
昨年(平成16年)初めに、NHKドラマ『蝉しぐれ』を見る機会があった。
主人公の内野 聖陽氏の熱演もあり、好評で、再放送も飽きずに見てしまった
当然、原作者の藤沢周平に興味を持って調べてみると同じ鶴岡出身の作家と
知り、(恥ずかしながら藤沢周平なる作家を知らなかった)親しみを感じて彼の
作品を読んでみた。
「蝉しぐれ」はもちろん「たそがれ清兵衛、暗殺の年輪、用心棒日月抄」等など
呼んだ感想は次の機会に譲るとして、今年になって藤沢周平原作の『隠し剣』
の映画を鑑賞する機会があった。
「蝉しぐれ」が静岡県地方の小さな藩を「海坂藩」のモデルに設定しているのに
「隠し剣・鬼の爪」は、同じ海坂藩でも東北の小藩(庄内藩と思われる)をモデル
に設定している為か、鶴岡の方言がふんだんに出てきて、たとえば、だだはん
(お父さん)、かがはん(お母さん)、ね〜
(今日は・ごめんくださいなどの挨拶)
みじょけねごと(可哀想だこと)、んでねもだ(違います)、など方言が懐かしく、
そのまま2度も観賞してしまいました。 ストーリーはフィクションですが、歴史を
調べてみると、案外
史実に基づいたストーリーで、歴史の好きな私には、興味
深い作品でした。
それでは、江戸時代の出羽庄内藩14万石の城下町『鶴
岡』の風俗や文化
生活ぶりはどんなだったのでしょうか、紹介してみましょう
鶴岡城大手門前
映画では、トップシーンで、江戸へ向かう同僚の藩士が、船着場から船に
乗り、それを主人公らがそれを見送るシーンから始まりましたが、その頃は
陸上交通と船による交通の2つのルートがあったようです。鶴岡から出てい
る主な街道は、酒田街道・清川街道・田川街道・六十里越街道・温海街道・
大山街道、また、船による交通は、赤川の渡しから船で、藤
島清川に出て
最上川を上り、新庄の手前の清水へ上陸し、羽州(うしゅう)街道を南下して
上ノ山から山を越えて福島の桑折(こおり)に出て、奥州街道をまっすぐ江戸
に向かうルートです。参勤交代はこのルートを利用していたようです。
当時の「城下町」、街の作りはどんなだったのでしょうか、街割(まちわり)の
基本は、三の丸に中級以上の家臣の町を置き、三の丸外に町人たちが住む
商工業の町、その外周りに中級以下の家臣の町や神社・寺などを配置すると
いうもので、町人と家臣の住む町をはっきり区別しました。また、場内の他に
町人町の周辺に位置する家臣の屋敷町は、中級家臣の町と下級家臣の町と
分けていました。 詳しく書くと長くなるので省略しますが、元禄7年(1696年)の
記録に、1,528軒 10,197の町人が住んでいたとあり、鶴
岡は、藩士や家族も
あわせて人口が約2万弱の城下町であったと思われます。
鶴岡には、他国から
移ってきた商人が多くいました。中でも、一番多いのは
越後(今の新潟県)の商人でした。越後の商人には、長岡・三条・見附(みつけ)
手縞(てじま)・小千谷(おぢや)などから、越後結城(ゆうき)・越後手縞(てじま)
小千谷縮(ちぢみ)などを持って来て店を開いた人がたくさんおりました。
その他には、近江(おうみ)商人・伊勢(いせ)商人(現在の滋賀県・三重県)が
多かったようです。
庄内は、米の産地ですから、酒田・加茂(現在、鶴岡市加茂)から毎年関西に
向け沢山の米を移出していました。この米を運ぶ船は、庄
内に来る時、色々な
商品を積んできました。例えば、日常 どこの家庭でも使用する 皿・茶碗
などの
陶磁器は、これらの船で運ばれてきました。
次に、町の政治、つまり、町人のしくみについて述べてみましょう
5人組の構図
町人町では、次のような仕組みで、町政が行われていたようです。
まず、家並(やなみ)5軒ごとに5人組を作って、その中から1人の5人組頭を
選び、また5人組5組ごとに長人(おとな)1人、そして町内毎に肝煎(きもいり)
1人が選ばれ、それぞれの町や組の世話をしていました
14町全部の世話役として藩から任命され、親から子へと職をつぐ大庄屋が
2人がおりました。どちらも酒井氏が鶴 岡に来る前から鶴岡にいて、町内の
世話をしてきた旧家でした。
町の自治を行うには、経費が必要になってきます。今でいえば区民税ですが
それには町家の1軒、間口6間(10.8b)・奥行25間(45b)の屋敷を基準として
町の費用をとりたてていたようです。その額は、時代により違いますが、記録に
よりますと、文久2年(1862年)の七日町の負担額は、1軒役については年間に
銭 7貫
385文(約1両)でした。1町の世話する肝煎には、手当て(給料)として
年に米18俵が支給されたことが残っています。
封建時代の藩の主な財政収入は、農民の納める年貢米で、町民は負担しない
原則でしたが、江戸時代の中頃から、商工業者も税金を納めるようになりました。
町人の納める税金は次のような種類がありました
(1)
一般の町人が出す地子銭(ちしせん)
(2)
酒屋・米屋・糀屋(こうじや)・質屋など約10種類の商工業者が納める役銭
(3)
藩主の命令によって金持ちの町人が出す御用金
町内にはこれら町用金を免ぜられる人達がいました。畳屋・染物屋・塗師・葺師
(ふきし)・蝋燭掛(ろうそくかけ)などのなかで、藩の御用を務める人々や町役人
それに町の小走り(こばしり)といって町内の走り便の役をする人などでした
町の人は、日常の生活上の事でも、職業上の事でも、肝煎(きもいり)・大庄屋
(おおしょうや)の世話になったようです。
肝煎・大庄屋は、その事柄によって、警察方面の事は町奉行に、職業上の事は
それぞれの扱(あつかい)役所に、土木については郡(こおり)奉行に
それぞれ
伺書(うかがいしょ)や届書を出してその始末をつけました
また、町内に暮らしに困る人があれば、5人組頭・長人(おとな)の人たちが、
その町の肝煎と相談し、また名子(なご)で貧しい人があれば大家(おおや)が
それぞれ大庄屋に願い、大庄屋は、さらに藩に願って、救助のお金やお米を
頂いていたということです
5人組頭・長人
肝煎(きもいり)は、また、その町の戸籍人別帳を作りました
これにはその家の職業、家族の名前・年齢、男女の別、使用人の出身地など
細かに書き載せ、5人組頭・長人と連署して、大庄屋に出し、大庄屋は間違い
ないことを確認して町奉行所に届けていました