TRASH
「諤々云々」Up Data 10/31
「CARAVAN」Up Data 10/24
「窟」Up Data 10/15
「Ship Of Fools」Up Data 10/03
2000/10/31.ICCH
先週の日曜日は川崎で行われたハロウィン・レインボーパレードのバイトに行った。ハロウィンで仮装した 人々の行進を警備する仕事だ。川崎チッタから市役所を折り返す行程。生憎の雨模様であったが、趣向を凝らした衣装の兵共が集合し、それが仕込みなのかどうだかプロとアマの境界線はもはや無く、とにかく練り歩いたわけである。案外、長丁場でヘトヘトになったが、それはそれで兎に角も仕事である。 終えた後のビールが美味しかった。そいつがすべてだった。
今月は店鋪の更新を控え、地道に控え目に売り上げを貯蓄することに費やした。先月よりは上向きである。 倉庫を引き払い、フリマを開催し、在庫一掃セールを行い、夕方には赤子を迎え入れられる形態が整った。 そんな様々な日々も飲み込まれていくほど、考える暇を与えぬほど、早く流れていく。 その場、その場で決断を下さねば、すぐに流される。一寸でも足を滑らせれば、努力は無駄に終わる。 人生は自己投資、贅沢をするのも、節制するのも、太るのも痩せるのも、考え方次第だ。 経験値を稼ぐなら好きな事を何でもさせておいた方が学ぶ事は大きい。が、その自由の不自由さも学ばなければならない。
なんか堅っ苦しい感じがする。どうでもいい事柄が多過ぎるんだ。ようはいいもん喰って、いい女とやって、 いい場所で寝て、いいことがたくさんあればそれで文句は無いんだ。 不満が猜疑心を持ち上げる。いい尽しが不満に陥る可能性も有るが。つまりは満足させろってんだ。 とは云うものの、昨今、その欲望の角も取れかかり、そんなに単純にはいかない。映画のようにそこの場面では終わらず、次の日がやってくる。飲食費の莫大な請求、そのいい女の嫌な部分、いい場所からの立ち退き、 いいことの後にはいやな事が待っているのは必至。まあ、良い悪いで分けずにパックとして考えれば成立するのだが、グローバルにね。人間なんて所詮、その場その場の狭い許容量を維持するのが精一杯で、一年先より半年先、半年先より一ヶ月先、それより明日、いやいや一時間後、まいったまいった、キャッシング。 ふん、本当のことなんて言うもんか、言えば殺される。
喧噪のうちに10月もお仕舞い。犬の遠吠え、深夜の幕引き係り(by.宇崎竜童)
2000/10/24.ICCH
明くる朝、昨日のトンネルが嘘のように晴れやかだ。まさに遣り過ごすという表現がぴったりな感じだ。 傷が癒えるまで洞穴で身を潜める獣のように、いやそんな大薮(ハードボイルド的の意)な表現は要らない。 諦めて酒でもかっくらっていたら勝手に時は満ちる。厳密に言えば、時間は自身が認知しなければ存在しないものではあるが。あの、どん底は一体何だったのだろう?躁鬱はいつだってリズムだ。何度もその障害を克服し、または回避し、若しくは直撃して撃沈、そうやって強く(脆く)なっていく。 次はどんな時にもやってくる。失敗しても、ドジを踏んでも、成功しても、宝くじが当たっても、競馬でスッても、命ある限り次の場面にぶち当たる。「道理にかなっていたり、成功疑いないことをやったり、効果満点の方法を用いたりすることにあきあきしたら、別のことを試みるのだ。」ヴァレリー/テスト氏
陽が落ちてきた。どんどん速度が増し、今日は昨日に、今は昔に、埋没していく。なんて早いんだ。 手の付けようがない。考えてみれば、考えるからそこに考えた時間が存在してしまうわけで、一切を無自覚に過ごしていけば、波のように揺れるばかりで変化は起こらない訳だ。それって悟り?
これ以上、長くは続けていられない。思考が散漫で、たくさんの物語が頭の中でせめぎ合っている。
「身体にやさしいインド」伊藤武著 を再読してまたインドに惹かれた。いつ呼ばれるんだろう?
2000/10/15.ICCH
辞書によるとそうある。この「窟」という言い回しが気に入ったので、音盤屋、改め、音盤窟にしてみた。 (C)である。残念なことに(R)ではないが勝手に使用しないでいただきたい。て、誰も使わないか。 で、黙して営業を続けていけば、何時の間にやら店も落ち着きを取り戻す。あるべき場所へあるべき物は収まる。舞った埃のようなものである。 しかし舞台裏は相変わらず物で溢れていて、古本屋通いも日課と化しつつあった。家の近所にある街の中古盤屋さんへは、在庫過剰なCDを持っていく。平均80円といったところか。 それでも処分に困っていたモノだけに、この辺りじゃ買い手のつかないモノの行き先が決まったわけで、大助かりである。衣類などもかなりあり、フリマで放出するが、合同で開催したりすると、また余計に荷物が増えたりなんかして、いったいこの飽和状態は何なのだろうか。これは性、それとも宿命、まさか業、輪廻てことは無いだろうが、磁石のように何かを引き寄せて離そうとしない。類は友を呼ぶ。仕方の無い話でもある。 これが生業なのだから。
ま、なんにしろ、何も惹きつけられなくなったら要注意だ。それでも、そうなったら随分と楽に生きていけるに違いなひ。珈琲を飲んでいられる余裕、屁理屈を捻り出す。そしたら駄洒落が浮かんで独りほくそ笑む。 限り無く自然態、それでいいんじゃん。無為こそ過激。そんな語録もありました。消化不良、関連性無き単語が沸々と沸き上がってくる。洪水、決壊、警笛、沈没、誤謬、滝壷、、、そう意味は無い。 そう名付けられたもの共が心象に想い浮かんでは消えていくだけのこと。イメージの幽霊。尻尾は無し。 それで、もっともらしい解釈が成り立つという訳だ。
棄却、棄却、棄却、控訴、控訴、控訴、譲歩、譲歩、譲歩、3回繰り返すと熱気が伝わる???
誰かに気持ちを届けたいのだけれども、気持ちを取り出す 瞬間にそいつは消え失せる。 どんなにしてもそいつはそいつのままなんかじゃない。巧く凝固させた積りでも、本体は取り逃がし、その影だけを提示しているに過ぎない。相手が近付いてくれても、互いに顔を見つめ合いそいつの行き先を詮索する作業に追われるのだ。言葉は、音楽は、絵画は、映画は、物語は、遠回りな手段である。 寄り道をして、本体を煙に巻く。しかし、本体以外の全ての影を言い尽くしてしまえば、逆に残るのは本体だけなので、抜け落ちたものを確認することは出来る。弁証法的です。そうしたところで、過ぎ去ったものをなぞっているだけのことで、刹那は失われている。(なぜそんなに純度にこだわるのだろうか?) つまり言い表せないということは、そいつは無いものと同じなのだから、本体は在るが実体は虚ということだ。ああ、アウフヘ〜ベン。哲学は宗教的です。
PHISH ジャパンツアー初日の音源を聴く。あの時間をなぞっているだけなのに、凄いエネルギーを感じる。 目頭が熱くなったり、身震いしたり、あの時の自身を客観的に見て笑ってみたり、興奮した。 なぜ、こうも気持ちを射抜くんだろう。彼等は演奏し、自分はそれを眺め、そして自身を認知する。 我思う、ゆえに我あり、と我思い、ゆえに我あり、、、以下割愛(死ぬまで続く)見透したり、掴まえたり、放したりしながら音楽は続く。焚き火のように気持ちは揺らぎ、とろ火から一気に業火、安堵から苦悶、それを繰り返し、音楽は止まる。突然、冷水を浴びせかけられる事もあるし、優しくフェイド・アウトしてくれる時もある。厳しさがあるから優しさが見え、苦しさがあるから楽を知る。遠回りだけど、近道でもある。 その彼等が先週のカリフォルニア、マウンテン・ヴューのライヴで長いツアーを終えた。 人気が落ちるまでの休業宣言で、当分、彼等を観る事は出来なくなったが、そんな事、全然問題じゃない。 PHISHは凄い。そしてそれを言語化できない事も知っている。凄いから、凄いんだ。 「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない」他の人は他の人で、何らかの方法で表現したり、流れに身を任せたり、するんだろう。時々、他のものが要らなくなる事もある。 それから解放されるのは、音楽が終わった時だ。終わるから始まり、始まるから終わる。
終わる事を前提とした、言語ゲームは、当分、続く。窟る?
2000/10/03.ICCH
立ち止まって、さてどうしようかと思案に暮れ、日も暮れ、数歩前進してみたが、思い直して後退、今日も堂々回りだった。何もしていないということは、いくら頭の中で立ち回りを演じていたとしても、状況は何も変わっていないということ。傍目から見れば、同じ場所に腰掛けて、ああでもない、こうでもないと首を垂れたり振ったりしているだけである。哲学は何の役にも立たない。実存主義も結構。自分の立ち位置は、自分で 決めろ。追ってくるのは、いつでも借金取りばかりだ。追い詰めたと思ったらそいつの実体は無い。 外から来るのか、内から来るのか、それすら判別出来ないのが現状である。 えい、やっぱり跳躍しかない。言葉じゃ駄目だ。言葉さえ跳び越えられたら、どんなに痛快だろう。
さしあたっては、この舟でいこう。