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特定非営利活動(NPO)法人

眼炎症スタディーグループ

会員コラム
Vol.25

母の思い出

西田稔

私の母は90歳で亡くなった。よく「私はお産以外に寝たことはないよ。」と言って自分の健康を自慢していた。まさに母は健康そのものだった。性格的にも明るく社交的で、くよくよすることがなかった。そして誰とでもすぐ友達になった。子供時代の私は大変腕白ないたずらっ子だったが、よく近所の子供をいじめてはその後始末に母が出向いて先方の親に謝っていた。私自身、母から小言を言われて叱られた経験はほとんど記憶にない。むしろ、母は子供というものは野性的に育つ方がよいという考え方を持っているようだった。来客があると、すぐお茶を出してもてなした。酒飲みだと燗をつけ、酒の肴はお得意の茶碗蒸しをあっという間に作り、出していた。また甘党が来ると、ひと走り近くの店まで行って大福やきんつばなどを買い、食べさせていた。食事時であれば、うどんやちゃんぽんなどの麺類を作ってもてなした。母は、これらのことを決して面倒だとは思っていなかったようだ。

今でも私の昔の友人との話の中で、必ず母のことが話題に出て、「あんたのお母さんにはよくごちそうになったなぁ。」と言って昔を懐かしがってくれるものだ。母は酒豪の家系に生まれ、自分自身も酒が強かった。聞いたところによると、40代になって父に誘われて晩酌に付き合うようになったらしい。反対に私は極めて下戸であり、杯ひとつで顔はもちろんのこと、足の裏まで赤くなり、心臓がドキドキしてすぐ横になってしまうので、母は「なんと情けない。男のくせに酒も飲めないなんて。」と言って私をからかったものだ。


私がベーチェット病で失明した時、母は「私は目はふたつもいらない。ひとつあんたにあげられるものなら、あげてもよいがねぇ。」と私に言った。私は「今の医学では、眼球の移植はできないらしいよ。」と答えると、母は少しがっかりしたような雰囲気をみせた。この時私は、私の失明を私以上に母の方が悲しんでいるのではないか?と思ったのである。母の豪放磊落な側面しか知らなかった私は、母として女性としての側面も見たような気がした。少し間をおいて母は「失明は誰でも経験することのできるものではないよ。これを貴重な体験と思って、これを活かした仕事をしてはどうかね?」と言った。そして、続けて「たとえその仕事が小さくてもよいから、社会に貢献することができればそれが生きがいというものではないかね?」と言った。最初、私はこの母の言葉が理解できなかった。私は、目が見えないと本が読めない、人の顔を見ることができない、美しい景色や花を見ることができない、ひとりでどこへでも行くことができない、というようにすべてに否定的、消極的に考えていたからだ。母の考え方と比べてみると、まったく反対であることに徐々に気が付いてきたのだ。母は、すべてに肯定的、積極的で将来に明るい希望を持っていた。


column_motherこのようにして、私は考え方を180度転換し、まず点字の勉強を始めた。盲学校と中途失明者更正施設の勤めも定年まで無事に終え、関東地方に移り住んだ。あるきっかけで同志とともにNPO法人を立ち上げ、発展途上国の視覚障害者のために医薬品などの援助活動を続けているが、この活動内容を理解してくださる多くの個人や団体のご支援とご指導をいただきながら6年目に入っている。

失明して45年経った今でも「貴重な体験を活かしなさい。」と言った母の言葉が今も私の耳にささやきかけているのである。
(2007年10月8日記)





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