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球体関節人形考

人形の実用性というものは大きく二つに分ければ、子供のための玩具か、大人のための玩具かということである。子供のための実用性を大きく押し進めれば姿は次第に抽象的になり、最終的には頭足人(1)めいたヌイグルミに近いものとなるだろうか。逆に大人のための実用性を極限までに押し進めればリアルドールとなるだろう。このようなリアルさの追求が実際に性行為に利用できることに結びついている点に、いかにもアメリカ的なプラグマティズムを感じる。

現在一部で人気を博している「球体関節人形」の実用性は、今のところ、この二つの区分の微妙な部分に存在しているように思われる。ヌイグルミ的な可愛さは感じることは難しく、かといって性行為に利用できるような精緻さ(というよりも仕組みか)は存在しない。この二重の愛玩の隙間、つまり子供としての愛玩と大人としての愛玩の隙間にあるという状況は、その人形が主にモデルとする年代の少女、ちょうどバルチュスの絵のモデルとなるような思春期直前の世代の少女と同一の状況だと言えよう。単に子供として可愛がるには手にあまり、かといって性的な対象としては未成熟であり、利用不可能である。

この世代の少女はどのように性的な魅力を発散していようと、彼女自身がそれを意図して、その未分化である性を強調していたとしても、その性器の未発達故に、器質的、物理的に性交不可能であり、それをあえて侵そうとするものがないわけではないが、結局のところ性行為を完遂できない。

球体関節人形において祖といえるハンス・ベルメールは、その性交不可能のアンヴィバレンツ故に少女にまとわりつく外部からのイメージ、そのイメージの身体を分解し、くねらせ、融合させ、視覚と間接的な触覚に訴えてあまりあるエロティシズム、性器ではなく、眼を通して脳に快楽を伝えるエロティシズムの獲得に成功している(2)。

それに対し、現在見られる女性の球体関節人形愛好には、このようなエロティシズムの獲得は見いだせない。彼女たちの愛好はベルメールのように性交不能の状況から始まり、少女の身体を利用して得られる性交以上のエロティシズムへの欲望を元にするものではなく、逆にその性交不能性への願望が原因となっていると思われる。どのような性的な欲動がその人形の形状、表情、服装に注がれようとも、その人形は物理的な性交不能という一点において少女性、性的な意味あいでの絶対的安全性を確保できる。つまり、ここにおいての球体関節人形は、エロティシズムの表現形態ではなく、性行為からの逃避の象徴としてのそれなのである。

このように互いに球体関節人形という表現形態をとっているものの、その出発点と希求点はまったくの逆転の様相を呈している。そして、それが両者の可能性、美術性の広狭を決定する要因となっていると考えることが可能だろう。

参考文献:夜想2「ハンス・ベルメール」 ペヨトル工房 1980


  1. 幼児の描く絵に見られる極端に頭部の大きい人物画。その究極のものは胴体を欠き、かろうじて判別できる眼と口ついた顔に手足が生えたものとなる。幼児にとっての人体の情報量を表現した結果といえる。
  2. 球体関節人形以上に彼のエッチングにおいて顕著である。
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