TRASH
Up Data 8/25
「夏なんです」
Up Data 8/16
「Re-Bound」
Up Data 8/11
「大量生産とフラクタル理論」
Up Data 8/04
「唯物論2」
Up Data 8/02
「唯物論」
Up Data 8/01
「Fireworks」
「夏なんです」
1997/08/25.ICCH
24日で、このページも2ヵ月目を迎えました。
自分はだいたい3ヵ月周期でものを考えるので、まだ3分の2過ぎたにすぎない。
それでも、勝手に時は過ぎていく。
それに合わせて、時々虚無感に襲われる。
何をしているんだろうかという焦燥感と、断定する事に躊躇を覚える。
何も判っちゃいないくせに、偉そうに書き連ねるのに我慢がならなくなってくる。
様々な人からのパワーを、曲解しているような気分に陥り、土台が揺らぐ。
そのパワーを利用して不純に使っているような罪悪感、宗教に勧誘してるような迷惑を他人に与えていないだろうか?押し付けがましい自意識。
そして、これもまた公開を前提にした自己嫌悪ではないと誰が言えるであろう。
コミュニケーションの難しさを痛感する。ことに、当事者の自信が揺らいだらおしまいだ。
気持ちは相手に伝わらなければ、現実に成り得ず、虚構でしかない。これらの文章も
発表しなければ、ただの思考の一経路にしか過ぎず、何らかの方法でコミュニケーションを
とって始めて他者と共有しうる現実となる。だから、自身の胸に押とどめていれば、それは
誰の知りうるものでもない思考の断片だ。
だが現実は真実とは違う。
真実はいつでも闇の中だ。たいがいの人は真実を胸の内で飼い殺してしまう。もしくは新たな情報に、居場所を失ってしまう。流動的に…。
その瞬間の真実の尻尾を捕まえたとしても、次の瞬間、嘘になっていることはよくある事だ。
いちいちそれを解釈していたら気が狂ってしまうから、情報はアウトプットするように人間は出来ているのではないだろうか?
曖昧さは、防衛手段か。それだから、わざと真実の的を外してやれる、優しさも生まれるのかも知れない。
行き着く所はどこにもないのに、それに何かしらもっともらしい論理をぶらさげている。
「30代以上の奴は信用するな」という、かつてのフラワー世代の合言葉がある。
そんな奴らが当に30歳など越え、理想と妥協の中、造り上げた産物がこのサイベリアだ。
自分はまだ妥協を知らない。だから、いつまでたっても非現実的な青臭い理想しか
見られない。しかも、片輪的に一側面を見ているにすぎない。
無自覚が一番手に追えない。
ただし、関係性はどんなに遠距離だろうと持つことが出来ると思う。よく経験しなければ
分からないと言うが、そんな事言ったら何も論議できないばかりか、ならば戦争体験をしていない人がそのことを語れないかと言ったらそうじゃない。勿論、体験が一番手っ取り早い
手段であるだろうけど。そんなことせずとも、テレビゲームの中でもいいし、友人の体験談だっていいし、虚構だろうが現実だろうが知覚できるだろう。
無自覚は罪悪だ。そうゆう人が感覚だけで、他人を干渉する。
少なくとも自分はその蚊帳の外にいるはずだと思ったのに、何のことはないお仲間だった。
知人にインターネットの身障者における有効性を聞いた。いつも避けてしまうのだが
その時は、なぜか冷や汗が出てきた。酔いも手伝い、得意げに理想論を語っていたら、突然
冷水をぶっかけられたようなものである。自分は身障者の事は全く眼中になかったからだ。
彼は身近にそんな人がいたから、それを視野に入れて話してくれた。その欠如した無自覚さが、自身をすごく矮小化させ、甘ったるい感傷家にしてしまう。
抜け落ちた感覚は多岐に渡り、無知が他人を傷付ける。しかも、本人の自覚なしに…。
「他人を信用するな」とは拒絶ではなく、選択である。
だから、自身の選択視を信じる他ないのだが、簡単にはいかない。
はっぴいえんどは、夏に憑かれたと歌ったが、自分は夏に疲れたという、なんとも情けない
落ちで、8月期を終えることにしよう。おつかれさま。
「Re-Bound」
1997/08/16.ICCH
最近、著作権という言葉をよく耳にする。権利を主張するのに、"Copyright"とか入れたりする。
ロゴの右下につく(R)というのもそうだ。このH.Pも主張している。
肖像権でいえば、至る所で使われているアーティストの写真にも、勿論発生している。
その被写体だけでなく撮影者の権利もある。00権とかいうものに、がんじがらめの様相をみせる。ただ、現在はまだ論議の段階で、これといった領域指定はされていない。
ほとんどが、それぞれの良心とか常識とかの範囲内で考えられ、あからさまな営利目的以外は、ディズニー関係でもない限り訴えられるほどのこともないと思われる。
規則、罰則の類は無いに越したことはないが、このあまりにも自由である環境は、ある種の人々にとっては、鴨がネギ背負って鍋まで用意してるがの如く悪用し易い無法地帯なのかも知れない。
ブートレッグ(海賊盤)というものがある。
需要があり供給があり互いに益するものがあり、これに何の後ろめたさも感じない。
しかし、アーティストからしたら、とんでもない話であって、営業妨害の上に、世に出るはずもないリハーサルやアウトテイクの音源が出回って、踏んだり蹴ったりである。
そのアーティストの権利を傷付けるという以前に、失敬千万な侮辱的なことであって、オリジナルテイクさえ曲解されかねない不満足の代物が流通してしまうのだ。
ファン心理として不出来なテイクでも聴きたい気持ちも分かるが、そこは自らのモラルで自戒すべきではないのか。自分は、オーディエンスの前で演奏したものに限り、自戒をとく。
観客の前でやったんだからという勝手な気持ちが働いている。様々な見解があり、両方これはと思える最良の方法は、自らが見つけるべきであって、外側から圧力をかけられたくはない。そうではないだろうか?
他人に強要され規制されるのか、(嫌な言い方だけど)自粛するかのどちらかだ。
パーソナルな自身の戒律を持たなければ、どんどん自らの首を締めて、無関係な人まで巻添えにして、FREE WORLDが圧力の対象になってしまう。
考えてみれば簡単な事で、ゴミをまきちらすから山が封鎖され、自然保護団体がのさばり、権力者につけこまれるような、自らの自由を限定してしまうはめに陥る。
自分の権利を放棄してしまうようなものだ。相手の権利を侵すということは。
自然を守ろうとかいうお題目は大嫌いだ。何らかの対象にアクションをしたら、リアクションがかえってくるのは当然で、ある生態系が壊れればバランスが崩れるし、海やら空やら汚せば自分の身体の至るとこらから、自身を破壊する毒が侵入する。
つまりリバウンドだ。良いものも悪いものも、同じように跳ね返ってくる。
どうせなら、良いものが跳ね返ってきた方が、気分が良くないだろうか?
「大量生産とフラクタル理論」
1997/08/11.ICCH
印刷という技術が発明された時、それに脅威を感じたのは、宗教家と芸術家だったという。
宗教家は神への冒涜、悪魔の技術と罵り、芸術家は絵画の大量生産を危惧した。
グーテンベルグの印刷術以来、写真が生まれ、さらに加速度を強めた文化はコンピューター
により完全なる無限のコピーを生み出すに至る。
劣化しないコピーの大量発生が、何を変えたのか?
大量生産は無価値の意味を持ち、オリジナルには価値が与えられた。しかし、現在その境い自体曖昧で、同じグレードを持ったコピー達は、本物、偽物のカテゴリーを取り払われた格好となっている。
膨大な運動量という行為自体が、大切なものとなりつつある。
大量に提示する事で、新たな局面を切り開けないだろうか?
かつてのアンディウォーホルが示した、シルクスクリーンによる大量生産とコンセプトの使い回しの機械的運動が、そうであったように。目的や意味の欠如した作品群たち。
精神を形状化させようとしたヒッピームーヴメントが、結局大量のスマイルマークというシンボルの中、矮小化されていってしまったかのように。
だから今は提示の時代ではないのだろうか?
マンデルブロのフラクタル方程式(非整数値の次元を許容する方程式)が、大量生成に反復運動を持ち込み、実証しようとしている。
なぜDEADのチケットに例のフラクタル画像が記載されているのかという問いは、次のガルシアの言葉で了解する。
「混沌の中にも、ある種の秩序がある。」
それを理解すればフラクタルはほとんど解けたようなものだ。自然に例えれば、飛行機から見た海岸線のでっぱりやへこみの特定のパターン。海岸に降りれば、岩々の配置、個々の岩の表面、岩を構成する粒子、それらに共通するパターン、自己相似性を記述する方程式が
フラクタルである。
この不連続方程式は、計算によって得られた数値を何度も何度も繰り返し元の方程式に代入していく循環方程式で、コンピューターによって無限に反復し、計算し、フラクタル画像へと変換する。
音で言うならば、ギターとアンプのキャチボールで生じるハウリングが、フィードバックして増幅していく、あの素晴しいノイズがフラクタル理論の実証である。
ところでそれが現実社会に何の役に立つのかという話だが、それは各々が様々なレベルで、応用して確かめて欲しい。
フラクタルで了解する事は、不規則で混沌としたあらゆるカオスパターンには、確実に自己相似性の秩序を持っているという事だ。世界全体は相互的にリンクしている。
つまり、誰かの脳で思考したことは、フィードバックと反復を繰り返すことにより、現実社会や違うレベルで、影響と作用を及ぼす事が可能ということだ。
誰かから感動を貰ったら、それをまた違った形で他の誰かに渡す。
やがて、全部の人がそれをやったならば、その小さな感動は何かを転覆させる程の運動となり、社会を変革するパワーを持つやもしれない。
計算上は可能なことである。その反復に要する時間との折り合いがついたならば。
そして、何もしないよりはましである。
「唯物論2」
1997/08/04.ICCH
利根川氏の専門は、病原菌やウイルスなど抗原(侵入者)をやっつける、タン白質(抗体)をつくる免疫反応という防御システムの研究である。
前回、脳神経系と免疫系は類似点が多いということを書いた。
元を正せば基本的に人間の身体は細胞の集まりであるし、有機物の混合体でしかない。
つまりそれぞれの細胞がそれぞれの中に持っていた遺伝情報を読み取って、ある細胞は筋肉に、ある細胞は髪の毛に、またある細胞は脳に形質を変えるのである。
だから素材は同じであるから、見方を変えれば読み取った情報の違いだけで、基本の材料は同じものである。
その様々な細胞一つ一つに、その人間の持つ全ての遺伝情報が同じ量つまっている。それが基本。(自分はそれさえ初めて知った。)
そして、それぞれの遺伝情報が独自に進化して今の人間の形態を保っている。
その神経と免疫のシステムに類似点が多く見い出されるそうである。だから起源が一緒なのではないかという仮説も立ち、逆に考えれば免疫を研究することが、脳の研究にも応用できるということになっていく。
突然変異や遺伝子組み換えが、世代交代によって様々生み出され、多様性が生まれる。
それを系統発生(進化)と呼ぶならば、免疫系では個体発生の中でもそれが起こっていることが、彼の実験によってわかってきたのだ。
おもしろいのが、そこである。
免疫というのは、侵入してきた抗原の多様なタイプに応じて臨機応変に状況に合った最適な抗体を、DNAの情報の中から見つけ出し、そのワクチンを生成し増殖させる。
まさに生物進化と同じシステムが、分子レベルのミクロの世界で繰り広げられているのだ。
手塚治虫の「火の鳥」で、どんどんミクロに細胞内へ向かうと、その中に宇宙があり星があり生物がいて、さらにその生物の細胞には宇宙が存在し…といった、「∞」な世界が連なり、反対にマクロへ向かっても、この世界は何らかの生物の細胞に一つでしかないという、気の遠くなるメビウスの輪が続く場面があって感動したことがあったが、それにも通ずる壮大なドラマを細胞は含んでいるのである。
また彼は生命現象は、全て物質レベルで説明がつくと言う。抜粋してみよう。
「生物というのは、もともと地球上にあったものではなくて、無生物からできたものですよね。無生物からできたものであれば、物理学及び科学の方法で解明できる。要するに、生物は非常に複雑な機械にすぎないと思います。‥中略‥脳の中でどうゆう物質が相互作用して
、どうゆう現象が起きるのかということが微細にわかるようになり、DNAレベル、細胞レベル、細胞の小集団レベルというふうに展開していく現象のヒエラルキーの総体がわかってきたら、例えば、人間が考えてるという事とか、エモーションなんかにしても、物質的に説明できると思いますね。」
「ブレインサイエンスの成果は哲学が扱う世界感、人生感にさらに大きな影響を与えると思います。文学について言えば、すぐれた詩が人間を感動させる時、脳の中でそれに対応する物質現象が起きている。それが解明されれば、どうすれば人間を感動させられるかがもっとよくわかる。」
「個々の人間の性格や知能、これらを基盤にした行動の大きな枠はその人が持って生まれた遺伝子群でかなりきまっているのではないでしょうか。ただし偶然性が働く余地は残っており、それぞれが遭遇する環境がその範囲内で影響を与えるのではないでしょうか。」
「地球の歴史の上で、ある時物質が科学進化を起こして、DNAというものができた。それがずっと自己複製しながら進化を続けてここまでやってきた。それが我々ですよ。みんな、DNAと自分の自我をわけて考えているから、そういうことを言われるとギョッとするけれど、我々の自我というものが、実はDNAのマニフェステーション(自己表現)にすぎないんだと考えることも出来るわけです。」
「もう一つ極端なことを言うと、ぼくは唯心論者なんです。いや、唯物論的だけど唯心論なの。つまりね、我々がこの世界をこうゆうものと認識していますね。これがコップでこれがヒトだと。こうゆう認識は何かというと、結局ぼくらの脳の認識原理がそうなっているから
、そうゆう認識が成立しているということですよね。もし我々の脳とと全く異なる認識原理を持つ脳があったとしたら、それがこの世界をどう認識するか全くわからないですよね。
だから、この世がここにかくあるのは、我々の脳がそれをそうゆうものとして認識しているからだということになる。同じ人間というスピーシズに屬する個体同士で、同じ認識メカニズムのブレインを持ち、それによって同じコンセプトを持ち合っているから、世界はこうゆうものだと同意しあっているだけだということでしょう。つまり、人間のブレインがあるから世界はここにある。そうゆう意味で唯心論なんです。」
ということで、元に戻る。唯物主義が成り立つ為には唯心論が必要だし、その逆もまた真なり。
結局、現段階では結論はでるはずもなく、彼の言う、精神まで物質に還元してしまう考えにも答えは与えられない。ただ個人的にこうゆう極端主義は好きである。すごくウィットに富んでいるから。
DNAの集合意識がこの自我という意識かもしれないと思うと、じゃあ自分の存在は何なのかと不気味になってくる。この本が書かれたのが、88年から90年までだから、それから7年あまり経っているわけだ。すると科学の進歩は年々早くなってきているし、これもずいぶん古い論になっているのかもしれない。遺伝子組み換え技術など、簡単にバイオ植物などに利用されているし、クローン技術も現実に世間を賑わせている。
なんとも、こうなったら人類を、神の領域まで突っ走らせる他無いね。
とことんまで解明するべきだ。人間の精神が物理的に解明され、人間の存在が何の意味も持たないものになったとしても、人間はまた違ったところに意味を見い出すはずだ。
人は意味付けをしなければ生きていけないんだから。
「唯物論」
1997/08/02.ICCH
極論から極論へ、端から端へ走り抜けるのは楽しい。BREAK ON THROUGH!
前回は岸田秀の精神論を読み、今回は立花隆のインタビューによるノーベル生理学医学賞を87年に受賞した
利根川進氏の「精神と物質」という本を読んだ。
いきなり唯心論から唯物論への移行だ。が極論は痛快で快感だ。
これは非常に難解な本で、一通り図解や注釈を付けて説明を附加してあるにも関わらず、
自分には半分も理解出来なかった。
高等学校の「生物」で、ここに書かれてある分子生物学関連の基礎を学ぶ事が出来るそうで、怠けていた不勉強な自分を罵倒しつつ、現在教育過程にある諸兄方に苦言を呈したくなってくる。
ま、感覚と嗅覚でなんとかなるけどね、時間があるならばもう一度勉強してみたいものである。
「パラサイトイヴ」を理解する読解力があれば十分だけどね。
なかなか興味深いものがあって、先月あれほど多面的に見なければと偉そうな事言っても、簡単にはいかない。人間は心という厄介な代物と同時に身体という物質をも抱えている。その起源を識りたいと考えるのは当然であった。
まず彼のノーベル賞受賞の主な功績から書きたいのだけど、これがまた高校中退の自分には
完全に把握することは非常に困難であり、本文より歪曲して伝えてしまうやもしれない事を危惧する。本当に識りたければどうぞ本編をお読み下さい。
端折って大まかに説明すると、これまでの分子生物学の常識であった、一遺伝子一タン白質と、生殖細胞が体細胞になる発生分化過程で遺伝情報は変化しないという原則をくつがえす
、大変有益で新しい発見をなされたのであります。
具体的に言うと、受精卵から個体までの過程で遺伝し組み換えが行われるという発見と、
「イントロン」という無意味(意味付けの定義は様々で一概に言えないが)な読み出されない塩基配列の発見であった。
「イントロン」が人類の起源の解明に役立つやもしれない事は次の引用文からも分かる。
真核細胞の遺伝子は幾つかのユニットにわかれていて、その間を無意味な介在配列がつないでいる。(無意味というのはその配列がタン白質に翻訳されないということ。遺伝子の情報というのは、あるタン白質を産生するためのものだから、翻訳されないということは無意味な配列と認識される。)
基本=遺伝情報は、DNA上の塩基配列で決定され(与えられ)、それをメッセンジャーRNAが写し取り(転写)、その情報通りアミノ酸が並べられていく(翻訳)ことで、タン白質が出来上がる。
真核細胞(細胞内に核膜で囲まれた核を持つ細胞。簡単に言うと高等生物の細胞ってこと)
の場合、遺伝情報は分断されていて無意味な塩基配列(イントロン)を挟んで並んでいる。
おもしろいのが、なぜ原核細胞(はっきりした核を持たない細胞。細菌とかラン藻類とか単純な構造のもの)には無く、真核細胞にだけイントロンが存在するのかということで、
仮説では、
「原始的で単純な微生物が、より複雑で高等な生物に進化していく時、遺伝子も単純で短いものから、複雑で長いものに進化していく。その時長い遺伝子は、全く独自に生まれるのではなく、単純な遺伝子が重複したり組み合わさったりして出来ていく。
つまり単純な遺伝子を一つのブロックとして、積み重なって出来ているのではないか?」
と言われている。さらに「遺伝子重複説」では、
「進化の過程で新しい遺伝子が作られる時、一から新たに作るのではなく、元々ある遺伝子がコピーされて、二つあるコピーのうち、一つはそのまま本来の機能を維持し、余分の二つめのコピーが突然変異で変化する。多くの場合それがイントロンとなる。
が時として、新しい環境が要請する遺伝子となる場合もある。(それが進化)」
人類の進化過程が明かされていく。さらにおもしろいことに、この細胞の論理はまるで、岸田秀の自我の定義と当てはまらないか?
自我の多重建設構造と対をなしているようである。
そうして脳(精神)と免疫系との接近がはかられていく。
免疫系と神経系の類似点を研究するニューロイミュノロジーにも興味が湧いてくる。
長くなってしまった。書きたい事の半分も書けていない。しかし、引用の引用でだんだんパニックになってくる。簡単ではない。次回に持ち越そう。つづく
「Fireworks」
1997/08/01.ICCH
7月31日、多摩川の狛江にて花火大会があった。
雨でずれ込んだ上、マイナーな催しだったようで、地元住民ばかりだった。
その辺りに住む友達が教えてくれて、H.Pの更新も後回しにして駆けつけた。
そのお陰で、更新もずれ込んでしまったのだったが、行って良かった。
素晴しい幾何学模様、パーンと音が弾けるたびに空気も揺らぎ花が咲く。
花が散ると残った煙りが風に流されて、寝転がって見ていると、まるで雲を見てるかのように
自分もながされ、疑似LSD効果にたじろぐ。
丁度、露天風呂から見た山々の木々が風に流れ、規則正しいパターンを描くように。
または、沖縄諸島での船上から海を長時間眺めて、船のデッキへ視線を変えた時に起こった、
波の揺らぎのパターンとデッキの木目の混合で起きる効果、それにも似ていた。
この夏、一度は花火を体験することをお勧めする。
それも友達と大騒ぎというよりも、自慰的快感に酔い、HIGHになることを…。
8月9日はガルシアの命日だ。もう2年にもなるのかと、感傷的にもなる。
彼のページを作った。トップページは多少、重かったかも知れない。
がしかし、SUGAP(美術担当)ががんばってコラージュしてくれました。ちょっとだけ待って見て下さい。
だんだんとこれも日記に近い様相を見せてきた。作後感想かな?
H.Pだけは自慰にならないように気おつけているのだけど、どうやらそうもいかない生活の延長線に位置してしまいそうです。 つづく
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