TRASH
「水難の相」Up Data 04/18
「RAIN MAKER」Up Data 04/10
2000/04/18.ICCH
いわゆるファッションなんだよね。形さえ整っていれば、それで大方のところは満足する。 買ってきたばかりの皿には何か盛り付けなければならず、その食材を調理するのもまた楽しく、料理が出来れば客人を呼ばなければならない。皿は切っ掛けではあったが、目的はいつの間にかすりかわる。 最近は、店内の棚などを日曜大工、ペンキを塗る作業に没頭する。ああ、自分はこんなので充分なのだ、という気もする。出来うるならばちゃんとした道具が欲しいというのが願いだが、あんな道具があれば、あんなコトが出来るのに、ココのところ、一文無しで、ココのところを、こうしたいのだけれども、諦めなければならない、という現状だ。だけれども、道具が揃うと急速にそれへの熱情が褪めていくというのも、また真理ではある。入れ物はたくさん欲しいが、中に何を入れたらいいのか、それを考えると、また余計な荷物を背負い込みそうで、入れ物なんか無い方が自由で居られるのかも知れない。馬子にも衣装。それでイイんじゃないのか。カート・コバーンなんかキミには、猫に小判、ぢゃないのか?
仕事をたくさんすれば報われるのか、それを考える前に、手を動かせ、足を使え、頭を回せ、腰を振れ、なんて言葉を発する前に、跳べ。そいつは無理ってもんだ、八つぁん、そんな人間離れ。ワンワンワン。ドテ、ポキ、グシャ、肉離れ。親は子離れ、子は親離れ、離れ離れて何処へ行く。けっ、場慣れしてやがる。
喰えないあの娘は拒食症、喰い過ぎ君等は肥満症、欲しがるアンタに表彰状、離れぬ出掛けぬ出無精で、そうそうついでに時期尚早。なんてのは百万語続けられてしまうわけで、なんて実の無い話なんでしょう。
もう仕事に戻らせてもらいますわ。ニャーニャーニャー、小判が欲しい。
2000/04/10.ICCH
だんだん気付き始めてるんじゃないのか。よく考えてみれば、この世界は真実の欠片も見当たらない。 確かに現実はココにある。ココで生活して、ココで笑い怒り泣き死ぬ。が、しかしそうだとしても現実感は希薄だ。意識がこの浮世にあるとしても、どこかそれは眠っているような、どこかで本体は形を潜めているような、虚構に住んでいるような感覚だ。しかし体系だった虚構というものは、崩すのは難しく、そこに全ての感覚が敷き詰められ、生まれ育ち、その世界しか知らない人間にとってはそれ以外の世界は必要ではない。 だから閉じ込められている感覚というものはあっても脱却は容易くない。何に対して真実であるのか、嘘っぱちであるのか、どこに身を置き、どこに依存しているのか、見極める目など誰も持っていないに等しい。 それはココに住んでいるからで、いつでも自身を勘定に入れて思考せざる得ないからだ。 映画「マトリックス」を観てそんな感懐に捕われた。21世紀を目前に、だんだんと意識がデジタル化されていませんか?脳髄を駆け抜ける電気信号、日々解析されるDNA情報、配列の是非が問われる世界、それらが真実なのかどうかさえ分からないが、情報の伝達スピードが思考さえのけ者にする。 あの映画だと、ありきたりではあるが、この世界丸ごと意識化の世界(擬装・ヴァーチャル)で人間はコンピューターの管理下で夢(つまりこの世界)を見させられ眠らされている、というコトになっている。 つまり今までの世界観、歴史から文化、進化、環境、あらゆるものが夢現つ、時間軸さえ不確かな仮想世界であるのだ。その仮想世界の中で、コンピューターネットワークを構築してしまうところがまた劇中劇のようであり、無意識の進化のようでもあり面白い。とにかく何の疑問も無く生活する人間はその世界で人生を全うする。それで問題も無いようである。およそ考えられる限りの快楽は存在し、苦汁スパイスも風味を添える。 なんたってココは何でもあるから、一生使ったってクリア出来やしないだろう。だからあの映画の登場人物達は一種の狂人と映る。この世界が嘘っぱちだと宣う電波系の集団、にしか見えない。 いわゆる気違いとしてこの世界に順応出来ない人や、意識の解放を主とする宗教団体、見えなくていいものが見えちゃう奴、超能力者やらも、管理しているコンピューターのミスと言わざる得ない訳で、あの映画だと培養されている眠った人のプラグを抜かれ処理される。この世界では変死扱いか、何かしら代用の理由が生まれるのだろう。いやぁ、壮大な話だったけど、この世界を根底から覆してしまうこんな寓話も、生まれるべくして生まれたような気もした。いや、だって、本当にこの世界が真実って思えますか? 嘘でもいいじゃん、てのはありますが。
そう、だから苦痛が無いと世界は面白くないんじゃないのか、と思えるのです。 苦痛、リスク、反発する力、それがより一層快楽を際立たせる。抑制の後の解放こそ、仕事の後の冷えたビール。
この世界が仮想であったとしても支障は無い。共同幻想が社会なのだから、大雑把に言ってしまえば支配されるされないは別としてもやっぱり仮想世界に我々は住んでいる。 そうした中で、皆の心の中に居場所を持てた人も居る訳で、個々のジョンレノン像なんていいサンプルだと思う。本人はとっくに他界しているのに、それぞれがそれぞれの場所で彼と出会い(厳密に言えば出会った人は稀で、感じたと言った方が良いのか、どうだか)そうして心にペースト、誰かに伝える時にはコピーを差し出すのです。いくらでも大量生産、自分の中に住むジョン、誰かの中に住むジョン、出所は同じでもこれだけ姿形を変えるのです。そして実体は無いのだが、彼のコトを話せば誰もが自身のジョンを引っ張り出して、似たようなものを一緒に見るコトとなる。それが共同幻想なのです。
ただ突然、皆が全員、ウィルスにでも侵されたように、この世界を否定してしまったら怖いコトになるような気がします。だって、たくさんのイメージでこの世界を日々構築しているが、あくまでやっぱり共同幻想で、 否定の力が強まれば幻想は崩壊してしまう。元々、ココに何かがあったなんていう話は聞いたコトがない。 何も無い。何かを築いたからあるような気がしているが、本当は何も無いハズだ。 だから信じる力は強いんだ。きっと誰もがそいつを知っている。何かを自分自身の中で生成している。 「願えば叶う」というのもあながち出任せばかりではない。因みにデマとは出任せの略ではなく、"DEMAGOGIE"(ドイツ語)の略、現代国語辞典より。何言ってんだろ、ま、いいか。
雨製造機は雨を作って、雲に乗せて運びます。風がそれら雲の手助けをします。人々はそれを浴びて、また
お陽様がそれを奪って、雨製造機に雨を作らせます。つまり雨を思い描いている者は、この場合、それをイメージした者、あなたが、、、