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身体の不在

ヨガやアレクサンダーテクニックなどの身体技法は、結果として、その肉体を支配する意志を自覚させる。それを行うものに自らの筋肉の状態、緊張しているのか、伸びっているのか、緩んでいるのかといったことを意識させることによって、身体感覚の獲得し、身体と意思の一致を目指すのである。それが精神の覚醒をもたらすと考えられているからだ。

意志をのみで、身体感覚を伴わない作業は、感覚鈍磨、意識の鈍磨をもたらすことは間違いない。デスクワークによる疲労を思い出してほしい。しばしば、精神的疲労と呼ばれる、この疲労は充実感を伴わず、磨耗、摩滅、燃え尽きなどの形容詞が適用される。

典型的に見られるSFの未来人は身体運動を欠いたために、手足が退化している姿で描かれる。この中でも興味深いのはフランク・ハーバードによるSF小説「デューン・シリーズ」に見られる「ナビゲーター」の姿である。

メランジと呼ばれる薬物(老化を遅らせ、意識の拡大をもたらす一種の麻薬)を大量摂取することにより、意識のみを肥大させた彼らは、胎児のように小さな手足と、巨大な頭部を持ち、ガス化されたメランジの充満した水槽の中にフワフワと浮かんでいる。彼らは宇宙旅行には欠かせない存在である。その肥大した意識のみによって巨大な宇宙船を全く触れることなく、瞬間的に天文学的な距離を移動させることができるからだ。

メディアによって中枢神経を拡大された人間の姿がこれに重なる。一企業の将来を左右する株取引、ひとつの国を破滅させることも可能な外貨取引などは、その対象の巨大さにもかかわらず、コンピュータと電話と何らかのニュースソースを得る手段さえあれば、身体をほとんど動かすことなく行うことができる。これほど対象が巨大でなくとも、前述の3つのものさえあれば、現代ではかなりの労働が可能である。

そのうえ、これらの作業は身体を動かすとことよりも、高い価値をもつとされており、この価値の高さと日常的運動量は半比例するであろう。一般的な教育機関にもこれは当てはまる。生徒は机に座ったまま、目標(例えば定期テストでよい点数を取る)を達成することを求められる。体育、部活動なども存在しているが、成功とされる高学歴を目指すには、身体運動は軽視される。当然、ここに感覚鈍磨、磨耗、摩滅、燃え尽きが存在する。

アレハンドロ・ホドロフスキー監督の「サンタ・サングレ ―聖なる血―」のラストに印象深いシーンがある。主人公が母親の呪縛を逃れ、自らの手を自分の意志によって動かすことができたとき、自らの手を見つめ、静かに喜びの言葉を漏らすのだ。

「僕の手、僕の手だ。」

たとえ絶望的な状況であろうとも、身体と意志が一致は充実感を生む。

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