TRASH
Up Data 07/30
「Does Anybody Really Know Time It Is?」
Up Data 07/25
「遠吠え」
Up Data 07/18
「力量作戦」
Up Data 07/05
「Turn-On」
「Does Anybody Really Know Time It Is?」
1998/07/30.ICCH
なぜクローン牛が死んでしまったのか?そして、クローンという言葉がまるでSFでなくなってしまった世界に驚愕する。「魂とその入れ物の数が合わなくなってしまう」うん、そうだね、ひっぴ。もう、すっかり辻褄が合わなくなってしまった世界を、我々は創り上げてしまった。もう我々の身体は、機械の部品と一緒だ。病気になり悪くなった部分を、クローンから移植する事だって可能だ。クローンというのは見ての通り、自分の分身であってそうでなく、細胞は同じ組織だとしても別人格であり、この世界に誕生してしまったからには誰の干渉も受ける筋合いのない完全なる人間だ。我々と同じに生きる権利のあるもの。コピーとオリジナルの区別などはない。つまり、やっぱり髪の毛のように、バッサリ切り落とす訳にはいかない。人間らしさって脳があって思考出来る力があるから、としたら脳の無いクローンを培養して、必要な時にその器官を移し換えれば済むといった類の話しではない。
無理があり過ぎだ。自然は創れるもんじゃない。だけど、それはオールドタイプの思考なのかも知れない。なるようにしかならない世界だとしたら、なるようになるのを待つしか手はない。下手に動いて、歪みを生むよりは何もしない方がいいのかも。そんなはずは無い。クローンという概念が生まれ、それが机の上の話しじゃなくなった今、もはや止める術などない。どこからか、そんなはずは無いという言葉があったとしても、生まれてしまったものを抑え込むのにも無理があった。答えがある訳でもなく、転がっていく方向に転がっていくだけ。それならば、最後の審判は見届けてみたいもんである。それにしても、クローンという技術が成熟したならば、絶滅した生物も細胞の断片さえあれば復活出来るし、死んだ人間だって蘇生する、のだろうか?よしんば蘇生したとしても、時間の法則を無視する事など出来ないので
また赤ん坊から始めなければならず、確かに肉体はクローンなのだけど、やっぱりその死んだ人とは無関係な存在でしかない、のだろうか?
何が可能で、何が不可能なのか、立花隆さん辺りに噛みやすく解説してもらわないと判らないですね。どうも、頭の中でクローンというものは、コピーみたいなものだという固定概念が出来ている。二次元のコピーとは別モノなのに、いやしかし、このデスクトップ上ではいとも容易くコピーを行えるし、時間さえ乗り越える技術は可能なんじゃないだろうか?だとしても、同じ人間が大勢いても、無意味なんですけどね。
最近、「Zガンダム」をビデオで観ている。ニュータイプと言われる主人公に敵が倒される瞬間、その敵は自身のオールドタイプさに驚愕する場面があった。
彼をニュータイプだと感じる自分に古さを感じ、そこに差異が生まれ、壁が生じ、悪い意識が芽生え、結果戦いが起こるという事にやっと気付くのが、やられる瞬間という皮肉。人は、制度に縛られようと、民主主義を唱えようと、どちらにしろ区別があり、階級があり、それは意識が勝手に創造してしまう。そして、それが無ければ生きていく意味もない。思考も思想も同じなんて不気味な話なんかない。だから、それを踏まえて動かないと怪我してしまう。怪我ならばいいけれど、死ぬようなことになったら困るので手加減していこうと、なぜか「ガンダム」を観て納得するのであった。
肉体が動く原理はあらかた解明されているのに、なぜ心というものはこうも不可解なんだろうか?パターンはあったとしても、それを記録し、解明することなどは無意味だと精神医学が証明している。ある一定の法則は存在するんだろうか?そうして、この世紀末、精神を解き明かす事に躍起になる。
きっとそれが一番重要な事だからだろう。今まであまりにも後回しにされてきた問題にやっと取り組んでいるのだが、もしかしたら手遅れだったのかも知れない。例えば、立花隆「エコロジー的思考のすすめ」を26年前に実践していれば、まだ道は残されていたのかもと思える時もある。
誰もがその一因を担っている。シカゴ「いったい現実を把握しているものはいるだろうか?」を聴こう。トロントR&Rリヴァイヴァル69年のやつを。
「遠吠え」
1998/07/25.ICCH
最後の力を振り絞って、梅雨が暴れていた。また来るからね、とでも言ってるんだろうか?こんな中、客足は全く伸びず、それどころか視線さえよこすのも惜しいといった感じで足早に去っていく。一日中、モニターの前に座りMacとの共同作業で何かを仕上げようと試みるが、無駄足に終わるようだ。最近、よく立ち寄るこの店の斜め向かいのロックバー「レッドGモンスター」へと駆け込みたい衝動に駆られる。アル中ではないはずだ。しかし依存心が強い。その対象に依存すると、その固執した気持ちが様々に悪夢を見せる。それを手放したくないものだから、嫉妬心で以て対象を威嚇してみたり、その対象と一体化したいものだから時間さえ永遠に釘付けにしないと気が済まなくなったり、そして対象が見えなくなるともっと始末に追えない状況に陥る。最初から自分以外の対象に寄りかかるからだぜ、ケッ、と思っていたら、多かれ少なかれ誰もが何かを頼りに生きているものだと気付く。
その対象を倒したからなどといい気になってると、思ってもないところから
手痛い報復を食らう。またそんなのに限って心臓わしづかみな衝撃なのだ。
とどのつまり、ほどほどが一番なのだけど、こう過敏に生きているとなかなか刺激がないと辛いという気もする。やっぱり七味より一味唐辛子でしょう。いや、それは役目が違う。香辛料のたっぷり混入したカレー、コレが一番いい。ラーメンも真っ赤な色した地獄ラーメン(オロチョン)が一番いい。おやおや、いったい何の話ししてるんだろう?そうそう酒でも飲まなけりゃやってらんねーやって話しだ。でもアル中じゃないよってこと。
しかし最近マジで酒の量が増えてきたので用心はしている。むくみが取れなくなってきた。釈然としない日常が形を変え、報復してるんだろうか?
雨足ばかりが強くなっていきます。客足ばかり遠のきます。
「力量作戦」
1998/07/18.ICCH
ちょっと間が空いたから、文章の書き方も忘れてしまいそう。たくさん、たくさん、気持ちという倉庫に、色々な荷を運び込み貯蔵する作業に追われていた。後悔をたくさんする為に飲んだくれていたわけだ。だから、運び込んだ荷物も行き先不明で、広い倉庫の中、アクセスする術も無いから失われる。"言葉"てのに唆かされて、ある時は鼓舞されたり、扇動されたり、落ち込んだり、励まされたりした。"言霊"てのは"言葉"に宿っている。気持ちを込めるから、念を傍受して、それ自体が力を宿すのだ。だから否定的言語は危険だ。プラス思考で言葉を発しないと、その否定的パワーに操られてしまう。ダースベイダーのように、フォースを悪意で以て使うと、そのエネルギーに逆に操られてしまうのだ。そして、プラス思考で言葉を発する時は、嘘も方便なのだ。例えあからさまに虚言だと判っていても、その"言葉"で救われるのなら、又はその"言葉"の持つ力や方向が正しいと思うのならば、その嘘に身を委ねるのも悪くないと思うのです。カラ元気てのは、美しいです。自分を例に取るなら、落ち込んだ時は一生懸命に奮い立つような肯定的な"言葉"を使い、その"言葉"のエネルギーの恩恵を被り、興奮していたりエネルギーに溢れている時は逆に力を弱める為に否定的な"言葉"を使います。
"バランス"や"セーヴ"といった種類の均衡を保とうとするのです。アップしすぎると怪我を負うし、ダウンしすぎると危険だからです。それは勝手に身についた防壁なのです。
伊丹監督の遺作となった「マルタイの女」を観て、三谷幸喜監督の「ラジオの時間」を観た。どちらも、とってもエンターティナーな映画で良かった。
観客を楽しませるという最も単純なれど難しい事を、さすが手練た技術で実現している。この二人の監督、どうゆう関係にあったのか知らないが、三谷監督の映画にその伊丹監督の常連俳優がたくさん出ていて、俳優の選抜も抜群である。やっぱりバカバカしくもハデハデに、先が読めようが何だろうが、常套手段だろうが卑怯だろうが徹底的に楽しめる作品を提供するという姿勢が素晴しい。暴露的だったり、二番煎じだったりしても、許容できるぐらい作品は完成してるから。「ラジオ…」はものすごく感情的になって画面を凝視した。ラジオドラマの脚本が、その場しのぎの嘘が嘘を呼び、また嘘で固め、徹底的に変更され滅茶苦茶にされていき、取り返しのつかない状況になっていくところが可笑しいのだけど、とても他人事に見えなくなってきて、確かにそれが何であれ形にさえなっていれば良いという事も判るし、それをする事が仕事なのだろうが、不条理で不毛な世界だ。ご都合主義のオンパレード。けれど誰もが与えられた責任を果たし、一人でも。たった一人でも、喜んでくれた人が居たら、それは成功だったんだろうとも思える。
その劇中劇が、ダイレクトにその映画にもオーバーラップされ、ちょっとした感動もくれる。良い映画だったと思いました。
頭の中で完成していても、外にその形を示さなければ、やっぱりそれは空論であり、実体の無い妄想の類に過ぎない。それでいいなら、それでいい事なのですが…
力の強いものに魅かれ、光に集まる蛾の様に、太陽の引力、どんな星にも重力があって、でも微力なるものはその力の影響を受け、恩恵を受け、法則とか形態が出来て、人は人の下に集い、こうして差異も生まれ、エネルギーの磁場は突然そのバランスを失ったり、それを守ったり、そこにまた力が発生して崩れては壊れ、壊れては建設し、揺れ動き、生きるというエネルギーがゼロになった時、その世界から旅立つ。力の世界なのですね。
前向きに行こう。
「Turn-On」
1998/07/05.ICCH
やっと落ち着いてきました。缶ビールを一本空けたところです。バックでは、DOORS「AN AMERICAN PRAYER」を流しジムモリソンの声が暖かく、興奮した気持ちを抑制してくれます。だいぶ遅れてしまったが、ジムとブライアンとやっと話が出来る。7月3日は喧騒の中、あっちへこっちへ撲つけて、たくさんの汗が流れ、たくさんのものを吐き出してしまった。
すごく世俗的な問題がたくさんあり、荷物の絶対量は変化しない。自分が持っていた物を向こう側へ移動しただけで、目方は増えも減りもせず、そして今度は新しい物を仕入れなくちゃならないって訳だ。全てが上手く流れている時は、流れ出しても自然に補充され尽きる事なくエネルギーは循環していくはずなのに、今回は全部抱え込んでいたから鬱積するばかりで流れ出す力も一方的になってしまう。ただ、こうゆう形態は初めてだったので反省点も多く、これは次に生かされ鬱積した部分も和らぐはずである。
もう一回、仕切り直しです。だけど、これはあくまでも裏側の話であって、なんの効用も発揮しやしない。失効しているのです。もう瞬間を切り裂いた後では、どんな御託を並べたって無意味に等しい。先があると思える事は素晴しい事ですね。予感はいくらでも用意出来て、それを準備するだけの力を各々が持っていて、この浮世で動いていられる限りはそれを有効に使う事が出来る。過去は失効するけれど、未来は永遠に約束や決意や夢や希望で埋める事が出来る。もちろん、その逆もある。復讐に嫉妬に絶望に悪意に使ったって誰も文句は言わない。
ブライアンの録ってきた「Jou Jou Ka」が流れてきた。もっと強くならなければいけないと強く思う。この店の内装をする以前、何度かこのレジがある場所と同じところに座り、何も無いからっぽの空間をただ黙って眺めていた時間を思い出す。たかだか半年、品物で埋った棚を前にして、考えていた通りの空間が以前は何も無かった場所に出現しているという事実に驚愕する。
錬金術にも匹敵する程のエネルギーが、時間を有しつつも培われている。
人には出来ない事など、何一つ無いのです。それを求める気持ちと努力と時間さえ伴えば、それはやってくる。悲観することなかれ。しかし同時に嫌な奴も、そのエネルギーに引き寄せられる事を忘れてはならない。表裏一体。
力はどんなものにも交換可能、選択は自身の中に。
7月3日、特別な日はまた過去の中に埋没し、次の機会を窺っている。
98年のチャンスは無くなったが、99年のチャンスはこれから築き上げられていくはずだ。断定は無い。ずっと以前、理性というものを毛嫌いしていた時期があり、動物の様に瞬間だけを享受して生きていたいと思っていたが、今はその理性というものも大事にしたいと思っている。それがあったから続くものも多いからだ。あるものを放棄するより、それを使わないと出来ない事を探してみようかとも思うのです。スイッチが入った。