くぼじ記念樹

 2000年10月13日、ホークスの背番号15、藤井投手が亡くなったとき、心の奥の奥にあった元南海ホークス、 久保寺選手(通称=くぼじ)のことを重ねて思い出しました。そしてやがて一周忌、15番の彼は多くの人の胸に咲いていて、その元に沢山の人が集い、語らい、涙しました。

 じゃあ、くぼじは?…私は、あの時小さかったけど、こんな風に思い出したりしただろうか。 悲しかったあの日さえ、もう「年始早々」としか覚えていないのです。 その記憶の遠ざかりにぞっとした時、私はくぼじのその年齢さえ、ちょうど超えていました。

 くぼじには、ゲートも人形もありません。残ったこのかすかな記憶を、思い出させてくれた藤井投手と同じぐらい、もっともっと想ってあげてしかるべき選手だったのに。
 だから、ちびさぶろうはくぼじのことを知らないけれど、みんなの集うこのホームページの中に、くぼじの記念樹を植えることにしました。久保寺選手のことをご存知の方もそうでない方も、少ない資料ですがご欄ください。
 また、彼のことについて、ご存知のことがあれば、お教え頂ければさいわいです。

(右上のイラストは作者のなかむら治彦さんのご好意で、ダラ球会HP「野球カルト倶楽部」より転載使用させて頂いています。無断転用は厳禁します。)
                      

管理人 みっちー

久保寺選手の出身校、
静岡商業の応援サイトさんです。

      

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略歴(2002.5.12更新)

生涯成績

中学時代のエピソード

関連記事・書物等

お墓について(2002.5.12UP)

略歴

1958年(昭和33年)7月18日 静岡県三島に生まれる。
1974年(昭和49年)4月 県立静岡商業高校入学、野球部入部。同期に大石大二郎氏(元近鉄)、
先輩に高橋三千丈氏(元中日)など
1974年(昭和49年)8月 1年生ながら背番号6番、ショートで第56回全国高校野球選手権大会出場
準々決勝で前橋工に破れ敗退。
1975年(昭和50年)3月 第57回全国選抜高校野球大会出場。大石と2年生コンビで三遊間コンビを組み、
打撃面でも佐世保工業戦で5打席5安打。またも準々決勝で報徳学園に破れ敗退。
1976年(昭和51年)11月 ドラフト会議で南海ホークスより2位指名を受ける。
1976年(昭和51年)12月 南海ホークス(現・福岡ダイエーホークス)入団、背番号「33」
同期のプロ野球入団選手は、大野豊(広島)、山本和範(近鉄)、
島田誠(日ハム)など。
1977年(昭和52年)3月 県立静岡商業高校卒業。
1977年(昭和52年6月5日 1軍デビュー戦(対阪急戦)にて、プロ初打席初ヒット(右レフトフェンス直撃二塁打)。
1978年(昭和53年) 第27回首位打者賞授与。(阪神・南海定期戦)
1979年(昭和54年)7月 2塁手としてジュニアオールスター出場。横浜スタジアムにて。
1980年(昭和55年) リーグ年間最多2塁打(同率、29打)を放つ。
第2回優秀選手賞授与(デイリースポーツ社後援南海ホークス激励シリーズ)
プロ野球オールスター大運動会出場、400mリレー優勝。(横浜スタジアムにて。)
1983年(昭和58年)12月 藤原満氏の後を継ぎ、念願の背番号「7」を獲得。
1984年(昭和59年) 3塁手として活躍。その美技はTV等で紹介される。
1984年(昭和59年)12月 プロ野球オールスター大運動会出場、
3塁手部、個人80m走1位。(横浜スタジアムにて。)
1984年12月27日 静岡県函南町の実家へ帰省。
1985年(昭和60年)1月2日 風邪のため発熱。
1985年1月4日 未明、容体が急変、午前4時ごろ三島東海病院に運ばれるが
午前5時ごろ急性心不全で永眠。享年26才。
静岡県三島市の願成寺に眠る。
※当時の新聞・刊行物等に基づく

生涯成績


年度 試合数 打数 安打 単打 2塁打 3塁打 本塁打 塁打数 得点 打点 盗塁 四死球 三振 打率
’77 11 .500
’78 104 299 61 44 93 22 20 18 37 .204
’79 81 208 50 42 61 25 15 10 26 .240
’80 118 373 109 71 29 160 48 32 11 21 53 .292
’81 109 316 78 57 10 119 34 47 21 45 .247
’82 112 364 96 72 18 130 31 31 29 63 .264
’83 123 422 111 84 14 11 162 58 45 13 25 49 .263
’84 112 353 96 68 16 145 46 49 15 39 .272
通算 770 2337 602 438 102 18 44 872 264 239 52 139 312 .258

中学時代のエピソード

北中学校時代(情報提供:渡辺様談)

  3年の担任は当時、野球部の 顧問だった市川先生。葬儀の時に涙流しながら骨壷を運んで下さったのも先生でした。 ずば抜けた運動神経と 足の速さは当時学外にも知れ渡っていて、陸上部の競技 などにも借り出されていたような記憶があります、リレーなどでは アンカーで最後尾くらいのスタートで前者ごぼう抜きでトップで ゴールなんてのは珍しくなかったです。 唯一苦手なのが水泳で、実は彼、かなづちでした。 北中学校には プールはなく、当時は野球部員は肩を冷やしてはいけないから水泳禁止 なんてこともあって、本人「それで野球部にしたんだよな」なんて冗談まじり に言ってました。
(写真は中学校3年時の修学旅行での集合写真より。クラスで2番目の長身だった模様。)



関連記事・書物等

1985年(昭和60年)1月5日付 朝日新聞朝刊
見出し<南海・久保寺選手の急死 活躍期待の球団に衝撃>
記事より:球団はこの日がちょうど事務所開きに当たり、(中略)穴吹監督も「これから十年は働ける選手で、今年はチームの軸になってもらうつもりだったのに…」と絶句した。

1985年(昭和60年)1月5日付 読売新聞朝刊
見出し<南海 内野強化に大きな痛手  久保寺急死 現有勢力でどう穴埋め>
記事より:三年契約の最後の年になる今季の”穴吹南海”の課題は、内野の充実だった。その核ともいえるのが久保寺。 定岡(=定岡智秋現2軍監督)が昨季アキレス腱を切断、回復が順調とはいえ、遊撃に復帰できるかどうかは微妙で、今季も久保寺が三塁と遊撃手の両方をこなさなければならない状況だった。それだけに、チームの受けた打撃は大きい。(中略)開幕までに中尾(=中尾明生)、小川(=小川史)ら各選手が、この悲報を乗り越えて力をつけるのを期待したい。

1985年(昭和60年)1月9日付 朝日新聞朝刊
見出し<久保寺選手急死の南海 悲しみ乗り越え自主トレ>
記事より:悲しみを乗り越えて若鷹が始動。プロ野球在阪球団のトップを切って八日、南海の自主トレーニングが堺市の中モズ球場で始まった。急死した久保寺内野手の葬儀のため、七日だった予定を一日遅らせての自主トレ入り。(後略)

”疾風”大二郎の快走録(大石大二郎氏著)より
<静商野球部入部時のこと>
(新入部員60人の中に三島からきた久保寺がいた。からだも大きかったが、そのプレーぶりはひときわ目立った。「こいつが久保寺か」向こう(久保寺)は向こうで「あいつが大石か」と思ったそうだ。

<大石が亜大のころ>
久保寺は言った。「プロに入るんなら、パリーグの球団にしろや。そうすればちょくちょく顔を合わせられるやろ。」皮肉といおうか、久保寺の予感?は当たった。


お墓について

所在地:     静岡県三島市の願成寺(三島駅より徒歩25分ほど。タクシーで800円程度。)下図参照。
お墓の位置:  本堂の裏手の墓地、ちょうど中央辺り。

三島駅南口→正面の道を左へ→つきあたりを右折→次の信号(北東角に宮町の小さい石碑有。)を左折→祗園橋のバス停を超えてすぐの信号T字路を右折→散髪屋と清水屋商店(ポスト有。)の角を左折→下神川橋を渡って直進。→保育園を横に見て、なお道なりに直進。→寺の名前の石碑が見えるので、坂を上る。→本堂まで上り、本堂の裏手側へまわる。→裏手側の墓地の中央辺り。

お墓の様子:  緑に囲まれた、小高い丘の上にある。
墓石の右に、バットを振りぬき、白球を目で追うくぼじの銅像が立っている。南海ホークス、穴吹義雄氏、定岡千秋氏、藤原満氏、藤田学氏、山内和宏氏、水島信司氏らの賛助によるもの。また左にはちいさなお地蔵さまも。
←お寺にはみどりがいっぱいで、さわやかです。
木々の向こうに田畑が広がっています。
←久保寺さんの今見ている風景。
画像をクリックすると、動画がみれます。
三島駅前南口です。→

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