ワッシャー

TRASH



Up Data 9/28
「エリクラ」
Up Data 9/17
「猫屋敷探索記」
Up Data 9/13
「SCIENCE」
Up Data 9/06
「OPEN THE DOOR」



「エリクラ」

1997/09/28.ICCH


昨日27日、青山の韓国居酒屋「キム&チー」にて、エリッククラプトンの曲を魚に演奏する
という企画を行った。それというのも、店主のキムさんの強い熱意から始まった。
今年の3月30日に、高円寺UFO-CULBにてヨーロピアンパパプレゼンツ
「クラプトマニアLIVE」を行い、自分もキムさんの後ろに付き、平氏の後ろに付き
やらさしてもらった。その企画自体は非常に楽しいものだったけれど、惜しむかな
それぞれのバンドがステージに上がっては下がってと、企画意図もあやふやになって
しまって、まとまりに欠けた。
その伏線もあったのだが、今回はキムハウスもリニューアルして、これからこういった
企画ができる環境になったわけである。
で結果的には、勿体ない程のP.A設備を運び込み、音響的にはこれからの布石になった
ろうし、4千円で飲み喰い放題はほとんど奉仕的でさえあった。
こういった企画の場合、理想的には双方のバランスが取れていないと長続きできる
ものにはならないが、その点どうだったんだろうか?
楽しむためには苦労も厭わないし、実際音を出すのは楽しいものだ。
平さんや黒木さんは素晴しく盛り上げてくれたし、演奏した人もゴタゴタした喧騒などが
あったにも関わらず、そんなものを置いておけるぐらい楽しめたのではないかと
想像するし、自分はそうだった。
反省点と言えば基本的なことだけど、みんながキムさんの意図をもっと理解して気持ち良く
やれたらなぁと思うぐらいだ。すごく些細な事でつまらない気分になったりする。
それは制作サイドの不手際でもある。参加者への事前の意思疎通も悪かった。
今回、無償で助けていただいた全ての人、そしてお客さん、いい思いをした人も嫌な思いを した人も、あらゆる事すべてが都合良くはいかなかったが、それでも理解して欲しいと思います。
そして、また次回がありますように…。
お疲れさまでした。




「猫屋敷探索記」

1997/09/17.ICCH


今宵も老若男女、たいした意味があるでもなく、腐敗物にたかる蛆の如く、どこからともなく
人が湧きあがって街は賑わいをみせている様子だ。
繁華街、合法的な欲望の捌け口、ゴミ集積場、水洗便所の合理性。
そんな歪みによって、心にも、店先にも、あんたの鼻っ先にも漂っている街の空気は、
すっかり淀んでしまっている。
早朝、そんな空気を払拭するのは、ゴミ集積車とカラスと朝日だけである。

蔓植物に覆われた、以前はいったい何の建物だったのか判別できない程痛んだ二階建ての洋館。
姪錠と扉に巻付けてあった鎖は、すでに外してある。
半開きの鉄の扉から、中へ侵入した途端、むわっと異臭が鼻を射した。
ここはこの界隈の猫が出入りして、いつの間にか住居となってしまった猫屋敷である。
懐中電灯で足元を照らして先へ進む。足元は、猫の糞尿だらけで、誰が持ち込んだのか
毛布やダンボールが腐敗して、ヘドロ状になってしまっている。
「長くは居られないぞ。」あまりの臭気で目がひりひりしてきた。
まだ陽の光がある時間だというのに、室内は暗く陰気だ。
朽ち果てたソファ、積み上げられた電化製品に埃だらけの事務机、盲滅法、粗大ゴミを
ぶちまけた形跡さえある。
実は目的は、置き去りにされたと言われる楽器機材なのだけど
確かにそれらしき物体はあるにはあるが、床と一体化してしまっていて、錆びとヘドロ 状のものが浸食していた。
「こりゃ使いものにはならない」と判断するのに時間は要しなかった。
子猫と遭遇、怯えていたのはお互い様で、こっちは顔面蒼白、硬直状態で、 むこうはひらりと身を隠した。
二階はがらん堂。もはや耐えられない限界まできていた。
この屋敷内よりは、汚染された外の空気の方がまだマシだ。

この建物はこの2、3年の間に、すっかり自然に居住権を明け渡し、人を拒んでさえいる。
立ち入っちゃいけない。
外界から出入りを許されているのは猫だけだ。
衣服は汗と臭気をたっぷり吸って、そこから遠のいても頑として臭いが落ちなかった。
びっこのぶち猫がせせら笑っているようだ。

猫が居ない街は、病んだ街だとか、誰かが言っていた。
健全、不健全は別としても、淋しい気はする。
けれど、どこかしらにシェルターらしき逃げ隠れのできるスポットは、
どこの場所にだってある。この空き家がそうであるように。
この界隈の猫は片輪が多い。唯一自然が残るこの狭い空間で、血だけが濃くなった結果だ。
猫は一年に4回出産して、3〜4匹、7〜8年産み続けると言われている。
平均すると80匹ぐらい、一生の間に産むという計算になる。
自然を変形して、歪になってしまった人間が、猫に対して出来ることは、避妊などの人工中絶手段しかないと思えるが、野良猫が形成する社会に介在するのはどうだろう?
バランスが狂ったまま、それが自然に組み込まれてしまってるとしたら、それで人間もその 生態系の一部となっているのなら、良いのだろうけれど…。
「餌をやるならば、排便の始末から全部責任をもって、面倒をみろ。」と、奴らの論調はこうだ。
「中途半端に餌だけやるから、野良猫が増えるんだ。」と…。
自分さえ良ければいい的発想でしかものを言えない。
自分の庭さえ綺麗ならば、となりの庭にゴミを投げ入れることさえ罪悪感を感じない輩だ。
ペットブームで動物を買って、平然と捨てるような連中だ。
彼らにとって、生き物はオブジェでしかないからだ。
都合に合わせて害獣をつくりあげ、排除する。
不自然な一方的な、それらの行動が生態系のバランスに歪みをあたえる。
入り組んだ都市機能には、野良猫のシェルターがいくつも点在できる余地がある。
それらを排除することは、自分らの首を締めることである。
区画整理された、合理的な のっぺらした街、目的しかなく機能しかないつまらない街、
息が詰まってしまうだろう。

あの猫屋敷には、毎日、餌をやりにくるおばちゃんが居る。
時折、自分も餌をやる。だから人間もその生態系の一部となっている。
無関心な供給者と消費者しかやってこない繁華街は、都合良く出来ている。
とは言え、それは長続きするものではない。
もしあのおばちゃんが居なくなったら、もし景気回復と共に猫屋敷が人手に渡ったら、
つまりは、応急的な仮の巣である。
しかし、もしかしたらこのままであるかもしれないし、それは分からない事だ。
この世界に永遠なんてありはしないし、いつか終りはやってくる。
だから現在を甘受して、幸福に浸れる。
あそこの猫がじゃれあっているのを見ていると、動物には思考が存在しないように思え、
瞬間だけを受け入れている気がする。
約束された結末を予感するのは、人だけだ。




「SCIENCE」

1997/09/13.ICCH


また、全く理数系回路を持ち合わせていないくせに、立花隆のサイエンスものを読んだ。
基本的な事がまるで分からないから、上っ面を撫でただけだ。
数式などに遭遇すると、どうせ読んでも分からないんだからと、次の行へ移り、終いには 数字を見るなりアレルギー的に飛ばし読み。熊と会ったら死んだ振りみたいなもんだ。
それでもなんとなく分かったような気になってしまう所が、根本的に何も理解していない証拠ではないだろうか。
「マザーネイチャーズトーク」「エコロジー的思考のすすめ」「サイエンスナウ」と読み進めた。
理解不能な箇所は自動的に無視して進む。強行軍だ。
お勧めは「マザー…」で、7人の様々な分野の学者とのインタビューは、立花隆の突っ込みの面白さもさることながら、どの学者も機知に富んでいて、単純に知的欲求を刺激する。
「エコロジー…」は生態学的思考方法を26年前に確立している怪著。彼の処女作で、 エセエコロジストを寄せつけない現実の冷評さに溢れている。
「サイエンス…」が辛かった。あまりにもレベルの的を上に絞ってるので(「科学朝日」ってのに連載してたから仕方無し)専門用語の嵐で、ほとんど字をなぞっただけの状態だ。
それにしても今までノンフィクションには、何の興味も湧かなかったのに不思議だ。
岸田秀あたりから始まったんだな。誰でも多かれ少なかれ知的欲求を持っているだろうが、こんなにも知らない世界が横たわっていると、己の無知さにも呆れるし、そんな研究を 続けている人が点在する事実にも驚愕してしまう。そして、こうやって何も知らずにこれまで生きてこられたし、これからも生きていけるのだから、社会は役割分担である。
誰かしらが発見したことを、横からかいつまみ、あげつらい、マスコミ的に大騒ぎして、 知的好奇心を満足させるだけ。
例えば、宇宙ロケットの中で、人が食を得る為の装置を研究してる所があり、限られたスペースで植物を生産できる単純システムが発明されたりすると、それはせいぜい近所のスーパーの野菜売り場で、小さなバイオ畑から新鮮野菜を御自身でもぎってどうぞ的なところで 朽ち果てる。俗な部分での収穫からは逃れられない。
別にロケットの為に開発されたから高尚だとか、様々な応用を否定してるんじゃなくて、結局生活レベルでしか大方の人は、 価値を認めないから残念だなあといった話だ。
また遺伝子組み換えで蛋白質を生成し、 生体膜などを作り、水に溶解してる酸素を分離させてやれば、人間が水中生活が営めるようになったりとか、オゾン層を破壊すると言われているフロンガスをその膜で分離させたり、 汚染物質にも、有毒ガスにも応用が利く。
米に最初から油脂と蛋白質を結合させてやれば、元からチャーハンの出来上がり。
ホルモンや薬、ワクチンも自由自在。
蛋白質の利用は錬金術並みで、可能性はどんどん広がっていく。
これがマスコミ的好奇心。で、実際の話どこまでいってるのかと言うと、DNAの塩基配列を組み換えて、どんな蛋白質でも生成することは可能である。今や、人間は自然界に存在しないものさえも、合成できるだけの技術力を持つに到っているのだ。
が、しかし実は、どうゆう配列にすれば、どんな機能の蛋白質が出来るのかという根本的な 原理が分かっていないのである。材料もあり、人材も集め、建てる場所も確保、工事を施行する準備は万端、なのに設計図がないから家を建てられないようなものである。

ただ、色々な事が分かるにつれて、さらに分からない事が増えていくのは、まるで鼠の出産だ。
マクロな部分でも、ミクロな部分でも、、宇宙レベルでも、分子レベルでも??
それどころか我々の生活レベルでの事さえ???なのだから当然なのかも知れない。
今の科学は見えないものの研究で(電波望遠鏡、電子顕微鏡)、お化けが目に見えないからといって、分子レベルで見たら存在が実証されちゃったりなんかして、肉眼で確認できないからといって信用ならない。
だからって、生活が一変する訳じゃないけれど。
水面下じゃ、確実にこの瞬間にもあらゆる分野での発明、発見がなされているやも知れない。(ゴキブリを絶滅できるだけの技術がありながら、それをやってしまうと既存の製品が売れなくなるから、あえて握り潰す企業もあるが。ゴキを害虫と規定した場合の話)
知らないでいることは癪に障る。
そういった意味でも、立花隆の本は活用しがいがある気がする。





「OPEN THE DOOR」

1997/09/06.ICCH


"The Love You Take is Equal to The Love You Make"
あなたが得る愛は、あなたが与える愛に等しい。
BEATLES「ABBEY ROAD」の"THE END"からの一節。

去年、胸に抱き続けた言葉である。愛を憎しみと置き換えてみても同じだ。
皆、あらゆる関係性の中で束縛され、搾取され、解放され、生きて、反復している。
時に疲れ、"Carry That Weight"ではないが、背の重い荷を降ろしたくなるだろう。
去年96年は、自分にとっては、そんな様々な膿が噴き出した年だった。
ありとあらゆる関係性が壊れ、再構築を迫り、所期化の英断を下す他なくなった。
人間の頭ん中はそんな簡単ではないが、それでも新しい情報が古い層に上書きして、過去を 忘れさせてくれる。気が付いたら、何もかもうまくいっていた。
自然治癒力なのか、時間が解決したのか、どちらでも構わないが、流されているうちに勝手に漂着したようなものである。
丁度、ダウンしている時は、ゴムを下降へ引っぱっているような状態で、それを放した時、 一気に弾みがついて上昇する。ダウン時には、それが上昇気流の中なのか下降気流の中なのか、全く理解出来ず、あまりにもひどく振り回されるものだから、落ちていたとしても、まるで高みに昇っているような気になったりする。
背負う荷物は、歳を重ねるごとに増えていく。
様々な垢が、蓄積される。
9月になり、今さらそんな過去の地層を掘り起こすような考古学的遺跡発掘をする積もりなど、毛頭ない。
それらが自身の土台であることに異論はないが、そんな事無関係に現在は進行していく。
瞬間は使い古され、用済みの過去となってしまう。
悲観的ではない。
古い友人への挨拶だ。
あらゆる事の時間は限られている、立ち止まるにしろ歩き始めるにしろ走り去るにしろ、時を有効に使いたいのである。

OPEN THE DOOR

開けっぱなしの窓には 吹き遊ぶ悲鳴
水浸しの空から 降りそそぐ涙

ああ普段と変わらぬ
誰も分かるはずなく
君の心の叫びは
群衆にかき消されていく

閉まりの悪い扉には 誰もが土足で入り込み
かき乱しては 逃げ出していく

ああ普段と変わらぬ
誰も分かるはずなく
君の心の叫びは
群衆にかき消されていく

扉を叩くのは みんな 風の音
見て見ぬ振りは みんな 君の顔
全ては終り 新しくことをなせ
扉を閉じ 身を纏め
新たなマッチを擦る

これは以前の詩。新しい友人への挨拶です。






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