1997/09/28.ICCH
1997/09/17.ICCH
蔓植物に覆われた、以前はいったい何の建物だったのか判別できない程痛んだ二階建ての洋館。
姪錠と扉に巻付けてあった鎖は、すでに外してある。
半開きの鉄の扉から、中へ侵入した途端、むわっと異臭が鼻を射した。
ここはこの界隈の猫が出入りして、いつの間にか住居となってしまった猫屋敷である。
懐中電灯で足元を照らして先へ進む。足元は、猫の糞尿だらけで、誰が持ち込んだのか
毛布やダンボールが腐敗して、ヘドロ状になってしまっている。
「長くは居られないぞ。」あまりの臭気で目がひりひりしてきた。
まだ陽の光がある時間だというのに、室内は暗く陰気だ。
朽ち果てたソファ、積み上げられた電化製品に埃だらけの事務机、盲滅法、粗大ゴミを
ぶちまけた形跡さえある。
実は目的は、置き去りにされたと言われる楽器機材なのだけど
確かにそれらしき物体はあるにはあるが、床と一体化してしまっていて、錆びとヘドロ
状のものが浸食していた。
「こりゃ使いものにはならない」と判断するのに時間は要しなかった。
子猫と遭遇、怯えていたのはお互い様で、こっちは顔面蒼白、硬直状態で、
むこうはひらりと身を隠した。
二階はがらん堂。もはや耐えられない限界まできていた。
この屋敷内よりは、汚染された外の空気の方がまだマシだ。
この建物はこの2、3年の間に、すっかり自然に居住権を明け渡し、人を拒んでさえいる。
立ち入っちゃいけない。
外界から出入りを許されているのは猫だけだ。
衣服は汗と臭気をたっぷり吸って、そこから遠のいても頑として臭いが落ちなかった。
びっこのぶち猫がせせら笑っているようだ。
猫が居ない街は、病んだ街だとか、誰かが言っていた。
健全、不健全は別としても、淋しい気はする。
けれど、どこかしらにシェルターらしき逃げ隠れのできるスポットは、
どこの場所にだってある。この空き家がそうであるように。
この界隈の猫は片輪が多い。唯一自然が残るこの狭い空間で、血だけが濃くなった結果だ。
猫は一年に4回出産して、3〜4匹、7〜8年産み続けると言われている。
平均すると80匹ぐらい、一生の間に産むという計算になる。
自然を変形して、歪になってしまった人間が、猫に対して出来ることは、避妊などの人工中絶手段しかないと思えるが、野良猫が形成する社会に介在するのはどうだろう?
バランスが狂ったまま、それが自然に組み込まれてしまってるとしたら、それで人間もその
生態系の一部となっているのなら、良いのだろうけれど…。
「餌をやるならば、排便の始末から全部責任をもって、面倒をみろ。」と、奴らの論調はこうだ。
「中途半端に餌だけやるから、野良猫が増えるんだ。」と…。
自分さえ良ければいい的発想でしかものを言えない。
自分の庭さえ綺麗ならば、となりの庭にゴミを投げ入れることさえ罪悪感を感じない輩だ。
ペットブームで動物を買って、平然と捨てるような連中だ。
彼らにとって、生き物はオブジェでしかないからだ。
都合に合わせて害獣をつくりあげ、排除する。
不自然な一方的な、それらの行動が生態系のバランスに歪みをあたえる。
入り組んだ都市機能には、野良猫のシェルターがいくつも点在できる余地がある。
それらを排除することは、自分らの首を締めることである。
区画整理された、合理的な
のっぺらした街、目的しかなく機能しかないつまらない街、
息が詰まってしまうだろう。
あの猫屋敷には、毎日、餌をやりにくるおばちゃんが居る。
時折、自分も餌をやる。だから人間もその生態系の一部となっている。
無関心な供給者と消費者しかやってこない繁華街は、都合良く出来ている。
とは言え、それは長続きするものではない。
もしあのおばちゃんが居なくなったら、もし景気回復と共に猫屋敷が人手に渡ったら、
つまりは、応急的な仮の巣である。
しかし、もしかしたらこのままであるかもしれないし、それは分からない事だ。
この世界に永遠なんてありはしないし、いつか終りはやってくる。
だから現在を甘受して、幸福に浸れる。
あそこの猫がじゃれあっているのを見ていると、動物には思考が存在しないように思え、
瞬間だけを受け入れている気がする。
約束された結末を予感するのは、人だけだ。
1997/09/13.ICCH
ただ、色々な事が分かるにつれて、さらに分からない事が増えていくのは、まるで鼠の出産だ。
マクロな部分でも、ミクロな部分でも、?、宇宙レベルでも、分子レベルでも??。
それどころか我々の生活レベルでの事さえ???なのだから当然なのかも知れない。
今の科学は見えないものの研究で(電波望遠鏡、電子顕微鏡)、お化けが目に見えないからといって、分子レベルで見たら存在が実証されちゃったりなんかして、肉眼で確認できないからといって信用ならない。
だからって、生活が一変する訳じゃないけれど。
水面下じゃ、確実にこの瞬間にもあらゆる分野での発明、発見がなされているやも知れない。(ゴキブリを絶滅できるだけの技術がありながら、それをやってしまうと既存の製品が売れなくなるから、あえて握り潰す企業もあるが。ゴキを害虫と規定した場合の話)
知らないでいることは癪に障る。
そういった意味でも、立花隆の本は活用しがいがある気がする。
1997/09/06.ICCH
去年、胸に抱き続けた言葉である。愛を憎しみと置き換えてみても同じだ。
皆、あらゆる関係性の中で束縛され、搾取され、解放され、生きて、反復している。
時に疲れ、"Carry That Weight"ではないが、背の重い荷を降ろしたくなるだろう。
去年96年は、自分にとっては、そんな様々な膿が噴き出した年だった。
ありとあらゆる関係性が壊れ、再構築を迫り、所期化の英断を下す他なくなった。
人間の頭ん中はそんな簡単ではないが、それでも新しい情報が古い層に上書きして、過去を
忘れさせてくれる。気が付いたら、何もかもうまくいっていた。
自然治癒力なのか、時間が解決したのか、どちらでも構わないが、流されているうちに勝手に漂着したようなものである。
丁度、ダウンしている時は、ゴムを下降へ引っぱっているような状態で、それを放した時、
一気に弾みがついて上昇する。ダウン時には、それが上昇気流の中なのか下降気流の中なのか、全く理解出来ず、あまりにもひどく振り回されるものだから、落ちていたとしても、まるで高みに昇っているような気になったりする。
背負う荷物は、歳を重ねるごとに増えていく。
様々な垢が、蓄積される。
9月になり、今さらそんな過去の地層を掘り起こすような考古学的遺跡発掘をする積もりなど、毛頭ない。
それらが自身の土台であることに異論はないが、そんな事無関係に現在は進行していく。
瞬間は使い古され、用済みの過去となってしまう。
悲観的ではない。
古い友人への挨拶だ。
あらゆる事の時間は限られている、立ち止まるにしろ歩き始めるにしろ走り去るにしろ、時を有効に使いたいのである。
開けっぱなしの窓には 吹き遊ぶ悲鳴
水浸しの空から 降りそそぐ涙
ああ普段と変わらぬ
誰も分かるはずなく
君の心の叫びは
群衆にかき消されていく
閉まりの悪い扉には 誰もが土足で入り込み
かき乱しては 逃げ出していく
ああ普段と変わらぬ
誰も分かるはずなく
君の心の叫びは
群衆にかき消されていく
扉を叩くのは みんな 風の音
見て見ぬ振りは みんな 君の顔
全ては終り 新しくことをなせ
扉を閉じ 身を纏め
新たなマッチを擦る
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