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                                                 京都清水寺のライトアップ

広隆寺と渡来人

img030mirokuhoo.jpg [ 広隆寺は映画村で有名な太秦に所在するが、創建当初からこの地にあったものかどうかは未詳で、7世紀前半に別の場所に創建され、平安遷都以後に現在地に移転したという説が有力である。
日本書紀によれば、推古天皇11年(603)聖徳太子が<私のとことに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか>と臣に問うたところ、帰化人係の秦河勝(はたのかわかつ)が、この仏像を譲り受け、お寺を建てたという。
秦氏は、新羅係の帰化人の家系であり、葛野郡(かどのごおり、現 京都市右京区南部。西京区あたり)を本拠とし、養蚕、機織、酒造、治水などの技術をもった一族であった。 
広隆寺に2体ある弥勒菩薩半跏像のうち、宝冠弥勒と称される木造弥勒仏像は日本に所在する仏教彫刻のうち、もっとも著名なものの1つと思われるが制作地については作風などから朝鮮半島からの渡来象であるとする説と、日本で制作されたとする説かあり、今なお決着を見ていない。]
                 (以下wikipediaの中から)
200611180034.jpg (京都太秦の広隆寺)
7世紀に新羅で作られ日本に渡っていったという主張の根拠は、材木の種類と制作方法、関連記録などにある。
この仏像の材料である赤松は日本に存在しないというのは誤りである。
赤松は北海道南部から屋久島まで日本全国に分布する。
背板に朝鮮半島では自生しないクスノキが使用され、
さらに背部の衣文もこれに彫刻されていることから、
日本で作られたと考えるのが妥当である。
              <以下韓国人の日本偽史 野平俊水>
02.jpg (広隆寺の紅葉)
日本の三代実録によると秦氏の先祖 弓月君は秦始皇帝の末裔だと記してるが誤りに違いありません。
弓月君は当時東アジアの情勢から見ますと高句麗の南下政策により責められ続けていた百済からの大規模の渡来人を率いていた人物です。
              <以下百済の大和倭と日本化過程 崔在錫 >

「秦というのは後世の当て字です。
524年の新羅の碑文に波旦県という字が見えます。
私は秦氏はその新羅の波旦県出身の渡来人だと思います。
<新撰姓氏録>によれば
右京区に住んだ当時の有力な氏族のなかに
朝鮮半島から渡ってきた人々が多数だったことかわかります。
その中でも秦氏が最も多い」       
                <京都大学名誉教授 上田正昭>


いろいろありますね。
私たち素人が見れば若干距離感のある内容ばかりですね。
しかし広隆寺が渡来人と密接な関係があるのは分かるような気がします。
大きく見ると二つの流れがあるとおもいます。
広隆寺を渡来人に強く結び付けようとするながれ。
広隆寺を日本独自の文化だと唱えるながれ。
しかしその内容に部分的であれ誤りがあると思うのは
私だけでしょうか。
簡単に説明しますと
朝鮮半島に自生しないクスノキ。。。とよくいわれますが確かに
半島には自生しませんが韓国の南の島である済州道には
自生し 半島では古くから家具の材料とかお寺の建設の材料として
用いられたのが事実です。(下は済州道のクスノキ)
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つまり仏像の材料を比較して研究を進める方法は少し古いのでは
ないのかという気がしますね。
すべてを渡来人の業績と思うのも危険な発想ではないできょうか。
そういう発想なら朝鮮半島の文化も全てが中国のものになり
文化の独立性はないことになりますからです。(中国人のこういう面を
嫌う韓国人が多いのではないでしょうか。)
重要なのは古代の京都は現代人の考えを遥かに超える国際交流と
多文化に富んでいた都でありその象徴として広隆寺と弥勒菩薩の存在は
大きいということを知ることでしょう。
最後に先の上田正昭教授のお言葉を借りて
ピリオドを打ちたいと思います。

「京都の歴史を知れば知るほどいかに平安京と秦氏、平安京ができて
以後も半島から渡ってきた人が実際に住んでいたかが分かります。
その京都の人が北朝鮮の核疑惑その他で、在日朝鮮人の民族学校の
学生や生徒さんに、暴行を加えたりすることでは、世界文化自由都市宣言が無意味になると思うのです。それは歴史をあまりにも知らないからです。歴史を知ることによって、私たちはますます京都を愛し、京都の素晴らしさとその弱点を認識できると思います。」

耳塚(工事中)