History
歴史
詐欺国家韓国よ! 詐欺と強盗国家中国よ! 両国の家来か応援団同然の朝日に毎日、NHKに反日左翼よ!この本を読め!! オマエ達の歴史捏造の嘘八百の証明なり!!
月刊誌 WiLL 各号
月刊誌 正論 各号
月刊誌 諸君! 各号
歪められた朝鮮総督府 光文社 黄文雄 800円
捏造された昭和史 ワック出版 黄文雄 980円
近代中国は日本が作った ワック出版 黄文雄 980円
韓国は日本人が作った ワック出版 黄文雄 980円
同和利権の真相 T〜U 別冊宝島 1238円+税
5.8.12 日本人全てがこの漫画を読むべきだ!!
嫌韓流 晋遊舎 山野車輪 1000円
漫画だが、しっかりと一次資料を基に歴史を検証してます。
それにしても、日本のマスコミ(新聞テレビ、)は、ホントに!クソ野郎!の売国奴ばかりだ!と、解ります(´ヘ`;)ハァ。。
中学歴史教科書等 戦後の歴史認識について
歴史教科書問題が起こっています。 私は田中真紀子井戸端程度外務大臣や鳩山由紀夫お追従外交代表など、読みもしない、知りもしないで批判する民主主義違反者と違い、論評する限りはその事についての最低限の知識を得てからにしているつもりです。その上で私の論を持ちます。歴史教科書の内容は事前にサピオなどの雑誌で理解していました。 そのうえでこれほど日本中を騒がせている問題なので、きちんとその本を読むべきだと思い、出入りの本屋さんに発注しておきました。 市販本歴史教科書第1刷を発売当日に手にし読んでみました。 私には何故彼らが、、、外国でいえば韓国と中国。 国内でいえば、、、、滅び行く左翼人種やその影響をモロに受けている朝日系新聞テレビ、毎日系新聞テレビ、共同通信、NHKなどですが、、、、、この本を攻撃するのか全く理解出来ません。それが読後の正直な感想です。 歴史教科書について、何故韓国中国がこれほどまでにヒステリー的にしつこいのか?? それらに大いなる影響を受けた左翼主義者が何故これほど拘り続けるのか?? 彼らの国民気質、外交論理を、小学館のサピオ誌 7月25日号の中で作家の伊沢元彦氏が解説してくれています。 ここに書かれている文章の一部を紹介します。 尚、伊沢氏の [ 逆説の日本史 ] は日本の歴史について一読の価値有る本で、初版から5冊までは文庫本で発売されています。 週刊ポスト誌で、未だに続きを連載しています。 −−−−−−−−−−−−−− 小学館発行 サピオ 7月25日号 文、伊沢元彦 タイトル 靖国神社公式参拝に反対する全ての政治家の皆様へ。 韓国、中国の「死者に鞭打つ文化」 に、 何故迎合するのですか? 文後半より、、、、 、、、、、、、彼等の文化に、我々が迎合する必要はまったくありません。 それぞれ遠う文化を持った国であり民族なのですから。 まして、自己の属する文化の価値観を一方的に押しつけるような行為、 たとえば「総理の公式参拝中止」や「A級戦犯合祀に対する異議」など、従う必要などまったくないことです。 我が国には「死者は善悪を間わずすべて慰霊されるべきだ」という伝統があります。そのことは、秀吉の「朝鮮出兵」 の擦に、鳥津家が建立した「敵味方供養の碑」でも、確認することができますし、他にも様々な例があります。 具体例を一々出さなくても日本が「死者に鞭打つ文化」の国ではないことは、充分おわかりになっていると思います。 日本の文化にも様々な欠点はありますが、この「死ねぱ皆仏」という考え方は、 世界に発信してもいい日本の優れた文化の一つだと私は考えています。 しかも、この伝統は「戦犯処刑者も戦死者と同等に扱う」という形で昭和器年(l953)の回会決議で全会一致で可決されています。 それでも、中国や韓国が「A級戦犯を祀るとは何事だ!」とあくまで主張するなら、私ならこう言います。 第二次枇界大戦後、世界が戦争というものに極めて慎重になった後も、中国という国は性懲りもなく、様々な国と戦争してきました。 ベトナムとの戦争。(中越戦争)やチベットへの侵略、また旧ソ連との国境紛争もあります。 しかし、その中で最大のものは、やはり朝鮮戦争への介入でしょう。韓国人はよく「南北分断は日本の責任だ」と言いますが、 「責任」という言葉を「分断を最終的に確定させた者」の意味だとするなら、それは間違いで、責任があるのは中国です。 朝鮮戦争は初め国連軍(アメリカ軍)の支援を受けた韓国側が優勢でした。そして、このままいけば韓国によって 朝鮮半烏が統一されると誰もが思った時、中国軍の侵入によって朝鮮軍が巻き返し、結果的に南北分断が確定してしまいました。これは現代史の常識で、この事実は韓国の教科書にもきちんと載せられています。 −−−−−−−− funwaka注 朝鮮の日本統治が始まる前の興味深い統計が有ります。朝鮮の人口は日本統治が開始された1910年には1300万人でしたが終戦時には3000万人になっていたのです。 当時の朝鮮は農業の生産性は少なく、幹線道路も整備されておらず、流通は滞り、上下水道は無く、医師もおらず病院もく無く、生活全般が貧しく衣食住全てに於いて最貧、最低だったからです。そのような理由から朝鮮では長らく人口の増減は無かったのです。貧し過ぎる国故に1300万人以上に人口が増えようが無かったのです。 ところが日本が統治しはじめてわずか35年で人口は倍以上の3000万にも膨れ上がったのです。 何故か!?日本は統治時に多額の資金を朝鮮につぎ込みました。道路を整備し、流通の流れを作り、学校を作り富の想像の知識を教え、灌漑用水を作り、近代農業を教え、農作物の生産性を飛躍的に高め、上下水道を整備し、病院を作り衛生的な生活を教えたのです。おかげで朝鮮では貧しいが故に増えなかった人口が日本統治のおかげで爆発的に増えたのです。 日本統治を求めたのは当時の朝鮮の最大政党でした。 あまりにも貧しい自国の将来を憂い、当時の欧米列強と互角に渡り合う唯一の黄色人種でありアジアの盟主であり、最先進国の、金持ち日本に統治してもらい、朝鮮を豊かにしたかったのです。 その朝鮮の最大政党に日本への統治を願い請われて、日本は朝鮮政府と日本統治の条約を結んだのです。 これらの事は当時のイギリスやアメリカなど先進国にも認知され、承認された史実であり、歴史上の事実です。 その政党の思いは見事に的中しました。日本統治からわずか20年で1700万もの人口増という証拠となって表れたのです。 日本は朝鮮を侵略したのでは決して無く、援助したのです! 感謝されることは有っても、恨まれる事など絶対に無いのです!! 中国においても全く同じ事が言えるのです。莫大な資金を中国につぎ込んで道路や鉄道を造り、日本統治時代、日本は中国をそれ以前よりも遙かに豊かな国に変えてあげたのです! 当時の欧米列強の植民地政策としての侵略は凄まじいまでの富の収奪でした。ところが日本には富の収奪どころか、道路を造り病院を作り、文字を教え、、、、日本語も教えましたが、当時の朝鮮は諸外国と一緒で日本と違い一般庶民は文盲だったので、ハングルも日本人の教師が朝鮮国民に日本の建てた学校で国民に教えました。 建てた学校は日本と富の生産の仕方を教えたのです。日本には、かの国達を指導し、導き、富める国にしようとしたことは数あれど、富の収奪の植民地政策など、どこを探してもあり得なかったのです。 穀物にしても石油にしても当時の平均的な金額で購買をしていたのです。 これらの事実をもってすれば日本はアジアを力づくで侵略したなどとの、間違った歴史認識を正すに十分だと思えます。 funwaka注 閉 −−−−−−− 伊沢氏文、続く、 つまり中国軍とアメリカ軍および韓国軍は かつて交戦したことがあるのです。そして、その時の戦死者はアメリカの「靖国」ともいうべきアーリントン墓地に祀られています。 もちろん中国にも人民英雄記念碑という慰霊碑があります。 では、中国ががつて一度でも「我が中国の兵士を殺したアメリカ兵の眠っている墓地に、大統領が会式参拝するのはケシカラン」 と主張したことがありますか? 韓国が「中国よ、朝鮮戦争で我が軍の兵士を殺し南北分断を確定させた兵士も祀られている記念碑に 花束を捧げるのはケシカラン」と主張したことがありますか?ないでしょう。 それは彼等も「国のために命を棒げた兵士を慰霊するのは国家の代表者として当然」と思っているか、あるいは 「大国に下手にイチャモンをつけると後が恐い」と思っているかのどちらがです。では、なぜ他の国にはそう言わないのに、 日本にだけ言うのか? それは、ナメられている、ということです。 彼等が他の国に対して同様の主張をしているなら、賛成反対はさておいて私も聞く耳は待ちます。しかし、そうではないのだから こんな要求は毅然としてはねつけ、そして日本の文化を説明すべきでしょう。ちなみに、A級戦犯を分祀(靖国から霊として はずす)せよ、という意見があります。自民党の野中広務元幹事長や民主党の昔直人幹事長あるいは大橋巨泉氏までが、 そういうことを一言い出しているようですが、ちょっと待って下さい。 あなたたちは本当に民主主義というものがわかっているのですか?現在、靖国神社は国家機関でも何でもない民問の宗教法人ですよ。 民間の宗教団体に「分祀」などということを政治家が言っていいんですか? それは創価学会に「日蓮を信仰対象からはずせ」 というのと間じで、信教の自由に対する重大な侵害行為ではありませんか。それこそ戦前の悪夢の再現でしょう。 では、その「民間の機関」に総埋が公式参拝するのはどうかと間われれば、少なくとも神社の形で戦死者を慰霊することが日本の 伝統である、とお答えしましょう。「A級戦犯」たちも7人が死刑に処せられるなど罪を償っているのです。そう考えるのが日本の 伝統で、「罪人は永久に罪人」という彼等の考え方とは明らかに違います。ただ、小泉総理には、同時に千鳥ケ淵の国立戦没者墓地にも参拝するよう申し上げておきます。 サピオ 7月25日号 伊沢元彦氏の論文より抜粋 −−−−−−−−−−−−−−− 中国には昔から中華思想という考えが有ります。中華思想とは、中華は世界に優れており、全ての国は中華の臣従として仕えるべきであり、中華を宗主国として認め、中華の制度を採用するべきだと言う思想です。中華と国交を結ぶと言う事は、朝貢関係(中華へ定期的に使節を派遣し貢ぎ物を捧げる事)になったと認識する思想です。 ですから、現在の日本の中国への総額6兆円もの莫大なODA援助も中国からすれば、我々への日本からの貢ぎ物との認識にしか過ぎないのです。 日本からの巨大な援助金を軍備につぎ込み、民意弾圧、軍事覇権を確立し、次々に周辺諸国への侵略を繰り返しています。 通常の援助受け入れ国の感覚では、援助で建てた橋や建物、施設やシステムなどには必ず援助国への感謝の印として、目立つところにモニュメントを作ります。 援助国への感謝の言葉と共にその行為を称える事を利用する人達に知らせるのです。 中国では殆どの建物にそういったモニュメントは有りません。貢ぎ物に感謝するなどトンデモナイ!と思うからです。 欧米の先進国では援助するなら当然感謝の姿勢を示すことを求めます。 日本の政治家の、度が付くほどのお人好し(欧米ではこのような日本の外交を、政治家を馬鹿にし、嘲笑しています。)外交は中国をますますつけあがらせ、完全に日本にとっての国益を損じる事になっているのです。 何故日本人に、国を守って命を懸けた人達を敬う心を無くさせようと、(自分達はそうしているのに!)韓国や中国は求めるのでしょうか? それこそが、中国の軍事覇権主義にとって利する事になるからです。 防衛を担当する軍隊の志気喪失は、攻める国にとっては容易な侵略が出来るからです。 国を守って死んだのに、守って残した子孫に全く感謝をしてもらえない。そんな恩知らずの、薄情者の子供達に、果たして命をかけてまで防衛をする気持ちが自衛隊の人達に起こるでしょうか? 間違いなく、否!! でしょう。。。。。感謝され尊ばれてこその命をかけた防衛なのです。 だからこそ、韓国でも、中国でも、フランスでもアメリカでも、世界中の全ての国が国の為に命を落とした人達をいつまでも敬い、尊び、霊に感謝するのです!! 中国は21世紀の未だに周辺国にスキあらば付け入り侵略をするべく策略を巡らし、実行しています。 チベットもウイグルもモンゴルも中国の過酷な民意弾圧の影響下に有ります。 日本領海付近に調査船を送り込んだり、日本を標的にしたミサイルの開発を進めたり、ねつ造の南京大虐殺事件を大々的に宣伝したり、歴史教科書問題や閣僚の靖国神社参拝などを取り上げては日本の国際的名誉を傷つけ、日本国民の自尊心を貶める事に熱心です。 いつの世も国と国のつき合いにおいての基本は隣国の益は自国の損との発想です。 これは21世紀の今でも変わりは有りません。 国民レベルでの、間違った自虐歴史観は国を危うくする重大な悪しき問題なのです。 個人のお人好し思想はそれで良しとしても、政治家がそのような幼稚な迎合外交や、間違いの歴史認識であれば国は滅びるばかりなのです。 2000年7月13日記 |
北京東部の通州で「通州事件」の慰霊碑が見つかった事に関して、中国共産党機関紙の「北京日報」は次のように報道しました。 「通州事件」は「日本軍の中国侵略の証」であり「わが抗戦の軍民により日本の侵略者をうち倒した」 −−−−−−− funwaka注、 またもや、アホラシくも、大嘘付きの中国共産党の、歴史歪曲報道プロバガンダです!! おそらく朝日新聞や毎日新聞は、それ見たことかと、大喜びでこの報道を鵜呑みで、日本は加害者!中国は被害者!のいつもどうりの 反日スローガンに利用するのでしょう。 全くあきれ果てたものです。 彼らはいったい日本の新聞社なのでしょうか??? 私は産経新聞に尊敬の念を持っています。何故かといいますと、産経新聞は常々こうした時に正しい資料に基づく、真実を私達に伝えてくれるからです。 この件に関して、亜細亜大学教授の東野修道氏がサンケイ新聞8.29朝刊アピール欄に本当の歴史の真実を述べていますので、 ここに参考資料として掲載させて頂きます。 −−−−−−− 日本と中国私たちはこのニカ国の歴史認識の違いを見極めなけれぱならない。 、、、、、、、、、 当時の中国大陸には今日と同じようにビジネスその他の所用で多くの外国人が住んでいた。日本人も住んでいた。その中国大陸は百年に及ぶ内乱状態にあった。1930年代、国民党と共産党が争っていたことは有名である。国民党ですら右派と左派が一時期別々に政府を作ったほど中国は軍雄割拠し相争う内戦状態にあった。そのようななか、自国民を保護するため、日、英、米、仏、伊は、上海、天津、北京の天安門横その他に国際条約や協定に基づいて軍隊を駐留させていた。 1937年(昭和12年)7月7日、中国の第29軍の兵士が第一撃を日本軍に放つ。目本軍は三度も砲撃されたあと、四度目の砲撃に反撃に出た。この慮溝橋事件の発端は今や通説となっている。七月二十九日、盧溝橋の東の通州で蓑東防共自治政府の保安隊三千人が百人ほどの日本軍を襲撃したのである。 全く無防備な日本人、非戦闘員の男女子供までも襲撃した。救援に駆けつけた萱島高中将、桂鎮雄少佐、桜井文雄少佐の東京裁判における証言によれぱ、目玉はくりぬかれ、首と指は切断され、内臓は散乱し、女性の腹部は縦に断ち割られていた。その大量虐殺はまことにむごいものであつた。 この(見つかった)通州事件の慰霊碑は日本軍の中国侵略ではなく中国軍による日本人虐殺を見事に示している。 「北京日報」の記事は歴史認識の違いを越えた歴史のわい曲なのである。 −−−−−−−−−− funwaka論 いかがですか。。。読者の皆さん。。。 有りもしない従軍慰安婦問題!有りもしない南京大虐殺、すでに完全に明らかになっているこれらの有りもしないデッチアゲの反日スローガン軍事覇権国家の中国共産党や、詐欺国家の韓国の金持ち日本の懐を利用しようとする、政治プロバガンダのお手伝いをかって出る朝日や毎日新聞、、、全く困ったものです。 どうか皆さんも是非、サンケイ新聞や、諸君!、正論、Voice、等を読み、歴史の真実、嘘だらけの国達の外交手段の本当を知っていただきたいのです。 私は声を大にして言いたい!! 過去の歴史を!正しい資料を!元に見る限り、 過去日本ほどアジアに、当然中国にも!朝鮮にも! 貢献してきた国はないのです! もっともっと堂々と胸を張って良いのです! 私達日本人はこれだけ同じ地方のアジアの国々を助けて来たんだ、と! 欧米各国に蹂躙され植民地にされ国の富を食い荒らされていたアジアの各国を開放し、道路を造り道徳を教え、勤勉努力を教え、各国を豊かに援助し続けたのだという事を!! もういい加減に歴史の真実をきちんと伝えるべきだし、主張すべき時が来たのだ!という事を!!! |
諸君! 2001年10月号 の首相参拝は合憲である。 特集の中で、帝京大学教授の高山正之氏が書かれている文が諸外国の歴史ねじ曲げを見事に証明してくれています。 井戸の中の蛙、の(私も含めた)日本人は是非一読すべきと思い、ここに掲載させて頂きます。 ほんとうに、[ 諸君!] は素晴らしい雑誌です!! −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 笑止千万! 「歴史に直面していない」のは誰だ!? 高山正之 (帝京大学教授) 朝日新聞が中国、韓国に「ねえねえ、日本ではこんなこと言っているけれど、いいの」とおため顔で言う。 「あんたらを虚仮(コケ)にしているんだよ」と。 で、マッチ棒みたいな韓国はすぐ燃え上がる。お囃子方としては最高の民族性だ。 中国はその点、もう少し小ずるい。江択民発言や最近の唐家披の「やめなさいと、厳’命’した」発言と、このところ日本の対中世論がいたく硬化しているのを知っている。 もっと言えばピッキングから歌舞伎町の日本人店長殺しまで、下手したら日本の全家庭が中国人の被害者になりそうな勢いにある。 朝日が「犯人は中国人風」と書かずに「覆面の男」(funwaka注、こういうところが私のいう朝日は中国の手先だという、証明なのです。)なんてかばいだてしても中国の印象はもはや最悪のところまできている。そんな時に騒いだらODAももらい損なうぐらい十分弁えてはいる。でも、その朝日の献身的な働きで中国にだけ都合のいい「日中友好」の虚構が出来上がったのも事実だ。井戸を掘った人を忘れてはならないから、結局、韓園のお堆子に乗って眉根に敷寄せる。 中韓が足並みをそろえると、真打、欧米メディアが登場する。日本が勝手に「高級紙」と思い込んでいるワシントン・ポスト、ニューヨーク・タイムズなどである。 中韓だけなら何とか言い返す日本もここでいつも押し黙ってしまう。神聖なる審判者と思い込んでいるからだ。今回の教科書、靖国問題もまさにそういう展開で、ワシントン・ポスト以下がそろって中韓の言い分、つまり朝日の主張を支持して見せた。そこでの言い方はパターンがある。 たとえばニューヨーク・タイムズ。「日本人は最も痛ましい歴史について議論を回避し続けた」(八月十二日付け)、それは「日本人が事なかれ主義だからだ」と。ワシントン・ポストも「日本人は本能的に自分に不快な真笑を隠し、権力に過剰な信頼を置く」(七月十一日付け)と。要するに日本人を十把一からげ、みごとにステレオタイプ化し、その民族性に間題があるという指摘の仕方だ。そういう民族のステレオタイプ化による非難は実は禁じ手だ。ユダヤ教徒の追害はまさにステレオタイプ化された民族像にあり、そうしたくくり方は国際社会では厳しく非難される。 それを逆手に取ったのがドイツで、先の戦争貴任はヒトラーだけが悪く、ドイッ民族はむしろその被害者だと逃げている。ただ、日本はどうも例外扱いで、なぜかこういう民族ひとくくりの非難をしても問題ないらしい。しかし、このステレオタイプ化は今度の教科書、靖国問題では使い方次第で逆に日本の正しさを示す有力な状況証拠たりうるという見方がある。 民族性はその歴史をたどれば見えてくるものだ。たとえば自由と民主主義の国、米国をみよう。 その性格は新太陸に最初にきた人たちに現れている。彼らはまず親切な先住民から七面鳥をもらって冬を越す。感謝祭のいわれだが、それで春になると彼らはさっさと先住民たちを殺し始める。西部劇ではインディアンが自人の頭皮をはぎ、耳を切り取るが、それは彼らがインディアンにやったやり口だった。 そして「人は等しく幸福を追求する権利をもつ」と独立宣言をうたい上げながら今度は黒人奴隷を輸入しはじめる。 フロンティアが太平洋に達すると、ハワイ王朝に軍艦の砲口を向けて乗っ取り、次いでフィリピンを植民地にする。フィリピンの住民が米国の支配を嫌うとどんどん捕まえて拷問した。魔女狩りと同じに二十リットルもの水、それも海水を飲ませ、膨れた腹に尋間官が飛び降り、「ロから六フィートも水が噴き出した」との上院公聴会の証言がある。 三年間に及んだフィリピン制圧で米軍はためらいなく村や畑を焼き払い、十歳以下のこどもを除いて村民すぺてを殺したサマール島事件を含め二十万人が死んている。七十年後のペトナム戦争ではソンミ村事件が起き、枯葉剤が撤かれたが、基本的にはフィリピンと同じことが近代的手法で行われただけである。リンドバーグは、第二次大戦のさなか、米兵が日本兵の耳を切り取り、その頭蓋骨を家族に送ったと書いている。これもインディアン討伐の手法と同じで、戦争を含めて民族性はそう変わらない。 北朝鮮はどうか。九九年一月、亡命した金寵華元中尉の談話が産経新聞に載ったが、その中で中国に逃げ込んだ北朝鮮人、いわゆる脱北者の送還の模様について「男は両手の甲に穴をあけて手錠をかけられ」と語っていた。この話は元寇を思い出させる。元の手先の高句麗兵は対馬で捕えた(日本人の)人々の手の甲に穴をあけ、網を通して舷側にぶら下げて襲来した。 こういうことを彼らは七百年のときを越えてもやるのだ。 民族性とか国民性とかはとくに戦場では色濃く出てきて、そう簡単には変わらないことをこれらの歴史は示している。 では日本はどうか。 日清戦争では清国北洋艦隊の丁汝昌に同情して亡命を勧めた話がある。そのあとの義和団が北京を包囲したおりの日本軍の規律ある行動は園際的な賞賛も得ている。日露戦争ではロシア将兵を、第一次大戦ではドイッ将兵を捕膚にしたが、ともに彼らは大切に扱われた。ドイッ将兵の捕虜と日本人市民との交わりの中からぺートーベンの交響曲第九が日本に定着したのは有名な話だ。 第二次大戦ではバンドン要塞に立てこもった英国やオランダ将兵八万人がたった八百人の日本軍と九日間戦っただけで降伏した。こうあっさり降伏したのは過去の日本軍の行動−捕虜は丁重にもてなされる−を知っていたからだったといわれる。残念ながら日本は食えないから戦争を始めたわけで、満足いく待遇ではなかったからといってあとで恨んだりするのは筋違いというものだろう。ところが教科書問題の批判に出てくる日本はそういう民族性ではない。 まるで米国みたいに残虐な民族だと朝日や中韓、欧米のメディアは主張する。(funwaka注、朝日は日本の人の経営する新聞社のはずである、、たぶん、、、その朝日が日本の歴史を知らないのだろうか??過去にこのような大量の人々を虐殺した事実が有ったのでしょうか?関ヶ原の戦いでさえ、近辺の人達は手弁当で観戦できたほどに、日本には民間人大量殺戮の習慣は絶対に無いのです!)米国や北朝鮮などその他の国民がずっと同じ民族性を保持しているのにどうして日本だけが変わるのか?? もしかして彼らの主張が間違っているのでは、という疑問が当然わいてくるが、そういうと「まだ歴史と直面していない」と非難される。「痛ましい歴史を覆い隠そうとする」と怒られる。 今回の教科書、靖国問題はまさにそういう怒られ方だった。なぜなら現に南京で三十万人を殺したろうが、と彼らは言う。それも「日本兵は無宰の市民を生きながら焼き殺し、女は強姦した上で手足を切断し、子供は宙に放り上げて銃剣で刺した」。それが「六週問も続いた」と東京裁判でも認定しているではないか。その証言者は米園人の教授と宣教師とドイッ人武器商人など四人もいるじゃないかと。(funwaka注、この証言は目撃証言では無く、推測証言なのです。つまり、有罪者を作り上げたいアメリカ側への偽証の可能性大!なのです。現在ではそれが偽証だったという一時資料の証拠が次々に出始めています。) しかし、これが自分の祖父や父の所業どして「あり得る」と思う日本人はまずいない。 第一、赤ん坊を投げ上げて刺殺するなんて発想は日本人にはない。六週刊も殺し統けるという根気もない。それが民族性どいうものだろう。でもこういう殺し方を中園人に間くと、彼らは「あり得る」と答えるはずだ。なぜならここに記述した陰惨な殺毅の手口は南京事件の直前に中国人によって起こされた通州事件とまさにそっくり同じで、二百人の居留日本人はそうやって殺されている。実におかしな話だ。 だから南京事件を糾弾されても日本人自身が首をかしげる。 大体二十万人もいない街でどうして三十万人を殺せるのか。南京攻略は数日で終わり、報道班の石川達三らも加わった入城式典は一週刊後に行われたが、それからさらに五週刊も殺戮が続いたという報道も暴露もない。市民の数は日本軍入城後増えてもいる。 (funwaka注、これも南京虐殺が嘘だという大いなる証拠なのです。何故にそのような、大!虐殺、が有ったのに、その後も続々と日本占領の南京街に中国人が来たがるのか???全くもって朝日の主張はアホらしい限りである!!中国や朝日が虐殺が有ったと主張する、その日以後にも続々と中国市民が城内に入って来たという当時の欧米人の証言が多く残っています。) 市民が殺されに帰ってきたというのもへンな話だ。 ただ、日本人の民族性が変わっていなければ別にへンには聞こえない。 (funwaka注、日本軍は虐殺するどころか、規律を守り、平和になるから、商売も物乞いも出来るから、住民は直ぐに日本統治の場所に行きたがった、という証明です。) 市民が戻ってきて当たり前だ。バンドンで降伏した臆病な英蘭軍将兵だって、もし日本人が残忍と思っていたらもう少しまともに戦っただろう。恥も外聞もなくさっさと降伏したこと自体、日本人の艮族性が、今、朝日新聞や中国韓国のいうのとはまったく違っていることを示しているではないか。 こうしてみると、日本の民族性はアジアの戦場でも南京でも、明らかに「無罪」を示す有力な状況証拠になる。 朝日新聞と中韓、欧米のメディアはこれまでずっと東京裁判公認のステレオタイプ化された「残忍な日本人」を糾弾し続けた。 しかし、日本人が歴史に向き合い、直視してもそういう民族性はでてこなかった。 だから今度は朝日新聞を始めあなた方が歴史に向き合い、直視したらいい。 奴隷を売買しながら自由と民主主義の聖地を自負し、他国を貶めるために「田中上奏文」まで偽造して恥じない自分たちのまがまがしい民族性がきっと本当の答えを教えてくれると思う。 |
正論10月号より 著者 総山孝雄 東京医科大学名誉教授 日本学士院会員 −−−−−−−−−− 日韓併合を恨む韓国人の悲しい誤解 戦前の韓国人の多くは、台湾人と同様に、目本の統治を感謝し、日本人であることを誇りにし始めていた。しかし韓国だけは奇怪にも忘恩豹変してしまった。 日韓併合により近代化した韓国日露戦争後の講和条約により、ロシアは日本の韓国における優先権を承認したが、直ぐ北の沿海州にはロシア軍がいたので韓国の親露派の精力が根強く残っていて、親日派と争い、韓国の王族や官史は外国の支援を頼んで勢力を伸ぱすべく、利権争いと派閥争いとに明け暮れていた。 とても放置できないので、韓国を自治的な保護領にして守ってやろうとしたが、初代の統監に就任した伊藤博文がハルビン駅のホームで暗殺され、秘密結社のテロ団が韓国の要人まで殺害しようとしていることが判明したので、一九一○年に併合して直接統治することにした。 当時この併合に反対する国は一つもなかったのである。日本が韓国を併合した目的は、西欧諸国が経済的搾取のために値民地支配をしたのとは全く異なり、日本の安全のために韓国を確保し、種族的にも最も近い韓国人を目本人と回じレベルに引き上げて目本人に加えようとしたのであるから、統治法は全く違っていた。 韓国には何一つ資源がなかったので、日本は一方的に資金を投じて開発した。当時東洋一だった鴨緑江の大発電所をはじめ、多くの重工業・軽工業を起こし、道路・鉄道・郵便・通信の設備を縦横に整え、病院等多くの福利施設も造った。韓国人は温突(オンドル)用の燃料として樹木を無計画に伐採し、山は赤禿になって荒れ果てていたので、日本から持参した苗木で徹底的に植林して緑に変えてしまった。(しかしこの緑の山も戦後韓国が独立すると再び伐採されて赤禿になってしまった) 日本が特に力を入れたのは教育である。 西欧諸国の植民地では少数の貴族の師弟のみが高等教育を受けて白人統治の助手にされ一般市民は全く埒外に止め置かれた。 当時の韓国には厳しい階級差別があり、最下層の人々は極端に貧しくて字も読めなかったが日本は日本内地と同じ数の小学校を作り、全ての子供を階級差別無く教育した。 韓国の子供にハングル文字を教えたのも日本が作った学校であった。私のクラスメートの一人が日本の師範学校を卒業した後、韓国の小学校の先生として派遣されたが彼からの手紙には数人の子供に囲まれた写真が同封されてあり彼がいかに熱い愛情と使命を燃えて韓国の子供を教育していたかが良く伺えた。 日本人は明治維新に日本で行われた文明開化の改革を韓国でもそのままやろうとし、保守的な韓国人の抵抗を押し切ってチョン髷を止めるように指導し、服装でも日本人と同様に働きやすい洋服の着用を奨励した。こうした近代化と福利政策により三十六年間の統治の間に韓国の人口は千三百万人から二千五百万人に倍増した。これは日本の統治が住民を益した証拠である。 しかし、何と言っても韓国人が受けた最大の恩恵は、ロシア人に呑み込まれる事から救われた事であろう。もし日本が韓国を放置してその王族や官史のなすがままに任せていたならば、韓国は数年を出でずしてロシアの領土になっていたであろう。 やがて共産化したソ連に支配されて、今の北朝鮮のような国になっていたことは疑いない。救われたのは韓国だけではない。韓国がロシアに併合されていれば日本の安全も到底保ち得なかった。そうなるとアジアは東端にただ一つ残った独立国の砦を失い、欧米に支配され植民地になっていたアジア解放の日は永遠に来なかったであろう。 第一次世界大戦と満州国の建設やがて第一次世界大戦(1914〜17年)が起こると、日本は日英同盟の約束に従って参戦し、ドイツが中国から租措していた膠州湾や南洋群島を攻略占領した。南洋群鳥は日本の委任統治領になった。今は独立しているが、日本の徳政に感謝する超親日国である。 第一次大戦が終わると、交戦各国はその惨状に驚き、アメリカのウイルソン大統領の提唱によって国際連盟の組織を作り、世界の恒久平和を目指した。かねがね白人によるアジア人の値民地支配を慣っていた日本は「会員国は皮膚の色によって人々を差別してはならない」という人種平等の決議案を連盟に提出した。しかし白人諸国はにべもなくこれを否決した。彼らが有色人種の奴隷支配を統けるためには、人種の平等を認めるわけにはゆかなかったのである。 この頃になると、欧米の各国はそれぞれの植民地を結びつけて経済ブロックを形成し、日本を閉め出してしまった急速に工業化しつつあった日本は、これによって原料もなければ製品の輸出先もなくなり、経済的に窮迫しばじめた。それで日本は日露戦争によって支配権を獲得した満州の末開の広野を開発し、これと経済ブロックを組むことを考え、踏頭に迷っていた清朝の末裔博儀氏を迎えて満州国を建設した。 これについては、孫文もまた、日本に助けられて辛亥革命を成し遂げたことを感謝し、「日本によってロシア人の手から解放された満州の経営は目本に任せよう」という意向を、かねがね表明していた。そもそも満州は満州人の国であって、当時はまだ中国の一部だとは考えられていなかったからでもある。 満州事変五年後の1936年、大学の三年生であった私は、満州派遣学徒視察団に参加し、夏休みの四○日間を使って満州と朝鮮を旅行した。 一行三○○人はまず遼東半鳥の大連港に上陸し、旅順を訪れて日露戦争の壮烈な攻防の跡を見て先輩の苦心を偲んだ。次いで奉天(今の藩腸)に至り、撫順の炭坑や鞍山の大製鉄所を見学した。南満州ではすっかり治安が確立し、都市も農村も活気に満ちていた。 満州はもともと満州族の住む国であったが、日本の手で開発されて魅力ある働き場所になっていたので、動乱の中国本土で食い詰めた漢民族が毎年数十万人の単位で、河北省や出東省から溝州に流れこんでいた。また満州事変の前には、朝鮮人の移民に追害を加えていた満人の官憲もすっかりおとなしくなったので、溝州は朝鮮人にとっても極めて住みやすい国になり、またお金も稼ぎやすかったので、朝鮮人も続々と流人して増えていた。 かえってその朝鮮人が「俺は日本人だ」と言って威張りすぎるので満州の官憲が手を焼き、日本人が板挟みになって処埋に困っていた。欧米を旅行しても、日本人だと言えぱ一等国民として扱われるので、朝鮮人は好んで日本名を便って目本人を名乗りつつ、世界を闊歩した。 満州国を視察した後われわれの視察囲は南下し、ハルビンを経て南満州の吉林省へ人ったU今までの列車は、立木もなく人っ子ひとりいない広漠たる平原をひた走りに走って来たのであるが、吉林省へ入ると様子ががらりと変わり、日本の内地のように木の生えた山々が続いていた。 この地に人って驚いたのは、駅々がすべて土嚢と鉄柔網で厳重に防護されていたことである。ここはソ連領の沿梅州にすぐ近いので、ソ連はしきりに住民を拉致してソ連領内で共産主義を教育洗脳し、再び送りこんでゲリラ戦をやらせていた。樹木の多い山続きの地形は、ゲリラ戦にば絶好であった。 従って昼間はともかく、夜間は集落の中でも危険なので外出は絶対禁止であった。列車が豆満江を渡って朝鮮の領域に入ると、地形はあまり変わっていないのに、東溝州の恩苦しく繁張した空気はがらりと変わり、目本内地同様ののどかな平和杓な雰麗気になってしまった。 朝鮮半島の日本海岸の北端に近い漁港の清津で一泊したが、私は宿舎の浴衣を着て、二〜三人の友人とともにぶらりと散歩に出た。するとラジオ店の前に黒山の人だかりができていた。当時のこの町では一般家庭にはラジオが普及していなかったので、内地人も半島人もラジオ屋の店頭に集まり、ベルリンオリンピックの実況放送を聞いていたのである。聞くと「ちょうど今、半島人の孫選予が、胸に日の丸のマークをつけてマラソンレースの先頭を走っている」というので、群衆は熱狂していた。やがて彼は見事にゴールインして優勝した。内地人も半島人も一つになり、狂喜してバンザイを叫んでいた。 半島の日本海側をさらに南下すると、沿線には近代的な大農場や各種の重・軽工業の工場が林立していた。すべて日韓併合後に出来たものである。元山咸興市では、列車を降りて朝鮮窒素の大工場を見学し、近代工場設備のすぱらしさに驚嘆した〈この町は戦後の朝鮮戦争で凄惨な主戦場になった所である)この工場で生産される窒素肥料により、朝鮮の農業は一挙に近代化を遂げたという。 首郡の京城(今のソウル)に二泊し、各所を見物していろいろな話を聞いたが、日韓併合当初にはしきりに起こった抵抗運動の争乱も、満州事変以後はほとんどなくなり、半島人も好んで日本名を名乗り、日本人として扱われることを喜ぷようになっていた。日本名を名乗るのは希望者の申し出に従って許したのであり、強制したのではない。さすがに首都だけあって町は華やいだ空気に包まれ、夏のこととて、透きとおるような薄絹の上衣の下に、色とりどりの長い衿を胸高にしめた若い女性たちの姿が、私にはこよなく美しく思われた。 しかし裏街のしもた屋の軒には、まだ頭にチョン髷を結った白い衣の老人が、一メートルもありそうな煙管をくわえて、半ぱ眠るように坐っているのが所々に見られた。当時内地の私の故郷の町にも、まだチョン髷を結っている頑固な老人が一人だけいた故、私はほほえましくそれらを眺めた。釜山から連絡船に乗って朝鮮を離れる時には、生まれて初めて外地を旅して日本へ帰る嬉しさと同時に、平和でのどかな朝鮮に対して郷愁のようなものを感じた。 戦後十二年たった一九五七年に、私はアメリカの首府ワシントンの、あるキリスト教のクラブに宿拍した。タ食後にはいろいろな国から来た十二人の宿泊者のパーティーが開かれ、それぞれお国自慢のスビーチをすることになった。しかし無条件降服してからまだいくらも経っていない私には、とても日本の自慢話をする勇気がなかった。 すると居含わせた台湾からの旅行者が、私に代わって日本の自慢をしてくれた。彼は日本を万世一系の皇室を載いて一二四代を数え二干六百年も統いでいる素晴らしい国だとわが事のように自慢し、さらに次のように語った。「われわれ台湾人は、日本の時代に最も幸福であった。日本人が来る前の台湾は全く未開の野蛮国であり、いろいろな伝染病のために年々たくさんの人が死んでいた。大戦が終わると情介石に率いられた中国の国民政府軍がやって来たが、言論の自由は全くない。われわれは日本時代が最も自由で幸福であった」と。 私は同じような日本の旧領の韓国にも戦前派の友人をたくさん持ち、いつも温かい友情を感じて来た。歯科の国際会議では、韓国の代表とは言葉も通じて同国人のように感じるのでとくに親しくし、いつも密接に協力して来た。韓国へ招かれて講演した事も何回かあり、韓国歯科医師会の名誉会員にもしていただいている。 変わり種としては、アメリカのシカゴチヤッに住む郡さんがいる。植にノースウェスタン大学の助教授をしておられた時、偶然同大学を訪れた私に先方から日本語で話しかけて来られ、その晩は目本料埋店に案内されてご馳走になった。以末シカゴへ行くたびにお目にかかって大変お世話になっている。私だけでなく、他の日本人もシカゴに行くたびに、鄭さんを訪れるようになり、何くれとなくお世話になっている。お互いに外国人という感覚はなく、血のつながった親戚の感じである。 つい最近まで同じ日本人であったのであるから、これは当然のことであろう。初めて外国を訪れた旅行者にとって外国に住みついた同国人に会い日本語で話せることは、何より心の安らぎを与えるのである。私がワシントンで台湾からの旅行者に会ったのと固じ年の一九五七年、私は韓国の実業家と、日本の統治について語りあったことがある。 私がシカゴで開かれた学会に出席した時、偶然同じホテルに泊まり、彼も日本語を話したので夕食を共にしたからであった。彼は言った。「これまで沢山の国ぐにが値民地を支配したが、日本の支配が最良であった。白人が有色人種を支配する場合には、有色人種の生活を白人とは全く違うレベルに止めた。これに対して日本人は、韓国人にあの面倒で不便な弁髪を止めさせ、日本人と同じように便利な洋服を着ることを奨励し、希望する者には日本名を名乗ることを許し、韓国全土にたくさんの小学校を造って全国民を教育し、われわれを日本人と同じレベルに引き上げようと努めてくれた。世界各国の植民地を見て来た私は、日本のこのような統治をほんとうに有難かったと思っている」と。 当初は、日本の支配や改革に抵抗する動きがいろいろあったが、満州事変の頃から態度が一変し、半島人は日本人であることをことさらに誇示するようになった。特に第二次大戦に入ってからの日韓人の一体感はすぱらしかった。「聖戦を遂行するために半島人も内地人同様の義務を負担したい」という世論が高まったので、要望に応えて志願兵制度をつくったところ、何十借もの志願者が殺到し、採用されたものの成績は模範的であった。 彼らの中には抜群の功績を立てたものも少なくない。現に私の属した近衛師回でも、参謀の一人は半鳥人であった。にもかかわらず、このような反日感情は、韓国が戦後日本から分離独立させられて以来の奇怪な教育によってすっかり壊されてしまい、戦後派の若い世代の人々が極端に感情的な反日になってしまった。そのために今では、政治家も親日的な態度は危なくてとれないような状態らしい。 かつて同じように支配された台湾の人々が、今なお、あんなに感謝してくれているのに、どうして韓国の人々は日本を恨もうとするのか、私には不恩議でならない。韓国の人々は北朝の現状をどう見ているのであろうか。日本が併合したことによって、ロシアに呑みこまれて共産化することを救われたことを、どうして感謝してくれないのであろうか。 何とか感情を柔げたいと思って、日本の政治家が出掛けて行って、言うべきことも言わずにひたすら謝罪してみても、結果は逆効果らしい。謝れば謝るほどますます非難がつのっているからである。感情的にまくし立てる一方的な非難に対して、何も論埋的な反論もせず、当面を糊塗しようとする日本の政治家が事態をますます混迷させている。 謝るから図に乗って非難されるのだ。日本人は堂々と胸を張って、写えた恩恵を誇るべきである。私の親しい韓国の友人は、日韓の学者が歴史のすり含わせをしたらと提案してくれている。しかし李承晩以来のあの強引なでっち上げの歴史観を、例の調子でヒステリック且つ高圧的に揮しつけられたら、冷静客観的に考えている目本の学者が含意に達することは到底不可能である。 その上、東京裁判更観に洗脳された目本の政治家や社会人がこれに介人したら、国辱的な結論しか得られようがない。 また韓国代表の誰かが目本の言い分を認めたら、直ちに生命の危険を伴うことになろう。 その他、今回の教科書や轄国間題で韓国政府の指令を受けた在日韓国人たちの活動振りを見れぱ、彼らに選挙権を与える事は直ちに日本の国権を売り渡すことになるのは明らかである。公正に動こうとする人々はすでに日本に帰化している。日本人にはこのような帰化人を公平に優遇してきた伝統がある。 −−−−−−−−−−−−−−−− funwaka談 何故韓国人はこのように変節してしまったのでしょうか。 その全ての責任は朝鮮動乱の後に韓国の統治者になった [ 李承晩 ] に有ります。 韓国の初代大統領になった李承晩は日本統治よりも悪くなるばかりの国の経済における執政の失敗から、国民の目をどこかに逸らそうと考えたのです。 民主主義が発育していない低開発国の為政者にはありがちな事です。 その標的となったのが日本敵視政策でした。有りとあらゆる事で歴史を書き換え日本悪しと国民を教育したのです。 悪しき日本という感情を国民に浸透させるほどに、日本統治以前と比べられての施策の失敗をごまかすことが出来るからです。 落合信彦氏は著書の中で、当時の事を良く知るアメリカ軍関係の人達や資料などで、知り得た驚くべき情報を書いています。 李承晩は韓国国民の目を逸らすため日本侵略を企ててたのです。そのための軍事訓練を行い上陸艇を用意し、日本侵攻直前まで行きました。 ところがそれが当時、日本や韓国に駐留しているアメリカ軍の知るところとなり、共産化と戦っていたアメリカにすれば同盟国の二つが戦争をするなど到底容認できる事では無く、強硬に李承晩を諫めました。 もしもあの時アメリカが一切の手出しをしていなければ、間違いなく韓国は怒濤のごとく日本に攻め入っています。 三度目の元寇となります。 私はこのとき、韓国が日本に攻め入って来てくれていたら!と有る意味残念に思います。 もしもそれが有ったなら、朝日新聞や日本国民が、ここまで平和ボケする事は無かっただろうと思うからです。 元寇の時の朝鮮人の残忍さ!今でも北朝鮮や中国は全く同じ事をしています。 [ 捕虜の手の甲に穴を開け鎖で繋げて引き連れ回すのです!] 絶対に日本人には無い!残虐さ!です! 戦争にこそならなかったものの、それ以来も一貫して韓国の嫌日政策は続けられました。 当然のように歴史も塗り替えられました。 戦前の韓国の最大政党が欧米列強から自国を守るために日本統治の国会決議までして、日本の金と軍事と教育を頼ったのに、戦後その歴史的事実を全て歪曲してしまったのです。 歴史教科書を書き換えなければいけないのは、韓国自身なのです!! |
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5.6.10
| 変見自在 帝京大学教授 高山正之 週刊新潮 05.5.5 掲載より 捨てられた さいとうたかを描くゴルゴ13は他人が自分の背後に立つのを嫌う。その他人がきれいな女性でも、手刀を飛ばしてやっつけてしまう。それが我が身を守る本能だからだ。 国家もゴルゴ13と同じような本能をもつ。例えば仏印植民地政府。北には無能な中国が、西には小国タイがある。怖くもない。その向こうは英領マレーで、南は蘭領東インド。同じ白人国家の植民地が広がって、敵対する者の影すら見えなかった。 ところがある日、目の前の海南島に日本軍が上陸してきた。日本軍の目的は援蒋ルート(蒋介石援助ルート)の遮断だったが、フランスは敏感に反応した。口を極めて日本を罵り国際世論に訴え「それはもう大騒ぎだった」と英戦史家C・ソーンが書いている。 その翌年、日本軍が北部仏印に進駐したときはもっと大騒ぎになって、ナチス傀儡のビシー政権は英国で亡命政権を作っていたドゴールを通じて、米国に日本を追い出させようとする。それが不調に終わると米国はドイツに頼む。枢軸国同士、よしなに、と。戦争してても白人国家同士、互いの財産は尊重するということだろうか。 それはともかく、なぜフランスは日本軍の海南島上陸でキレたか。それがゴルゴ13の理論である。国家は、その脇腹に「危険な他人」がいることを好まない。それが国家の存亡にも関わるからだ。例えば一八九八年の米西戦争もゴルゴ理論の好例になる。発端は米国の脇腹に位置するスペイン領キューバでの独立運動だった。植民地支配はいやだ、独立したいというキューバ人と宗主国スペインが争うのを米国は最初、傍観していた。 隣人が家庭内で争っている方が、その隣に住む者には安心だからだ。ところが内戦はキューバ人に有利に傾き、宗主国が追い出されそうになる。新しい国ができればその国が親米とは限らない。敵に回れば脇腹に匕首が突き立つ危険もある。かくてT・ルーズベルトは「虐げられた人々を助ける」という名目で介入を建策。米政府は因縁をつけて戦争を仕掛け、スペインはあっさり降伏する。 勝った米国の行動がおかしい。放っておいても勝ちそうだったキューバ独立軍を追い出し、代わりに親米の政権を樹立させた。どんな卑劣な手段を使ってでも自国の脇腹に「危険な他人」は置かせない。これがこの戦争の目的だった。狡猾なルーズベルトの政策だが、彼は同じように脇腹に匕首を突きつけられた日本の立場を最もよく理解していた一人だった。 日本にとっての匕首は朝鮮半島になる。ところが統治する李氏は清国のスカートの陰に隠れ、独立も、まして近代化する意志もないと公言する。 それで日本は清を戦争で負かして、朝鮮を独立国と認めさせた。ところが朝鮮は、日本がその進出を最も警戒しているロシアに港まで提供しようと言い出す。愚かを絵に描いたような李氏の妄動のおかげで今度はロシアと国家の存亡をかけて戦う羽目になる。 そして多くの犠牲を払って日本がロシアに勝利したとき、日本の苦労を思ってルーズベルトは二つの外交政策をやった。一つはご存知、ポーツマスでの講和会議の主宰だ。彼は日本が勝っている段階で、しかも日本の戦費が底をつく前に戦争を終わらせようと取り計らった。そしてもう一つはあまり知られていないが、朝鮮に置いた米公館を閉鎖し外交官を引き揚げさせた。 「朝鮮の皇帝は驚いてルーズベルトに泣きついた」とヘレン・ミアーズは『アメリカの鏡・日本』の中で書いている。しかし、大統領は「朝鮮が自主統治にも自衛にもまったく無能力であることがはっきりした」と撤収の理由を説明してやった。平たく言えば、朝鮮は半人前、それで大きな迷惑を蒙っている国がある。いい後見人についてもらいなさいという意味だ。日本が朝鮮を併合するのはそれから五年後になる。 韓国は日本の歴史認識がどうの、文句を言う。日本だけでなく世界がどう見たか、調べてみるといい。 |
(この項以降、新聞雑誌よりパソコンへの打ち込みはユートピア11.がしてくれる事になりました。11.の私設秘書さんに感謝! m( _ _ )m)
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5.9.24
産経新聞 新地球日本史 黄文雄(拓殖大学客員教授) 日本の満州政策に大きな問題はない ◆なぜ満州国に中国人は殺到した?◆ 日露戦争後の満州、満州国の歴史について語る場合、よく強調されるのが、満州は日本の「傀儡(かいらい)国家」であり、そこにおける日本軍の侵略、虐殺、略奪、搾取といった悪行である。 しかし本当に満州がそのような阿鼻叫喚の地獄であったなら、なぜ満州国建国以来、そこに年間百万人以上もの中国人が、万里の長城を越えて流れ込んだのだろうか。人間なら誰であれ、自ら進んで虐殺の大地には入り込まないだろう。ところがこうした疑問について、中国人学者は何も答えない。なかには「日本に強制連行されたのだ」と弁明する者もいたが、もちろんまったく根拠のない話だ。数万の関東軍が、どうして百万単位の中国人を強制連行できるのか。 この疑問を解くには、まず中国史の社会経済的背景や生態学的現象について考えなくてはならない。中国の歴史の鉄則は「一治一乱」である。泰平の時代の後には、必ず「天下大乱」に見舞われている。たとえば唐の盛世である貞観の治や開元・天宝の治の後には、安史の乱、黄巣の乱、藩鎮(軍閥)割拠が起こっている。巨視的に見れば、中国おける平和な時代とは、混乱と混乱のはざまでの、わずかな憩いのひと時に過ぎない。 満州人の清国は、万里の長城を越えて中国を制覇し、ジュンガル帝国の西域や、ウイグル人、チベット人を征服するなどで版図を広げ、康熙、雍正、乾隆三帝の時代に盛世を迎えた。そしてこの異民族の支配下で中国人は、人頭税から免れるなど、有史以来最も幸福な時代を迎えている。 しかしこの盛世が過ぎ去ると、次にやってきたのはやはり天下の崩壊である。18世紀末、乾隆帝が退位した翌年に始まった白蓮教徒の反乱以降、清国では内戦、内訌(ないこう)、反乱が延々と繰り返された。 19世紀になると、内戦は熾烈さを増し、世界最大の内乱である太平天国の乱では人口の5分の1が消滅し、回乱でも人口の10分の1に当たる回教徒が虐殺されている。 内戦と連動して発生したのが天災、飢饉、伝染病である。1810年の水害、干魃では餓死者は9百万人を数え、翌年には2千万人に達している。1849年の大飢饉では、1375万人が死に、1876−78年の飢饉でも1300万人もが犠牲になった。数百万人規模の餓死者を出した天災なら数え切れない。 ではなぜそのような状況になったかというと、まずは清初三帝の盛世での人口急増だ。明末期には疫病や飢饉で3千万人にまで落ち込んでいた人口は、17世紀初頭には1億人に増え、18世紀末には3億人、19世紀中葉には4億人にまで膨張した。そうしたなか、資源の争奪によって自然崩壊が始まり、そしてそれは社会崩壊に拍車をかけ、さらに社会崩壊は自然崩壊を呼ぶという悪循環に陥ったのである。 清の朝廷にこの悪循環を断ち切る能力はなかった。そしてこうした状況は20世紀中葉の国共内戦の終結に至るまでつづき、その間、一年といえども内乱の発生しない年はなかった。 まがりなりにも全国を統御していた清国が崩壊して中華民国が成立すると、軍閥内戦、国民党内戦、そして国共内戦と戦火がやむことはなく、また省対省、村対村レベルの抗争も絶えなかった。 また飢饉も頻発し、1931年の満州事変前後の全国大飢饉(1930−32年)では、1千万人以上が餓死し、公報で民衆の共食いの惨状も報告していたほどだった。陝西省では人口の実に6分の1が流民となっている。また満州事変前後の華北、華中では、内戦や水害、干魃の連続パンチに見舞われ、農村崩壊、一家離散、飢饉、虐殺、略奪が各地で見られた。1927−34年の自然災害だけでも、被害者は全人口の4分の3を占めた。 そのような状況のなか、満州国が出現した。日本の強力な指導の下で内戦や飢饉の要素が排除されたこの国は、中国人から見ればまさしく「王道楽土」だった。中国人が怒涛の如く、その地に駆け込んだのも当然といえるだろう。 ◆満州再建は列強日本の責任だった◆ 中国人は現在、「満州」の地名を否定し、「東北」と呼ぶだけでなく、日本人に対しても、「支那」と同様、使用禁止を求める傾向にある。彼ら曰く、「満州」とは日本人が中国分割のために作った地名だと。そして満州国については、「偽満州国」と呼んでいる。つまり日本の傀儡である「偽りの中国地方政権」だったというわけだ。 しかし中国人も戦前には「満州」と呼んでいたし、中国共産党も「満州委員会」を設けていた。要するに戦後になって「東北」を強調するのは、満州が中国の領土ではなかったことを知っているからだ。 中国人が「満州は中国の神聖不可分の領土だ」と主張し始めたのは辛亥革命以降である。満州人を異民族と看做して清国を打倒した中華民国だが、いざ政権を樹立すると、清帝国の版図を継承する必要から、その版図だった満、蒙、回、蔵の諸民族を漢民族と同じ「中華民族」とし、その領域を中国の領土だと極めつけ、歴史の捏造を開始して今日に至っている。 最近は「高句麗は中国の一地方政府」だったと主張して韓国と歴史論争を繰り返しているが、高句麗が中国と敵対する別の国だったことは誰もが知っている。 60年代の中ソ国境紛争当時、ソ連首相フルシチョフは中国に対し、「古来中国の国境は万里の長城であり、中国の国力がそれを越えたことはなかった。理不尽な主張を続けるならば、それは宣戦布告以外の何者でもない」と警告したが、それは正しい歴史認識である。 史実から見れば、中国人は清の時代まで、長城以北の地を自国の版図とも勢力範囲とも考えたことはなかった。そもそも長城という巨大建築自体、そのことを物語っている。これは軍事的境界であるだけでなく、政治的、文明的、文化的な境界として築かれたものだった。長城以南の農耕植生圏が中華世界と看做され、以北の遊牧圏は「関外(かんがい)」「塞外(さいがい)」と称する異域であり、野蛮な夷狄(いてき)の住む土地と考えられていた。 関外の満州は有史以来、漢族とは絶えず対立、拮抗してきた土地で、アルタイ語系諸族が離合集散、国家興亡を繰り返してきた。満州族もその一つで、ツングース系のこの部族は漢人より朝鮮人や日本人の方に近い。漢人はその満州族を「東胡の賤種」「犬羊の遺蘖(いげつ)」「満奴」「韃虜」と罵ってきた。 今日の中国人が書いた「中国東北史」の冒頭にはたいてい、満州族は中華民族の一員、あるいは同じ黄帝の子孫などと書かれているが、満州は中国王朝に従属したことも、領有されたこともなかった。せいぜい清の時代に、逆に中国を植民地統治したぐらいである。乾隆帝時代に編纂された百科事典『四庫全書』には、満州人の建国は、中国の黄帝時代に行われたとあり、満州は中国と並立してきたと記されている。 のちに「中華民国建国の父」と呼ばれる孫文でさえ、革命以前は「満州は中国の土地ではない」と断言していたことは知られている。孫文は日本政府に対し満州売却を持ちかけてもいる。もっともすでに南満州を手中にしていた政府は、満州に何の実権も持たない孫文など相手にしなかった。 その後成立した中華民国は騒乱に明け暮れ、満州を回収する力などなかった。そしてこの地に日本は満州国という満州人の国を再建させた。アジアの一角を占める、この無秩序で不安定な空間に社会的秩序を打ち立てることは、日本の列強としての道義的責任だったといえよう。そもそも満州はロシアの南下を防ぐための要衝であり、無能、無気力な清国に代わってこの地を開発していたのは日本だったのである。 満州国成立後、「満州=中国領」を主張する中国人学者と、それを否定する日本人学者の間で歴史論争が展開された。日本人の満州への関心は江戸時代以来のもので、満州研究は非常に進んでいた。一方中国人は伝統的に、この「夷狄」の地にまったく無知、無関心だったため、せいぜい「満州族は黄帝の子孫」と主張する程度で、ほとんど相手にならなかった。 ◆東アジアに出現した一大産業国家◆ 満州国総務長官だった星野直樹氏は戦後、「ひとり主導的地位に至った日本人のみならず、ひろく東亜諸民族が力をあわせて開発、発展せしめ、その恩福を、ひろく各民族間に分かち、ここに新たなる楽天地をつくりあげようと、日本の若き人々は進んで満州国に集まってきた」(星野直樹『見果てぬ夢』)と回想しているが、1942年に完成した豊満ダムなどは、まさに満州国の国造りと近代化にかけた日本人の情熱のシンボルだろう。 これは洪水防止、灌漑、飲用水、工業用水、航運、発電などを目的とした東洋最大級の多目的ダムだ。ここを視察に訪れたフィリピン外相は、「フィリピンはスペイン植民地として350年、アメリカの支配下で40年を経過している。だが住民の生活向上に役立つものは一つも作っていない。満州は建国わずか10年にしてこのような建設をしたのか」と語ったと案内役の満州電業理事長だった松井仁夫は述べている(松井仁夫『語り部の満州』)。 フィリピン外相の言葉は、日本の満州政策と欧米の植民地政策との本質的異なりをよく言い表している。日本は満州にかぎらず、台湾、朝鮮においても、行ったことといえば近代社会建設だった。 日露戦争の結果、日本はロシアから南満州の権益を手に入れ、関東州と満鉄沿線にベルト地帯を設定した。かくして満州事変までの約20年間で、このベルト地帯は安全の面で、軍閥支配下(あるいはロシア勢力下)地域とは天国と地獄ほどの開きができた。当時の沿線地帯の人口は全満州の30%だが、GDPでは80%を占めるに至った。 「満州は日本の生命線」とされたが、それと同時に満鉄は満州の生命線になったわけである。満州国建国後、満鉄は国有に帰し、全土の人流、物流の大動脈となった。最高時速130キロという世界最高水準の「あじあ号」を生んだのも満鉄である。 建国翌年の1933年には国土計画「満州国経済建設綱要」が発表された。それは鉄道、港湾、道路、あるいは上下水道、電力供給、治山、治水などの都市計画といったインフラ建設を打ち出したものだった。 その結果、産業が大いに興され、市街や道路がほとんどなかった満州の広野には、いくつもの都市が出現し、総延長で6万キロの国道、5万キロの地方道路も網の目のように建設され、さらにはアジア初のアウトバーンも建設されている。こうした日本人の営みと、それ以前の略奪を専らにした満州軍閥の支配との、文明史的比較は必要だろう。 満州国は13年余という短命だったが、それでも東亜大陸の一角に、一大産業国家が忽然と出現したことは人類史上の奇跡に近い。当時の中国人にとって戦乱も飢饉もなく、私有財産も安全も保障され、しかも進んだ教育、医療を受けられたこの国は桃源郷だった。「王道楽土」が決して政治的宣伝ではなかったことは、当時の中国の悲惨な状況と比較すれば、一目瞭然なのである。 満州国が、関東軍による強力な内面指導を受けていたため、しょせんは日本の傀儡だったと多くの戦後学者は指摘する。さらには日本の実質上の植民地であり、植民地であったからには必ず搾取が行われていたとも。 もちろん「搾取」は史実に反している。日本人は満州で「奪った」のではなく「与えた」のである。もっともこの国が、人的にも、物的にも、財的にも、日本人が中心になって成立し、運営されたのは事実だが、それは日本人抜きでは、この地に平和と安定を招来させることは不可能だったからだ。このことは、中華民国が国造りで失敗し、多政府乱立の戦乱国家に転落した史実からも明らかだ。 中国からの移住者が絶対多数を占めていたからといっても、彼らのほとんどは非識字者であり、流民だった。他方、日本人には、近代国家建設、国民意識の確立の経験があり、高い教育水準、資本の蓄積と技術開発の能力も備わっていた。日本人が五族協和の複合民族国家において主役になったことに、何の不当性もなかったのである。 ◆戦後中国を支えた満州国の『遺産』◆ 1945年8月9日、米軍の長崎への原爆投下と同日、ソ連軍が国境を越え、四方面から満州への侵攻を一斉に開始した。侵攻軍は80個師団、40個戦車・機械化旅団等からなる約160万とも170万ともされる大兵力だった。かくして日本は敗戦を迎え、満州国は日本帝国とともに崩壊した。 中国では日本との戦争で小康状態にあった内戦が再び開始され、かつての桃源郷満州もまた、この戦乱の渦に巻き込まれた。つまり中華世界への回帰である。当時の国共内戦の熾烈さはかつての軍閥混戦の比ではなく、百万人規模の殺戮、略奪をともなうものだった。たとえば林彪ら共産党中央軍事委員会の報告によると、満州で行われた遼瀋戦役だけでも、国民党軍の40万人以上もが殲滅されたという。 満州国崩壊の時点で、その重工業における生産量は全中国の90%を占めていた。すでにこの国は、戦闘機の生産も可能なハイテク国家だった。今日の東アジアで、戦闘機を開発できる国は日本と台湾、中国しかないことからみてもその発展ぶりは理解できよう。総発電量でも1千万キロワットにまで上げることが可能とされていたが、47年に発表された中国全国のそれは、わずか百万7千キロワットである。 そのため、国共両党にとってこの超先進地域は垂涎(すいぜん)の地であり、毛沢東は45年4月、中共7全大会の政治報告で、「我々のすべての根拠地が失われても、東北さえ確保されれば、中国革命の基礎を築くことができる」といっている。実際彼はソ連の満州侵攻の翌日、早くも満州占領を指令している。国共による満州争奪戦の開始である。 日本人が残した満州国の「遺産」は、戦後中国の生命線になった。それは重工業だけでなく、社会システムそのものがそうである。かつて金融貨幣制度が極度に紊乱(びんらん)していた満州では、通貨統一が見事成功し、これによって民心が安定し、商品経済も発展したが、これは中国では想像外のことだった。 中国社会は人間不信、政府不信の社会である。日本人の金融政策あってこその近代産業の勃興だったのだ。このことは台湾、朝鮮、そして支那事変中の日本の占領地域についてもいえることだ。驚くべきことに満州国貨幣は、亡国から2年後まで、なお同価値で流通していた。 だが「遺産」も使い手次第だ。中華世界に編入された満州は内戦、革命の混乱社会へと逆戻りした。そしてそのなかで中国人は、「遺産」を継承するというより、満州の富の一方的収奪にのみ熱心だった。つまり権力闘争に忙しかった彼らは、満州の富を食い潰しながら、体制の維持をはかったのである。 満州は重化学工業基地、資源供給基地として機能するよう命じられ、付加価値の高い産業はほとんど認められなかった。大慶油田は中央から純収益の90%を上納させられ、売上高の60%も税金として巻き上げられている。企業内保留不足のため再投資はできず、産業の発展は停滞し、かくしてこの地は没落の一途をたどったのである。 このような北京による搾取現象は「東北現象」と呼ばれている。そして「遺産」が食い尽くされたため、新たにとられた路線が、ほかならぬ「改革開放」である。他力本願による、対満州依存から対外依存への路線転換である。 前出の星野直樹氏は「生命わずか13年、満州国の建設はついに見果てぬ夢に終わった。しかしこの間、日本の若き人々の費やした努力と苦心とは、永久に日本民族の誇りとするに足るものであると確信する」(前掲『見果てぬ夢』)と述べている。それはそうだろう。荒蕪の地に近代国家を成立させ、人の住める土地に変え、せいぜい鍋釜を作る程度の家内工業しかなかった農業地域に、一近代産業国家を打ち立て、中国人には夢のごとき安寧社会、生存空間を与え、そしてソ連の南下からアジアを守りつづけたばかりか、戦後中国に屋台骨まで提供したのである。 日本人はこれを誇りにせず、いったい何に誇りを持とうというのだろうか。 |
憲法と世論で伝統を論ずる無理 お茶の水女子大学教授 藤原正彦 サンケイ新聞05.12.7朝刊正論より 有識者の恐るべき不見識 昨年伊勢神宮を初めて参拝した。午後の外宮を歩いていたら、白装束に黒木靴の神官が三人、恭しく食膳を持って通りかかった。尋ねると、「神様の食事で、嵐の日も戦争中も一日も休み無く、朝夕二回、千四百年あまり続けてきました」と言った。六世紀に外宮が出来て以来という。こんな国に生まれて良かったと久々に思った。 伝統を守ることの深い意義を信じる私にとって「皇室典範を考える有識者会議」が女系天皇を容認、の報道は衝動的だった。「世にも恐ろしいこと」と蒼ざめた。政治や経済の改革が気に入らないことは始終ある。しかし、政治経済は失敗しようと所詮政治経済である。腹を立てても蒼ざめる事などありえない。しかし今時の答申はまったく質が異なる伝統中の伝統、皇統に手を入れるものであり、その存続を危殆に瀕しかねないものであり、国体を揺るがすものだったからである。 その答申に目を通してみてその空辣かつ凡庸な論理展開に愕然とした。二千年の皇統を論ずる上での原点が、なんと日本国憲法と世論だったのである。実際答申では要所要所でこれら原点に戻り、結論へと論を進めている。この二つを原点とするなら、実はその時点で結論は一義的に定まってしまう。男女平等により長子優先である。議論は不要でさえ有る。 長い伝統を論ずる場合、それがどんなものであろうが、先人に対する敬意と歴史に対する畏敬を胸に、虚心坦懐で臨むことが最低の要件である。この会議はその原則を逸脱し、移ろいやすい世論と、占領軍の作った憲法という (funwaka注、私は戦後に作られた現憲法を我が国の歴史と文化に根ざした誇るべき国体を完全に無視し踏みにじったアメリカの押しつけ憲法だと認識しています) もっとも不適切な原点を採用したのである。「有識者」の恐るべき不見識であった。 そもそも皇族は憲法の外にいる人である。だからこそ皇族には憲法で保証された選挙権も、居住や移動の自由や職業選択の自由もなく、納税の義務もないのである。男女同権だけを適用するのは無茶な話である。 伝統は時代と理屈を超越 伝統を考える際に憲法を原点とするなら憲法改正のあるたびに考え直す必要性が生ずる。憲法などというものは歴史をひもとくまでもなく単なる時代の思潮にすぎない。流行と言ってもよい。世論などは一日で変わるものである。憲法や世論を持ち出したり、理屈を持ち出すと、ほとんどの伝統が存続できなくなる。伝統とは定義からして「時代や理屈を超越したもの」だからである。 これを肝に銘じない限り人類の宝石と言うべき伝統は守れない。 天皇家の根幹は万世一系である。万世一系とは、神武天皇以来、男系天皇のみを擁立してきたという事である。男系とは父親→父親→父親とたどると必ず神武天皇にたどり着くという事である。これまで八人十代の女性天皇がいたが、全て適任の男系が成長するまでの中継ぎであって、その男系でない配偶者との子供がただの一度もない。女系天皇となってしまうからである。 (funwaka注、これが女系天皇反対派の最も重要視するところで、「女系天皇容認なら、ホリエモンの子供でさえも天皇になる可能性が出てしまう」という論である、もっともな論である、誰がどう考えても「金さえあれば何でも手に入る」と豪語するホリエモン等の子孫や、私のような世俗の極みを生きている者の子孫が天皇家の血筋となる可能性を誰も由と思わないだろう。) 二十五代の武烈天皇は適切な男系男子が周囲に見あたらず何代も前に分かれ傍系となった男系男子を次の天皇とした。十親等も離れた者を世継ぎとするなどという綱渡りさえしながら必死の思いで男系を守って来たのである。涙ぐましい努力より万世一系が保たれたからこそ現在天皇は世界唯一の皇帝(エンペラー)として世界から一目置かれ、王様や大統領とは別格の存在となっているのである。 万世一系は世界の奇跡 大正十一年に日本を訪れたアインシュタインはこういった。 「近代の日本の発展ほど世界を驚かせたものはない。万系一世の天皇を戴いていることが今日の日本をあらしめた.....我々は神に感謝する。日本という尊い国を造ってくれたことを」 世辞も含まれていようが万世一系とはかくの如き世界の奇跡なのである。 これを変える権利は首相の私的諮問機関にすぎぬ有識者会議にはもちろん、国会にも首相にもない。天皇ご自身さえない。国民にもないことをここではっきりさせておく。 飛鳥奈良の時代から明治大正昭和に至る全国民の想いを、現在の国民が蹂躙することは許されないからである。 平成の世が、二千年続いた万系一世を断絶するとしたら、我々は傲岸不遜の汚名を永遠に留めることになろう。 私(funwaka)は女性天皇については「まあそれも時代の流れだろうなあ・・・」で解釈していた。しかし、様々な意見、論調、を読み砕いてゆくうちに徐々に考えが変わって来た。そして今は上記の藤原教授の論にほぼ賛意を持っている。 教授が言う、【 適任の男系が成長するまでの女性天皇は良いだろう。しかし長子優先とした場合、どの国からも近事類を持たず、世界から一目置かれ王や大統領かとは別格の存在である二千年の歴史と伝統に根ざした万世一系の天皇が天皇たる由を閉ざしてしまう事となる。】という考えに賛意を覚える。 歴史の断絶ほど恐ろしい事はない。戦後60年の愚劣な自虐史観における歴史教育のせいで、誇り高き日本、そして世界に誇れる日本の歴史と文化が完膚無きまでに貶められた事実を見れば明らかな事だ。 世界で賞賛される世界唯一の天皇(エンペラーであって、王ではない)の歴史を閉ざして良いのだろうか。 もしも閉ざせば、教授の言う通り、我々平成を生きた者は後世、永続する子孫に『取り返しのつかない伝統と歴史を途絶えさせてしまった愚かな時代の民』と特定され、終生罵られ続ける事だろう。 女性天皇は良い、しかし女系天皇は歴史を冒涜することとなるのです! 女性が天皇になることに反対はしません。しかし女性天皇と、女系天皇とは全く意味が違うのです。 「女系天皇」、そのような事を私達に決める権利は無い!それは誇り高い日本の歴史を汚すことである! と、私も思います。 最後に付け加えておきたいのは、これは歴史と伝統論、文化論であり、女性蔑視、女性差別とは全く性質の違う論である事を明記しておきます。 funwakaはパーフェクトなフェミニストであります。だって、、、「彼女やワイフが居なければ生きていけない!」と誰よりも肝に銘じている私です。f(^-^; |
「東条英機」に感謝状を贈る「ボース記念館」 週刊新潮1月19日号より 東条英機元首相にインドのチャンドラ・ボース記念館感謝状が贈られる。「以前からボー巣記念館に来てくれとお誘いを受けていました」というのは元首相の孫娘の東条由布子さん(66) 3月に記念館のあるカルカッタを訪れ、故人に代わって感謝状を受け取るそうだ。 「昨年末に記念館から、大東亜会議へのボース氏招請を大変光栄に思う、結果的にインドが独立できた、東条英機氏に感謝状を贈りたいとの申し出がありましたので、招待を受けることにしたのです。 こんなに嬉しいことはありません。祖父があの世でどんなに喜んでいることでしょう」 チャンドラ・ボースは第二次大戦中、反英活動を展開した(当時インドは英国の植民地であった)インド独立の志士。記念館はボースの邸宅を改装して作り、遺品などを展示している。「館内に東条英機のコーナーを作りたいというので、ウチから祖父の写真やドイツ武官時代に父に送った手紙などを提供しました。 インドの留学生がCD−ROMに記録して持ち帰ったのです。ネットでも見られるようにするということでした」 昭和20年8月18日に台北で飛行機事故により不慮の死を遂げたボースの遺骨は、今も東京・杉並区の蓮光寺に安置されている。 「昨年私はたまたま蓮光寺にお参りしたのです。ネール、インディラガンジー両首相もお参りになりました。インド側が(当時)遺骨を受け取らなかったのは、独立運動の英雄の死を認めることが出来なかったからでしょう。いつかお国にお返しできればと思いますね」 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− funwaka談 私は以前から中国朝鮮などの、法治無き強盗泥棒嘘つき反日国家などと付き合うべきでなく、(これらの国に工場や会社を作らず)それ以外のアジアの国々、台湾、マレーシアフィリピン、インド、(共産国家のベトナムを除く、)との経済交流を拡大すべきだと言ってきた。(ホームページ作成当初に、funwaka時事放談にて主張掲載) しかし、これら反日中国朝鮮国家と一体化してしまった日本が嫌いな朝日や毎日を中心に経済新聞の日経、NHK等の中国ベッタリ寄り報道、彼らが事実を殆ど書かない嘘つき報道を垂れ流し、危険な、法治無き中国への経済投資を煽り、それに騙されたバカ経済界が大挙して中国に人モノ金を注ぎ込んでしまった。 そうして中国に進出した企業の90%は今や強盗詐欺の本性を丸出しにした中国泥棒国家に資金の大半を吸い取られている。 さすがにここに来て、嘘の上塗り報道がバレ始めた日経は、仕方なく、中国リスク、を少しずつ報道し始めてはいるが、、今更詐欺に身ぐるみ剥がれた企業にどの面下げて謝ることが出来るのか。 嘘をつきっぱなしで、知らぬ存ぜぬ、が、当たり前の朝日と同じ姿勢をこれから貫くしかないだろう。 小泉首相はここにきてようやく中国の犯罪的な手口に気がつき始めた財界に押されてインド詣でを始めた。 それみた事か!である。 最初から嘘つき泥棒国家の中国などに金を注ぎ込まず、東南アジアに軸足を移していたら、投資に見合う十分な収穫が得られ、今頃は世界の富の全てを集められるほどのニッポンの繁栄を誇れたものを。。。 しかし、今からでも遅くはない! 経営者よ、日本は資本主義国家であり、自由主義国家であし、民主国家であり、法治国家である!法治国家でこそ、資本主義の繁栄は成り立つのだ!という原理原則をしっかりと自覚し、反日法治無き中国朝鮮国家を見捨て置け! 日本が背を向け、人モノ金のの交流を止めたとたんにこれら反日国家の経済は沈滞し、そのうち崩壊するのは間違いない! その時に言えばよい、 『頭を垂れよ、しからば付き合ってやらんこともない』 これら乞食国家には、こうした付き合い方が、最も良いのである。 |
南京虐殺「ウソ記述」で敗訴した「元日本兵」の死 週刊新潮1月19日号より 元日本兵で『私が南京プラトーン』の著者、東史郎氏が1月3日、大腸ガンで亡くなった。 東氏は国内では無名でも、中国ではヒーロー扱いされていた。 自著で、「当時の上官が中国人を生きたまま郵便袋に入れ、ガソリンをかけて火を付けた。さらに袋に手榴弾を結わえさせて、沼に放り込んで爆死させた」と記述したからである。 中国からすれば南京虐殺を裏付ける恰好の生き証人だったわけだが、当時の上官、橋本光治氏から、「ウソを書かれた」と平成5年に名誉毀損で訴えられた。 裁判は最高裁まで争われたが、平成12年、東氏の敗訴が確定した。訴えた橋本氏の代理人、高池勝彦弁護士はこう振り返る。 「1、2、審とも記述内容は虚偽と認定されました。当然でしょう。一例を挙げると、そもそも東氏は、沼が南京高等裁判所前にあったと記述していますが、実際には存在しなかった。1審で私が沼の深さを質すと、”丸橋忠弥(由比正雪の同士で江戸女性運外濠投石し、水音で深さを測った)じゃあるまいし、覚えていませんよ”と平気で証言していたくらいですから」それでいて控訴審では一転、虐殺について詳細な証言を行った。「東京高裁の奥山興悦裁判長に、”記憶が戻るというのは不自然で信用できない”と手厳しく一蹴されましたね。」 −−−−−−−−−−−−−−−− funwaka談、 戦後の混乱期に中国共産党は中国残留日本兵を捕まえ、徹底した思想教育、「共産洗脳教育」を行ったという。その数、数万人。戦後その連中が日本に復員してからの中国プロバガンダの先兵となった。 この連中は、当初は単なる中国応援団だったが、そのうち声を出し始めた。朝日などの中国応援団、傀儡新聞社の中国宣伝部隊として発言する機会を与えられたからだ、当初はわずかな交通費程度だったが、そのうち朝日のお抱え中国応援専門軍団となり生活費以上に稼ぐほどの収入となっていたようだ。 とにかく朝日が喜ぶ日本悪玉論、日本兵極悪論を声高に叫べば当分は講演で小遣い稼ぎが出来、そのうえそれが誌面にのれば印税も入ってくる。 こうした心魂卑しき連中が続々とウソの日本兵極悪論書を出版し発言する。 有名なのは、「朝鮮人女性を軍の命令で拉致し売春婦にした!」と、有りもしない朝鮮人従軍慰安婦問題を世界に喧伝した天下の大嘘つき!日本の国賊!吉田清治、である。 (funwaka論、報道、あきれるばかりの中国共産党ご用聞き新聞、朝日新聞の実態 2001年10月2日 参照) |
産経抄 03.4.30 南京攻略戦の日本人将校「百人斬り競争」報道で、二将校の遺族が毎日新聞、朝日新聞などを相手に東京地裁に訴えを起こしたと聞いて胸が痛んだ。あれから66年、暗黒の日本犯罪史観はいまも改まっていないからである。 昭和12年12月3日付けの東京日日新聞(いまの毎日新聞)に南京攻略戦の従軍記者二人の署名入りでこんな記事がのった。「野田『おいおれは百五だが、貴様は?』向井『おれは百六だ!』…両少尉アハハハ、結局いつまでにいずれが先に百人斬ったかこれは不問、結局じゃドロンゲームと致そう…」 この記事は同11月3日付けの同紙で、二人の青年将校、向井敏明少尉(26)と野田毅少尉(25)が百人斬りを企てたという報道の報告だった。これが元で二人は戦後の軍事裁判で処刑されたが、記事は“南京大虐殺”の証拠として何度となく持ち出された。 朝日の元編集委員・本多勝一氏は「競う二人の少尉」として中国ルポで使っている。こうして「まやかしめいたネタ」(鈴木明氏『南京大虐殺のまぼろし』)が学校などでも歴史的事実として一人歩きをはじめた。二少尉の遺族は悲しみの日々を送ってきたという。 佐藤振寿(さとうしんじゅ)氏は昭和7年に東京日日新聞にカメラマンとして入社、南京攻略戦を従軍取材した。その佐藤さんなどは「あの記者が記事はフィクションですと一言はっきりいえばよかったのです」と語り、“南京大虐殺”を明確に否定している。 『アジアの戦争』を書いたエドガー・スノーのような意図的に侮日のジャーナリストもいるにはいたが、日本の“悪”を喜々として書くのはおおむね日本人である。「最も反日的なのは日本のマスコミ」という世間の評判は残念ながら当たっている。 |
産経新聞 05.10.31 遺棄化学兵器処理 中国側要求丸のみ巨額化 伐採補償、相場の数十倍/プール付き要員宿舎 中国に旧日本軍が遺棄したとされる化学兵器の廃棄処理問題で、中国側の要求を丸のみにした結果、日本が拠出する処理費用が野放図に巨額化している実態が、内閣府の資料などからわかった。例えば施設建設に伴う森林伐採では、国際価格の数十倍という法外な代償を認め、要員宿舎はプール付きの豪華版としている。事業は今冬にも施設建設に入るが、費用の不透明性を残したまま見切り発車すれば、予算の垂れ流し、税金の無駄遣いにつながるのは必至だ。 (長谷川周人) 内閣府の予算関連資料によると、吉林省敦化市郊外のハルバ嶺で建設が予定される処理施設の「インフラ整備諸費」(共通施設分)に今年度、十八億五千万円近い予算が計上されている。避難路や要員宿舎の整備費用の一部に充当されるが、関係者によると、用地造成に伴う森林伐採で中国が要求した代償は「シラカバ1本100ドル」。しかし、シラカバは一般に製紙用以外に用途がなく「樹齢にもよるが2、3ドルが国際相場」(製糸業関係者)とされ、日本は常識はずれの費用負担を強いられている。 また、要員宿舎は「事業終了後の払い下げを見越し、地元当局から強い要望があった」(関係者)として、2LDKの豪華版で、プールなどのスポーツ施設が併設される予定だ。 「環境関連諸費」(約1530万円)の内訳をみると、「マクロ気象観測費」(約330万円)と「ミクロ観測機器・機材整備費(1200万円)だが、気象観測といっても、中国軍の「気象専門員」が百葉箱を使い、気温や風向などを定時放送するというもの。日本側が「無意味に近い」と改善を要求したところ、中国側は「ならば地表温度なども計測しようと提案、新たな資材購入費として1200万円を計上することになったという。 このほか、中国はハルバ嶺に軍医療班を派遣しているが、絆創膏一枚でも、日本人スタッフには「(解毒剤などが入った)段ボール3箱分の医薬品がセット売り」となる。しかもなぜか産婦人科医を含む医師団は北京から送り込まれ、これら全経費が日本負担となっている。 遺棄化学兵器の処理事業で、日本は今年度までに約970億円を投入。処理方法を検討するなど事業化に向けた準備を進めてきた。外務省によると、保管作業は昨年7月までに3700発分を終えた。 今後は残る砲弾の回収と並行し、実処理を行う施設の建設に移るが、回収施設だけで973億円の建設費がかかることが判明している。 このほか燃焼処理を行うメーンの前処理施設のほか、燃焼時に発生する汚染ガスの処理に環境対策費なども必要で、総事業費は「1兆円規模」の試算も出ている。 しかし、遺棄砲弾数は200万発と主張する中国は、その根拠すら示さず、情報開示を先送りしている。70万発と主張してきた日本は独自調査に基づき30万‐40万発と下方修正する方向だが、遺棄兵器の全容は見えていない。 関係者からは「中国にとって処理事業は“金のなる木”。中国の機嫌ばかりを気遣う官僚の事なかれ主義を是正しなければ、いつまでも無駄な予算を垂れ流すことになる」と批判も出ている。 |
産経新聞 緯度経度 ──ワシントン 古森義久 中国の脅威と靖国の真実 大幅かつ着実に増強されていく中国の軍事力が少なくとも東アジアでの脅威であることを否定する識者は、ワシントンではまずみあたらなくなった。今年六月にブッシュ政権のラムズフェルド国防長官は「中国は自国への軍事脅威がないのに、なぜこれほど大幅に軍事力を増強するのか」と問いかけ、中国の軍拡を「アジア地域の他国の近代的な軍隊への脅威」と特徴づけた。翌七月に公表された国防総省の「中国の軍事力」年次報告書もこの軍拡を「長期的な地域の脅威」と呼び、ミサイル、潜水艦、戦闘機などの増強に警告を発した。 なにしろ中国は核兵器保有国のなかでも大陸間弾道ミサイルなどの戦略核兵器の規模をなお拡大する唯一の国である。人民解放軍の朱成虎少将は同七月、その戦略核ミサイルを米国との台湾をめぐる軍事衝突では先制攻撃の形でためらわずに使うと言明した。それでなくとも中国は国際紛争の解決に軍事力を容易に使うという攻撃的な軍事国家体質を旧ソ連、インド、ベトナムなどへの大規模な軍事攻撃で歴史的に明示してきた。 だから中国の周辺に位置して中国と紛争要因を抱える日本のような国にとって、いまの中国の目ざましい軍拡が脅威であることには議論の余地がないだろう。 米国防総省のここ数年の発表でも中国は日本を射程におさめ、日本国内の要衝に照準を合わせた中距離ミサイルを数十基も配備しているというのだ。 その中国の軍事力に関して、ワシントンではこのところ東シナ海での日本との軍事衝突の可能性への指摘が多くなった。 十一月中旬には米国議会の超党派政策諮問機関の「米中経済安保調査委員会」が年次報告書のなかで、日中両国が尖閣諸島の領有や海底ガス田の開発をめぐる対立から東シナ海で軍事衝突を起こしうる危険を警告した。報告書は中国側の潜水艦その他の艦船による日本側への攻撃性の強い侵入の実例をあげ、「中国側の挑発の頻度と攻撃性の高まりが日本との軍事対決を招く危険がある」として、明らかに中国側の脅威に注意を喚起した。 十二月上旬には中国の軍事動向を分析する研究機関「国際評価戦略センター」が日中両国の海軍力バランスについての報告書を発表し、中国が海軍を急速に増強し、東シナ海での日本との軍事衝突の危険を高めている、と警告した。中国は伝統的に海洋の領有権紛争では自国の軍事力が確実に優位に立ったと判断したときに攻撃に出る傾向があり、実際に潜水艦や対艦ミサイルでは日本に差をつけ始めたというのだ。 この現状で民主党の前原誠司代表がワシントンでの演説で中国の軍拡を「現実的脅威」と呼んだのは当然だった。だが同じ懸念を北京で表明しようとすると、それを理由に胡錦濤国家主席ら要人との階段を拒まれた。対話の扉を閉ざされたのだ。米国での前原発言に対しては民主党の内外でも反発が起きた。マスコミでは、 日本の安保や政治に関して、中国の反対することにはまずすべて反対する朝日新聞が予想どおり「外交センスを疑う」と非難した。 だが中国当局による前原氏のこの扱いは、日中関係の真実を思わぬ形で露呈させ、朝日新聞式の日中関係論の虚構を砕く結果となった。 朝日新聞は日中関係の悪化も、日中の対話の扉が閉じられるのも、みな小泉純一郎首相の靖国神社参拝が原因だとするキャンペーンを打ち上げてきた(同紙の十二月六日、十四日などの社説がその一端)。首相が中国の「厳命」に従って靖国参拝の中止を言明すれば、日中関係は一気に改善され、対話も復活する、という示唆が明白だった。 ところが前原氏は靖国に関しては参拝はせず、A級戦犯の分祀を唱え、中国の要求とまったく同じ立場を表明しているのだ。だがそれでも、中国の軍拡について当然の懸念を述べただけで中国側から対話の扉を閉ざされたのである。この事実は朝日新聞式の「首相の靖国参拝→日中の対話の停止と関係全般の悪化」「参拝中止の言明→対話の進行と関係全般の好転」という因果関係が実はまったくの虚妄であることを証明した。 前原氏は靖国に関して中国の意を十分に満たしているのに、対話を閉ざされたからだ。靖国参拝のいかんにかかわらず、気に入らない言動をとった相手は排そうとする中国の対日態度の年来のパターンが露呈されただけであり、日中間には中国の軍拡その他、靖国以外の対立案件が多々あるということである。 日中関係のこの単純な真実をわかりやすく提示する事態を生んだだけでも、前原氏の訪米と訪中は有意義だった。 |
週刊新潮 ’05.6.23/『変見自在』(帝京大学教授 高山正之)より 無為の人 英国はビルマを植民地にするとすぐに国王夫妻を島流しにし、国王に連なる王族のすべてを処刑した。 王家とはその国民の心の心棒であり、それを抜いてしまうと、もうまとまった抵抗もなくなることを英国は歴史から学んでいた。 だから米国がハワイ王朝を取り潰すと、次期女王のはずだったカイウラニ王女はどうしても不審な死を遂げることになる。 日本を占領した米国はさすがに処刑まではしなかったが、天皇の家族を除く宮家をすべて取り潰して、時間をかけた天皇家断絶を図ったものだ。 ビルマは英国の植民地支配から日本によって解放されるが、取り返した祖国は英国が入れた華僑とインド人が貿易と金融をがっちり握っていた。 敬虔な仏教徒のビルマ人は彼らを暴力で排除することはしなかった。まず鎖国し、自らを貧窮の底に置いた。商売のうまみを失った華僑がこれで自主的に出て行った。次に高利貸を生業にするインド人を追い出すために政府は何度も新紙幣を発行した。旧札は無効にするというお触れで、自宅金庫にカネを隠し持つインド人はこれで資産の全容を掴まれ、きっちり課税された。 ときには国民は貧しさを共有すべきだと財産を没収し、インド人も結局出て行くことになった。 この新札発行をネ・ウィン政権は一年に一回ぐらいやった。肖像や図案を変えたぐらいでは間に合わずに、ついには額面を変えて九十チャット札や十五チャット札まで登場した。 世にも奇妙な九十チャット札の肖像に選ばれたのは一九三〇年代の反英運動指導者サヤサンだ。 彼は占星術師で「お尻に白い丸を描けば不死身になり、銃弾は粉と散る」と農民を奮い立たせた。 英国側の資料では「銃を構えるインド兵の前に、夥しい農民が尻をまくりその尻を突き出して後ろ向きで進んでくる。尻の白い丸が夜の闇に揺れてインド兵は恐怖にかられた」。 しかし文字通りの丸腰だから勝てるわけもなく死者一万人を出して一年後には鎮圧された。サヤサンも仲間百二十八人とともに処刑されている。 このとき彼の弁護をしたのが後にビルマ首相となるバー・モウ博士だ。 もう一つの十五チャット札の肖像は独立の父アウンサン。彼は日本の協力で創設されたビルマ国軍の指揮官に就任するが、日本の敗勢が濃厚になると、このままでは日本と共倒れし再び英国の植民地に戻ってしまう。「だから英国について日本軍と戦う」と苦渋の決断を日本側に通告するくだりを英戦史家ルイス・アレンが『日本軍が銃をおいた日』も書いている。 英国もそれを承知で、だから戦後、ビルマが独立するとき彼を暗殺する。生かしておけば日本の立ち直りに彼が最も貢献するだろうと読んでのことだ。 ビルマ国民も日本との縁(えにし)は百も承知で、この国のどの街角にも彼の馬上姿の像を置く。モデルは昭和天皇の閲兵の折のお姿だ。 紙幣の肖像にはその国民の思いがこもる。その点、日本の新札はいかがかと浅田次郎が日本航空のインフライト・マガジンに書いていた。 一万円札の福沢諭吉はまだいい。「遅れた支那朝鮮に会釈の必要はない。まずは欧米に倣って国を開け」と日本の進むべき道を明確に示した。 しかし樋口一葉と野口英世はどうだ。インターネットで「貧乏」「薄倖」と入れると彼女が出てくる。 野口英世もそう。彼は軒並み借金を踏み倒すだけでなく、婚約を餌に許婚の実家から金を引き出して、挙句が婚約不履行とくる。 医学界の偉人かも知れないが、カネには汚かった。 こんな二人をお札の顔に選んだのはどこの愚か者かと探したが、別に専門家を招いて審議会もひらいていない。役人が勝手に決めていたのだ。 そういえば先日、高松塚の壁画が腐って慌てて補修するという話があった。 壁画発見は三十三年前。調査後、当時の二代目文化庁長官がまさかの壁画の封印、古墳の埋め戻しを決めた。 初代長官の今(こん)日出海(ひでみ)ならこんな馬鹿はしなかったが、二代目は役人上がりだからこうなった。 役人とは彼らが言うほど悧巧だった例(ためし)がない。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− funwaka談 役人がどれほど能無しのクズなのかは、大阪市に限らず、第三セクターという名で、全国津々浦々何兆円という血税をドブ!に捨て去った事実を見る迄もなく!役人が能なしのクズなのは誰の目にも明らかな事だ。 武士の時代から現代まで言われ続ける言葉がある、 【 男子三日あわずんば刮目して待て 】 何故三日(三年以上の例え)会わねば男は見違えるほどの、もののふ、になる可能性があるのか? それは一にも二にも仕事が(昔で言えば武士の規律や戦場経験)徹底して人を人間を鍛えるからだ! 何故仕事が人を鍛えるのか!? 戦場は言うまでも無い、しかし何故現代でも仕事が刮目するほど男を鍛えるのか? 金を稼がねばならないからだ! 『金を稼ぐ!』これがどれほど、きつく、苦しく、労苦を伴うモノか! 資本主義の現代に生きる者なら誰もが納得する事である。 一般社会では、何の仕事に付こうと、常に同業他社よりも先取りして価値の高い品質の良い製品を提供しなければならない。 しかし、先取りほどほど難しいものは無い!先取りした製品を投入しても時代より進みすぎていても受け入れられないし、価値が消費者に伝わらないことには勝ってはくれない、製品作りの機会を投資しても売れ行きが思わしくなければ倒産の憂き目にさえあう。 工員は、0.01%の不良品率をもっと少なくする為に(生産性を上げ低価格にするため)どれほど改善しなければならないか!その頭脳の使い方は乾いたタオルをさらに搾りに搾って搾りきる努力をせねばならない程、グループ単位、課単位、部単位でのQCC活動を徹底して行い、全員の能率に対する志気を高め、能力を向上させなければならない。 上司は部下の能力を引き出すためにどれほど人間観察力と人間的魅力を高めねばならないか、研究者には夜も昼もない、常に神経をとぎすまし没頭せねば新しいアイデアなど生まれてきはしない。 商売人は半分以上のいやな客にニコニコと対応し愛想良くし、売れる商品を先取りせねばならないか。 ヤクザでさえも金を稼ぎ一家を養うために、苦労努力、(裏家業といえども)頭を必至に使わなければならない、これが資本主義の常識である。 金を稼ぐ、これほどの難しく辛く苦しく嫌な事は無いのである。 金を稼ぐためにどれほどの、労苦に耐え、無い知恵を絞り切り、身体を酷使し、創意工夫努力の限りを尽くさねばならない事か!! しかし!だ! 役人にはいったいどれほどの労苦が必要なのか!? 何〜んも!有りはしない!! ただただ先例に倣って事を淡々とこなすだけでよい。新しいことをひねり出す必要は無く考えることもなく、ただただ先例に倣って仕事を進めれば良いのだ。どこにもかしこにも微塵も創意工夫努力を必要とはされない。 法律一つ作るにしても全て先例に倣って同じ手順を踏み先例に踏みはずさない事のみに汲々としておれば良いのだ。 人は習っている時は単なるアホである。 つまり例え大学生といえども、先例を詰め込むだけでは単なるパソコンと一緒、記憶回路装置だけの値打ちしかありはしない。 人が人としての値打ちが出てくるのは、一つの知識を他の知識と重ね合わせ、引き、足し、かけ、割り、の工夫と創意で新しいモノに生まれ変わらせる能力が備わってくるからだ。 先例に倣って進める、これなら高校生でも中学生でも出来る、少々頭が悪くても長い間、教え込めば誰だって出来るようになる。役人の仕事とはそういうものだ。 だから、役人は最初から(役所に入ったときから)、最後まで(仕事をリタイアするまで)アホウ!なままなのである。 |
| 週刊新潮 ’05.6.16/『変見自在』(帝京大学教授 高山正之)より 無断使用 NYタイムズやオランダのNRCハンデルスブラットなど欧米の新聞はほんの少し前まで「日本」という単語が出てくると「東南アジアで残虐行為を働いた」という形容詞句を必ずつけたものだ。同じように「朝鮮」には「日本が植民地支配した」と枕詞風につけた。 彼らの言う「植民地」の意味は、なまじではない。 たとえば米国がフィリピンを植民地にしたときは、独立を叫ぶフィリピン人を皆殺しにした。 それもただ殺すのではない。捕虜の尋問では魔女裁判を真似て「泥水を五ガロンも飲ませ、膨れた腹の上に米兵が飛び下りた。彼は口から六フィートも水を噴き上げて死んだ」(米上院公聴会の証言)。 サマール島の民が米兵を殺すと「報復にその島と隣のレイテ島の住民すべてを殺した」「三年かけて二十万人を殺した頃やっと島民の抵抗がやんだ」(同) フランスが植民地にしたベトナムでは「住民には人頭税のほか、結婚税や出産税も取った。村々には阿片専売所を置いて、麻薬でもうけた」「重税に抗議するデモには仏戦闘機が容赦なく機銃掃射を浴びせた。死んだ者を弔うと徴税吏が飛んできて葬式税を取り立てた」(A・ビオリス『インドシナSOS』から) オランダはインドネシアでもっとひどいことをやった。ある農場では女の使用人が粗相をしただけで裸にして鞭打ち、傷口と局所に唐辛子をすり込んだ記録が残る。 ミャンマーのシュエダゴンパゴダの土産物屋に刃先がない鎌が売られている。英植民地時代、ビルマ人にそれを抵抗の武器にさせないための処置だった。 「東南アジア諸国で残虐行為」を好きにやっていたのは欧米諸国なのだ。 日本はそこに進出して彼らを追い出し、刃先のない鎌しかもてなかったビルマ人に銃を与え、自分たちの軍隊をもたせた。 インドネシアでは彼らの軍隊ペタをつくった。後藤乾一早大教授らは日本軍が彼らを虐殺した風な嘘を朝日新聞に書いている。 事実はその逆で日本が降伏したあと、ペタが何百人もの日本兵を虐殺して武器を奪っていった。 朝鮮統治でもオランダ人と違って日本人は唐辛子をすり込むようなことはしなかった。代わりに学校を建て電灯を灯し、鉄道を敷き戸籍を作った。名前もなかった朝鮮女性たちはこのとき初めて賢姫とか淑子とか名をもてた。 それがなぜ「日本は東南アジアで残虐行為を働き」朝鮮もオランダ風の残虐な「植民地支配」をしたことにされ、それがあたかも歴史的真実かのように半世紀も繰り返し欧米の新聞が書き続けたのか。 理由はいくつかある。 まずコーデル・ハルが指摘したように「日本を欧米帝国主義者に敗れ去ったアジア解放の戦士にしてはならない」から、アッチラなみの残虐な侵略者に仕立てる必要があった。 そうすればアジアで本当に残虐行為をやった欧米諸国の罪も隠せる。 もう一つ。日本のせいで金づるの植民地を失い、彼らはまた昔の貧しい欧州の小国に戻ってしまった。 「おまけに戦場では有色人種の捕虜にされ使役された。米国はその恨みと屈辱を(原爆で)晴らせたが欧州の国々はその恨みも残ったまま」(仏経済学者ジャン=ピエール・レーマン) そういう計算と悔しさをこき混ぜてアジアでの残虐行為を日本に転嫁する「歴史のすり替え」をやった。彼らはそれを東京裁判の判決で「平和に対する罪」とか「A級戦犯」とかの形で歴史に刻印した。 それから六十年。彼らも嘘を言い続けるのにくたびれ、やっとやめる気になったとき、胡錦濤が突然それを言い出した。 「日本は侵略戦争を反省し中国やアジア人民の感情を傷つけるな」と反日デモの伴奏までつけてきた。 それにWST(ウォールストリート)ジャーナルが「中国がA級戦犯がどうのと、日本に言い立てるのは傲慢だ」と罵ればフィナンシャルタイムズも「中国が、日本が歴史を歪めたと言うのは偽善」とやる。 なぜこうも怒るかというと、日本イコール悪者論は日本にやられた欧米の憤懣が生んだ物。その日本を裏切り白人になびいた中国がただ便利だからと勝手に使える筋の物ではないといっているのだ。 |
| 週刊新潮 ’05.8.4/『変見自在』(帝京大学教授 高山正之)より 大きい国 四国のどこかで「ほてい葵が咲きました」と先日のテレビでやっていた。 金魚鉢がよく似合う、葉の付け根がぷっくり膨らんだ水草で、それが水辺に浮かんでヒヤシンスに似た薄紫の花を咲かせていた。 原産は南米と言われる。いつ頃こっちに渡ってきたのかは定かではないが、今から百年前にはハノイのグラン・ラック(大湖)の水辺にほてい葵が咲き乱れていたと、仏文学者・小松清が書いている。 ただこの花をベトナムの人たちは「日本の花」と呼んでいたという。 その縁起について小松は「日本が日露戦争に勝ったとき、だれかがこの花を湖に植えた。花は幾年かのうちに増え、だれ言うとなしに『日本の花』と呼ぶようになった」というベトナム人の話を紹介している。 そのころのベトナムはフランスの植民地だった。英国があの阿片戦争で中国への阿片売り込み権を獲得し大儲けをしていた。フランスはそれが羨ましくて中国に戦争を吹っかけた。清仏戦争だ。そして勝って中国の属領のベトナムを賠償として頂戴した。フランスは早速、人頭税に酒税、結婚税、葬儀税と思いつく限りの税金を課すと同時に阿片専売公社(レジ・オピウム)を作ってベトナム中に阿片を売りまくった。あこぎなフランスに腹が立つ。 でも相手は宗主国の中国も敵わなかった。身の不運と諦めていたところに、そのフランスよりもっと大きいロシアを同じ肌の色をした日本人がやっつけたという話が届く。その武勇は歌謡師(カーザイ)が村々を流して伝えた。人々は興奮した。我々も白人のくびきから脱することができるかもしれないと思った。 国土の潘佩珠(ファンボイチャウ)が日本に密航した。その手引きでベトナム王朝の王子クォンデをはじめ二百人もの若者が密かに渡日した。いわゆる東遊(ドンズー)運動で、彼らがその後のベトナム独立の礎(いしずえ)となるが、そのさなかに見馴れぬ水草が美しい花を咲かせた。「日本の花」と名づけたベトナム人の夢と期待がそこに感じられる。 今年が百周年となる日本の対ロシア戦争の勝利はこのベトナムの例のように第三世界の国々に大きな影響を与えた。日本の存在は限りなく大きかった。日本はそれを疎ましく思う米国と戦って、敗れてしまうが、それでもなおその影響力は消えなかった。例えば国際政治の世界では「軍事力がその国の国際影響力を決める」が定説だった。しかしカリフォルニア大のR・ローズクランス教授は「軍事力がなくとも経済力で国の地位を高められる」学説を出した。 モデルは戦力を持たずに世界第二位の経済大国になった日本だった。第三世界が独立ラッシュを向かえた六〇年代。そうした国々が満足に成長していけるかどうかが焦点だったが、ケネディ政権の主席補佐官W・ロストウは「国家は放っておいても農業社会から工業化社会に脱皮し、大量消費経済を実現する」段階的発展論を説いた。 これもモデルは日本。資源もないのにここまで発展したのだから、資源だらけのアフリカ諸国など何の心配もないというわけだ。もっとも、この理論通りに成長を遂げたのは台湾にシンガポール、マレーシアなど日本の影響を受けた地域に限られた。 それ以外の国々は社会主義理論を採用して、みな破綻していった。 日本の影響を強く受けながら社会主義に走った中国と北朝鮮は、ある時期まで何とかその影響力の残滓で持ち堪えたものの、破綻は免れそうにない。 日本の大きさを改めて思い知らされるが、そんな日本を「小さな国」と言ったのが武村正義だ。中国に魂を売った政治家の一人で、中国人の言う「小日本」をそう訳したものだ。 それも同じ心根の朝日新聞が名言ともてはやし、念を入れて添谷芳秀慶大教授に「日本は二流国たれ」と小日本論を書かせた。 この新聞は北朝鮮代表が「今度は席を蹴立てなかった」と喜び「金正日が前向きの発言をした」と言っては感激して見せる。 相手がどんな半端国家でも日本はその顔色を窺う。それほど日本は小さいと思い込ませたいらしい。 支那朝鮮に会釈の要なしと諭吉は言った。まして媚などもっと必要ない。 |
正論 ノンフィクション作家 上坂冬子 靖国問題は外交の根本変える好機だ 国立追悼施設見送りは当然の帰結 <<<年の瀬にホッとした出来事>>> 世紀のはじめだというのに、二〇〇五年はろくでもない事件の多い年であった。ただし、締めくくりの一件にはホッとさせられている。 十二月二十日、二〇〇六年度予算の財務省原案から、例の超党派の議員が働きかけていた「国立追悼施設」の建設のための調査費が見送られたからだ。 政府関係者は追悼施設を求める声が「五割くらいに止まっている」として、世論の支持が足りないというのを理由にしている。 どういう調査の仕方をしたか知らないが、私は靖国問題に関する限り、何をどう調査しようが賛否は五分五分にしかならないだろうと思っている。 小泉首相は秋の例大祭初日に靖国参拝したが、その一週間前にNHKが首相の参拝の是非論に関する世論調査をしたとき、賛成四三%、反対四五%という数字が出たという。なぜ、賛否五分五分なのか。答えは簡単である。戦争を知らない世代が七〇%という時代になったからだ。 靖国神社の何たるかも知らず、かつて「靖国で会おう」といって、男たちが戦地に行ったといえば、「うっそオ」と目を丸くする世代に向かって、参拝の是非を聞いても無駄だ。ご近所とは仲良く世界平和を大切に、とおうむ返しに口にする世代は、近隣諸国が小泉首相の靖国参拝をそんなに嫌がるなら、止めとけばいいじゃないかという回答を寄せるのは当然だろう。 <<<政府は実情伝える責務が>>> 小泉政権としては、在任中に調査費を計上することはないと言い切ったそうだから、山崎拓議員を中心として、民主、公明などの議員を巻き込んでの、あの「考える会」が尻すぼみに終わったことは間違いない。 いまどき外国にいわれて作るものではないといって、誰が素直に受け取るだろうか。いい加減にせいと思っていたら、いい加減なところで収まって私はホッとした。 ただし、だからこそ目前に大問題があることを忘れてはいけない。 現状どおりだと、世論調査はいつまでたっても変動なしで、国民はボケたままである。もし来年九月まで、小泉首相が国立追悼施設にかかわりを持たないつもりなら、またとないチャンス到来というべきだ。 いまこそ、靖国神社の何たるかを知らない世代に、良くも悪くも男たちが靖国で会おうと言って死んでいった時代の実情を伝えるべきであろう。靖国論争以前の問題として、国内的には靖国が日本人にとってどんな存在であったかを飛ばして近代史を学んできた人々に、靖国に結集したころの事実を伝えねば、靖国をめぐる話は噛み合うはずがない。 同時に国外に対しては、中国も韓国もA級戦犯の合祀に関して発言する資格のないことを、噛んで含めるように説いて聞かせる必要がある。 戦犯の問題に関する取り決めは、サンフランシスコ平和条約第十一条に述べている。一つは、戦犯裁判の判決を受け入れることであった。つまり裁判がどんなに無茶なものであっても、結論を取り消せと言う要求はできないことになっている。 もう一つはサンフランシスコ平和条約によって晴れて独立した日本にとって、拘禁中の戦犯をすぐに釈放したいだろうが、手続きとして裁判を担当した国の了解を求めるべしということであった。日本は条約どおりの手続きを経て全員を釈放し、巣鴨プリズンを閉鎖している。 <<<抗議する資格ない中韓>>> ところでもう一つ重要な条文は第二十五条だ。 サンフランシスコ平和条約に署名、批准していない国は「いかなる権利、権原又は利益」も与えないと書かれている。サンフランシスコ平和条約には日本を含む四十九カ国が署名、批准しているが、その中に中国も韓国も見当たらない。ご丁寧にも条文として、ここに署名、批准していない国によって日本の利益が「減損され、又は害される」ことはないとまで書き入れてあるのだ。つまり条約に署名しなかった国には、クレームをつける資格もないことになる。 次元の低い参拝の是非論ではなく、国家として国際条約に対する無資格を突きつけて近隣諸国の内政干渉に区切りをつけない限り、靖国問題の決着はつくまい。 調査費を見送ったいまこそ、政府としては腰をすえて外交の根本に着手し、事を収めるべきときだ。 (かみさか ふゆこ) |
産経新聞「正論」(2006.2.10) 政治評論家 屋山太郎 「靖国」で確認したい4つのポイント 問題点整理で浮かぶ進むべき道 <<まずは解釈の原則確定を>> 小泉首相の靖国神社参拝によって20年来封印してきた“靖国問題”が噴き出し、一見、解決不能の様相を呈している。しかし永久に封印というわけにはいかない問題であり、問題が顕在化したこの機会に、解釈に至る原則だけは確定しておくべきだろう。 解決すべき問題を@“A級戦犯”と合祀の是非 A中韓両国の反発 B政教分離の原則の確認 C新たな国立追悼施設建設問題―の4点に絞って考えてみる。 A級戦犯というのは戦勝国が事後法として極東軍事裁判条例を作って「平和に対する罪(共同謀議)」を裁いたもの。日本政府は昭和26年のサンフランシスコ講和条約締結の時点で大橋武夫法務総裁(法相)が「国内法においては、あくまで犯罪者ではない」と述べている。条約で日本が受諾したのは11条の「諸判決(Jugments)」で軍事裁判自体ではない。 この解釈について国際的合意があったからこそ昭和27年の講和条約発効後、戦犯釈放を求める国民運動が起こり、28年には国会で「戦犯放免に関する決議」が全会一致で可決されている。放免の署名は当時の人口7千万人中実に4千万人に及んだ。 A級戦犯とされた7人のうち終身刑だった賀屋興宣氏は後に法相となり、7年の刑だった重光葵氏は国連大使、外相を歴任、勲一等に叙せられた。こうして清算されたはずの戦犯問題は、その後、共産党、社会党の左翼陣営によって、「東京裁判史観」として蒸し返され、保守陣営にも贖罪意識が植え付けられた。 ヒトラーと東条英機首相を並べる議論があるが、ヒトラーはユダヤ民族抹殺を実行し始めたのであって、単に戦争遂行の任務を負った東条首相とは全く事情が違う。したがって、ドイツ人は自らヒトラーの被害者だと自称し、日本人は一億総懺悔で連帯責任を感じたのである。諸外国がA級戦犯を罪人とみなしたとしても、日本では人は死ねば、全ての罪は消えて浄らかな霊になるのが古来の死生観だ。中国では死者の墓を暴いて屍に鞭打つという。そういう怨念の世界に引きずり込まれるのは断固拒否する。 <<他国からの干渉から判断誤る>> 朝日新聞は、天皇陛下がご親拝されなくなったのはA級戦犯の合祀(昭和53年10月)が原因だとしている。しかしこれは麻生外相のいうように三木首相が私的参拝を強調した結果、常に公的立場であられる天皇の行動を縛ることになったのが真相だろう。陛下の最後のご親拝は、三木首相が私的参拝(昭和50年8月15日)した2カ月後の10月21日だが、その前日、社会党が国会で問題にし、当日、三木首相は「純粋に私人としての立場からなされたもの」と答弁している。陛下の困難は政教分離の憲法20条の解釈の困難さに起因している。 政教分離の解釈を確立しようと、中曽根康弘首相は昭和60年8月15日に「公式参拝」をした。この方針が確立されれば、陛下のご親拝も再開されていただろう。しかし中国からの圧力によって、中曽根氏は翌61年8月15日の公式参拝を中止した。後藤田正晴官房長官は前日の8月14日、要旨次のような談話を出している。 「靖国神社がいわゆるA級戦犯を合祀していること等もあって、近隣諸国に批判を生み、平和友好への決意に対する誤解と不信さえ生まれる恐れがある」 中曽根首相は陛下の政教分離の困難さを解決しようとして、実は近隣諸国の干渉を受け入れ、しかも日本政府が国内的に一度として認めたことがない「A級戦犯」という言葉を使う大失敗を犯した。後藤田氏は、薄皮をはぐように扱わなければならないA級戦犯、合祀、中韓の干渉をごちゃ混ぜにする愚を犯した。 <<条約締結時の原点に返れ>> 外交上のトラブルは条約締結の時点に戻って改めて考えるべきものである。そもそも条約というのは、あらゆるトラブルを整理して出発点を決める作業だからだ。日中両国は1972年に共同声明、78年に平和友好条約を結んだが、同条約第3条は「平等、互恵並びに内政に対する相互不干渉の原則」をうたっている。また同条約締結の際、極東裁判や判決については全く触れていない。 中国が全く触れる権利のない問題を取り上げ、日本の政財界人、マスコミを操ろうとするのは内政干渉そのものだ。それに呼応している政財界人は中国に利用されているという自覚はないのか。国立追悼施設ができれば、中国人は日本人を精神的に屈服させたと歓喜するだけだろう。 |
産経新聞「正論」(2005.8.21) 上智大学名誉教授 渡部昇一 大量虐殺の被害国裁いた東京裁判の欺瞞、原爆投下や大空襲の責任はどうなる <<謝罪を忘れたアメリカ文明>> 「私たちは広島に原爆を投下したことを後悔していない」 と、その時の飛行士たちが声明しているということをテレビのニュースで知った。同じ話を聞いたのは十数年前のハワイであった。その時は日米開戦50周年で、ブッシュ大統領(今の大統領の父)が本土からハワイにやってきて、半分以上沈んでいる戦艦アリゾナの上で追悼式をやったのであった。そこで記者から質問を受けた。 「あの戦争が原爆で終わったことをどう思っているのか」 これに対してブッシュ大統領は「アイアム ノットソリー」と答えたのであった。私もたまたま開戦50周年記念で日系市民に講演するためハワイにいたので、現地のテレビ中継で見たのである。 通常ならば、一発で十万人以上もの市民を殺したことに対して“ソリー”と感ずるのが正常である。ところが悪いと内心では思っていても、謝らないのがアメリカ文明―あるいは国際的慣習―である。そのことをわれわれも「自動車事故のときに絶対謝るな」という形で戦後教えられてきている。自分は謝らないで何とか相手の落ち度を見つけて逆襲するのである。原爆を落としても、悪いと思わないと主張するアメリカ人たちの論拠はいつも同じである。 「もし原爆を落とさなかったら、もっと多くの人たちが死ぬような戦争が続いたことであろう」 私もこれと同じことを聞かされたことがある。それは政治と関係のない学会がベルリンで行われたときの、自由時間における雑談の中でであった。私はこう答えた。 「もし戦争を早く終わらせるために、普通の市民を大量虐殺してもよいというならば、毒ガスでもよかったのではありませんか。なぜそうしなかったのです」 その人はアッと気付いた様子だった。そして「そういう見方があるとは知りませんでした」といった。この人には良心が正常に働いていた。 <<市民攻撃の思想ない日本軍>> 日本の真珠湾攻撃から日米の戦いが始まったことは確かである。無通告攻撃の非難はあったが、それは日本政府や軍首脳部の意図でないことが明らかであったので、東京裁判でも問題にされなかった。真珠湾攻撃は奇襲であったにせよ、一般市民を攻撃の目的にはしていない(多少の被害者が出たといわれるが、それは米軍の高射砲の破片のせいだとされている)。 他の戦場でも日本軍が市民の大量虐殺の計画を示したことはない。シナ大陸の戦場でも、北京、上海、漢口などの大都市でも市民への虐殺行為などは皆無といってもいい。 南京だけは日本軍のオープン・シティーの勧告を無視して市街戦をやることにした敵側に責任がある。市街戦をやれば市民にとばっちりがかかる。しかも敵は便衣兵(市民の服装をした不法戦闘員)が多くいた。 そのような事情の下で一般人が被害を受けることは、アメリカもベトナムや、イラクのファルージャで体験していることだ。こういう場合の一般人の被害と、初めから市民虐殺を計画したのとでは根本的に異なる。日本軍には市民大量虐殺の思想はなく、ヒトラーやルーズベルト、トルーマンにはそれがあったと断言できる。 原爆に限らず、3月10日の東京大空襲でも、一晩に十万人もの一般市民が殺された。十万人殺すのにアウシュヴィツでは何カ月必要だったろう。 <<「二度と戦争を…」の方便>> こんなことを私がいうのは、反米思想を煽るためではない。東京裁判の根本的な不正を指摘したいためである。 東京裁判におけるキーナン首席検事の論告を読んでいたら、それはまさにアメリカに向けられるべきものであることが明白であった。彼は文明の裁判といいながら、事後法を使い、裁判管轄権をも明らかにしえない裁判で、ソ連をも民主主義国といい、大量虐殺の被害国を裁いたのである。 それは二度と戦争が起きないようにするため、と彼はいったが、裁判終結後、二年もたたぬうちに朝鮮戦争が始まり、ついでベトナム戦争…と続いている。東京裁判をやらせたマッカーサー元帥は、アメリカ上院で「日本が大戦に突入したのは自衛が主たる目的だった」と証言してくれたが、日本のマスコミはそのことを国民から隠し続けている。 そして原爆も日本が悪かったからだという市長もいる。東京裁判を弁護する大新聞もあり、政治家もいる。嗚呼。 |
驕れる白人と闘うための日本近代史 松原久子 文芸春秋刊 【 何故日本は鎖国を解き、明治政府の元で富国強兵に邁進しなければならなかったのか。 】 ペリーの黒船が現れる数十年前から発砲準備の出来た大砲を備えた外国船が次々と日本の海岸に姿を現し日本の港へ入ってきていた。 ロシアの商船が最初に日本へやって来たのは1778年のことだった。 1792年再びやってきてその後も1852年まで何度も日本へやってきて通商認可を迫ったが日本が応じなかったので武力を行使して威嚇した。 1796年頃イギリスの船が軍事行動のための測量船が海岸に沿って航行し湾内に入った。 1808年イギリス船が食料を供給してもらいたいという口実で長崎港に入ってきて長崎の町を砲撃した。出島に乗り込み短い戦闘の後出島を占領し、オランダ人を人質にし幕府に迫ったが長い交渉の末、断念し引き上げた。 1824年イギリスは艦隊を編成してきて江戸の北東150Kmに上陸したがバリケードを作る前に幕府に包囲されて引き返した。 1837初めてアメリカの船が江戸湾に入ってきたが、日本の抵抗にあい引き上げた。 1846年アメリカの小艦隊がやってきたが退けた。 フランスもイギリスもひっきりなしにやってきて開国を迫った。 何故日本は長い間執拗に頑固に鎖国に固執していたのか? 頑固だったからではない、不安だったからだ。 不安の原因は歴史の経験に根ざしていた。 経験は日本自らではなく南アジアや東南アジア、中国がヨーロッパに翻弄され植民地化されてゆく様相をまざまざと見せつけられていたからである。 ポルトガル人がインド洋に進出してアラブとの競争に勝利すると、イギリス、フランス、オランダ、デンマークとそれぞれがアジアの南の沿岸に重装備の大砲を構えた拠点、営業所を構えた。 貧乏なヨーロッパはついに何百年もの間熱望していた目標、東洋の贅沢品をヨーロッパ大陸に供給するための経済的軍事的拠点を確保達成したのである。 商品は大河のようにヨーロッパに雪崩れ込んできた。繊細な絹織物、瀟洒な絹、金襴、ビロード、絨毯、香辛料、砂糖、香料、宝石、珊瑚、軟膏にクスリ、・・・ゆとりのある人たちは誰もが絹の下着を身につけた。ヨーロッパでは初めて一週間に一度下着を変える事が出来るようになった。 しかし、貧乏なヨーロッパにはそれら贅沢品を買うだけの金銀は少なかった。以前はヨーロッパの自国他国の白人男奴隷と白人女奴隷で輸出で穴埋めできたがもはや時代精神に合わなくなっていた。 (funwaka注、白人種がいかに残虐な人種かをここで松原氏の検証の数々を列挙しておく) 中近東、インド、東南アジア、中国、日本といった古い文化の中心地に比べて中部北部ヨーロッパは惨めにも貧しい大陸だった。それはこの地域の恵まれない気候風土のせいだった。夏至の時期でさえドイツでは真昼の太陽が日本の冬より低いほどである。生活は寒さ、湿気、雪、秋の霧、冬の暗闇との戦いだった。 いかにヨーロッパが貧しかったかはオリエントからヨーロッパへ流入してきた商品との比較をしてみれば直ぐに解る。 オリエントからは樟脳、サフラン、大黄、タンニン、砂糖、胡椒、グローブシナモン、ナツメグ、生糸、麻、高級絹織物、ビロード、金糸、銀糸、宝石、珊瑚、真珠、高級陶磁器、これにくらべてヨーロッパが輸出できた商品はささやかで簡単だった。 羊毛、皮革、毛皮、蜜蝋だけだった。オリエントの交易は慢性的な赤字で、ヨーロッパの殆どの金銀がアラブ商人の懐に消えていった。 (funwaka注、当時はアラブ商人だけが西欧とアジアの流通を取り仕切っていた) そこで何世紀にもわたってアジアへの輸出のために特別な商品が用意された。 その商品とは、ヨーロッパ人の奴隷である。ヨーロッパは奴隷以外に商品価値を持ったものは何もなかったのだ。 中性初期に北部のバイキングが黒海まで南下してきたときの奴隷は毛皮に次ぎ主要な商品だった。ポーランドからボルガ河畔に沿ってウラル山脈に至るロシアの平原でヨーロッパの奴隷狩り専門家達によってスラブの白人男女が捕らえられたのである。 1453年にコンスタンノープルがオスマントルコに征服されるまでは特にジェノヴァの商人達が奴隷貿易をおこなっていた。奴隷の大群はダーダネルス海峡を通りレバノンへと流れ込んで行った。この奴隷貿易をヨーロッパの歴史の本では、上品に、黒海貿易、と記述している。 ヴェネチアの商人達は、ダルマチア沿岸、ペロポネソス半島、クレタ島、マクソス島、その他行けるところが有ればどこからでも生きた商品(奴隷)をさらって来た。 ヴェネチア、フィレンツェ、トスカーナ地方の富の蓄積は奴隷売買によるところ大であった。奴隷はシリアのアンティオキアとレバノンのティルスを経てダマスカスやバグダッドへの大きな奴隷市場へ売られていった。北アフリカのサラセン人の町でも白人奴隷、特に女奴隷は金貨と交換に売られていた。 ヨーロッパ内部でも何世紀にもわたって奴隷売買は盛んであった。1501年に南イタリアのカプアが占領されたとき男は全員殺され、女はローマの奴隷市場で売買された。たびたびの戦争で占領され略奪されたヨーロッパの多くの都市の住民達も同じような運命にあった。1550年頃チュニジアの首都チュニスだけで三万人のヨーロッパの白人男女の奴隷が居たことが記録に残されている。 全てキリスト教国のキリスト教徒によってどこかで捕らえられ、縛られ、猿ぐつわを咬まされ、王侯貴族や特権聖職者、富豪達競って求めているオリエントの贅沢品交換するために狩られ運ばれて行ったのである。 ヨーロッパのいくつかの民族が海洋国家となったそもそもの動機は、決して遠い異教徒たちの魂を救済する為でも、キリスト教の伝道の任務を遂行するためでも文化的優越感を無い、大航海時代を生み出した原動力は、自然に呪われたヨーロッパ大陸の貧しさを克服したいという欲望からだった。 とはいえいつまでも奴隷資源だけで贅沢品を輸入するにも限りがある、こうした経過をたどって白人国家群はオリエントの財宝を直接我が物にするために軍事侵略を企てたのだ。 彼らは堅牢な船舶(軍艦に等しい)、完成された航海術、強力な軍事力を備えて公開に出発しまず最初にアラブの船と商人を絶滅させた。その後彼らポルトガル人、オランダ人、イギリス人達は相前後してアフリカの西海岸を探索し調査して回り、侵略の基礎となる場所を探し回った。その途中20年ほどで出会ったアラブの商船には予告することなく攻撃し沈め、全てのアラブ商船を壊滅させ、トルコの全艦隊を打ち破ってしまった。 スペインの宣教師ジュニペロ.セラはカリフォルニアに設立されたキリスト教布教活動根拠地で、1770年以降何十万人ものアメリカ先住民(インデアン)が奴隷のように扱われた。彼らが反抗的な態度をとると鎖で縛られ、鞭で打たれ、拷問にかけられ殺された。逃亡すればコヨーテのように狩猟された。カトリック教会だけではない、プロテスタント教下でも数々の同じ悲劇が繰り返された。 イギリスからアメリカへの第一回目の移民は1620年にメイフラワー号に乗ってイギリスから男女合わせてほぼ100人がマサセッチュー近郊に上陸した。直ぐに最初の冬を過ごすことになったがこの地域は非常に雪が多く冬が厳しい。 「もし先住民が持てる力の全てを傾けて彼らを助けてくれなかったなら彼らはこの冬を生き延びられなかったであろう」と彼ら自身の記録が伝えている。それなのに、その半世代の後にはこの地方には一人の先住民も住んでいなかった。白人に撲殺され射殺され、追い払われたのだ。 オーストラリアに入植してきた開拓民達は先住民をタスマニア島の狼のように撃ち殺した。ハワイのキリスト教化を機に以前は五十万人を越えた楽園の人口が五十年経つか経たないかの内に五万人に減少してしまった。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− funwaka注、 これが白人国家の植民地主義政策である。それに比べ、日本が統治した朝鮮、台湾では統治期間の30年に人口が、三倍に膨れあがったのは何故か?日本人はこれらの国を欧米の行う植民地化とはせずに日本国と同じ意識で、日本の人モノ金を注ぎ込み!国造りに邁進したからである。 朝鮮、台湾に(中国にも)日本人が日本国内で働いて貯めた膨大なかっか備蓄の富(税金)をつぎ込み、これら世界の最貧国に日本と同じ数の学校を建て、教師を育成し、病院を建て、灌漑用水を作った、そのおかげで疫病に悩まされる事無く、文字が読めることで機械を扱え、用水が確保出来た事で作物は10倍以上作られるようになり飢饉に飢える貧民が激減し人口が増えたのだ。まさに鬼畜白人国家とは正反対の事を日本はアジアでやってのけたのである。) |
産経新聞 新地球日本史 南京大虐殺は存在せず ◆世界を駆けめぐった米紙の特ダネ◆ 67年前の1937年(昭和12)年12月13日に、南京が陥落した。 当時の日本の新聞をみると城門の上で万歳をする日本軍将兵の写真や日本国内の提灯行列が特集されている。ところがアメリカでは次の新聞記事が出ていた。 南京陥落から3日後のこと、12月15日(日本時間16日)の『シカゴ・デイリーニューズ』は、「南京大虐殺物語」というトップ記事で、 「南京陥落の物語は、落とし穴に落ちた中国軍の言語に絶する混乱とパニックと、その後の征服軍による恐怖の支配の物語である。何千人もの生命が犠牲となったが、多くは罪のない人たちであった。…以上の記述は包囲中の南京に残った私自身や他の外国人の観察に基づく」 と伝えていた。 つづいて18日の『ニューヨーク・タイムズ』も、「南京屠殺が陥落の特徴」という見出しで、 「頻発する殺人、大規模な掠奪、婦女暴行、市民殺害…南京は恐怖の町と化した。…恐れや恐怖から走る者は誰もが即座に殺されたようだ。多くの殺人が外国人たちに目撃された」と報じた。 私たちは、城門が陥落するや場内に雪崩れ込んだ日本軍が「殺人放火意のまま」に市民や捕虜を殺しまくったと思うであろう。 (funwaka注、つまり、一般人を虐殺をしまくっていたのは、強盗団化した、中国軍だったのだ!!その中国強盗軍を日本軍が追っ払ってやった!その事実をどれほど捏造歪曲して今に伝えている事か!大うそつき歪曲強盗国家!中国の正体見たり!!である!!) これが世に出た最初の「南京大虐殺」であった。 陥落前から南京にいて15日に南京を離れたアメリカ人特派員のスティールやダーディンが打電したスクープ(特ダネ)であった。彼らは「外国人の目撃」を根拠として陥落3日間の南京を報じたことになる。 このスクープは、たちまち世界を駆けめぐったようだ。特ダネを求めて南京を走り回っていた2百人近くの日本の従軍記者や従軍カメラマンのなかにも、これを耳にした人がいた。 東大仏文科を出て間もなく南京戦に従軍した同盟通信の前田雄二は戦後、『戦争の流れの中に』(昭和57年)のなかで、「占領後、難民区内で大規模の掠奪、暴行、放火があったという外電が流れた。…私たちは顔を見合わせた。市内をマメにまわっている写真や映画の誰一人、治安回復後の暴虐については知らなかった。…無法行為があったとすれば、ひとり同盟だけではない、各社百名の報道陣の耳目に入らぬはずはなかった」と回想している。 南京戦に従軍した大阪朝日新聞の山本治も、南京大虐殺について、 「全然見たことも聞いたこともありません。…夜は皆集まりますが…朝日新聞では話題になったこともありません」と言う。そして、昭和13年夏に大陸から帰国するや、「神戸のホテルで、南京では日本軍が暴行を働いたそうですね、と言われてびっくりしました。なんでも外字新聞には出ていたということです」と回想する。どちらが正しいのであろうか。 二人のアメリカ人特派員は15日に南京を離れているので13、14日の2日間と、15日に離れるまでの陥落3日間の南京の様子を、外国人の「観察」と「目撃」に基づいて報じたことになる。 そこで、南京陥落後の最初の2カ月間の事件を完璧にとり揃えているという『南京安全地帯の記録』を見てみよう。これは1938(昭和13)年2月にスマイス南京大学教授の手で一冊にまとめられた「市民重大被害報告」が、1939年に徐淑希編として公刊されたものである。 問題の3日間を見てみると、13日は婦女暴行と掠奪が3件、14日は殺人1件、婦女暴行4件、手袋や万年筆や時計の掠奪が3件であった。15日は殺人4件、婦女暴行5件、掠奪5件である。しかし誰が目撃したかは明記されていなかった。二人の特派員が南京を離れるまでの殺人は出所不明の数件だったのである。陥落から3日間、明確な市民殺害の目撃は一件もなかったことになる。アメリカの特派員の言う「私自身や他の外国人の目撃」になる「頻発する殺人…市民殺害」とは、いったい何だったのであろうか。 ◆米国人特派員は目撃していなかった◆ アメリカ人特派員のスティールやダーディン、そして他の外国人が虐殺を目撃したという陥落前後の南京を見ておこう。 陥落5日前、南京防衛軍司令官は全市民に安全地帯に避難するよう命令を出した。国際委員会の第九号文書が記すように、事実上全市民が城内の安全地帯に避難した。 ところが南京戦では、日本軍の予想だにしない事態が発生する。日本軍の降伏勧告を拒否して徹底抗戦を豪語していた司令官の唐生智が、陥落直前の12月12日午後8時、いまだ激戦の続くなか、降伏表明もせずに敵前逃亡した。 巨大な城壁と城門で囲まれた城内にとり残された中国兵は、場外に脱出するか、市民のための避難地帯である安全地帯に侵入するよりほかなかった。陥落直前とあって、ほとんどの中国兵は安全地帯に殺到し、兵士と市民の渾然一体となった安全地帯は大混乱に陥った。その安全地帯に欧米人も残留していた。 中国軍の降伏が表明されない大混乱のなか、13日未明に、城門が陥落する。しかし城外では激戦がつづいていた。脱出する中国軍に猛撃されて、日本軍も死傷者を出していた。 14、15、16の3日間、日本軍は城内外で「残敵ヲ掃蕩(そうとう)シ以テ南京城占領ヲ確実ナラシメントス」るため掃蕩に出る。掃蕩とは治安回復のために残敵を追い払う、どの戦場でも、今でも不可欠な軍事行動である。 掃蕩で困難を極めたのが安全地帯であった。軍服を脱ぎ捨てて市民になりすました中国兵が市民の中に紛れ込んでおり、撤去されていない中国軍の軍事施設があり、武器を隠し持って反撃してくる兵士もいたからだ。安全地帯で中国兵が蜂起すれば、交戦が始まる。市民も巻き込まれ、日本軍の安全も脅かされる。 日本軍は第7戦隊のみに安全地帯の掃蕩を命じ、中国兵を摘発し、「抵抗の気配」のある者を揚子江岸で処刑した。しかし多くは苦力(クーリー)(労働者)として使った。翌年2月末現在で苦力は延べ一万人に達している。 このような状況のなか、「頻発する殺人…市民殺害」は誰も目撃していなかったという事実に立って、アメリカ人特派員が確かに目撃したことを整理すると、次のようになる。 一つは陥落前後の大混乱とパニックであった。二つ目は「死体」であった。三つ目は揚子江岸の「処刑」であった。彼らは以上の3点をもとに描いたとしか考えられない。 たとえばダーディンは「日本軍の下関門の占領は防衛軍兵士の集団殺戮を伴った。市外は高さ6フィートの小山を築いていた」と書いて、死体を「集団殺戮」の証拠とした。しかし彼が50年後に回想するように、これは城内の中国兵が唯一の脱出路ユウ江(ゆうこう)門に殺到して圧死したか、友軍の督戦隊が逃亡する中国兵を射殺してできた死体であった。 スティールは南京を離れる直前に、「河岸近くの城壁を背にして3百人の中国人の一群を整然と処刑している光景」を目撃したと書いて、中国兵の処刑を中国人の処刑と書いた。ところが彼も同じく50年後に、「中国人が虐殺される場面を見ましたか」と問われたとき、「はい。大勢の兵隊が銃殺されるのを見ました。整然と秩序だって銃殺されていました」と答えて、正確に「兵隊」と認めている。彼は中国兵処刑を大虐殺とみなしたのである。 ダーディンも「南京にとどまっていた3日間」の印象を問われて、虐殺というなら女性や子供が殺されるのを見聞したという衝撃的な体験を語るべきところ、安全地帯は「難民でごったがえしていた」が、平和であり、「食料はたくさんあるようだった」と答えている。つまりアメリカ人特派員は、「頻発する殺人…市民殺害」を目撃していなかった。 そのことは、第1回に延べた目撃証言の明らかな市民殺害は皆無という「市民重大被害報告」の記録や日本軍従軍記者たちの回想とも一致する。アメリカ人特派員は、横たわっている死体と日本軍の処刑を南京大虐殺の根拠としていたようだ。 ◆毛沢東は『虐殺』を否定していた◆ アメリカの新聞が「南京大虐殺」を報じてから、日本の陸海軍は、南京に将校を派遣して実情を調査している。 外務省の石射(いしい)猪太郎東亜局長も、南京安全地帯国際委員会から南京の日本大使館に届けられた「市民重大被害報告」を見て、政府に「南京に入場したわが軍による強姦・放火・掠奪」を報告している。そこに「虐殺」という文字がないのは偶然であろうか。 実際、石射が目を通したであろう「市民重大被害報告」の2カ月間の全報告を集計してみても、殺人は26件、婦女暴行は175件、掠奪は131件、放火は5件であったが、そのほとんどは目撃者を明記しない出所不明の「噂」である。 目撃されたのは、たとえば殺人は「合法的処刑」の1件であった。南京市民と欧米人の訴えた事件を完璧に揃えていた「市民重大被害報告」は、南京の欧米人の共通認識であり、公式見解であった。それに基づいて石射東亜局長らの日本側関係者が、外国人の目撃した「頻発する殺人…市民殺害」はなかったとみていたとしても、決して不思議ではない。 アメリカの記事が配布されたアメリカにおける反応はどうだったのか。スティールやダーディンの報じた2紙を基にして、他紙もまた同じことを報じ始めている。しかしアメリカ政府の日本に対する抗議は、パネー号誤爆事件とアリソン領事殴打事件であった。 1938年2月、ジュネーブの国際連盟で、中華民国政府代表は、アメリカの新聞の報じた南京大虐殺を取り上げて世界に訴えたが、そのときも国際連盟は、リットン調査団のような調査団を南京へ送ろうとする動きさえ見せなかった。 自国民が大量虐殺されたと主張する中国国民党の反応はどうだったのか。南京大虐殺が事実ならば今日以上に激しい日本非難が連日宣伝されたはずであった。 ところが国民党宣伝部が1938年4月に創刊した『戦後中国(Chinat War)』を見ても、国民党宣伝部は南京に触れながら、その創刊号に「南京大虐殺発生」と発表していない。 共産党の毛沢東は5月末から9日間連続の有名な講義「持久戦について」のなかで、日本軍は南京で皆殺しの殲滅に出なかったから戦略的に拙かったと批判し、南京大虐殺そのものの存在を否定している。 このように、アメリカの新聞が「南京大虐殺」を報じたものの、世界のどの国も「南京大虐殺」に公然と言及したこともなければ、公然と指弾したこともなかった。 しかし今から思うと、「南京大虐殺物語」がアメリカの新聞に出たとき、日本外務省は直ちに白黒を明確に公表しておくべきであった。国際調査団を招聘し、世界に向けてアメリカの新聞報道の是非を明らかにしておくべきであった。しかしそうはしなかった。 それを奇貨として、日中戦争1周年のころ、つまりアメリカの新聞に南京大虐殺が出てから7カ月後の1938年7月のこと、ハロルド・ティンパーリ編『戦争とは何か−中国における日本軍の恐怖』がロンドンとニューヨークで出版される。 この単行本は第三者的立場の編者が日中戦争を題材にして戦争の悲惨さを訴えるという趣旨に立っていたが、しかし全8章のうち最初の4章は、南京の外国人が友人あてに出したという匿名の手紙で構成されていた。そして南京は「2日もすると、たび重なる殺人、大規模で半ば計画的な略奪、婦女暴行…」「安全な無政府状態が支配しており、さながらこの世の地獄だ」「4万人近くの非武装の人間が…殺された」と描写されていた。 英語版の『戦争とは何か』が出ると同時に、その漢訳版『外人目撃中の日本軍暴行』も出た。やがてフランス語版も出たことが確認されている。 抗議することに慣れていない日本は、『戦争とは何か』が出たときも、それを放置していた。これが日本の敗戦後に大問題になろうとは、当時、人々は、知るよしもなかった。 ◆人口と同じ人数が殺害された?◆ 東京裁判の始まる半年前の昭和20(1945)年12月8日、連合国軍総司令部は、全国紙の全面2ページに、「太平洋戦争史−真実なき軍国日本の崩潰−連合軍司令部提供」を発表する。 「南京における悪虐…日本軍は恐る可き悪虐行為をやつてしまつた。近代史最大の虐殺事件として證人達の述べる所によればこのとき実に2万人からの男女、子供達が殺戮された事が確證されてゐる。4週間に亘って南京は血の街と化し、切りきざまれた肉片が散乱してゐた」 しかしそう述べた「證人達」とは、いったい誰だったのか。市民2万人殺害を示す「確證」とは何だったのか。連合国軍総司令部が南京事件を検証したことはなかったのである。 昭和21(1946)年5月3日、東京裁判が開廷し、7月南京大虐殺が俎上にのせられる。ここで特筆しておくべきは、証拠価値が高いはずのアメリカの新聞記事や『戦争とは何か』が、証拠として提出されなかったことだ。そして南京大虐殺を報じたスティールやダーディンや、『戦争とは何か』の編者ティンパーリや、その匿名の分担執筆者が、名乗りを上げて証言したこともなかった。 言い換えれば、アメリカの新聞記事や『戦争とは何か』の内容が俎上にのせられ、その是非が審議されたことはなかった。 東京裁判の証言台に立ったのは、中国人5人、アメリカ人3人であった。本来なら、彼らの証言は目撃証言なのか、その裏付けはあるのか、徹底的に審議されて然るべきであったが、それが問われたのはジョン・マギーの反対尋問のときだけであった。殺人行為を何件目撃したのかと尋問されたとき、マギーは「一人ノ事件」だけだと答えた。しかしその「事件」すら、当時の彼の日記によれば、彼は目撃していなかった。 証言のなかで、裁判の行方に最も影響を与えたのはマイナー・ベイツの証言である。 彼は1万2千という数字を挙げて「色々ナ調査・観察ノ結果、我々ガ確カニ知ッテ居ル範囲内デ、城内デ1万2千人ノ男女及ビ子供ガ殺サレタコトヲ結論ト致シマス」と主張した。さらにベイツは3万という数字を挙げて、「中国兵隊ノ大キナ一群ハ城外ノ直グ外デ降伏シ、武装ヲ解除サレ72時間後、機銃掃射ニ依ッテ射殺サレタノデアリマス」と主張し、武装解除された中国兵の射殺という表現で、婉曲的に捕虜殺害をほのめかしたが、一度として日本軍が「戦争捕虜(POW)」を処刑したと公言したことはなかった。 彼は東京裁判で証言したのち、昭和22(1947)年2月に南京で次の「声明」を発表する。「日本軍の南京占領の最初の2、3週間に殺された非戦闘員の男女子供の死者数は、どんなに低く見積っても1万2千であり、武装解除された軍服姿の男の死者数は3万5千であると確信した。これらの殺人の90%以上が最初の10日間に生じ、その殆ど全てが最初の3日間に生じた」 大量殺害のほとんどが「最初の3日間に生じた」と述べていることは重要だ。それが事実でなかったことは既に冒頭において論証した。陥落直前の人口20万、陥落8日後の人口20万、陥落1カ月後の人口25万と言う欧米人に、人口減少の認識がなかったことからみてもまた2カ月間の「市民重大被害報告」に照らしてみても、数十人の市民殺害すら考えられない。 あえて大量殺害といえば、3日間(72時間)の掃蕩の際の処刑しか考えられない。それゆえベイツの南京大虐殺の根拠は3日間の日本軍の処刑にあったことになる。ただ日本軍は「武装解除された軍服姿の男」ではなく、軍服を脱ぎ捨てた非捕虜の不法戦闘員を処刑した。合法だったのである。 ともあれ、ベイツの証言が裁判に大きな影響を与える。 昭和23(1948)年11月11日、「日本軍が占領してから最初の6週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、20万人以上であった」という判決が朗読された。 ◆告発の書は国民党の宣伝本だった◆ 東京裁判は、日本軍が一般市民と捕虜を20万人以上も殺したという判決を下した。今日、ナチスのホロコーストと対比して南京大虐殺が語られるが、その判決に対する世界の反応は奇妙であった。 長い間、中華民国をはじめとする世界の国々が、公然と南京大虐殺を持ち出したことはなかった。日本の教科書も中国の教科書も世界の教科書も、南京大虐殺を記載したことはなかった。東京裁判の判決は有名無実だという暗黙の了解があったかのように、ただ歳月のみが流れていった。 東京裁判から25年、それまでの空気が一変する。すなわち、1972年(昭和47)年の日中国交回復後になると、あたかも東京裁判の判決は正当であり、世界は南京大虐殺にもっと注目し、その事実をもっと知るべきだ、という動きが出てくる。 世論づくりの先駆けと転換点をなしたのが、1971(昭和46)年から、朝日新聞に連載された本多勝一氏の「中国の旅」である。これは日中戦争で日本軍から被害を受けた中国人の話をまとめたもので、翌年単行本として出版され、ベストセラーとなった。 それから十年後、『中国の旅』の一つの章であった「南京」がクローズアップされる。アメリカの新聞記事や『戦争とは何か』も発掘され、その翻訳が日本人の前に提示される。 なかでも『戦争とは何か』は高く評価された。『戦争とは何か』に匿名で主張していた人が東京裁判に出廷していたことが判明したからだ。その人こそベイツ教授その人であった。 それにしても、ベイツは東京裁判で一言も『戦争とは何か』に触れなかった。なぜベイツは、自ら分担執筆した『戦争とは何か』を東京裁判に証拠として持ち出さなかったのか。ともあれ、『戦争とは何か』は、南京大学教授にして宣教師の執筆した本として高く評価されていった。 こうした、1982(昭和57)年の教科書誤報事件から、日中の教科書が南京大虐殺を掲載し始める。中国は1985年に「南京大虐殺記念館」を建設する。 南京陥落から50年、南京占領をよく知る人たちは多くがこの世を去っていた。しかし若き外交官として南京の日本大使館で苦情処理係であったという福田篤泰は、次の苦言を呈している。 「日本軍に悪いところがあったことも事実である。しかし、20万、30万の虐殺はおろか千単位の虐殺も絶対にない。…いわば衆人環視の中である。そんなこと(虐殺)などしたら、それこそ大問題だ。絶対にウソである。宣伝謀略である」 福田は当時、南京にいて欧米人と折衝した際の見聞から、南京大虐殺は「絶対にウソである。宣伝謀略である」と断言していた。しかし証拠は出しようもなかった。 ところが近年、福田篤泰のいう「宣伝謀略」という言葉が、いよいよ現実味を帯びてきた。まず、『戦争とは何か』は国民党宣伝部の「編集製作」した「宣伝本」であったことが分かった。 次に、編者のディンパーリは国民党宣伝部の「顧問」であった。匿名の分担執筆者も分かった。一人がベイツで、彼は中華民国政府「顧問」であった。もう一人がジョージ・フィッチで、彼の妻は将介石夫人の宋美齢と「親友」だった。 さらに、世界で初めて南京大虐殺を報じたアメリカの新聞記事のニュースソースは、ベイツが1937年12月15日に南京を離れるアメリカ人特派員たちに「利用してもらおう」と準備した「レポート」であった。それが『戦争とは何か』の第一章後半となっていた。アメリカの新聞が南京大虐殺を目撃したと記していた「外国人」とは、少なくともベイツのことだったのである。 そのベイツは中華民国政府から勲章を2回授与されていることも分かった。それは、彼が匿名で『戦争とは何か』に4万人虐殺を書き込んだ1938(昭和13)年と、東京裁判に出廷して4万人虐殺を証言した、1946年のことであった。 ◆極秘文書にも『虐殺』の記述ない◆ 国民党の宣伝謀略という言葉が現実味を帯びてきた今、ダーディンの次の記事が思い出されてくる。すでに述べたように彼は『ニューヨーク・タイムズ』に南京大虐殺を報じた特派員であった。また最近分かったことには、国民党宣伝部副部長の董顕光とは「旧友」「良友」の関係にあった。 その彼が12月22日の『ニューヨーク・タイムズ』に「防衛軍指令長官部は彼らが城壁で囲われた南京に包囲されることを十分承知していた。…日本軍の南京占領をできるだけ高価なものにしようと意図していたことは疑いない」と書いていた。日本軍の南京占領を高価なものにする意図とは何であったのか。 南京防衛軍司令部は、城内に残された中国兵が陥落前に安全地帯に入って大混乱とパニックが起き、陥落後は日本軍が安全地帯に入って中国兵を摘発し処刑することを事前に「十分承知」していたのではないか。これらの事態を渡りに船の宣伝材料にしようと意図していたのではないか。 折から第二次国共合作下の国民党員と共産党員が結集した国民党中央宣伝部の宣伝工作を記した「極機密」文書が出てきた。それが『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』(1941年)で、南京陥落前の1937年12月1日から3年間の戦争宣伝工作の内幕を秘密報告していた。 まず国民党宣伝部の五課三室の一つの「対敵課」の「工作概況」から見てみよう。「対敵課」は宣伝工作のために、宣伝本として『戦争とは何か』を編集製作したことを秘密報告し、その『戦争とは何か』を次のように要約していた。 「その内容は、敵軍が1937年12月13日に南京に侵入したあとの姦淫、放火、掠奪、要するに極悪非道の行為に触れ、軍紀の退廃および人間性の陥落した状況についても等しく詳細に記載している」 宣伝本の『戦争とは何か』は殺人、強姦、放火、略奪の描写を満載した本であった。従ってその要約の冒頭には殺人や虐殺が出てきて当然ではなかったのか。ところが、宣伝部は肝心要の「殺人」「虐殺」を記していない。 「外事課」の「工作概況」も見てみよう。外事課は外国人特派員が国民党宣伝部の宣伝文書を発信してくれるならば宣伝効果が上がるとみて、南京陥落前の12月1日から翌年10月24日までの328日間に3百回の記者会見を、お茶会とともに開いていた。 ところが、12月中旬にアメリカの新聞が南京大虐殺を報じたときも、翌年7月に『戦争とは何か』が出たときも、そのための記者会見を開いたという記述がない。南京大虐殺が事実であったのならば、自国民が不法に殺害されたというニュースにいち早く反応して、世界に事実を公表するのが国民党宣伝部の当然の責務ではなかったのか。 他の課の「工作概況」をも見てみたが、「大量殺人が起きた」ことを宣伝工作したという秘密報告は、やはり見いだせなかった。 このように国民党宣伝部が一級史料の極秘文書においてさえ南京大虐殺に一言も触れていないという事実を、私たちはどのように考えればよいのだろうか。 これまで述べてきたように、「市民重大被害報告」において不法殺害の目撃がなかったことや、国民党がベイツの4万人虐殺説を大陸向けの『戦争とは何か』の漢訳版や同じく中国での4回にわたる英語版への転載において削除していたことや、その他の疑問や、矛盾点を考慮に入れるとき、国民党宣伝部は南京大虐殺を歴史事実と認めておらず、あくまでも宣伝謀略のための戦争プロパガンダの材料として位置づけていた、と言わざるを得ない。そう考えて初めて史料の整合性が出てくるのである。 勿論摘発された中国兵の中に市民がいたのではないか、不法な処刑があったのではないかとも考えられるが、推測の域を出ない。 こう考えてくると、南京大虐殺とは国民党の宣伝謀略に使われた宣伝本などをもとに、東京裁判正当化のために再構築された解釈に過ぎない。大虐殺を主張する人は南京大虐殺を公然と明記する国民党政府の当時の記録を提示すべきだ。 (亜細亜大学教授 東中野修道) |
週刊新潮/変見自在 ’05.9.8 掲載より 帝京大学教授 高山正之 『真犯人』 昭和20年8月7日、ジャカルタから仏印ダラトに向けて南方方面軍の双発輸送機MC20が飛んだ。 乗客はスカルノとドクター・ハッタなど独立派の要人たちで、目的はダラトで病気療養中の南方方面軍総司令官、寺内寿一との会談だった。 スカルノは言うまでもなくインドネシアを独立に導き初代大統領となる人。 ハッタはその右腕で、まだオランダ植民地時代に日本を訪れている。 同じアジア人の日本が鉄道を走らせ飛行機を飛ばすのを見て「日本の工業力と我々の資源を結びつければ国家を経営でき、貧困からも脱出できる」ことを確信する。そして「オランダが高い工業製品を押し付けるのは犯罪的な搾取だ」と非難して植民地政府に捕らえられ投獄される。 彼が解放されるのは昭和17年、日本軍がインドネシアに上陸してオランダ軍を降伏させた後になる。 出獄したハッタはスカルノらとともに日本軍のもとで国家経営のノウハウや行政を学んだ。 オランダ支配下の350年間、人々は統一語も持てず、識字率は3%以下だったが、日本は3年半でジャカルタ語を標準語にして教育の拡充を図った。 日本はさらにインドネシア人の軍隊「ペタ」を設立し、戦うことを教えた。 第五師団の一員としてこの地の戡定(かんてい)作戦に参加した「インドネシア・ラヤ」の中島慎三郎氏は「全国からイスラム教徒の若者が応募してきた。血書を認(したた)める者もいた」と語る。 なぜイスラム教徒かについて中島氏は「彼らはメッカで世界を知っていた。彼らを最も興奮させたのが日露戦争での日本の勝利だった」ことと「ジョヨボヨ伝説」が相乗したと見る。 これは12世紀のインドネシア王の予言で「異民族が来襲して長い間支配されるが、北方の黄色い軍隊がその異民族を追い払う」というものだった。 予言通りオランダが襲い長く過酷な支配をし、そのあとに北から日本軍がやってきて彼らを追い出した。インドネシアの民は「本気で日本に倣おうとした」というわけだ。 しかし、その日本は敗勢にあった。日本が敗れれば再び白人が戻ってくる。 彼らの蹂躙に遭う前にインドネシアはペタ精神をもって独立の道を歩む、というのがスカルノとハッタの選んだ道だった。 MC20は制空権を失った空を2日がかりで飛びダラトに入った。 寺内とスカルノの会談は二日間行われ、寺内は独立を喜び、援助を約束したという。 彼が独立を宣言したのは日本が降伏した二日後の8月17日。独立記念碑には「17805」とある。 独立の勇気と力を与えたのは日本であり、だから西暦ではなく「皇紀2605年の8月17日」としたということだ。 その思いが形になったのはオランダが英国の助けを得て再び植民地支配に戻ってきたときだった。 逆らうことを知らない気弱なはずのインドネシア人が、スラバヤに上陸した英軍旅団を迎え撃った。 その先頭にはペタが立ち、日本軍から得た兵器で戦った。爆弾を抱えて「ジバク」と叫んで戦車に突っ込んだ者もいた。 その後4年半、オランダは空軍も動員して貧弱な装備のインドネシア人を殺しまくった。80万人が殺されたが、人々は決して逃げ出そうとはしなかった。 見かねた米国が戦後復興援助(マーシャルプラン)の打ち切りを言い出して、オランダはやっとインドネシアの独立を認めた。 しかしその条件がふるっている。オランダは非人道的な植民地支配には一切の謝罪も賠償もなし。逆に道路や港の整備、石油施設などの引越し代償として60億ドルを請求した。スカルノはそれを呑んだ。 阿漕(あこぎ)を絵に描いたようなオランダが、この8月17日の独立記念式典で「再び植民地化しようと軍隊を送ったのは間違いだった」と謝罪した。 東南アジアを侵略し搾取したのは日本だと欧米は言い募り、共産党系朝日新聞もそれに同調してきた。 しかし真犯人の一人が今やっと自供した。共犯の英米仏も素直に白状したらどうだろう。とくにアジアを裏切り、白人国家になびいた中国も今が懺悔のいい潮時と思うが。 |
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今日は、いつもfunnwaka論を楽しみに拝見しています。 今回天皇制のことが記事になっていました。そこで、おもしろい情報をひとつ、もし知っていたらごめんなさい。アインシュタインが来日して、伊勢神宮で講演された時の発言です。
−−−−−−−−−−−− アインシュタイン博士は、1922年11月16日に初来日して40日間日本に滞在したが、伊勢神宮参拝の際の講演時に、以下のような日本に対する奇妙なメッセージを残した。その様子は、当時の雑誌『改造』(大正12年)に掲載され、話題になった。
「近代の日本ほど、世界を驚かしたものはない。この驚異的な発展には、他の国と異なる何かがなくてはならない。日本は3000年の歴史を通して一系の天皇を戴いてこれたということが、今日の日本をあらしめたと断言できる。私はこのような尊い国が、世界のどこかに一カ所くらいなくてはならないと常々考えていた。世界の未来は進むだけ進み、その間、幾度か争いは繰り返されて、最後の戦いに疲れるときがやってくる。 その時、人類は本当の平和を求めて、世界的な盟主をあげなければならない。この世界の盟主になるものは、武力や財力ではなく、あらゆる国の歴史を遥かに越えた、最も古く、最も尊い家柄でなくてはならぬ。世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。それはアジアの高峰、日本に立ち戻らなくてはならない。我々は神に感謝する。我々に日本という尊い国を作っておいてくれたことを……」 天皇制のすばらしさをアインシュタインは感じていたようです。 |
こんにちはfunwakaです。 そこで、おもしろい情報をひとつ、もし知っていたらごめんなさい。 アインシュタインが来日して、伊勢神宮で講演された時の発言です。 アインシュタイン博士の講演の言葉をご存知でしたか。(^-^) funwaka論の、歴史.更新.5.12.7に最近話題になった、国家の品格、の執筆者、お茶の水女子大学教授、藤原正彦先生が産経新聞の正論で書かれた中でも少し掲載されています。 正確で真実に基づいた日本近代史を知っている者にとっては、アインシュタイン博士の講演録は有名なのですが、残念なことに、日本悪邪論を喧伝する反日左翼連中の洗脳に毒された日本の教育界やマスコミや学会、売国政治家連中にはまったく無視されています。 ユダヤ国家は攻め滅ばされ奴隷となって800年、その後、世界に散らばり放浪苦難の後、今の土地で新たに国家建設をしました。その歴史の悲惨さはその民俗にしか生まれない精神力を持たざるを得なかったのでしょう。それ故に世界のどこでも普遍的に頼れる金を多く持つ生き方をし、金貸しの職業の者が多くあり、そのせいで世界でユダヤ人は妬まれる事になったようです。 その事もあり、アインシュタイン博士ほど優秀な頭脳を持って偉業を成し遂げようとも、ユダヤ人な故に、欧米の白人世界では常にユダヤ人としての迫害を受け、Oュー、と、裏では陰口をたたかれ蔑まれていたようです。 ところが日本という国は、明らかに世界の文化文明とは違って、攻めたり攻められたり負ければ奴隷、勝てば王様の暮らし、など、とは縁遠く、それもコレも全て天然の城壁日本海のおかげなのですが、「それはともかく博士が来日した当時まで、日本は外国と一度も戦争をした事が無く、(元寇も一部だった)だから、外国人を差別するなどという、人種間差別をする必要もなく、お互いが和を尊び平和に暮らす事が出来ました。 生真面目な働き者、勤勉な日本人にとっては、世界一の優秀な頭脳を持つアインシュタイン博士ですから、それはもう日本人の誰と会っても、日本人は、博士を刮目し、尊敬の念を持って歓待したはずです。 そういう国民性ですから、おそらく博士は日本滞在中タダの一度も、蔑まれるコトも、嫌な目に遭うことも無く、尊敬され続け、歓待され続け、過ごし日本を楽しめたと思います。 徳川の鎖国時代を通じ、明治時代にも欧米から来た外国人が日本を旅したとき、殆どがアインシュタイン博士と同じ感銘を受けて日本を後にした、と言います。( 逝きし世の面影 渡辺京二 平凡社 ) 今でも外国人が日本の田舎を旅すれば、勤勉で真面目な日本人と静寂で清潔で綺麗な日本の風景に出会い、同じ感銘を受けて帰るそうです。 私達日本人はもっと!もっと!日本という国に誇りを持って良いのだ!と思います。(^g^) 貴方のように近代史を正確に知ろうとされる方がもっともっと多くなれば、日本の若者も、祖父の世代に、親の世代に、自分に!未来に!誇りと自信を持てるようになる!と思います。(^g^) |
週刊新潮/変見自在 ’05.12.1 掲載より 帝京大学教授 高山正之 『七歳の捕虜』 NY・タイムズのN・クリストフ記者が東京で嘘ばかり書いていたころの代表作に「日本兵が中国人少年を殺してその肉を食った」というのがある。 三重県に住む旧日本軍兵士から聞いたとクリストフは書き出している。 老兵は「たった一切れしか食べなかった」が、「妻にも打ち明けられない忌まわしい記憶」は未だに彼を苛み続ける。そう告白する彼の「枯れ木のような手は震えていた」と。 しかし糟糠の妻にも話さなかったことをなぜ一見(いちげん)の外国人に語ったのか。 ヘンに思った産経新聞の記者が老兵に話を聞いたらまったく違った。 老兵は言う。クリストフが訪ねてきてさかんに人肉を食っただろうと言う。 中国人と違うからそんなことはしないと答えた。 彼は噂で聞いたこともないかと聞く。 それで駐屯した中支の市場で滅多に見ない新鮮な肉が出ていたので買ってみんなですき焼きにした。 そこへ憲兵隊がきて、何某を探しているという。何でも中国人少年を殺して逃げたという話だった。 で、もしかしてこの肉はその子のではないかと冗談を言った。それほど新鮮な肉だったという意味だ。 それをクリストフは冒頭の話に脚色した。たいした嘘つきだ。 彼はまた十五年間の日中戦争で「日本軍は暴行略奪の限りを尽くし二千万人を殺した」と書いている。 江沢民の言う三千万人を少し少なめにしたところがNY・タイムズの良識と言いたいらしい。 しかし二千万人でも十五年間、休みなしで毎日三千七百人ずつ殺し続けなければならない。 日本軍が本当にそんな血まみれの軍隊なら、市場に新鮮な肉があればわざわざ買うか。奪えばいい。 日本兵が子供を殺したといって憲兵隊が出動して捜査するか。 この記事はクリストフ記者が朝日新聞本社ビルにオフィスを構えていたころに書かれたものだ。 朝日に感化され、どんな嘘でもいい、日本を悪く書けばいいと本気で思っていたことがよく分かる。しかし、この記事は日本軍がいかに軍規に厳しかったかを証明してしまった。 中支にはもう一つ、日本軍のありのままの姿を伝える実話がある。 昭和十八年六月、第三十七「光」師団は漢口から黄河のほとり河南省済源県に転進命令を受けた。 この地はかつて殷、周が都を置き、戦国時代には項羽や劉邦が駆け回ったいわゆる「中原(ちゅうげん)」にあたる。 同師団二二七部隊第七中隊約二百人は黄河のほとり王爺廟付近で中国軍の大隊と遭遇する。 中国側は五倍の兵員数だが、日本側は強かった。たちまち半分をやっつけ、中国軍は降伏した。 捕虜の中に七歳の男の子が紛れていた。中国軍将校が預かっていた孤児で、名を俊明といった。 捕虜の身では面倒もみられないということで第七中隊が代わって子供を預かることになった。 俊明はすぐに中隊のマスコットになった。 兵たちは俊明に似合いそうな服や菓子を買ってきては可愛がった。 部隊が出撃するときは松山という日本名の朝鮮人家庭に預けられたが、その親子に「親なし子の捕虜の支那人」と苛められた。 部隊は南に移動することになったが、引き取り手もなく、結局、子連れで転戦することになった。 戦いが始まると炊事班と後方で待機し、一段落すると、また合流する生活が続く。その間に日本語の読み書きも教わった。 後に師団名の「光」を姓に日本に帰化した俊明は自伝『七歳の捕虜』の中で、別の部隊と行き会うと「その部隊にも孤児が引き取られていた」と書いている。 部隊は南支からさらにバンコクに移ったところで敗戦の知らせを受ける。 俊明はここで連合軍に中国に戻るか、敗戦国・日本に行くかを選ばされ、親代わりになってくれた軍医の養子になる道を選んだ。 俊明は熊本済々黌高から熊本商大に進み、今は神戸で貿易商を営む。 江沢民は「日本軍は子供を放り上げて銃剣で刺し殺した」と言い立てる。 彼は日本人の中で育っていればあんな嘘つきにならずにすんだのに。 |
週刊新潮 ’05.7.21/『変見自在』(帝京大学教授 高山正之)より 要らん嘘 イランの大統領選についての報道で久しぶりに「バシジ」という単語にお目にかかった。バシジとは、ホメイニ師の親衛隊「革命防衛隊」に入りたいけれどまだ若すぎる子供たちを中心に編成された志願兵のことだ。 かなり狂信的で、デビュー戦となったイラン・イラク戦争の戦場では、十二歳とか十三歳とかの子供たちが地雷原に突進し、次々に吹き飛ばされていったという実話も残る。テヘランの街中でも彼らに遭遇することがある。 夜、車を転がしていると銃を手に横隊を組んで道路を封鎖し、検問する彼らに何度か出くわした。検問の目的はよきイスラム信者かどうか。 例えば夫婦で車に乗っていても結婚証明書を持っていないと「不純な交際」と看做される。奥さんをその場に残して亭主が証明書を家に取りに帰らされる。ホメイニ師は性的なふしだらさに異常なまでの厳しさで臨んでいた。 この例でその男女が夫婦ではなく、実は道ならぬ関係だったりすると、二人はただちに拘束され、不倫が証明されれば石打ちによる死刑に処される。あるいは女性がスカーフのかげから髪の毛を覗かせたり、口紅を塗ったり指にマニキュアをしていたりするだけでも「異性を誘惑し宗教心を惑わした」罪で鞭打ち刑に処せられた。ホメイニ師はまた「堕落した欧米の風俗に染まる」ことも許さない。 ネクタイをした紳士が捕まったのも見た。ネクタイを切られた上、焼きを入れられていた。 国営テレビのアナウンサーが米国のTVキャスターみたいにきれいに髭を剃って登場したことが是か非か大論争にもなった。中東で最も近代化していたイランを七世紀のコーランの世界に逆行させたのは、実はこのバシジともう一つの狂信者組織イスラム協会という暴力装置に負うところが大きい。これは労働組合の宗教版と思えばそう大きな間違いはない。 革命の朝、病院も企業も狂信的な職員組織がいっせいに実権を掌握し、抵抗すればただちにバシジが飛んできて成敗した。 革命の後、名門メリ大学の学長に就任したのは昨日まで化学実験室の用務員だった男で、取り得はひたすら過激なホメイニ師信奉者ということだ。病院もそういう狂信的な職員が実権を握り、そこで実行したのがホメイニ師の言う性的清廉さだった。 つまり男の医師が妻でもない女性の肌を見たり触ったりするのはホメイニ師の言葉にそむく。だから禁止する、と。で、男性の産婦人科医は全員失職した。ただ困るのは夜間、救急車で運ばれてくる患者だ。夜勤の当直医が女医で運ばれてきた患者が男性だと診察もできない。みすみす死なせてしまうのか。 イスラム教会の病院支部がそこで出した答えが「異性の患者は鏡を使って診断せよ」だった。 こんなにもばからしい宗教政治に付き合っていられるかと多くのイラン人が国を捨てた。米国西海岸のビバリーヒルズやサンタモニカにはそうした脱出組が大きなコミュニティを作り、ペルシャ料理の店が並んでいる。 それでもイランに残っているのは、狂信的なら無能でも出世できる社会を好ましく思っている者か、脱出のあてがなく諦めてしまった者かのどちらかだ。さて今回の大統領選はそんな諦めムードを反映して投票率も関心も低く、結局、反米を看板にしたアフマディネジャド・テヘラン市長が勝利した。 彼は「堕落した欧米風」を嫌い、髭を剃って出勤した部下を叱ったとか、ホメイニ師も文句を言わなかったエレベーターを今後は男女別にするとか、超保守的な言動で知られる。迷走するイランを憂う声が澎湃(ほうはい)とする中、朝日新聞がまた馬鹿な記事を書いていた。 「有権者は自由意思で投票した」の見出しで「若者たちは候補者のステッカーを車に張り、音楽を流し、集会を開く」とまるで政治的自由を満喫する日本の「勝手連」風に書き立てる。その若者たちが実は狂信のバシジだとは書かない。 反米なら大歓迎。そのためなら事実はどうにでも曲げますということか。 |
産経新聞 08.2.23日朝刊より抜粋 国損偏向左翼に堕した朝日や毎日、NHKを見続ける読者にはまず得られないだろう、日本の誇るべき真実を追究する産経新聞が、新たに報道する日本の真実!! *************** 沖縄.座間味島 軍強制否定の新証言!! 当時の日本軍隊長が、村長の集団自決のための弾薬や手榴弾提供願いを拒否し、「自決しては成らない!」と命令する! 沖縄県座間味島で起きた集団自決をめぐり、同島の村長が日本軍の隊長に集団自決をいさめられ、自決のために集まった住民に解散を指示していたことが、当時の防衛隊員の証言で明らかになった。 教科書などで誤り伝えられている「日本軍強制命令」説を否定する有力な証言。 証言したのは、座間味村で民宿などを経営する宮平秀幸さん(78)。沖縄戦(昭和20年3〜6月)の当初、15歳の防衛隊員として、同島に駐屯した海上挺進隊第1戦隊長、梅沢裕少佐の伝令役を務めていた。 宮平さんによると、同島に米軍が上陸する前日の昭和20年3月25日午後10時ごろ、野村正次郎村長、宮里盛秀助役ら村三役と国民学校長、役場職員、女子青年団の宮城初江さんが、梅沢少佐のいる本部壕を訪ねた。 そこで、宮里助役らは「明日はいよいよ米軍が上陸する。鬼畜米英にけだもののように扱われるより、日本軍の手によって死んだ方がいい」「すでに、住民は自決するため、忠魂碑前に集まっている」などと梅沢少佐に頼み、自決用の弾薬や手榴(しゅりゅう)弾、毒薬などの提供を求めた。 これに対し、梅沢少佐は「そんなものは渡せない。われわれの役目はあなた方を守ることだ。なぜ自決させなければならないのか。ただちに、集まった住民を解散させ、避難させよ」と命じた。 同日午後11時ごろ、忠魂碑前に集まった約80人の住民に対し、野村村長は「部隊長(梅沢少佐)に自決用の弾薬類をもらいにいったが、もらえなかった。みなさん、自決のために集まってもらったが、ここでは死ねないので、解散する」と話した。このため、住民たちはそれぞれの家族の壕に引き返したという。 宮平さんは「私は、本部壕での村側と梅沢隊長のやりとりと、忠魂碑前での野村村長の指示をすぐ近くで聞いていた」と話す。 その後、村長ら村三役や国民学校長らとその家族はそれぞれの壕で集団自決したが、宮平さんら多くの住民は自決を思いとどまり、翌26日に上陸してきた米軍に捕らえられるなどした。宮平さんは米軍の迫撃砲で左足を負傷し、自分の家族の壕に戻ったところを米軍に見つかったという。 宮平さんはまた、梅沢少佐の元部下から生前に送られた手記を保存している。そこにも、村三役と国民学校長らが自決用の劇薬、手榴弾、ダイナマイトなどをもらいにきたが、与えるべき武器、弾薬類がなかったことが書かれている。 宮平さんは戦後、これらの事実を話す機会がなかったが、「昨年、集団自決をめぐる教科書の記述が問題となり、真実を伝えておきたいと思った」と話している。 −−−−− 以上、産経新聞より抜粋 ****************** 以下、funwaka この明らかな大嘘を、左翼偏向報道し中国の出先報道機関と堕した沖縄の、国損マスコミと偏向左翼市民団体よ!! 沖縄に少なからず縁のあるfunwakaだからこそ!敢えて言わせてもらう!! おまえら!クズマスコミ!と、左翼偏向市民活動野郎らのせいで、どれほど!真面目に!まともに!働いて来た!沖縄出身者がメイワクを被る事か! 戦後直ぐの頃50時間以上荒波に揉まれ胃の中全て吐き出してまで船で渡って働きに出た本土。 その本土で、見知った者誰もいない都会の片隅で!【 差別だ、人権だ、など、一言も発せず!! 利権や特権を何一つ要求せず!】ただただ!ひたすら!真面目に!黙々と!額に汗し!働き!法律を守り!税を払い!勤勉に努めたからこそ!沖縄出身者への差別意識が無くなったのだ! なのに!オマエら沖縄のクズマスコミと左翼偏向市民団体とクズ学会のせいで、戦後直ぐの頃と同じ目線(差別)でヤマトンチュが【 沖縄人を斜め見する時代に逆行 】しかけているのだぞ!! 方言を学校で禁じてまで差別をうけないようにしている県は日本全国探しても沖縄だけじゃないか! その苦労を知れ!! 沖縄出身者がどれほど苦労して今の位置を作ることが出来たかオマエらクズには解るまい! それをオマエらが全てぶちこわしにしはじめているのだぞ!! オマエら10%のクズのせいで、声なきまともな義弟や義父母ら90%の沖縄県民、出身者が大迷惑!!を被っているのだぞ!! そんなに左翼が好きで中国が好きで中国傀儡に堕するなら!さっさと沖縄を出て、世界の嫌われ国家!中国や朝鮮に行け!! そして、これ以上真面目に暮らす沖縄県民や沖縄出身者に迷惑をかけるな!!国損左翼のクズ共が!! |
funwakaさん、おはようを通りこしてこんにちは。よく寝たぁ〜Zzzz。。。昨日は遅くまでチャットをありがとうございましたm(_ _)m。 ところで昨日話した、『いおうとう』の滑走路のお話ですが、昨日、青山氏のとこのコメント欄に、その滑走路工事に従事した人の投稿があったのね。 始めに読んだ時は、青山氏は日本のために尽くした英霊たちの遺骨を、滑走路をひっぺがえしてでも何としても家族の元に返したいと思ってる、でも工事従事者は自分たちもニホンのために滑走路を作ったんですよ。と言ってて、どっちにも国を想う気持ちがあって、滑走路はどうしたらいいんだろうと思ったけど、何度も読み返したら、 > 何か、戦死なされた将兵の皆様と一緒に働けたと勝手に思っております。水平線に沈む夕日と海岸のコンクリート船。 > 滑走路移設があれば喜んで工事に従事したいと想う職人は多いと考えます。日本の為の基地を立派に作ることが一つのお礼と考えます。 「滑走路移設があれば喜んで」という事は、この滑走路を作った人たちも、滑走路を剥がしたその時は協力しますよ! という事だよね?\(◎o◎)/! 青山さんが、番組内で、 「だからもう一度ですね、みんなが、この中で見てくれた方の1%でも2%でもですね、お水を毎日できれば汲んでいただいて、冷やして、南に向かって祈っていただくと、だんだんだんだん、そのお水の運動が広まって、誰が言い出したかをみんなが忘れる頃に、『そうだ、あの滑走路を引き剥がせ』という国民の声が必ず出てくると思ってますから。」 って言ってたの。私も今日から、滑走路が剥がされて英霊さんたちの遺骨が、ご家族の元に戻されることを祈って、一杯のお水を玄関に置きました。(桂浜の石たちの隣に♪) 詳細は、こちら↓↓↓ 感動屋さん&国を想うfunwakaさんも読んだら絶対、涙、涙だと思う。 『ぼやきくっくり』さんより 「アンカー」硫黄島陥落63年 栗林中将の法要 http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid459.html −−−−−−−− 俺も泣かせてもらったよ。。 −−−−−−−− funwakaさん、くっくりさんとこの最後に紹介されてた、この動画見ました? 私は今みています。まだ途中だけど、いろんな話が聞けて大感動中でございます(T_T)。 > ただ、昨年6月に関西テレビ局内にて「青山繁晴のナマでもズバリ!」というイベントが催されまして、そこで青山さんの講演(トーク)が行われました。 > その時、硫黄島についても語られまして、その動画がまだ「アンカー」のHP(http://www.ktv.co.jp/ktv/literacy/anchor.html)に置かれています。動画はテーマごとに4つに分けてUPされてますが、その3つ目です。まだご覧になっていない方は、ぜひこの機会にご覧下さい。 ↑ 動画はここをクリックしてください。(3つめの動画です。) −−−−−−−−−− ◆関連記事◆ 青山氏ブログ 来てください(2008年03月20日 03時27分58秒) http://blog.goo.ne.jp/shiaoyama_july/e/ec62a26c4d2b9dcc45c768adcbf2ddf8 急ぎ、お答えします(2008年03月22日 21時28分04秒) http://blog.goo.ne.jp/shiaoyama_july/e/43c2280892a8d823583ae8f71e81ff2c 魂の硫黄島へ (深く淡く生きる その番外編)(2006年12月07日 01時28分31秒) http://blog.goo.ne.jp/shiaoyama_july/e/9d36b509de71a420d0a7d2f86bfbade8 硫黄島守備隊ご遺族の、しゅういちさんへ(2006年12月14日 03時16分49秒) http://blog.goo.ne.jp/shiaoyama_july/e/29df91c629b834613b23e5c550e3d470 『博士の独り言』より 「水一杯」を英霊に捧ぐ(2007/06/24(日) 02:22:44) http://specialnotes.blog77.fc2.com/blog-entry-732.html |
【 変見自在.3冊目の単行本.ジョージブッシュが日本を救った.新潮社より絶賛発売中! 】 週刊新潮 08.12.11号 掲載 変見自在 高山正之 茶色い頭脳 「日本という言葉を発するときにたえず嫌悪の匂いが私の中に生まれる」と加藤登紀子が言った。 曽野綾子さんが「そんなに日本が嫌なら日本人でいることはない。他国人になれば」(産経新聞「昭和正論座])と親切に勧めていた。 しかし彼女はその後も日本に居座っている。 朝日新聞も彼女と同じに日本を嫌い「日本はいい国だ」と書いた空幕長を罵り倒してクビにさせた。 この新聞もソウルに移ればいいのに、まだ日本で優雅に暮らしている。 そんな新聞にHIVウイルス発見でノーベル賞を受賞する仏医学者L・モンタニエの話が載った。発見から二十余年。 受賞がこんなに遅れたのは「米国のギヤロ博士との先陣争いがあった」と辻篤子論説委員がきれい気に書いていた。 でも本当はR・ギヤロがモンタニエからもらったサンプルを元に「オレが第一発見者だ」と言い出した。 名を残せるならどんな恥知らずもやる。ギヤロを白状させるのにこんなに時間がかかったというのがホントの理由だ。 日本のことなら嘘でも悪口を書く朝日は、相手が白人だとここまで遠慮する。 おまけに辻女史は「受賞者は三人。漏れた四人目の学者が可哀想」とも。 そんな金魚の糞みたいな存在に同情する前にノーベル賞の裏にある偏りや偏見を考えたことはないのか。 裏は実際、とても汚い。例えば第一回のノーベル医学賞はジフテリアの血清療法に与えられた。 北里柴三郎が破傷風に次いで手掛けた血清療法の第二弾で、ドイツ人E・ベーリングと共同研究の形で発表された。 しかし受賞はベーリングだけ。北里は黄色い人種だから受賞から外された。 同じころ高峰譲吉が副腎皮質ホルモンを世界で初めて結晶化し、アドレナリンと名付けた(石原藤夫「発明特許の日本史」)。 しかし日本人はここでも無視され、それをいいことに米国のション・エーベルは「高峰が私の発見を盗んだ」と言い出した。ギヤロには先輩がいた。 米医学会もそれに乗ってエーベルの名付けた「エヒネフリン」を正式の名にした。不思議なことに日本の役所も戦後、米国名に依っていた(同書)。 米国にはまだギヤロがたくさんいて、J・アクセルロッドはアドレナリンを脳伝達物質として理論づけノーベル賞を取った。高峰の名も業績も消された。 鈴木梅太郎は第一次大戦前、オリザェンを発見した。 人類を脚気から解放した大偉業だが、これまた米国人のC・フンクがビタミンと言い換えて発表した。 まず名を消し、次に業績も「コメ糠に脚気の治癒効果がある」と予言したオランダ人C・エイクマンがノーベル賞を受賞した。 ビデオからステルス性能まで生み出したフェライトは昭和五年にTDK創始者の武井武が発明した。 オランダのフイリップス社がこれに興味を待ちサンブルを求めてきた。 武井が親切にサンプルを送ると、同社はギヤロと同じことをした。サンプルを分解し、理論を突き止めて世界に特許を申請した。 戦後、GHQの命令で日本はフイリップス社の特許を飲まされた。武井武の名は消しさられた。 さすがに同社はノーベル賞までは言い出さなかったが、それを見た仏物理学者ルイ・ネールが武井理論を自分名で出してノーベル賞を受賞した。 慶応医学部の小林六造は猫の胃から螺旋菌を見つけた。あの強い胃酸の中に菌がいる。大いなる発見だが、小林はさらにその菌をウサギに接種してみた。ウサギは胃潰瘍を起こした。 彼はそれをヘリコバクタ菌と命名した。 オーストラリアのバリー・マーシャルはその螺旋菌を自らの胃に接種した。胃潰瘍が起きた。胃がんのもと、ピロリ菌の発見だ。 彼はノーベル賞を受賞したが、小林の名と業績を語ることはなかった。 二十世紀を通して反日キャンペーンを張ったサンフランシスコ・クロニクル紙。 朝日新聞の先輩格だが、この新聞は日本を嫌悪する根拠に「Brown steal whitebrain(白人の知恵を盗む有色人種)」を挙げていた。ホント、よく言う。 そんな白人を黙らせて来週、四人の日本人がノーベル賞を受賞する。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 以下funwaka 日本は決してモノマネ国家、国民では無い! それが証拠に、郵便制度(飛脚)や先物取引(大阪堂島の米の先物取引(相場)デリバティブの一つ)、学校(寺小屋)などなど、近代国家に必要なあらゆるシステムやインフラはすでに日本により江戸時代に原型が出来上がっている。 教養においては当事の最先進国のイギリスやフランスの貴族の奥方でさえ文盲だったのだから一般国民の全てが読み書きなど出来はしない、なのに当事の江戸では婦女子でさえ70%が瓦版を読み手紙を書き飛脚を利用していたという。 だからこそ、鎖国が解かれた明治時代に入ると瞬時に世界有数の富裕国に成れたのだ。 近代産業に欠かすことの出来ない道路整備においても、江戸時代中期には江戸から大阪までの東海道は立派に整備され、旅人が難なく泊まれる安全なホテル(旅籠)や食堂(茶屋)が数キロm毎に整備され、治安も食も保証され金銭さえ持てば身軽な旅が出来た。 当事のヨーロッパでは100Kmの距離でさえ武器を持たず、食料を持たずに旅をするなどまず出来はしなかった。 それもこれも皆、諸外国と比較して日本が欧米にも比類無き桁違いな平等国家であり文明度が遙かに高い教養国だったからだ。世界でも希な一般大衆でさえも知識吸収を尊ぶ国民であり、和を尊重し、互いに切磋琢磨し、発明発見を皆に公表、啓蒙し、互いの利益とする優秀な国民だったからだ。 そしてそれを、古くは僧侶(仏教)が、その後は侍が治安と知識伝達の役目を担ってきた。 時代劇でよく見かける、悪代官や悪大名など、あれはどこの世界にもいる極々一部の希な悪人であり、日本以外全ての国家が当然のごとく行っていた為政者だけが豊かで農民や一般大衆は常に領主に搾取され困窮を極める姿など、我が日本ではあり得なかったのだ。(この事については江戸期の頃の日本国中での一般庶民の生活を書き写した書物の殆どで検証されている) 一般大衆の民度の高さ、教養度の高さ、賢さ、あらゆる面において、日本は常に世界をリードし続けていたのだ。
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