 「飲みました。ええ、飲みましたとも。飲まずにいられて。あなたはこの国の善き父親なんですって」 彼女は自嘲した。 「それに較べてかれの妻は。そうよ。わたしが下劣なんですって。くやしいわ」 彼女はすでに泥酔いの状態にあった。 「また始まった」 とかれはいった。アルコールが入ると、きまって被害妄想を起こす。 「いい加減におし」 「あなたのせいよ。あなたがいけないんだわ。あなた、わたしを哀れんでいるんでしょ。愚かな女だと。わたしもう死にたくないわ。これで何度目」 メアリ・ヒギンスは指を折りながらいった。 「これで四度目よ。もういや。もうわたし、二度と死にたくないの」 声はかすれていた。 「こんな暮らし、もういや」 といって溜息をつくと、 「死にたいわ」 彼女はいった。 両腕をだらんと垂らし、頭はその重さでまえに傾いた。粘り着いた口をうごかせ瞼を閉じた。彼女の頬に涙が光った。 かれは妻を愛している。それは昔と変わらない。ただ、かれの生活は人を近づけない。そのために彼女は酔うと憤りを抑えられなくなってしまい、酔うたびに必ずといってよいほど乱れた。かれは知っている。日々の生活が、彼女にそうさせることを。 「メアリ」 かれはいった。 「有名になれば、カメラに追われ、手紙が増える。未知の者からだけならともかく、それまで音沙汰のない者までが急によこすようになるのだ。親友元気かねと。どうして返事など書けようか」 かれは穏やかに続けた。 「あのころが懐かしい。きみと出会ったときのことだよ。きみが励ましてくれたからこそ続けられたんだ。ミセス・ヒギンス。そうだった。わたしの本が売れ始めると、きみは手紙をくれなくなった。きみのようによく手紙をくれた人は、こっちから出さないとくれなくなってしまった。忙しそうだからっていったのはきみぐらいなものさ」 かれはブランデーをグラスに注いだ。そしてグラスを目の高さに掲げると、 「アルコールなんぞいらなかった。夢でいっぱいだったからな。アルコールはいらないんだ。」 かれはグラスを口にはこび、ひとなめすると、 「夢がなくなってしまったのだ。夢を抱く気力すら失せてしまったのだ。いや」 というとグラスをテーブルのうえに置いた。 「いや、いたずらに年をとっただけだ。なにもかも老いのせいにしているのかもしれない」 彼女は顔をあげた。乾いたはずの目に涙が浮かんでいる。 「マティーニが欲しいわ」 彼女の声は落ち着きを取り戻していた。 「得たものはたしかに大きい。だが、この郷愁はなにを意味するのだろうか」 「もうなにもいらないからマティーニが欲しいわ」 「なにを失ったのだろうか」 「マティーニが飲みたいわ」 「健康な空気だ」 「お願い。ほかにはなにもいらないからマティーニをたのむわ」 「追憶」 「もうこんなところはいや。マティーニもないの」 「無の刻」 「なにもないのね」 彼女は立ちあがった。 「都市も退屈ね。あなたのブランデーもらうわよ」 彼女はグラスを探しにいった。 「鏡のない世界」 「どこにあるの」 「この世界では重すぎるのだ」 「グラスはどこ」 壁のむこうで彼女はいった。 「忘れてしまったのだ」 「あったわ」 彼女が戻ってくると、夫を見て、 「また始まった」 といった。 しばらくのあいだふたりは口をつぐんでいた。 ブランデーを口に含むたびに彼女は溜息をついた。注いだ半分ほどを飲むと立ちあがり、服を脱ぎ始めた。そして無言のままにベッドに入った。疲れた、心のなかで呟き、大きく息を吐いて目をつぶった。 「灯りを消してちょうだい」 彼女はいった。 が、かれは消さなかった。暗闇のなかにいると、おぞましいフラッシュを思い出してしまう。なによりも暗闇は不健康だ。かれは思っていた。 「死ぬまで追ってくるに違いない」 かれはまた、なにかを思い出したかのように喋り始めた。 「かれらは人を干渉するとき、見ることに徹する。なぜか。見たいからだ、というだろう。見たいと思っている人はたくさんいるのだから。このことがかれらを勇気づけさせる。干渉じゃない。かれらはいう。見たい人はたくさんいて、その代表者がかれら自信だと信じて疑わない。そこには見られる者の意識がない。当然だ。カメラは目。匂いも風の温もりも冷たさも、音すらも、なにもない一枚の写真。印象にはうってつけの素材なのだ。記憶はいわば写真のごとく脳裏にある。印象という記憶に音が絡むと、それが動いているように感ずるのだ。写真がどうして動くものか。そうだ、音。たとえば調性がそれを助ける。見たつもりになれるのだ」 かれはゆっくりと呼吸した。 「やめよう。人のことはもうどうでもよい。まずは自分をいたわる術を見つけることだ。時間は限られている。だれも助けてはくれないのだ。だれも助けてくれない。いままでもそうだったじゃないか。助けられたことはあるか。だれかのいった言葉に助けられたことはあるか。ない。断じてない。ただ、人は助けられたと思うことができるにすぎない。何人もだれかの言葉に助けられたと感じることはできるのだ。だが所詮、その言葉を『救い』とみるのも、その言葉を『救い』ととるのも、その言葉を『救い』ととった自分自身ではないか。そうなのだ。わたしを救うのは、神でもブッダでもない。まして他人であるはずもない。わたしを救うのは、このわたしを救えるのは、わたしをおいてほかにはいないのだ。鏡のまえの自分自身にほかならぬのだ」 彼女は夫のひとりごとを聞いていた。夫が静かになったときを見計らって、 「眠れそう?」 優しい声で尋ねた。 「疲れた」 「おたがいさまね」 「明日のためだ。眠ろう」 かれは部屋の灯りを消した。それでもベッドの真ん中に置かれた灯りだけは残していた。「消すわよ」 「そうしておくれ」 ふたりは落ち着きを取り戻し、やっとのことで瞼が重く感じられた。 「おやすみなさい」 「おやすみ」 かれは胸で手を合わせ、静かに息を吐いた。 彼女は寝返りをうってシーツを胸元に寄せた。未だ目は開いていた。彼女は溜息混じりに、 「有名税は高いのね」 といった。 「有名税」 するとかれは跳び起きて、再び部屋の灯りをつけてしまった。 「有名税とはどういうことだ。」 アネストは怒鳴って妻をにらんだ。 「冗談じゃない。冗談じゃないぞ。これ以上わたしにいったいなにを払えというのだ。もう充分払ってきたじゃないか。有名税は高いだと、よくも口にできる。おまえはわたしの立場にいないから、そんな言葉を口にするのだ。わたしがおまえならば、そういう言葉は口にしない。いいか、わたしは動物園のチンパンジーではないだ」 怒りが先行し、言葉がついてこない。アネストはにぎり拳を振りあげながら歩き回りだした。 「わたしを猿とおなじように見ているのか。わたしが飼われているとでもいいたいのか。冗談じゃない。わたしは人間だ。見世物じゃないんだ」 アネストは歯ぎしりし、なおも歩き回る。 「わたしに死ねというのか。いままでのいっさいを還元しますから、ここから飛び降りてくださいとでもいうのか」 かれは怒鳴り散らし、窓辺の椅子に座ると両腕で頭を抱えた。 「わたしに死ねというのか」 残りわずかなブランデーの瓶をとり、ラッパ飲みすると、ブランデーの液体はかれの白い髭をつたってこぼれ落ちた。 「わたしにどうしろというのだ。わたしになにを期待しているのだ。わたしは哲人でも賢人でもない。生身の人間なのだ。ちっぽけなやくざな人間にすぎないのだ。勝手な想像はやめてくれ。なぜ、どうして放っておいてくれないのだ…」 かれの声は次第に弱くなっていった。 それは、まさに白み始めた東の空、昇ろうとする太陽に吸い取られてしまうかのようであった。 |
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