TRASH宇宙(13)の月23日【KIN 097】赤い律動の地球
G暦2005.07.19
蚊も生きていくために、人の血を吸う。 痒いなぁ。
昨日上京してきた母親と逢い、それから新宿まで「STAR WARS エピソード3/シスの復讐」を観にいった。 小学校4年生に観た「スターウォーズ」(77年製作、日本公開78年)後に「エピソード4 /A NEW HOPE」 となるシリーズ。「未知との遭遇」もこの年に観た。いずれも父親と映画館へ観に行った。 「さらば宇宙戦艦ヤマト」もこの年に公開された。インベーダーゲーム、YMO(イエロー・マジック・オーケストラ) この頃、僕の核ともいえる部分が形成されていった年だった。 アナキン・スカイウォーカーを主人公とした今回の三部作は、あまり僕にとってのめり込むようなシリーズでは無かった。もはやあの時のような情熱は無く、冷ややかに覗き込む程度でしかなかった。 けれども、アナキンがダース・ベイダーの仮面を装着する時、全身が震えて、涙が止まらなかった。 すごい物語である。そこから始まるルークとレーアの物語が、全部そこに内包され、因子が息づいていた。 親が子を産み、子がまた親になり子を産む。そこに連なる輪廻転生、因果律の物語。 自身にとっても、子供の頃に観た映画のスタートへと連なる今回のシリーズの結末は、長い時間をかけて巡った大きな環を閉じるようなものだった。 そうした意味でも、父と作った時間がこの映画とリンクしていて感懐深く、息子のワダチが産まれた99年7月「エピソード1/ファントムメナス」公開だったこととも、その共時性を考えてみると興味深い。
よく 「刹那」と使っているが、これは仏教で「一念」と訳するきわめて短い時間を示す単位である。 一弾指(指を弾く)の間に六十刹那があるとも、一分間の4,500分の1であるともいう。 この刹那にも、過去・現在・未来の三世があり、転々しつづくそうである。 どんなふうに時間を切り売りし、計測し区切ろうとも、淡々と、脈々と、刹那が積み重なって業を生産していくのが、僕らである。 因果応報のカルマ(業)が、そこに囚われ、エゴに振り回されている限り、刹那々と原因と結果が生み出されていく。洗濯をしたり、食器を洗ったり、掃除をしたり、お茶をすすりながら、談笑、談合、酒盛りの中、 せっせと拵え蓄えられていく。 それが不断(普段)であった。
ま、なんだかんだ云ったところでさ、大いなるものに弄ばれているよーな気がしないわけではない。
自然、地球、宇宙、、、マクロなものから、細胞、遺伝子、さらに素粒子、ミクロなものまで、色即是空、空即是色。
ただならぬ揺らぎに身を任せ、気にはならない、気にしない、今夜の月も綺麗だね、きっと。
止まりませんわ。
宇宙(13)の月09日【KIN 083】青い倍音の夜
G暦2005.07.05
青山圭秀著「アガスティアの葉」が面白かった。この本もさきの「植物の…」を貸してくれた友達が紹介してくれた。そういったタイミングで降りてくるのであるから、共時性は侮れない。 「アガスティアの葉」ていうのは約5000年ほど前に予言者によって書かれた個人についての予言書で、今でもインドの保管場所へ出向けば見つけられる人には見つけられるというもの。いわゆるアカシックレコードのような(またはユングの集合的無意識)予言者がそれを読めば過去・現在・未来(過去世、来世も含め)をひっぱってこられる記録媒体と同じものだと思う。つまりそこには、知る知らざるに関わらず、人はすでに最初から定められた運命によって決まってしまっているという法則があるというのだ。 前著「理性のゆらぎ」にはそこへ至るまでのサイババとの絡みが記述されていて、こちらも面白く読んだ。 ところで表層はあまり重要ではなかった。サイババの見せる奇蹟、物質化やアムリタ(神聖蜜)もそれはただ単に象徴的な現象に過ぎない。(ていってもスゲェ〜ことだけどさ)それでいってしまえばさきの予言書も、その個人の表層(或いはこの物質界のエゴ)をなぞっているだけに過ぎず、もっと奥にある霊性を司っているわけではない。その霊性(神と同一なもの)に於いては、完全な自由度があると言われる。 カルマの法則が通用するのは、この物質界に囚われてその本質を理解していない場合だけなのである。 だけどもちろんこの肉体が生きているのはこの世界であるわけだし、今生を、この刹那を真剣に生きていくことが大切なのだけど、それと同時に「こころ」の平安、もっと深い意識にも目を向けていかなけりゃならん、ていうかそこを目指していきたいな、とも考えさせられた本でした。
「肉体と精神の健康には、内面的、外面的ともに清らかであることが欠かせません。たいていの人々は、外見の清潔さを気にします。こころや知性は他人に見られるものではないと考え、内面的な清らかさを無視しています。しかし、肉体は五元素から成り立ち、いつかは灰になることを理解しなければなりません。重要なのは、たましいです。肉体はたましいの宿る場所であるとみなし、それにふさわしい手入れをしなければなりません。
もっとも優れたサーダナ(霊性修行)は、あなたが本の小包を受け取ったときに行うような行動をとることです。本を取り出すために、あなたは小包を梱包から解き、包装紙を捨てます。さて、もっとも深遠で、重要な祈りである「わたしは平安がほしい(I want peace)」を例に挙げてみましょう。「わたし(I)」(エゴ)と「ほしい(want)」(欲望)の包装を解き、シャンティ(平安)を手に入れます。あなたがエゴと欲望に支配されているとき、どうしてシャンティに到達できるでしょうか?ですから、外を覆っているものは取り除き、中に残っている本当に重要なものを手に入れなさい。
あなたは神の光輝にすぎず、周りにあるものすべても同じ神性原理のきらめきであるとわかるとき、あなたはすべてに尊敬を込め、本当の愛をもってみることができるでしょう。つまり、あなたのこころは至高の悦びで満たされ、エゴの影響は無力となります。ひとは人里はなれた場所に喜びや、静かなただ住まいに安らぎを見出だそうとしますが、しかし喜びの泉は自分のハートのなかに、安らぎの天国は自分自身のなかにあるのです。たとえひとが月の上を歩いたとしても、恐れ、不安、偏見、嫌悪感などをともに連れて行くことになります。神と道徳的な生き方に信頼をおきなさい。そうすれば、運命が如何なるものとなろうとも平安と喜びをもつことができるのです。
あらゆるものに神が内在することを信じなさい。真・善・美が拡がるような言葉をなげかけなさい。すべての幸せと繁栄を促進するような行動をとりなさい。全世界が平安を味わえるよう祈りなさい。自身の小さな器に収まらないように、あなた自身を拡大させなさい。普遍の愛、揺るぎない平安、そして、とどまることのない美徳へと拡大していくのです。これが、あなたの内に潜む神性を、最大限に引き出す道なのです。
この世界で価値あるものが私達の見解、教育、学識、ではなく、私達の態度、振舞いは霊的な価値に基づきます。態度や振舞いは、私達が努力した結果を決定します。私達の態度は、高貴で高い理想に基づかなければなりません。私たちは狭くてちっぽけなもの全てを捨てて、見解を広げるべきなのです。真の教育とは愛であり、愛、以外ではないのです。愛なしでは、人生は生きるに値しません。」
Sathya Sai Baba
インドに呼ばれる時はやってくるのだろふか???
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