ワッシャー TRASH


8月期

「WOMB」Up Data 08/27
「GLOOM」Up Data 08/21
「GLUE」Up Data 08/15
「All Apologies」Up Data 08/04




「WOMB」

2000/08/27.ICCH


他者が物語を語る時、そこには真実とは違う、真実に似かよったもう一つの世界が生み出される。それは言葉を介して生み出された世界。作者は真実を説明しようと、言葉を紡ぎ文章を組み立て忠実なコピーを製作するが、そこには微妙なズレが生じ、それは同じものでは無くなってしまう。 作者のフィルター越しに見た景色を、また読者のフィルターでもって解釈する。真実との間に二つの虚構世界 が生み出され、同時にそれらの物語は同じ事実を語ってもいる。事実を含め同じ世界に同じ意味を為す物語が三つ存在し、コミュニケーションの欠落はそのどれかが失われた時に起きる。 そして問題なのはそのどれもが本当だということだ。嘘を意識しなければ(フィックションならば創作という前提で両者は納得し合える)本当は本当のまま、存在し続ける。 だから、それぞれの約束事を前提にコミュニケーションを成立させられるとも言え、共同幻想の虚構世界に住んでいるとも言えた。まるでそれらの物語は表と裏とも判別つかず、一卵生双生児のごとくに。 言葉という方法でしか疎通が侭成らないのだとしたら、この不確かで危なげな手段でしか我々は分かり合う事が出来ない事になり、理性が取り払われれば、自身の信ずる物語のために血を流すかも知れない。 これは自身の存在をかけた戦いでもあるからだ。自身の事を語れば語る程、真実からは離れていく。 言葉で説明すればする程、真実はどんどん衣を纏い、正体を不確かにする。いくつもの違う姿をした自身に出会う。増殖した人物像、もはや捜索不可能である。なぜならば、どれも自分であるし、自分で無いからだ。 こうして自身の位置を確認するためには、そのアウトライン、つまり周囲の検証から取りかかる必要が生じた。それはまた別の物語との融合でもあった。そして物語の時代、歴史、環境も、設定してやらなければならないし、膨大な客観的事実、自身を説明するための他者、他者を説明するためのさらなる他者、生きていくことを語るにはそれらの資料が不可欠であった。

親の庇護、子宮の全能世界、物語の鍵を握っているのは母親だけである。そしてまだ語るべき事もないし、語るべき必要も無い。語るべき事が無い時、物語を捏造する必要は無い。醜悪なこじつけだ。 それでも書く事が無意味に陥る事は無い。醜悪なこじつけという意味付けをしてやりさえすれば、意味を会得することが出来るのだから。

こうしてオースターの本は、たくさんの言葉を喚起させてくれた。懐かしい気分にもさせてくれた。 全ての文章は瞬時に産まれるものではなく、記号化するプロセスには時間の経過も加味されなければならない だろう。だから終わらずに物語はどんどん進行していき、それを追い越さないように人生に意味付けをし、 終わりがやってきた時に全てを了解することが出来る。いや幕を下ろして了解出来得るのは観衆だけなのかも知れないし、本人のみぞ知り得る秘密の訳があるのかも知れない。 死は唯一真の幸福の調停者である。



「GLOOM」

2000/08/21.ICCH


30歳までは青年期。それから細胞はどんどん死んでいき、退行していき、ゆっくりと滅びていく。 記憶も曖昧になっていく。たくさんの疑問や不満があったはずなのに、もはやどうでもいい議題に陥っている。飲酒で頭は朦朧となり、喫煙がそれに拍車をかけ、汚染を止める術は無く、核実験、海にまき散らされた放射能の度数は薄まったかのように見えたが、実は全人類すべての人に平等に配られた。 鬱病患者の数は膨大だ。ストレスを受け取り、心身症の順番待ち。並ぶのが好きなお方はどうぞ。 また、連鎖反応を起こしている。言葉の連想ゲーム、築かれた単語にはたいした意味は無い。 吐き出して、吐き出して、辞書に並んだ言葉を羅列して、尽きたところで遊戯は終わる。 それではいけないから書くのに、上塗りを重ねるばかりで疲労、捨てる神あれば拾う神もある。 神に書き殴り、「Everyone is Gay」ゴミ箱へドラッグして空にした。消去は簡単だ。水洗便所は発明だ。

岸田秀と精神分析医、町沢静夫との対談を読み、今は筒井康隆が第一線で活躍する科学者との対談を読んでいる。(敬称略)しかし9人もの人数との対談で文庫サイズというのは無理があり、内容はかなり薄口だ。 残念。しかし筒井氏とは長い付き合いだ。(別に個人的な知り合いではない)星新一、小松左京、ときたら彼に当然行き着く。悶々とした中学時代はSF小説、純文学はもっとその後である。自棄のように読破した当時は何かからの逃避、依存性人格障害期でもある。(この辺、岸田、町沢対談の影響)あの頃、読んでいたサイエンス・フィクションの世界がすでに現実のものになりつつある。人間の空想力の凄まじさには恐れ入る。 数々の道具を考案し拷問を実行したように、およそ人間の考えうる想像物は具現化出来るらしい。神や悪魔でさえ人の想像物なのだから、まったくどちらが創造主なのだか分からない。最近の流行りは何度も言うようだが、ポール・オースターである。「幽霊たち」を読んだか?「ムーン・パレス」はどうだ?「孤独の発明」は 自身の父親の死を扱っている。独特の青臭さ、死を文章として捕え具現化しようという試み、失われてしまう前になんとかしようという焦り、自身の息子との関係は当然、自身の父親との関係、それが逆転する時。 巧妙な文章書きという事は了解するが、勿体ぶった言い回しや冷やかで時勢を考慮したような書き方はしない。冷静でいて、中にあるものはとても熱く、つまり自分自身をよく掘り下げた感じがする。 自身をよく知るという事は、何度も自身の胸の内へ潜ったという事であり、研究、実験、観察を繰り返し、そしてある程度の地図を仕上げた訳である。それを構築するまでの煩悶、永遠の孤独などは誰も知り得ない。 その一端を垣間見る事が出来るのも、彼の小説の特徴でもある。だからある人はそれを青臭さで括ってしまうかも知れない。

昨日の深夜、NHK「アーカイブスペシャル」を観ていた。古い番組を再構成して綻びを補修して再放送する企画。昭和45年万国博覧会のとび棟梁の話し。44年着工、120メートルもの鉄塔を建造するのだ。 デザイナーは机上で理論的には可能な設計図を書き、現場ではとびが限界を強いられる。身体を張って、120メートル上空で作業している。命綱など無く、丸い鉄パイプを曲芸師のごとく器用に渡る。 関西弁で怒鳴り散らし、毎晩酒を飲み、「とびが落ちたら笑い話しにもならねぇ」と若いやつを叱咤する姿は良かったが、随分と高齢な棟梁は万博自体をどう思っていたのだろう?120メートルもの鉄塔(言わばそれは前衛とも呼べる無意味な建造物である)を建造する作業が不毛では無かったのか。 「なんだか訳分からねぇ代物だなぁ〜」とか思わなかったんだろうか?それでも意地と賃金のため命を張るのである。足場を固め、塔を築き、とびの仕事は終わり、後には彼等の仕事は無く、次の現場へと渡る。 大工、ペンキ屋、配管工、内装、が占領された場所を我が物顔で闊歩する。降伏した後の敵地、とびは言わば 前線基地で踏ん張った者達であった。3チャンネルに回すと、天体の教育テレビがやっていた。 随分と缶ビールを空け酔っ払っていた。太陽を中心に軌道を回り自転し続ける地球、金星はもっと太陽に近く、月は地球の軌道を回り、月食、日食、土星や木星はガスで出来た惑星、その衛星は数知れず、タイタンを調査するためロケットは飛んでいた。知的生命体の存在はあり得ないが微生物の存在は確認できるかも知れない。みんな太陽から付かず離れず、それぞれの軌道をそれぞれの速度で回転し、互いに影響されながら、均衡を保っていた。あまりに近付き過ぎてはいけない。重力に引っ張られてぶつかってしまう。それにこの均衡も 終わってしまう。実に微妙なバランスで成立していて、偶然の産物とも思えない節もあり、そうして脆くもあった。3次元世界に住む我々には理解し難い、そのうち酔いは体中を侵食し、目が回り、自転を始める。 布団を中心に世界が回り始めた。

たくさんの事が頭の中で渦巻いていた。思い浮かべられるだけ羅列したところで、そいつが浮かんでいられるとは限らない。むしろ沈んでしまったものの方が内容は重そうだ。 表面上は単純明快な方が心地良く分かり易くもあろう。やりたきゃやれ、やりたくなきゃやるな、だ。 曖昧模糊な表現は曲解される危険性もある。言い切ってしまってから思考する。 どうだ、そいつに良好な解釈は得られたかい?予想もつかない効力を発揮する場合もある。 言葉の偶然性に驚愕する場合もある。そして結局は判別する人の理解に委ねられている。 粘着力は日々低下し、磁力は引き付ける力を失い、皮はたわみ、肉は固く、骨はしなる。 期待は萎え、欲望は減退、そして狡猾に思考だけが研ぎすまされ獲物を狙うが、身体は膠着するばかりで役立 たず、飢餓感だけは強まっていく。その解決方法はまだ知らない。



「GLUE」

2000/08/15.ICCH


くっついたり離れたり忙しい夏である。粘着力も低下するから簡単に剥がされてしまうんだろう。 引き裂かれた心を紡いだ接着剤、修復したばかりなのに同じ箇所を裂くのは止してくれないか。 見えない敵は自身の内に住んでいた。一番、近しい人を疑え。それもいいだろう。考えられるだけの結果を予測する事に異議があろうか?そして大体にその期待感は裏切られる。安堵感と共に。この被害妄想め。

「今、エレベーターは何階?」 「その質問は難解。」 

物語は絶えず浮かんでは消え、行き先を失った物語は、また違った物語と共闘し、細胞分裂を繰り返す。 なぜ、くっついたのか? 突然変異が進化のプロセスならば新たな物語の誕生だ。 没落する運命ならば不良因子だ、心の奥底へ沈んでしまえ。そう単純に考えないでくれないか、そこには重要な問題が含まれているという可能性だってあるんだ。つまりこうしたらどうだろう、今現在、捏造しているこの物語は空虚な連鎖反応に過ぎないと。はい、その通りです。

印刷、録音、映像技術は飛躍的に進歩している。それらの技術で移植された物は、所謂、剥ぎ取られた人形に 過ぎない。オリジナルから抽出したコピーである。そして、皆はそのコピーを愛する。 忠実な下僕、人形は逆らわない、約束されたルールの中、抱擁を繰り返し、飽きたら放り投げる。 弄ばれ、手垢まみれになった人形にチャンスは無い。時勢に乗り遅れ、骨董に成り下がる。 そうやって築いたゴミの山、デザイナーはまた次々と刺客を送り込み、プロダクションは製品化、流通に乗ったそれらの人形達は四方八方に散らばり、そして次々と新しい人形を手にした人々がしゃぶりつくす。 全てのオリジナルは微々たる賃金を得て、自尊心を満足させる。そのうち、人形に幻想を抱いた熱狂的なファンが銃を握りしめ、殺到する。ある人はロックスターに、ある人は映画スターに、ある人はグラビアアイドルに、ある人はアニメのキャラクターに、ある人はかの自殺志願者の作家に、照準を絞り狙っている。 そこには芸術性は無く、あるのは消費だけ。それでも何かを削って忠実なコピー製作に勤しむ人々が居る。 北山修著「人形遊び」を読んで。

長く時間をかけられないぞ、もう萎え始めている。どうせ短小だ。僕には自信が無い。 誰を喜ばせる事も出来ない。「孤立」と「共有」は同居している。共有した瞬間に孤立が芽生え、拒絶する。 孤立の内にいると寂しくなり共有を求める。みんなが見ている人形は、僕と同じ人形なのだろうか? 接着剤で補修しておこう。もう二度と剥がれないように。そうすることで皆と同じ人間に近付いていけるような気がするから。



「All Apologies」

2000/08/04.ICCH


熱帯夜、扇風機の回る音、べとついた股関節、不平不満ばかりが漏れる夏、そこら辺は狡猾だ。 生きている事に文句があるなら死んでしまえ。ギンズバーグよりブコウスキーの方が肌に合っているよう。 みんな一生懸命に自身の生い立ちを語り、この世界で生きている理由を手繰りよせようとして、探し歩いているようだが、熱中症にならなければよいが。なぜそんなに訳知り顔なの?何も知っちゃいないくせに。 そこら辺は微妙な問題をはらんでいる。言い切った者の勝利とも言えた。言葉を積み上げれば積み上げる程に 実体の無いお化けが仕上がる。嘘は楽しい。嘘じゃない事なんてどこにあるというのか? 便利な言葉がたくさん存在しているから、後は各々が選択するだけでよいのだから。 経験したところまでが経験だというのならば、その先はそれを経験するまではやって来ない。想像でものを語ることは悪いことじゃなく、自身の無知を曝け出すだけに過ぎない。全ての発言には、現時点までの、という注釈が必要なようだ。そんなことはどうだっていい、自尊心はすでにコインロッカーの中で息絶えている。 鍵を得られるのは紙幣をたくさん握った人達だ。金銭を得るには、自尊心をロッカーに預けなければならない。つまりはそういう事だ。造幣局はせっせと言われるままに紙幣を刷り、人民はそれをどんどん懐に仕舞い込み、脅され、吐き出され、生活に消え、疲れ、擦り切れ、倒れたところに禿鷹は集まってきて、持ち去られた金銭は胴元に戻される。豚と犬と羊の三つ巴。勝利者は居ないが、また敗者も居ない。 とんでもないことだ。「まだ、やれるぞ!」というファイティングポーズをとったままの彼は、そのまま脳病院に収容された。去勢された猫はもう猫じゃなく、動物園の猛獣も盲獣でしかない。 喋り過ぎたよう。酔いに任せて饒舌になった。本当は誰もそんな話、聞きたくもなかったのに。 鼻にかかったような言い方は謝ろう。思わせぶりな態度も良くない。結局、何が言いたかったのだろう? 一切合切、無駄である。その先を知らないから、ここまでの事しか書けない。 これもまた縁が無かったという一つの症例に過ぎない。

All in all is all we all are!