ワッシャー TRASH


TRASH8月期

Up Data 08/29
「自棄残り」
Up Data 08/19
「お笑い草」
Up Data 08/04
「夏や済み」




「自棄残り」

1999/08/29.ICCH


僕らの思い出とかいうやつは、脳にある海頭というタツノオトシゴのような形をした箇所を、電気信号が駆け抜けることで、記憶されるそうである。 コンピューターでいうところのRAMのような働きに似ている。 そこで一時残留した後、就寝中にそれぞれの記憶の倉庫へ送られ保管される。読み出しは出来ても、書き込みは出来ないのが記憶。データが海頭を通らなければ、記憶力は失われてしまう。 老いていくと物覚えが悪くなるのは、その通り道が遮断されてしまう所為で、もちろん脳細胞は再生することは出来ない。こういった唯物論的な話はお嫌いでしょうか?コンピューターが人間をモデルに作られているということがはっきりするようで、人間が発明した匡体を解明していくことで逆に人間の正体がはっきりしていくのではないか、という気までします。記憶力を失った男が取った手段は、全てを口述し、それをその場で録音し、何時間もかけてノートに書き写すという方法でした。彼は自分では何もインプット出来ないので、違う媒体で記録を続けたのです。料理をすれば、数秒後には何を作っていたのかさえ忘れ、果ては食事を何度もとってしまうということにもなり、会話も、相手の顔も、思考したことも、全て消失してしまうという笑うに笑えない話。僕らの思い出は、たかだか数ミクロンの血脈にかかっている。

あわ踊りの祭りでつい購入してしまったベタ(別名ランブルフィッシュ) こいつがまた可笑しな魚で、 仲間同士で混泳させると死ぬまで戦い続け、ペアでも子供を作った途端にオスはメスに殺されるという、 なかなかヘヴィーな奴ら。フラスコに泳ぐ青と赤の長いヒレが、こんな仕事を和ませ、イライラを解消してくれる。鏡に自身の姿を見て威嚇してみせるベタジロー君は、お茶目なやつだった。 けれども大事なコトを忘れていたのです。海水魚を飼育していた時、重荷に感じていた気持ち。 自分に生き物を飼育する資格は無く、時間がそれを軟化させるが、やはり同じ気持ちになるんだ。 昨日、水替えしていた時、過ってベタジローを排水口に流してしまう。それっきりだった。何の挨拶も無く、 ゴボゴボと水音と共に吸い込まれていった。自分に生き物を飼う資格は無い。

「買ってはいけない」という週間金曜日別冊の本を読んだ。商品名を堂々と表示する見上げた企画だ。 この商品にはこんな毒が入っていますよ、これを使っていたら病気になりますよ、といった商品が羅列されている。防腐剤、添加物、合成着色料、それらが入ってない食品を探す方が難しい現代。 国家ぐるみで毒入り食品を売りつけているが、それらを食べないで生活することは難しいだろう。 ようはコンビニに並んでいるほとんどの物がダメな訳だが、手軽で気楽なコンビニでお金を落とす事が一番多いのだから仕方無し。カップラーメンの手軽さを考えてみれば(値段、保存、調理)多少毒が入っていたって死ぬ危険性さえ迫ってこなければ食べてしまうだろう。死ぬ間際に、ああカップメンばかり喰っていた所為だなと後悔するのも嫌な話だけど。それでもこの本は面白い。知る、という権利を放棄してしまってはいけないから、もっともっとやるべきだ。私利私欲や利権や個人的主観まみれでもっと語るべきだ。 結局、選択するのは自分自身なのだから。情報公開賛成、盗聴法反対、である。

日曜日の間延びした時間。ベタジローが居なくなった事を別にすれば、いやそんな事、誰も無関心なコトだ。 目的も無さげに老若男女が入っては出ていくのを、関係なさそうな顔で眺める。 関係は大アリだ。 心中穏やかではない。が、極めて涼しそうな顔をする。 セールも残すところ2日、来月はもっと忙しくなりそうだ。
ア、秋ハ夏ノ焼ケ残リサ。
秋はズルイ悪魔だ。夏のうちに全部、身支度をととのえて、せせら笑ってしゃがんでいる。



「お笑い草」

1999/08/19.ICCH


止まっちゃいけない。途中で止まったら、すべては終わりだ。無かったコトと同じだ。「継続は力なり」 だけど時々、疑心暗鬼に襲われたりもする。口を固く、閉じて、誰とも話したくなくなる。 みんなが自分を陥れようとしているような心持ちになる。そんな時に、笑いは強い。 笑っちまうね、笑っちゃえ、わらわら、藁をも掴む心持ちでぶら下がる。笑いが途切れたら仕舞だ。 どうにかして終わらないようにしなくっちゃいけない。 そして笑い死にしてから、もう一度出直しだ。禊に近いものがあるのかも知れない。そうやって生きているうちは、何度でも生まれ変わるチャンスをつくることが出来る。死んだ気になれば、というやつだ。

乾杯! 私にも仕合わせな時があった。(拍手)私が一歳の時。(爆笑)

案外、人間なんて単純、かと思うとそうでもない。漫才みたいに物語が進行していけば楽なのだけど、漫才ていうのは一般大衆が共同幻想を持っていないと成立しないから、今のような時代はツラいよう。

笑いのコトを考えて、それを時間に阻まれた。人それぞれに、独自の時間軸のようなものを持っている。 子供は訓練が足らないから、時間感覚が希薄である。大人になり、自分の時間が正確に刻まれるようになると、その正確さを覆したくなる。だからお酒を飲んだり、クスリをやって、感覚を狂わせて、非日常を演出してから、また日常に戻ってくる。生活に於いて時間は必要だけど、気持ちに時間なんか必要じゃない。 ずっと笑いながら、その場のコトだけ考えていられたら楽しいのだけど、どうしたって明日のコトが気に掛かるから、どこか誰も居ない場所へ行って思いっきりハメを外したくなる。

眼球は単なるレンズ。モノを見るためには思考回路が必要。右の景色は左脳が分析し、左の景色は右脳が分析している。レンズに映ったものを、一旦バラバラにして、脳内で再構成している、というのだから驚きだ。 丸や三角、四角、楕円などそれぞれに受け持ちの箇所があって、それらを組み合わせたり、 今までの経験値で仮定したり断定したりして、3次元の景色を取り込む。つまり心の眼は誰もが持っているのだけれど、教育や常識がそれを阻み、ほんとはそう見えてはいないのに見えていることにしてしまっているのかも知れない。 ゴッホが描いた絵は、彼が本当に見えていた世界。訓練をして、皆が同じような景色を見ているなんて、そんな退屈な世界はいらない。

細胞は分裂の回数が決まってるそうです。だから、老化現象があり、死に向かって進むことになる。 生殖器にだけは無限に分裂する細胞があり(補修してくれる)それを、全身に使用したネズミはすぐに死んでしまったそうです。外からの攻撃で痛んだ細胞さえも、生かしてしまうから、結局は悪影響があるそうです。 ご先祖さまが選んだ道、子孫にDNAを渡し、そこで突然変異したりして進化があり、自身の肉体は滅びるが、 種は残る道。肉体という道を進む限り、 不老不死は適わぬ。 最近、生み出された細胞は、何にでも化ける。眼球にだって、心臓にだって、指にだって、培養すれば化ける。つまり悪くなった箇所を取り替えるということが可能になるそうだ。DNA解析によって、将来にかかる病気を弾き出したり、デザイナーズベイビーに至っては産まれる前にDNA操作をして、親の思うままにデザイン出来るという末恐ろしい話。髪の色、身長、鼻の高さ、IQ、さらには職種まで指定できるらしい。 そんなニュースをNHK「人体の不思議」シリーズで観た。とうとう人間は、ものすごい領域にまで足を踏み入れた。これが進むのならば、植物と人間の交配、猫と人間、DNAを持つあらゆる生物との交配が可能となる。 強化人間の誕生だ。技術力は、もう目前にある。さあ、どうしよう?

どうしようも、こうしようもないですな。なるようになっていく。でも知らないより知っている方がいい。 お笑い草を一掴み、プカプカやって、ヘラヘラ笑って、考えよう。 欲しいものは何かってコトを。欲しくないものは、どうしたっていらないからねぇ。 狂気時代の落とし子たちよ、貧乏根性、損得勘定は水洗便器に流しちまえ。 戯言には耳を貸すな。借りたものは耳を揃えて返そう。歯磨いたか。いい夢見ろよ。というような戯言。 分裂気味な文章で失礼いたしました。お笑い草のやり過ぎですねぇ。



「夏や済み」

1999/08/04.ICCH


呼ぶ、呼ばれる、その匂いを嗅ぎ分ける力は、もはや自分には無かった。 他力本願は何も生み出しせず、偶然を待つほど気長な質でもなく、やはり何かを期待するならばその方向に 少しでも動かなければ、それに近付けるわけがなかった。 闇雲に宙をさらったって、掴まえられるのは空気だけだ。間違ってもカブト虫は捕れやしない。 恋愛はチャンス、ではない、意志である。その意志という、汗だくな欲求に何度もやられたけれど、やっぱり その通りだと思う。欲しいという欲求、得たいと思う意志、それには適わない。 ところで何を力んで語っているかと思えば、FUJI ROCK FES へ行けなかったコトを嘆いているのである。 とっても安いんです。ああ、それにしても不覚を取った。なぜ、そうなってしまったのだろう。 呼ばれなかっただけでは済まない、汗だくで乞うても雨は降らない、えいクソ、余熱で目玉焼きだ。

4日間の夏休みをとり、向かった先は沼津の海、深夜2時にレンタカーで東京を出発、総勢8名、女性2名、イラン人男性2名、他4名、最後部の座席に乗っかって他人顔、飲んで飲んで草臥れて眠って起きたら、沼津に着いていた。海に着いたら、そわそわ、ふらふら、挙動不審なり。テントを設営して、勢い勇んで、浜へと繰り出すのだ。楽しかった午前の遊泳、疲れ果てた午後の憂鬱、あんなに日除けクリームを塗りたくったのに、 やっぱり日焼けて、乾いた身体は砂利っぽく火照っていた。虫除けスプレーも役立たず、あちらこちら醜く赤い湿疹、ところかまわず眠気に襲われたので気分は夢遊病で、ガバガバのゴワゴワな身体が煩くて、すっきりしたいけれどそのまま引きずるしか術はない。夜になり火を起こし、イランの方々が(まだ少しばかりぎこちない)シシカバブーを調理、こりゃ美味、まさにビール、ビール、ビールだ。やっぱり野営にはバーベキューだ。幾度となく戦火をくぐり抜けてきたイラン人の御得意料理に舌鼓、そんな四方山話に酒宴も盛り上がる。 けれども今回の自分は陰と陽を繰り返す。戦争実体験の話、彼等は力を誇示し、そしてそれが全てでないことも知っていて、「ボクはアナタとは戦わない、なぜなら力が強い者が弱い者と戦っても自慢にはならないから」と平然と言ってのける。その土俵には上がれない、だろうな。皆、海岸へ出て、花火で大騒ぎしている。 あちらこちらから火の手が上がる。大いなる無駄、資本社会の究極の兵器、イラン人は無茶をする、それでも花火なら笑ってられる。再び酒宴、自分はしばらく海岸に居た。その時間が一番気持ち良かった。 遠くでラーメン屋のチャルメラ(屋台が海岸をながしていた)の音、それに波の音がブレンドされ、月光、そして無造作にちりばめられた星の光、浴衣姿のカップルがこじんまりと花火に興じていてその囁き声、目を閉じると星と海の音が聞こえた。そうして目を開けると、音と景色が同一線上に並んだ、境界が揺らいだ、そのシュチュエーションに自身を勘定に入れられなかったことで、自分は海にもなれたし、星にもなれたし、花火にもなれた。つまり自分の身体は誰のものでも無く、その場に居合わせた全てのもの達の共有物であった。 素晴らしいトリップだ。ワインボトルを抱いたまま、誰が運んだのか、身体は テントでひっくり返っていた。月はそんなお節介な真似はしないので、自力で這っていったのであろう。 次の日の早朝、激しい雨の音がテントを叩いていた。チキショー、朝の献立が台無しだ。 豪雨の後には、痛いぐらいの日射しが襲い、皆に急かされてテントをたたんで違う海岸へと向かうことになった。そんなに忙しなくしないでくれ〜。着いた先では、海の家を占拠したイラン人達が、意気揚々と酒盛りだ。まさに酒池肉林、海の家のお姉ちゃんを肴に大判振る舞いだ。ビールに飽き足らず、ウオッカに焼酎、さらにはバカルディ、なんで海の家にそんなんあるん? 調子に乗ってスイカ割りという行事までこなして、帰途へと着くのであった。帰りの車内で聞こえるあの曲はー PHISHではないかぁぁぁー! ラジオで生中継、 ああ呼んでいる、しかし東京への道は大渋滞、すごい、すごい、行きたい、行きたい、声にならない感嘆の呻きを上げていたのは車内でわたしだけであったの巻。

残りの2日はビデオ三昧なり。赤子の泣き喚きをものともせずに、ただひたすら、観覧あるのみ。 「アルマゲドン」あんまり。「7デイズ、6ナイツ」う〜ん、同じく。「カンゾー先生」坂口安吾かぁ、気分じゃなかったなぁ。「たどんとちくわ」意味不明だけど、可笑しいな。役所広司はともかく真田広之は可笑しいな、良い酔い。「トゥルーマンショー」が一番楽しめた。ジムキャリーはいいね。マジメに考えると怖い映画だしね。「リング2」や「死国」は論外でしたね。それにしても、なんかいい映画知りませんか? そんな夏休み、こんなもんさ。夏や済み。