ワッシャー TRASH


2月期

「CLEAR MIND」Up Data 02/28
「Outdoing」Up Data 02/21
「臆病風邪」Up Data 02/05




「CLEAR MIND」

2001/02/28.ICCH


2月最後になりました。お香がゆっくりと舞い上がっていく姿を眺めて、熱い珈琲を煎れる。 そんな至福の時、そこへ、バカ営業マンがふざけた話しを打っていく。間が悪いということは致命傷だ。 運が無いのだ。さっさとそんな仕事辞めて田舎にでも帰った方がいい。と、そんなふうに、大切な時間を邪魔されたことが腹立たしくなり、悪態でもつかなければ、バランスがとれなくなる。 大体、足で物を売るのが仕事になりうるのか?そんなのを押し売りて云うんだ。メールなら削除すればいい、電話にもイライラさせられるが(だいたいにおいて、これが一番、間が悪い)対面販売の間抜けさは、目に余る。失敬である。他人の家にづかづか入り込んできて、家長を出せと声を張り上げ、名刺一枚、勿体ぶって差し出し、上目使いのくせに見下した態度で、どうでもいいことを捲し立てた挙句に、売れないと了解するが早いかさっさと消え失せる。嫌な淀みだけが残るていう寸法だ。欲しいものがあったらこっちから出向くから、三下寄越すんじゃねぇというのに、こんなにも無駄な労力を使ってしまった。情けなひ。 さらに情けないことに、書こうと思っていた事柄さえも消失してしまった。世の中に溢れるぐらい棲息してると思われる阿呆顔下げた無知無能共が、きっとこうやって誰かの邪魔をして、平気な顔して賃金貰って、その金で酒を呑んだりレコードを買ったりして、紙幣は巡り巡って分配されていくんだ。ふん、責任転嫁だ。

今、焚いているお香が「CLEAR WIND」という。澄んだ、明確な、風、という意。自分は"WIND"を"MIND"と 取り違えて買ってきた。「CLEAR MIND」だったら、何か、すごく明瞭なヴィジョンでも喚起出来るんじゃなかろうかという希望的観測があった。嗅覚は、大切な要素だ。珈琲のカフェインで刺激された頭で、狼煙を上げるお香を眺めていると、奴はちょっとした空気の動きを読んで身をくねったり、右曲がりに輪を描いたり、息を吹き掛けてやるとそれに抵抗して紆余曲折したりするのだから、見ていて厭きない。 燃え落ち、残り香だけを残して、灰になり、その儚さもいい。

すごく脆いところで、話しをしなければならない。まったく、自身喪失させられる。 実際、今、自分自身は何も給水されていない。給水どころか、それを入れる入れ物さえ無い状態だ。 取り掛かる必要はあるのだろう。しかし、誰かが勝手に注ぐ必要は無い。時期が来れば、自然と注がれ、入れ物いっぱいになり、そいつを飲み干して、新しい事が始められるんだ。 「澄んだ心」ということは、悟りの境地なのだ。まだまだ、忙しなく、下世話な地平で、あくせくしていた。 今出来ることは、いつかはそうなれるだろうことを祈ることぐらい。 勧善懲悪な世界があるのは物語の中だけだ。まだまだ、曖昧模糊とした生活が続く。



「Outdoing」

2001/02/21.ICCH


与えられた時間は決められている。それを有効活用して、満足を得る事が出来れば嬉しい訳だ。 人は誰もが、その時間内で働ける仕事の絶対量を知っていて、それを超過する事は不可能だと認識している。カップ一杯分の珈琲には、これだけの豆と湯。量が多ければ溢れるし、少なければ足りなくなる。 錬金術じゃあるまいし、無いところから何かを引っぱれるはずが無いと思い込んでいる。 しかし、想念のエネルギー、あると信じる想像力、そいつは案外、捨てたもんでもない、 と、いうことを自分は信じてみようかと思っているのである。誇大妄想的ではありますが。

凌駕。

労働というものは、肉体を駆使したり、思考を働かせて、賃金を得るわけだが、その賃金の行方は、その仕事をこなすための、飲食や疲労回復やストレス発散に使われ、鋭気を養ってはまた労働に従事する。 どちらかのバランスが崩れるまで続く、陳腐な例えだけど、シーソーだ。

云いたい事は沢山あるのだけど、それがうまく伝えられなくてイライラする。 それぞれが、それぞれの価値観を持っていて、それが同じという事は有り得ない。 だから面白いのだけど、同じ話題を全く別の側面から語っている場面に出くわすと、遣る瀬なくなる。 チグハグ。まったく、それだというのに、相手は理解している積りで相槌などを打つ。 お互い、分かりもしないくせに握手をしたり、舌打ちしたりしているぐらいなら、何も云わない方がマシではないだろうか。しかし、それも、とどのつまり、自身の舌足らずさを露呈しているに過ぎない事を知る。 分かり合えないのではなく、話している言語が違うだけなのだ。そんな時、言葉の不自由さに地団駄を踏む。

レコードを識別するためにジャンル分けをして、アルファベット順、アーティスト別、量の多いもの、希少盤、様々に整理をして、ノコギリで板を切り、木工用ボンドで繋ぎ、釘を打ち、それらを造った棚に収納する。そいつが一段落して、今度はそのデータをページに移植する作業に入る。

お香を焚く。珈琲を煎れる。一番街通りは冴えないけれど、文句を誰かに云ってみても仕方無い。 失ったものは戻ってこない。例えば、盗まれたバイク。古いカメラの中からフィルムが発見され、現像してみたら、猫のビッチの写真ばかりが写っていた。半分は変色していた。焼き付いたまま、色ばかりが褪せていく。与えられた時間は限られている。



「臆病風邪」

2001/02/05.ICCH


長回しのトリップだった。まさか、このまま、この状態が続くはずはないのだが、怖くもなってくる。 それを早めに終わらせたいと、解熱剤やらで、まだ本体のやってきていないものに蓋をする。 そうすることで、逃げ場を失った奴は、咳を使って警告し、咳止め薬に対抗して、鼻水や頭痛で応戦した。 一体全体、自分は誰の味方なのだろうか?身体が毒を排泄しようという浄化作業を邪魔ばかりし、そればかりか先走って、敵ばかりか味方までも巻き込んで殺した。 しかし、言い訳をさせて貰えば、仕事をやらなければならなかったという実務的な理由があった。 しかも性急に。時は月末、未払いの運営資金を稼がねば、ゆっくり寝ているわけにはいかぬ。止むに止まれぬ事情故に、薬の大量消費に陥ったのだ。一時の楽を得んがために、科学物質で苦を退けたのだ。 それはまさに、農薬散布と同じく、害虫駆除に於ける燻蒸と同じく、性急な方法であった。 果たして時間的短縮はあったのか?1日全面休業にして、とことん取り組んだ方が良かったのではないかとも思える。自身の自然治癒力を信用していないわけではないが、自信は無かった。 そうした事を考え始めたのも、余裕が出てきた後半戦のことである。本格的に苦しい時は、そいつから逃げることばかり考えていた。股関節、全ての皮膚が、肌着と摩擦を起こすだけで、日焼け後のように悲鳴を上げ、 血の流れが直接、脳に響き、鼻は遮断され、口で犬のように荒い呼吸をして、次から次へと尻尾の無い思考が浮遊していく。そこから戻ってくると、なんと健常体は素晴らしいものか。世界は精気に満ちている。 そして、これもまた、日常の反復で忘却し、肉は怠惰に沈み込んでいく。だから、書いとくんだけど。 今度、身体を崩したら、じっくり休暇を取って向き合いたいと思うのだけど、きっとまた何か止むに止まれぬ事情が付加されそうな気がする。そうして、肝心な事は後回しにされていき、次回には利子が付く。

しようと思えば空だって飛べる、とジャックスは歌った。理屈じゃないんだ。 筋道だの、順序だの、理論だの、学術だの、そんなものに感動は無い。子供の中に大人は生きているんだとしたら、大人の中に子供は住んでいる。住処を追われ、窮屈な思いをしてるかも知れないけれど、何処かしらで息を潜めているはずだ。「the adventures of BARON munchausen」はそんな映画だった。

家賃とボブ・ディランのチケット代金を支払ったら、レジはすっからかんになった。 そうして、外もすっかり閑、そいつは云うまでもないだろう。Day Tripper, One Way Ticket, Yeh! て口ずさみながら、自転車を漕ぐ。