TRASH
「光陰」Up Data 11/30
「Re-Set」Up Data 11/25
「還暦」Up Data 11/12
「はらっぱ2000」Up Data 11/09
「高等遊民」Up Data 11/02
2000/11/30.ICCH
いよいよ、師走てやつに突入だ。2000年は特に早かった。実際、まだ自分は正月気分が抜けていない。 そんならそれで、一生、正月で生きていけばいいものの、それじゃ、まごうこと無き馬鹿なので、花見気分ぐらいで留めておいて、少し歩を進める。てくとこ、てくとこ。
レオス・カラックス監督が気になったので、久々に「ポンヌフの恋人」も観てみた。 これが91年の作品。自分はその頃、レンタルビデオ屋でバイトしていて、新作で観て、いたく感動したことを覚えているが、現在それを観ると、なんか若い感じがした。それは、観る側と創る側、両方ともの話だ。 「ボーイ・ミーツ・ガール」は象徴の映画、「ポンヌフ」は衝動の映画。「ポーラX」は復讐か。 しかし愛憎劇に老いも若いも無い事は確かだ。稚拙なのも、それはそれでいいのかも知れない。 デビリンの新作「ストレイ・ストーリー」(題名うろ覚え)で、老人が「歳を取って、一番辛い事は、昔を覚えていること」と言う場面があった。成る程。
同じ映画を観ても、同じ音楽を聴いても、時と共に自身の立ち位置は変化する。 そこで対象物(映画や音楽)は止まっていてはくれず、絶えず動き続ける。動かなくなったものは、屍だ。 噛み続けたガム、昨日のニュース、解明かしたクロスワードパズル、それら何も提供しなくなったものに意味を見い出す事は出来ない。と、この話をしている最中、その事に夢中になり過ぎて、熱弁を奮うが、ふと気付くと、トカトントン。厭だね。逆上せるなら最後まで逆上せたままでいるべきだ。それが出来ないから、いつも、さらりと身をかわせる位置で、首を突っ込んだり引っこ抜いたりして、熱くも寒くもなくいる。 一寸、暖房、効き過ぎじゃあないかい?
小話、もう糞詰まりの模様。最後に、ジョン・レノン追悼の事を話そう。 今回で6回目を迎える。最初は95年12月だった。会場の池袋シルバラード開店、間もない時期だ。 元々はそこの場所を知ってもらおう、という企画で、そこでバイトをしていたもののさっぱり集客が悪かった ための苦肉の策でもあった。水商売に、お客がつくのには時間が掛かるものである。 店主の三原さんは、その昔、スタジオのP.A.オペレーターで、"NAVAJO"という偉大なバンドのベーシストであった。自分は、何かとお世話になり親しくしてもらっていた。ま、説明の説明は止しにしよう。 そうしたわけで、仲間内や近くの立教大学の方々に声を掛けて、第一回が開催されたのである。 現在"WILLIE`S APPLE"の平さんと親しくなったのも、これが最初だった。当日に、打ち合わせておいた曲を合わせて、それだけで演奏した。自分は、死ぬ程、緊張したことを覚えている。アンプはピッグノーズだったな。飲み放題、というのも最初のキーワードだった。お客さん、演奏者、全員が床を足で鳴らして、隣近所の店から苦情がきたりもした。また、そんなのも密な空気を創った。同じ機上の人である。 そして96年の2回目であるが、三原さんが病気で入院してしまいシルバラード休業のため、下北沢ロフトに場を移しての開催だった。実は2回目はこの時点で無かったのであるが、周囲の後押しで、数週間前にロフトを押さえた訳で、それが無かったらそれきりの企画でした。いきなりのエレクトリックセットだ。 さらにこの時、三原さんが居ない"NAVAJO"に混じり、ベースを弾かせてもらった事は忘れられません。 連続出場のWILLIE`S、現WILLIE`Sの横谷君や田村君のバンド、ヨーロピアンパパバンド、など後年にも続く不動の布石でもあった。が、飲み放題が仇となり、赤字でもあった。 97年3回目、会場をシルバラードに戻し、ホームページ開設、HERE SCENES開店前、という個人的には多忙な時期に開催。大阪からヤースンが歌いに上京し、電脳界からHIPPIも来てくれた。現"STOROBO"杉山氏も、昔のバンド仲間のよしみで演奏してくれた。それから、98年4回目は、下北沢より近所のBAR"RED G MONSTER" "Coccotti"が参戦、池袋勢を加え、大盛況となる。去年5回目、もうその辺りになると、あまりにもこないだの事で、その時のTRASHを読んでくれた方が早い。そうして、今週末12月3日(日)第6回目となる「ジョン・ウィンストン・ブギー・トリップス」が開催されるわけである。 20世紀最後の、そしてこの企画も幕を降ろそうということになっている。考えてみると、すごく時代的にもシンクロしていたのではないだろうか。「ビートルズ・アンソロジー1」発売から始まり、「ジョン・レノン・ボックス」「イエローサブマリン」のリミックス、今年はジョンのソロアルバムのリマスター、20世紀の偉大なバンド・ビートルズといえばそうだし、ジョンの死後20年目といえばそうだが、それでも「フリー・アズ・ア・バード」「リアル・ラヴ」を新曲として受け止め、演奏出来た事の素晴らしさは言うまでもない。さ、今回はどんなことになるんだろうか?楽しみましょう!
と、長くなってしまった。光陰、矢の如し。同じ偶然は二度とは起こらない。そこに集う人々を、もう一度集めようたってそうはいかない。その時、その瞬間、の妙味、珍味、旨味。合成着色料は勘弁して欲しい。
12月が始まる。
2000/11/25.ICCH
レオス・カラックス監督の「ポーラX」を観た。「ボーイ・ミーツ・ガール」や「ポンヌフの恋人」あれから8年間の沈黙後の作品である。非道く救いのない映画だった。笑っている箇所は、チャイニーズレストランのところだけ。後は、ひたすら、堕ちていく。愛もへったくれもない。なんだって、そんなに傷付けるんだ。 純度を競うな。あるかないかの中心点(案外、何もないかも知れない)を囲うようにして、世俗の衣を重ね着して、それを実体とする。着膨れした姿あるそいつが愛とするならば、この映画はそれを全て剥ぎ取って、限りなく中身を撮ろうとするが、やっぱりそんなもん無かった。からっぽ。衝動だけが在る。 なぜ、あんな顛末になってしまったのか。それでもこの監督は大好きです。勝っているのに負けようとするから。また、破滅か。それから、映画はあれで終わるが主人公は生きていく。死なない、と思う。
なんだ、けろりとしてやがる。腹が減っちまったなぁ。愚鈍であるが、そいつがないと生きていけない。 リセットしなけりゃ、やってらんないや。そうやって、諸問題を次々と棚に積み上げて、忘れたり、それが崩れ落ちてきて思い出したりしても、とりあえず、作業スペースは確保して、生活を遣り過ごす。 全てが見えてしまわないようにしなければならない。生活に長けている人は、けっこういい加減だ。 ちゃらんぽらん、は極意。焦点をぼやけさせろ。はい、そんなのもリセット。
生きていく限り、そのスイッチを入れる。再起動だ。煙草を飲むのも、酒を飲むのも、本を読むのも、映画を観るのも、ドライヴするのも、音楽聴くのも楽しいよ。こないだ、熱出して寝込んで、また身体的には禊を通過して、毒も燃え滓も汗と一緒に流れて、身体て炉のようなもので、時々、燃えきっていないものが燻って、一気に高熱で処理しなけりゃならなくなったりするんだ。決まって、秋には熱を出す。
冬支度てやつかも知れない。
2000/11/12.ICCH
2000/11/09.ICCH
寒くなってきた。飲んでも、飲んでも、忘れられないコトが、たくさんある。いや、ひとつしかない。 消失。何度も同じ場所へ戻ってくる。やれるべき時に、やれるべきコトを、やっておくんだ。 後悔は煩悶に運ばれ、解体処理される。以前、後悔だったものは、見る影も無く、やつれ果て劣化した言葉という入れ物になる。中身はからっぽだ。どこかで溶解されてしまったか。
人間には唯一、真実と思しき事実が二つある。生まれた事と、死ぬ事。これだけは、他の全てが虚構であろうと、譲れない事実だ。これを読んでいる方々は、きっともう生まれているはずだから、後は滅びるだけである。構築しては、解体する作業の中で、様々なものが消失し、生成され、それを繰り返して、土に滅する。 元来、何もないところから、偶然、生まれ、そうしてもがいて、汗や涙や糞尿やゴミをまきちらし、他人のものを掠めたり、殺めたり、取り返しのつかない過ちを犯して、危険を察知すると逃げるように死を迎える。 競馬で万馬券を取ったのに似ている。元金100円、馬連3万円、300万円の豪遊。たった100円が、錬金術の如く300万円に化けて、そうして使い切った後には、さらに錬金術を駆使して大金を掴もうとするが、もはや魔法は終わり、積み重なる借財に首をくくる。なんてね。つまらないね。
22歳、江ノ島投身自殺未遂。27歳、パピナール中毒、自殺未遂。28歳、「晩年」。29歳、カルモチン心中未遂、「ダス・ゲマイネ」。31歳、結婚、「女生徒」。32歳、「走れメロス」「思ひ出」。33歳、「新ハムレット」、長女誕生。34歳、「正義と微笑」。36歳、「津軽」。39歳、「斜陽」、次女誕生、愛人との間に女児誕生。40歳、「人間失格」、「グッドバイ」、6月13日、玉川上水投身自殺。代表作、抜粋。
さーて、えらいことになってきた。提出してみてから、急に弱気になってきた。あと一ヶ月で32歳。
「愛は言葉だ。言葉が無くなりゃ、同時にこの世の中に、愛情も無くなるんだ。愛が言葉以上に、実体として何かあると思っていたら、大間違いだ。」新ハムレット/太宰治
2000/11/02.ICCH
昨日、ダウンタウンのビデオを観て大笑いした。久々にこんなに笑った。「ごっつええ感じ」のコント傑作選である。94年頃から始まっているので、あれから6年を過ぎていた。それでもまったく色褪せてなく、それどころか現在のバラエティーなんて阿呆らしくて、あれだけしっかりつくってあると、そうなのだろう。 大阪の時代は知らない、「夢で逢えたら」で知り、あの当時「ガキの使い…」は欠かさず観ていた。 笑い、は何か同じ背景を共有していないと起こらない。同時代を生きていないとならない、共同幻想の極限である。ドリフを観て顔をしかめる大人、タケちゃんマンを一笑に附す輩、ダウンタウンを判らないのなら住む世界が違うのである。思えば、漫才ブームから始まり、ビートたけしの時代があり、そしてダウンタウンと笑いに関しては、ものすごく幸せな時期を過ごしてきた。「ごっつ…」は笑いの博覧会、見本市のようで、今までの笑い、全ての要素が詰まっていて、いわゆるバンドで言えばPHISHと同じであった。 パターン芸術、趣旨、趣向を変えては展開させる構成、それに演技力、即興性、どれをとっても素晴らしい。 これは結果論でしかないが、板尾の降板はまさにそのテンションに水を差す行為であった。 どんなものも惰性に陥る。尖ったものも角が取れてくる。それにしても昨日の夜は笑い通しだった。 何がそんなに可笑しいのか説明も出来ないところが、歯がゆい感じだが、変容とはそんなもんである。 そして敢えてそいつを説明せずとも、笑い合っている相手とは共有感が生じていた。 喜怒哀楽はきっと高度な技術で、それを甘受している自身を愛おしくなってしまったり、またそいつのお陰で人間らしさも生まれてくるのだ。しかし、テレビを消した時の、虚無感は、これまた落差が激しく、少し落ち込んでしまった。笑い。これは強い。文化の果ての、放屁である。
中途半端はかっこ悪い。しかしこいつが魔物で、中庸は随分と居心地のいいもんである。どっちつかずの人間は、どっちにもつけるし、どちらにもつかないのです。あーこりゃこりゃ、社会的にはつまはじきです。 これまた、どちらにも通じているので便利な場合もあるようです。問題はかっこ悪い(格好悪い)という概念ではないのでしょうか?その曖昧な観念で、善し悪しを決めつけられてしまい、何らかのカテゴリーに閉じ込められてしまう。たまに取り出してみても、やっぱダセーや、て言われちゃって、どうなのよいったい? じゃあ持ってんなよ、捨てちまいなよぉ〜。たまに特異な人物が変な発見をしちまって、ダサかっこいいとか言っちゃったりして、誰もがみな、かっこ悪いことはやりたがらないので、きっとこの世はかっこいいことだらけで、溢れているんでしょう。「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう/早川義夫」を聴きなさい!
当座、言いたいことは言い尽くした。それぐらいしか自分の頭には入っていないということに驚愕した。
無責任に笑っていたいのだ。煩悶も、愚痴も、失敗も、あってもいい。それくらいは薬味だ。
漱石はお嫌いですか?「高等遊民」とは彼の造語。機会があれば、「彼岸過迄」「それから」なんぞを読んでみてください。もうすぐ松田優作さんの命日、TV「探偵物語」はともかく、映画「それから」辺りから彼は
随分と役者然としてきたように思われる。この間観たNHK「追う男」のドラマもその辺りだと思う。
それはともかく、高等遊民でありたい、とわたしはいつも思ってるのです。