TRASH
Up Data 10/26
「Carefree」
Up Data 10/13
「床下些事記」
Up Data 10/03
「茶番」
1999/10/26.ICCH
日曜日は、代々木公園までWillie`s Apple路上ライヴへ行ってきた。天気は良好、ベビーカーにワダチを乗せ、SGAPと散策しながら向かった。たくさんのパフォーマーが何かをやっている、路上生活者も毎度お馴染みの光景に飽き飽きしながらも眺めている、たくさんの人間が何かを求めて集まってきていた。 明治神宮は奥の方で無関心に鎮座していた。人がたくさん集まるところは、それだけで磁場となりエネルギー を発生させる。そして何らかの役割を演じることとなる。などと小難しく、理屈っぽく、組み立てていたのだが、缶ビールを流し込んだ途端に、自身が酔っ払いの真似を演じるコトとなってしまう。 一応、路上ということなので、客とバンドの間には歩道が自然とつくられることとなる。 そこを無関心な人達が通り過ぎる。ある者は怪訝そうな顔付きで、またある者はニヤニヤしながら、もう見飽きたと言いたそうな顔、大袈裟に耳を塞ぐ格好をする幼児、自転車、お犬様、たくさんのパレードだ。 屈んで足下だけを見ていたら歩行という運動が、とても滑稽なものに見えてきて可笑しくなった。その忙しない運動の先に、バンドがこれまた一心不乱に演奏している格好も少し異質である。 彼等が何者かを知っている人々は演奏を真剣な顔付きで観覧し、ただの通りすがりは早歩き、たまにそのフェロモンに惹き寄せられて立ち止まる。外人が何を思ったか、自分に「リクエストはいいのか?」と尋ねてきやがった。まったく色々な人間が動いてらっしゃいます。初生ライヴ体験にワダチは少しビビっていた。 なんにしろ楽しい場所だった。ココにもまた音楽の暖かい部分がある。なかにはお寒い音もありましたが、、
たくさんの種類の音楽があるのだが、やはりその場所と環境に適したものが好ましく、冬はおでんに熱燗、 夏は枝豆に生ビール、決して型にはめられているわけではなく、適しているのである。 R&Rは反復運動である。繰り返すリズムが前へ進めと急き立てる。同じ運動を繰り返すコトによって、身体は暖まる。日々、人間の身体もこの循環を自然と行っていて、血は巡り、臓器もそれに呼応する。 口から食物を流し込み、排泄物を吐き出し、鼻から空気を吸い込み、また吐き出す。死ぬまで繰り返す運動。 大きくは食物連鎖、さらに重力、宇宙、思想に於いてまで、循環することに拠り成立している。 単純な反復リズムに、何かしら原始的な興奮を覚えるんだ。 冬のおでんに何かしら胸踊り、クッと日本酒を咽奥に流し込むんだ。すると胃袋がパッと燃えるんだ。 だから深い意味なんか、どこにもない。あるのは、快楽と気楽ぐらいなもんだろう。音楽はやっぱり欲しいな。
その先には… といつも考える。到達点と思っているこの瞬間、それでもこの先には何かあるから、到達点ではなく通過点に過ぎず、いったん手に持ったコップをテーブルに置いただけであった。
1999/10/13.ICCH
今月から平日は深夜2時までの営業にした。そうするとその反動で、閉店後はどこかしらへ行って気分転換をしたくなり、飲み歩く。1時間の延長は生活パターンを大きく変える。中途半端に帰宅するより、男らしく朝帰りなのだ(?)しかし、それも疲れてくる。ああ、どこにも帰着点を見いだせない。 いったい何時までこのレースは続いていくのだろうか?と考えるコトは、とてつもなく長いレースになるコトを予測しているのである。そして、それはBAD TRIPだ。しかしその苦痛が快感になる場合もあり、予測というよりは望みでもあり、裏は表で表は裏で、本道などは最初から存在せず、あるのはとにかく時間に逆行せずひたすらに道を進んでいくことだけだ。 30歳を越えて(肥えて)周りの人達を見ていると、今まで見えていなかったたくさんの色が見えてきた。 原色でしかなかった赤が、少しくすんでいたり、もうちょっと黄色味がかっていたりした。 みんなたくさんの色の集合体だ。ちょっとづつ様々な色を合わせ持ち、相手によって違った配色を使う。 ある女性を見ていたら、雨宿りをしているように感じた。軒先きはたくさんあって、たまたま雨が降ってきたから、ちょこっとそこで雨宿り。成る程、人なんてそんなもので、雨宿りしている積もりがそこの主人に「中へお入いんなさい」などと言われて、お茶でも馳走になっているうちに何時の間にやらこちらがお茶を煎れている立場になってしまったりする訳で、悲喜交々、ある人はそれを「偶然」と呼び、またある人は「必然」と云った。年輪を重ねていくと、その悲哀が臭みが儚さが自然と受け入れられるようになっていくのだろうか。 いや自分に限って、一生そんなことはないな。雨宿りするよりも、濡れていく方がよっぽどマシだから。 こちらから関係を結ぶよりも、そちらから関係を結ばざる得ない状況を拵える。役者気取り。人はそれを「気障」と云った。あ〜あタイトロープだね。
店の床が本格的にヤバくなってきた。鉄板で補強した箇所以外の床が、陥没を始めていた。 日々増えていく在庫、増々肥大する商品、この2年弱でなんとも肥満気味な形を見せている。 徹夜も辞せず、の覚悟でレジ裏の在庫にプライスを下げたいところであるが、並べる場所も無くなってきている状況だ。陳列拡張の為に奥の倉庫を潰す時期が近付いていた。床を壊すということは、まず全ての商品を 撤去せねばならない。考えただけでもすごい作業行程だ。中途半端に残していた元厨房設備(レジ裏)も、陳列台と倉庫を仕切っている壁も、壊さねばならないだろう。もしやるとするならば、大リニューアルオープンということになってしまう。来年まで先送りして、この近くに手頃な倉庫を見つけて、などと夕暮れまで考え ていた。考えるのが好きなのだが、いざ実行となると、途端に口籠る。
1999/10/03.ICCH
福島県の猪苗代湖キャンプ場に腰を据えた。総勢6名、テントは3つ、猪苗代湖は海のように広く会津磐梯山も見える。季節外れのキャンプに、キャンプ場の森も岸もひっそりと静まりかえり人気は皆無だ。 田園を抜けてキャンプ場、人気も無く、広大な湖と森、四方には山々、人工物と言えば遥か向こう岸に見える明かりぐらいである。まるで忘れ去られた土地、岸辺は朽ち果てたボート小屋に、花火の跡で、何か「猿の惑星」のラストシーンを思い起させた。テントを設営し、かまどをこしらえて火を起こし始めて、やっと人間らしさを取り戻し、みんな薪を集めに森中を徘徊した。女の子達は料理を始め、男共は何するでも無く火を囲んでいる。初日はすぐに夜を迎え、我々周辺から数メートル先は漆黒の闇に閉ざされ、用を足しにその場を離れるのも何故か憚られるぐらい恐怖だった。ハンモッグに身体を横たわらせ、軽い睡魔に襲われる。 女の子達は料理に失敗したらしくふて寝する者、仲間割れをする者、やめてくれ、とってもBADだ。 恐ろしいぐらいの静寂をCDデッキが紡ぐ。その失敗した鍋を再生する為に、皆が団結し始める。 ものすごく長い時間が経過したようでもあり、ほんの瞬きの間でもあるよう。空腹を感じ、蘇生した鍋がじわっと胃袋を満たす。そうするコトで、また時間が先送りされ、永遠の長回しな至福を手に入れた。 なんというコトだろう、それは初めての体験だった。そんなハズは無いと否定をする。笑いを噛み殺し、 他人の同意を得んと奔走する。離れていく。遠離っていく。火がとても小さく、今にも事切れる間際だ。 そのままその景色は凝固し釘付けにされ、次の景色へ移るが、そちらの方向を向けば釘付けにされた景色は色褪せながらもそこにそのまま放置されている。誰かがしゃべっているが、それは現実の事なのだろうか? 音楽が舞っているが、聴き覚えのあるあの曲も真実味は全く無く、よく出来た張り子のようにしか思えない。 とりとめもない念いが暴走しそうになり、それを制止するのに全神経が捕らわられ、言葉を失った。 言葉なんかじゃ言い繕うコトの出来ぬ程、何か分からない実体の掴めないものがグツグツと煮えたぎっていた。猿芝居はお仕舞いだ。バランスを失いながら、這って自分のテントに戻り、寝袋に潜り込む。 そうして一種のパニック状態は収縮へと向かい、朝を迎える。陽が登れば、森も動き始め、色も戻ってくる。 2日目の記憶はほとんど無い。ある者は買い出しに出掛け、ある者はハンモッグで惰眠をむさぼり、ある者は火の番に時間を費やしていた。こんな贅沢な使い方はそうあるもんじゃない。 自分は湖の岸辺でなにするでもなく惚けていた。大きい湖は波さえもたてた。空は高く、雲もそれぞれにリズムを奏でている。岸に繋がれたままのボートを見つけ、それに乗り込み揺らいでいるうちに眠ってしまったようだ。本当に仲間以外の人間と会うことは無く、トンボばかりが煩く飛んでばかりだ。 買い出しに出掛けた車が、砂に足を取られ埋まってしまうというトラブルもあったが、そんなのも楽しい。 そんなうちに、すぐ夜はやって来た。第2幕の始まり。ワインボトルやビール缶がたくさん散らばり、火の勢いも増して、定番カレーを煮込む鍋は咆哮をあげた。昨日の晩の話で盛り上がり、待ち兼ねた夕飯の後には ゆっくりと闇が首をもたげ始めた。全員が焚き火を囲み、この日は風も強く星も月も隠れ、まさに我々のテント周辺以外は先も見えぬ闇であった。さらにBGMは、PHISHとDEADの濃厚スープだ。 火だけが頼り、それぞれの役回りも立場も焚き火のケムリと大差無い。言葉が頼りにはならない代物だと分かった時、誰もが黙して音楽や火に救いを求め、銅像のように凝固して動かなくなった。 それでもいたたまれなくなった者が用無しの言葉を発して、それを楯にしようとした。また、茶番だ。 炭になったまだ赤い閃光を放つ薪木を触りたい欲望に駆られた。それに湖へ出掛ければ、水に潜りたい気分になることは必至だった。話し続ける言葉が音楽の一部になってしまって耳障りだ。 意味を解せぬ笑いも恐ろしい。またその場から退散せざる得ない。寝袋の心地よさ、誰かの意を詮索すればそれに囚われ身動きできなくなり、自身の考えと相手への詮索が交差して新たな思考を捏造してしまう。 理性が吹き飛ぶことへの恐怖、他者と共有すべきものではなく、一人身悶えすべき議題、視覚も聴覚もアテにはならぬ、いや自分自身でさえ何かを欺いていた。テントは安全を保証してくれたようである。 実り多い旅だった。反芻によって難解だったパズルも少しづつ解けていくようだ。 そしてやはり事実は誰の目からも、事実として映っている事に安堵した。 安心は日常の生活の繰り返しから生まれてくるのだが、そいつこそただのまやかしに違いない。 きっと自分は隔絶してるんだ。装うことには長けているが、それはいくつかの仮面の一つに過ぎない。 それでも同じ列車に同乗してしまったのなら、何らかの役割を演じなければならず、それが社会生活なのだろう。いくつもの疑問を口に出してしまったら、忌み嫌われてしまうんだろう。だから、隔絶という言葉で以て くくってしまった方が、納得しやすいはずだ。
からくりの中で遊ぶことも出来ず、それを拒否することも出来ず、入れないし出れないことがジレンマとなり苦しくなってしまう。けれどもその苦しさも予定調和で、そこに帰結することを了解しているから、全く異世界ではなく、むしろ相変わらずの模様であった。読後感想文の如く、思考の断片は無数に散らばるが、まだこの場所から逃れられずにモタモタしている。
少し圧縮して、メモリ容量は多少増えたようだけど、これではすぐに根詰まり起こしちまうに違いない。
色んなことが分かってきたような気になっているが、所詮は処世術や社交に長けてきたに過ぎず。
答えは何処にあるのだろうか?キャンプは幾日かを費やさねば得られないものを、集約してくれる。
僕達に最低限必要なものを教えてくれる。いわゆる遊びに過ぎないのだけれども。