ワッシャー TRASH


1月期

「PSI」 Up Data 01/31
「Coming Down Again」 Up Data 01/12
「So Low! 」 Up Data 01/04




「PSI」

2001/01/31.ICCH


ここ最近は読書に明け暮れていた。雪が降ってからというもの、人通りも多くはない。 レジ前に並ぶ、植物群(と云っても、サボテンと多肉植物と観葉植物だけだが)を視界に入れつつ、「植物の神秘生活」という分厚い本を読んだ。そこには様々な植物に関する知覚活動が実例として、並べたてられていた。嘘発見機を用いて、人と植物のコミュニケーションを記録する者。オーラを写すキルリアン写真。 ラジオーゲンに、オルゴンエネルギーに、写真に放射して害虫を駆除するブラックボックス。 どれもこれも全人類を根底から覆す大発見なのだが、残念ながら学会では認められていないし、俄には信じ難い事例でもあった。ダウジングやユリ・ゲラーが登場するに至っては、自分を神秘主義へ取り込もうとする企てではないのかしら、と訝し気にさえなった。その次には、J.キャンベル「宇宙意識」を読んだ。 半分はちんぷんかんぷんであった。神話から宗教を理解し、さらに固有の宗教観を離れ、世界規模の意識を掴もうという話なのだが、個々の引用が無宗教な自分には高度過ぎたようだ。 「火の鳥」から得るものは大きかった。これが自身の宗教観の軸と云ってもいい。手塚治虫は偉大な物語屋だった。

そうして、レジ前に並ぶ植物群を眺めていると、この別種の生物と、意志の疎通が有り得ないと誰が断言出来るのか、そいつが不思議になってきた。 それは、目で見るまでもない、耳で聴くまでもなく、さらには言語などで推し量るべきものでもない。 日常、口にする食物たち、鉱物、それを育む地球、ありとあらゆるものが助け合い、支え合っていることは必至である。宇宙の産物である地球、そこから派生した我々、全てを構成している物質は同じものに起源を持っていることも必至である。180億年前に起こったと言われるビッグ・バン、そこから膨張した世界、宇宙は果てしなく広がっていく。なにがどうあれ、これからの時代は、もっと意識が変革されていくのではないだろうか、という気がしている。今まで、神秘とされていた見えざるものが、意識される世界。 気持ちや思考が現実に作用する世界。科学が明かしてくれた矮小な世界は、20世紀でさんざん、半ば自暴自棄に、資源を食い潰していっただけだったのだから。と、熱っぽく語る自身を、傍目から眺め、すっかり神秘主義に犯されていることを知る、外はすっかり斜陽なり。

ドゥーガル・ディクソン「マンアフターマン」という図鑑を知っているだろうか? 800万年前から始まる人類の歴史から始まり、現在を飛び越え、500万年後までを、克明に図解入りで紹介するという未来予想図鑑である。遺伝子工学で操作された我々の子孫たちの哀れな姿に、驚愕するという仕掛けだ。住めなくなった地球を後にするエリート集団、土地に合わせて身体を改造する者、機械仕掛けのサイボーグ、狂信的な科学者は自らを滅ぼし、DNA操作を施した種をばらまき、自然回帰した者は自滅し、弱肉強食の 知能の退化した変種は互いに殺し合い、奪い合う、そして、過去を忘れた違う星への開拓者が戻ってきた時、、、というような、なかなかシュールな図鑑である。またイラストがリアルで、水中人間だの宇宙人間だの、草原に住むように改造された者、森林に住むように改造された者、それぞれの進化が楽しめる。 もう300万年後になると、蟻喰い人間だの魚食人間だの、すっかり人類の面影も無くなっていく。 おぞましいながらも、こうなっていく可能性も、DNA操作は含んでいるところがリアルなのだろう。

さあ、21世紀最初の1月もお仕舞いだ。新年の挨拶もそろそろなりを潜めることだろう。 今月は、数週間のイタリアの友達の滞在で、新鮮な気分にもなった。それで、周囲も巻き込んで、過去だった人も、現在だった人も、同時に存在出来た。そして、夜になると毎日のように飲んだ暮れて、また陽は登り、 月を押し出したかと思えば、引っ張り込んで、ぐるぐる太陽を周回し、地球は自転し、日々が通り過ぎていく。目の前の観葉植物も葉をたくさん蓄えていくって趣向だ。



「Coming Down Again」

2001/01/12.ICCH


後になってからやってくる種類の音楽もある。たかだか数年、聴いたぐらいで何を分かったような顔をするのか?そんな気分の時もある。聴きたい曲が見つけられなくて身悶えする事もある。好き、嫌い、で判別する事は、可能性の息の根をその場で止める。もっとも大事なものは何なのか。瞬間の気持ちを選ぶのか、その先を視野に入れるのか、過去の感傷に浸るのか、どれをとっても、所詮、予定調和に過ぎないだろう。 突然、思いもよらない方向からやって来る音楽には、やられる。不意打ちだ。何も予備知識を持っていない方がいいに決まってる。磁石も非常食も雨具も防寒具も無い方が良い。遭難して、死ぬ寸前までいって、そこで得られたものは、後々まで強く印象付けられるものだ。勿論、たかが音楽ではある。たかが、たかがで、たかがぢゃないか。決めることなど何もない。あみだクジの途中だから。選別して、流れ着き、また二股、たまたま三股、そうして偶然とも必然とも呼べる運命のさざ波を漂流する。おお、Ripple!

思考を分かちあおう
隠し事などできない
彼女は死ぬほど 生きのびたがっていた
俺は捕まってしまった それとも騙されたのか
彼女は別に驚きもしなかった

また同じ事の繰り返しだ。でも、それが心地良い?同じ事がやって来ないと、人は不安になってくる。 時計は正確に時間を刻んでもらわないと困る。寝床は万年床、枕も同じく。何か一定の規則がないと、怖くなってくるのだ。帰巣本能なのかしら?依存している、それらの因子を取り除いたら、どうなってしまうのだろう?母親を消し、父親を消し、時刻を消し、日付を消し、住居を消し、友達を消し、恋人を消し、仕事を消し、音楽を消し、記憶を消し、言語をも消したら?自分では無くなるのだろう。何者でも無くなるんだろう。 名前はNOBODY、行く先はNOWHERE。

誰か他の人のパイに口をつけたら
とてもおいしく感じた
奴は妬んで 俺を泣きたい気分にさせた
腹を空かすのは別に罪じゃない

手塚治虫「火の鳥」を読み返している。ローリング・ストーンズを聴き返している。「メインストリートのならず者」は始めて買ったレコード。この「山羊の頭のスープ」と「ブラック・アンド・ブルー」は一番最後に買ったレコードだった。ブライアンがいた初期とは明らかに別のバンド、80年代からのストーンズもあまり興味は無い、70年代のストーンズ、こいつがベスト。ブルース、ファンク、土着ビート、レゲエ、R&R、カントリー、あらゆるエッセンスが混沌としている。ミック・テイラーなのか、やっぱり。キースが歌うナンバーは全てほろりと酔わしてくれる。歌なんか下手でいい。そんなんじゃない。歌が上手なクラプトンなんて。

イタリアから友達が遊びに来ている。10年ぶりの再会だ。一度目は強制送還の時、二度目は観光で昔の彼女と行った時、どちらも一宿一飯の恩義、どころか、実に迷惑をかけ、お世話になったのです。 音信不通がひょんなところから開通。一緒にやって来た彼はD.Jで、HERE SCENESで12inchを物色し、RED G MONSTERで回してもらった。ちょっとしたパーティーが、簡単に身内で出来ることに、しばし感動。 来週には、G.S.P.RECORDのパーティーに混ざってコラボレーションする事にもなった。 そうやって今まで知らない者同士が、出会い、また知り合い、何かが始まり、何かが終わり、繋がっていける事は素晴らしいことじゃなかろうか、きっと。もう同じ場所には、飽きちゃったからなぁ。 見飽きた奴らにゃオサラバするのさ するのさ するのさ するのさ

Coming Down Again, Coming Down Again, (Sky Falls Down)
On The Ground Again, Going Down Again.(Sky Falls Down Again)
Where Are All My Friends?
Coming Down Again.(Sky Falls Down Again)



「So Low! 」

2001/01/04.ICCH


21世紀。世紀を跨いだ新年が始まっていた。過ぎてしまえば、ただの過去だが、考えてみれば、なかなか出会える場面ではなく、きっとこの先、自分が100年も生きられるはずもないので、これっきりの瞬間であった訳である。その瞬間は、横臥して、ビール飲んで、テレビ画面を見るでもなく見て、まったくしまらないものではあったが、そんなもんである。妙に白けるのもなんだし、張り切るのも馬鹿みたいだし、調子に乗ると事故の元、そんなもんである。お似合いだ。年末に飲み過ぎて、身体の調子も崩していた。風邪薬とアルコールで膨張した胃袋が重かった。一年の計は元旦にあり、そんなこと云わないでくれ。だとしても、そんなにはっきりと云う事ないじゃあないか。去年と今年の区別が出来ない。そこら辺が問題であり、曖昧模糊なところだが、達観なる便利な言葉もある。とりあえずは、そんなもんなのだろう。しまらないなぁ。

2日に「脳男」なる江戸川乱歩賞を受賞した本を読み(著者失念)、昨日はデカプリオ主演「THE BEACH」をビデオで観た。どちらも楽しめた。皆それぞれに物語りがあった。自身の物語を信じて、自身の人生を演じ、 その物語は他者と絡む事でより強固となり、体系化される。そうやって世界は出来ていて、社会を形成しているのだから、人間の数だけ物語がある。物語が無い者は人間ではない。そんなことを漫然と考えた。 「THE BEACH」で、最後、空の拳銃をリーダーが主人公に向けて発砲する時、その物語が終焉を迎え、集まった人々は散り、幻想が脆く危うい事を知る。誰かの物語を力でねじ曲げようとする時、信じられたものは空虚な嘘っぱちに成り下がる。どんなに立派な思想も、主義、主張も、安っぽい茶番劇に過ぎない事を知る。 その幻滅は、止まれる種類のものなら次がやって来るが、もしも逃れられないものならば、連合赤軍のような悲劇やオウム真理教のような狂気を生んでしまうのだろう。盲信的になるな。全ての物語の主人公は、それを育む、本人だけのものである。他者の物語においては、脇役しか回ってこないのだから。 「脳男」は心を持たない男の話。全ての欲求を生まれた時から持たない、つまり生きてはいけない人間なのに 生かされてしまった。訓練により、他者を真似る事により、人間らしい行動が出来るようになるのだが、そこには何の気持ちも混入していない。ロボットが気持ちを会得するよりも不毛な感じがした。 それに殺人事件が絡み、サスペンス&サイコな物語が進行していく。機会があれば是非どうぞ。

音盤窟HERE SCENESは、今日から仕事始めである。音楽はもちろん、その人が信じた物語を紡いで作品化したものである。その音楽と、それを聴き対峙する自身の中で、共振したとすれば、そんなに素晴らしい事はない。いろいろな種類のものがある。肯定も否定も自由である。自由という檻の中、また今年も一年、ふらりと立ち寄っていただければこれ幸いなり。ま、ぼちぼちやりましょう。
本年度もよろしくお願い奉り候。So Low! "A Happy New Century 21"