HTML文章はすべてW3C勧告の通り精確に表記されるべきであるという意見は常に主張されることである。確かに公共性の高い情報、例えば新聞社のニュースサイトやデータベースサイト、何かしらの研究の論文など、書かれた情報が様々な形で利用される可能性のあるサイトではそれは守られるべきであることは間違いない。正しく表記されたHTMLは、その文章の構造を明確にするし、その結果、情報の共有、再利用に有用である。HTML文章というものが欧州素粒子物理学研究所に様々なプラットフォームのコンピュータを持ち込んだ研究者たちが、互いの研究を共有する為に生み出されたという成り立ちを考えれば当然のことといえるが、確かに有用な方法である。
しかし、この有用な方法であるHTMLの正確な記述というものは、ある概念が加わると途端にその有用性が疑わしくなる。いわゆる個人サイトの存在である
個人サイトは上述のような公共性を根幹に持っていない。その名の通り個人的、もしくは少人数による情報の発信であり、例外も多く含まれているが、大多数は本人とその身近な人々にしか意味がない。そのようにHTML文書にそぐわないものでありながら、このような個人サイトは無数に存在し、世界のウェブサーバの容量の多くを消費している。また、多くの個人サイトは「どのように表示されるか」を基本にしたHTML記述をしているため文法的に誤ったものが多い。マイクロソフト社が事実上、OSとブラウザの主導権を握り、そして、そのブラウザがあまりにも寛容であり、間違った文法のHTML文章でもそれなりに表示してしまうことが事態に拍車をかけている。
その解決策の一つとして個人サイトでのBLOGの利用があるのかもしれない。日記と掲示板が一緒になったようなシステムは、アプリケーションが入力された文章から動的にHTMLを生成するため、そのアプリケーションに問題がなければ、生成されたHTMLは文法的に正しいものになるし、レイアウトもそれなりに自由にできる。確かに個人サイトの多くが要求するものはほぼ満たしてくれるだろうし、作成者、利用者、双方の負担もへる。しかし、BLOGの利用に何かしらラングの専制的なものを感じてしまうことも事実だ。例えば、これは厳密には個人サイトとは言いかねるが、久留女木小学校のサイトには、作成にオーサリングソフトが使用されており、レイアウトにテーブルが使われ、altの用法などに誤用がある。しかし、それを十分に補う個性と力強さが存在している。これがBLOGを利用して作られたものであったなら、それらは失われ、無味乾燥な雰囲気が漂うのではなかろうか。今このサイトが持っている力を自由に発揮させることに、サイトとしての可能性があるとすれば、それを否定するべきではないだろう。
「WWWの空気は人を自由にする」という感覚が存在していることは否定できない。それは元来、自由な情報の発信を意味しており、その情報の表現方法については一定の厳密さが存在したはずだ。しかし、上述の現状を振り返った場合、我々は情報の表現方法、つまりHTMLの記述のみに目を向けるべきでないだろう。むしろ、それをある程度犠牲にしているが故に意味を持つサイトが存在していることは認めざるを得ないからだ。そのような存在を認めれば、いわゆるWEBサイトは大きく2つに分類すべきだという視点が生まれる。その二つとは不特定多数への情報、多くの場合は文字情報の提供に意味をもつのか、それともサイトとしての表現方法そのものに意味を持つのかということである。この二つの差にはサイト作成当事者の意図はもちろん含まれるが、それはすべてを負うものではない。むしろ、その価値は閲覧者が決定するものであろう。そして、その区別に応じてHTMLの文法を厳密に守るべきか否かを判定すべきではないだろうか。そのサイトに前者の意味を感じるのであれば文法の厳密さを求めるべきであろうし、後者を感じるようであれば、その表現のユニークさを味わうべきである。すべてのサイトに等しくHTML文法の厳密さを求めることは、既に時代錯誤的だとはいえまいか。