ワッシャー TRASH


9月期

「事後送信」Up Data 09/27
「飾りもの」Up Data 09/21
「閑人」Up Data 09/18
「差異の河原」Up Data 09/13
「Loaded」Up Data 09/04




「事後送信」

2000/09/27.ICCH


ゆっくりと夏から秋、そうして冬へ季節は移行していく。2000年の下半期もあと3ヶ月で終わる。 そいつは至極尤もな話。名古屋の実家に戻り東京へ帰ってきた途端に、鼻の粘膜をやられ、ずるずると鼻からちょうちんぶら下げた。季節の変わり目にはいつだって。目の位置が、額からちょっと上の方にあり、なんか湯上がり、逆上せた気分で休日を過ごした。名古屋駅の地下街をワインとチーズを探して歩いた。本屋で簡単に読める文庫を探した。結婚式場のホテルで一夜を過ごした。ホテルの湯舟でゆっくり文庫を読み、ワインを空けてテレビで映画を見た。ハリソン・フォードとブラッド・ピットが出ていた。翌日の妹の結婚式は、何人もの親戚と交歓し、食欲が無いのに次々と運ばれてくる料理を口に運ぶ単調な作業をこなし、ビールには飽きたので勝手にワインを注文し、そうして終えた。それはどのような角度から眺めようとも、まごう事無き結婚式という様相であった。家族が揃ったのも何年ぶりのことでしょう。その後、だらだらと数日を実家で過ごす。オリンピックと酒、お袋がインターネットをやると言うのでiMacを大須で購入、健康ランドでいくつもの湯舟に浸る、サウナの中でジャイアンツが優勝を決め、翌日には新幹線に乗っていた。 ワダチとこれだけ長く過ごすのも初めてで、まだ歩けないが独りで立つという行為が出来るようになった。 焼肉屋では大立ち回りを演じてくれた。奴と焼肉を喰うのは、奴が酒を飲めるようになるまで遠慮することにしよう。そうしたように、時間はいつでも自身の内部に存在した。過去を思い出し、現在を直視し、未来を期待し想像した。



「飾りもの」

2000/09/21.ICCH


何もしなくても刻一刻と時は刻まれていく。酸化したゴムのような臭いの汗がべったりと肌に巣食う。 老廃物の重油。こんな嫌な汗を、少し前まではかかなかったのに、時間は容赦なく人間に襲いかかる。 3月に坊主にしたのに、もう髪の毛は長くなっている。爪も伸びる。なんだっていうんだ。じっとしていられないのか。いつだって人間は自然に逆らってばかりだ。そうやって足掻いてばかりいる。 言葉の牢獄に囚われ、その先を識ろうとしない。言葉で断定してしまった時、その物への興味は死ぬ。 その単語以外の意味を持ち得なかった物はその場で息絶える。周囲は屍骸の山だ。そいつらに生を与えてやれ。そうした時、自身にも褪せた色がカラフルに蘇ってくる。そういった道理は通用しないものだろうか?

EDIE SEDGWICK主演「CIAO! MANHAHTTAN」を観た。20歳代前半、彼女に恋をしていた。 アンディ・ウォーホールのファクトリーに出入りし、「LIFE」などの表紙を飾った60年代に最も輝いていた女性だ。そして70年代前半には麻薬中毒で身を持ち崩し、読み捨てられた雑誌のようにくしゃくしゃになって死んでしまう。(もっと複雑な経緯などは伝記本や公式ホームページもあるので興味がある方は調べていただきたい。)あのコケテッシュな魅力は一度で見た者を虜にしてしまう。ただその当時はビデオも高額だったし、ウォーホールやV.Uの映像でちらっと映るぐらいで、動いた彼女を見る機会は無かった。 まさか行きつけのレンタルビデオ屋の片隅で眠っていたとは。この映画で彼女は豊胸手術を済ませ、惜しみ無く胸を露にしているが、全く目を背けたくなるほど痛々しい。虚構と現実の境界を濁らせているので、まるでドキュメントを見ているような錯覚にも陥る。ジャンキーで白痴で過去の名声にすがる姿、それも薬でのトリップの域を外れることもなく。ニコやM.フェイスフルぐらい強ければよかったのに。ブライアン・ジョーンズの最後のようでもあった。ドラッグが介在している事も理由の一つにはなるだろうが、やはりストーンズやファクトリーに関わって生きていられる輩は、強運の持ち主であろう。あそこは磁力が強過ぎるんだ。 ストーンズとアンディの関係はかなり深い。ブライアンとアンディが並んでいる写真もあるし、ニコとの関係も取り沙汰されていたし、そこにデニス・ホッパーなんかが絡んでくるとさらに面白い。ウォーホルとホッパーとの関係もかなりいい。そうするとボブ・ディランやギンズバーグも絡むし、ニール・ヤングとホッパーというのもかなり親密だ。類は友を呼ぶ。誰がイーディーを殺したのか?そして生き残った者は強い。

狭いところに何もかも詰め込むのは良くない。しかし広い所で長くだらだら続ける根気も無い。 明日から4日連休。実家に戻って、妹の結婚式に出席する。苦手な冠婚葬祭である。祝いの席は人が死ぬよりはいいが、しかしこりゃさっさと酔っ払っちまった方が得策であろう。それにしても個人的には、結婚式典に何の感懐も湧かないし、意味を見出せない訳で、飲み会程度の祝宴で結構ではないのだろうか。 知人は焼肉屋で牛一頭潰して結婚祝いとしたそうだ。実があります。それは兎も角として、それを良しとする人々にはそれは良しな尤もな理由が存在するのだろうから、遠足で怪我をするような出鼻を挫くような真似は止しにしよう。皆は楽しいんだから。
「信じられるに至らなかったものは、すべて装飾にしか過ぎない」



「閑人」

2000/09/18.ICCH


うまくいかない。そして大きく動くこともままならない。生欠伸ばかりを噛み殺す。秋の長雨の後を残暑が襲う。近所の神社の祭りも、昨日まで続いた長雨で閑散としていた。うまくいかない天気をやくざな的屋が睨んでいた。まったくうまくいかない事だらけだ。酒屋へ行けば、 ワインが冷えていない。赤だろうが白だろうが冷えてなきゃいけない。しかも安いワイン程、冷やしていないときてる。なんで仕事帰りに酒屋を3件も渡り歩かなきゃならないんだ。そういった些細なつまらない出来事が有りすぎる。

オリンピックもいいだろう。でも日曜の夜はNHK「アーカイブス」を観る事にしている。自分の生まれた時代の映像は、今の目で見るととても奇異に映る。それでいて新鮮だ。親の世代の価値観、その当時の事件はすでに過去のものであり、結論は今の時代が担っている。今から30年後に今の時代を見る子供の目は、どうなのだろう?映像はテレビの箱からはみ出す事もなく、場面場面を切り取ってその主旨に関係の無い事物は写さず、主題に沿って流れていく。そこで見切れた人々の事に思いを馳せるのも楽しい。 ちょっとしたタイムスリップ感覚だ。タイムマシーンというのはテレビの事じゃなかろうか。 その後には琵琶湖から京都まで流れている疎水の特集だった。琵琶湖からトンネルを幾つか抜け、疎水の流れに任せた小舟は行く。京都の庭園に流れる水や、哲学の道に流れる川の源流を追う。この明治の大事業の歴史、建築工事、日本初の水力発電などを3時間をかけて、生中継(これは再放送)で進行していく。 深夜3時過ぎまでワインを飲みながら眺めていた。京都はいい街だ。また、あの学生がたむろする薄暗い重厚な木机が並ぶ喫茶店で、珈琲を飲みたい、と思った。

9月18日はジミ・ヘンドリックスの忌日です。来月の4日にはジャニスも亡くなっています。 70年のこの時期は悲報が続きました。それも30年前の景色です。69年7月3日にブライアン・ジョーンズが亡くなり、その2年後の同じ日にジム・モリソンが亡くなる。 もう多くは語るまい。自分はこの時期に取り憑かれたままの閑人だ。



「差異の河原」

2000/09/13.ICCH


身体は重く、息は詰まりそうで、やたらと睡魔が襲ってくる。何かから逃れようとしている事は明白だ。 ま、それもいいじゃないか。過剰情報がたれ流されている。何者かが小銭のために身売りをしている。 娼婦と作家の違いは何か?そういった諸問題に頭を悩ませているうちは大丈夫だ。 雨は遠いところから何かを持ち上げて、こちら側に持ってくる。自然の運び屋だ。伝染病だって、放射能だって、汚染物質だって、届けてくれる。誘拐犯の脅迫状、全人類が人質だ。 いつだって海は流れ、風は巡り、雲は空を散歩している。遠い星々は黙ってそれを眺めているだけだし、陽や月は横切るだけで、ここのことなど知ったこっちゃない。颱風の季節がやってきたようだ。

お店ではまた「突発性SPASM BARGAIN」と称して大安売りをしている。しかし、この雨にやられてか、はたまた夏休み明けで次なる連休に備えて躊躇しているのだか、まったく売れ行きは芳しくなかった。 景気悪いぞー、二千円札はちゃんと流通しているのか、責任者出てこい!第一、やっぱりこの通りは人通りが極端に少ない裏下北に属する土地なので、通常のやり方では難しいのだ。この自転車操業にも辟易した。 かと云って、店を畳むんじゃ能が無く、能ある鷹は爪隠すと云うがそんな爪も持ち合わしちゃいないし、隠してもいないし、どうしたらいいのやら?大手術が必要なのは明白であった。思えば今年の2月にリニューアルして、売場面積拡大=売上増加と勝手な図式を組み立てた辺りから狂ってきだした。 濃縮していたスープを水で薄めて広げたって内容は変わらないのだ。3年目にして、開店当初に戻ったような気分で方向を模索した。それにしたって、多種多様な要素が複雑に絡み合っているし、問題は単純ではない。 いや至って単純でもある。どちらでもあって、どちらでもなく、気の持ち方次第である。 耐久力、持久走である。だから八方美人は止めてみようと思い始めていた。それから自分に殺ぐわないやり方も遠慮しようと思った。日々、誰もが色々な事を思って生きていた。結論は先延ばし、なんとか誤魔化して、おあずけをくらわしておこう。答えはあの世で聞くさ、バイバイババイバイ!

今日、メールマガジンを仕上げていたらするりと「賽の河原」なる言葉が浮かんだ。勿論、子供が死んでから行く三途の川の河原で、一生懸命、子供が石を積み上げると鬼がそれを崩す、あの場所である。 あぁえらい景色を想い浮かべてしまった。この仕事があんな不毛な河原だとでも言うのか。そうしてお得意の同音異義語の登場だ。「差異の河原」なんか哀はれな感じじゃないか。トホホな風体の男子が一生懸命、去勢を張る場所だ。衣装のブランド、ネクタイの色に始まり、肩書、学歴、連れている女、身長、乗っている車、 ああ、あちらでは病歴自慢が始まっている。鬼はそれらを取りまとめると、そいつの記憶を消去し、書類は焼却、あちらこちらで狼煙が上がる。なんのこっちゃい、どんぐりの背比べだよ。

袋小路はいくらでも口を開けて待っていた。夢遊病のごとく徘徊していると、いつの間にかそこに迷い込む。 いつもの悪い夢だ。だからといって、毎度やられているわけにもいかない。通行禁止にしておけ。
「創作すること。それは、どんな外見であれ、その仲介によって、自分が未来に投影をすることの妨げとなるものを、自分の周囲に凡て殺してしまうことだ。その外見の役目は、単に自分の死後なお自分の姿が人に見えるようにする遁辞にさえすぎない。」Jean Cocteau



「Loaded」

2000/09/04.ICCH


少し涼しくなってきた。秋の気配。朦朧としながら生欠伸を繰り返す夏ともおさらばだ。つまらない夏だった。何かあるような気にさせるだけで、納涼祭りの頃には唖然となる。お化けやUFOよりも質が悪い。 何もないということにおいてはどの季節も変わり映えしやしないが、まったく夏だけは身体中の水分を蒸発させようという企み一つとってみても質が悪い。精子だって煮え殺される。この時期に植え付けられた子は逞しいに違いない。

9月最初の月曜。家賃を支払い、倉庫を今月中に引き払う算段を整える。そして、持ち切れない様々な品を処分する事にした。先週、近所の古本屋へ、店の棚で何年も惰眠を貪っていた書籍を持って行った。開口一番、「あ〜あ、こうゆうの駄目なんだよね〜」と口鬚たくわえたいかにもインチキそうな親爺がブツブツ言いながら、査定を始めた。あまりにもありがちな情景に顔もほころびつつ、文庫を一冊買う。当然、山のように持って行った本は総額1200円、文庫は100円にまけてもらった。その横尾忠則の文庫は滝巡りをしながらUFOを呼んだりする、やっぱり芸術家は紙一重なんだなというような感じで、すぐに読み終え、店に並べる。 今日の午前中、倉庫に積みっぱなしだった書籍を、今度は少し離れた東北沢の古本屋に持って行った。 総額1000円の査定。どんぶり勘定だ。持ち帰るのは嫌なのに買えない本はひっ返され、「今時は捨てるのにもお金がいるのよねぇ」と言われた。その帰りにゴミ捨て場で大量の文庫を拾ってしまい、そのまま下北の古本チェーン店へ叩き売る。2000円弱にはなっただろうか、そこは0査定の本も引き取ってくれたので良かった。嬉しくなったのでブコウスキーの本を2冊買い、あっという間にそのお金を使ってしまう。 こうなればついでだと、在庫過剰のCDを20枚程持って中古CD屋に持っていく。全部で300円。またどんぶり勘定だよ。あまりにも非道いのでさっきのチェーン店の中古CD屋に持っていったら500円になった。 そこのバイトのクソガキは横柄だった。マニュアル通りの動きしか出来ないくせに感情があるような顔で勘定をしやがる。それでも一応、一枚づつの査定を弾き出すので納得はできる。が、しかし、また突っ返されるものもあった。キズ盤や在庫過剰のものは買えませんだそうだ。そりゃ、そうだ、うちでも要らないCDなのだから。そう考えてみたら、さっきの中古屋はうまく要らないCDを追っ払った事になるので、賢いものだと思った。それにしてもこのチェーン店、流行りものの査定が張り出してあるのだけど、アミーゴ2000円で買いますってのはいいんだけど、じゃがたらが680円で売っていた。アミーゴの査定額よりも低い売値。 使い捨て消費音楽の横流し店。そりゃ価値観に差異は唱えないけれど、ただ新しいものをとっかえひっかえという姿勢に気分悪くなった。ま、観客もお喜びのようだし、無視しておけばいいだけなんですけど。 その500円を握り、ファーストフードでハンバーガーとコーラに引き換えた。ざっと何店鋪か廻ってみて、たまには売りに行くという逆の立場になるのもいいもんだと思った。 あの査定を待つ心許ない時間。まるで自分自身の実体が消え失せ敗残者の振る舞い。切羽詰まった気分。内情を理解していたって楽しくはない。買えません、と突っ返された時の動揺。お互いに演技をしているのだけど虚構では無く、金銭が介入するためのぎこちない握手。とにかく、仕事である。 アルバイトはアルバイトをするだけだし、古本屋の親爺は古本屋の親爺である。何も不思議な事はなかった。

オースターの本で、主人公が死んだ叔父さんから、遺産として受け継いだ書籍を、読んでは古本屋に売り払い生活費に替え、途中でその古本屋の親爺の描写を皮肉ったり、またはその本の価値観と査定額について文句を言ったりするのだけど、仕舞いには本を読破する体力も萎え、指で字を追っていくことで自身を納得させ、全ての書籍を売却する話がある。物は所詮、物でしかない。想い出も、手垢も、愛着も、思想も、感懐も、金銭と引き換えにすることが出来るのだ。自尊心は今日もどこかの店先にプライスをぶら下げ並んでいる。 まったく世の中、楽じゃない。CARRY THAT WEIGHT!