ワッシャー TRASH
赤い惑星の月の年(YEAR OF THE RED PLANETARY MOON)



自己存在の月(Self-Existing Moon)
「Never Mind」
「均衡」
「事の次第」
「風」
「剥離」



「Never Mind」

自己存在(4)の月28日【KIN 160】黄色い自己存在の太陽
G暦2002.11.14


自己存在の月、最後の日、亀の日。息子がおたふく風邪になったので、午前中はその世話をしてる。 おたふくて、お多福とも云うから縁起がいいかも知れない。それであまり睡眠を取っていないから、変な 時間にナチュラルハイに突入してしまい、変な時間にダウナーにハマってしまう。 数日前、PC画面に向かっていたら、グニョ〜ンと彩気デリックに画面が歪んで、焦点がどうやっても合わずで、狼狽えてしまった。絶えず供給される電磁波、もし自分の視力が奪われてしまったら、そんな妙な恐怖に 襲われて、保険というものはそんな時のために役立つんだろうな、と一般ピ〜プルみたく考えた。 ああ老少不定。結婚も、保険も、借財も、税金も、家庭も、死も、全部無縁のものだと思っていたのに、あれやこれやという間に巣食っていやがる。やだやだ油断も隙もあったもんじゃない。

昨日「NO FUTURE」というSex Pistolsの伝記映画を観る。おお「R&R スウィンドル」のジュリアン・テンプル監督じゃないか。高一の夏休みに1ヶ月、ロンドンに行った時に出逢ったのが初めてだった。 いくらでも陳腐な言い方はできるけど、それで人生は変わった。 高校を中退してお金をためて、19才の時にまたロンドンへ舞い戻ったが、もちろんパンクなんてのはそこには跡形も無く、形骸化されたものの破片が散らばっていただけ。 今回のこの映画には本当のものがあった。マルコムの映画は作品として完成されているかも知れないけれど、 偶像だと思った。一生懸命、彼等を真似しようとしていた自身の十代が、いと可笑しくさせる。 ジョニー・ロットンはあの当時怒っていたが、それは今でも変わらず、もう少し周到にやっている。 そしてピストルズをバンドとして見ることができたのが嬉しい。いいバンドじゃないか。 様々な歴史の罠が彼等を陥れようとし、それを懸命にはね除けようとした。 フラワームーヴメントの時のようにパンクも罠にはまったのだ。最初の初期衝動が、ブームによって薄められ て、欲に群がる輩、模造品、粗悪品、野次馬。音楽や愛は、金に還元される。しかも無関係な者達によって。 シド・ヴィシャスを見ていると胸がムカつく。カート・コバーンと同じじゃないか。公開処刑だ。 なぜあんなにも辱められなければならないのか?これは戦争と同じで、最前線で死と隣り合わせの兵隊と、 指令室で駒を動かしてゲームに興じる奴ら。これが資本主義。 慈善無料コンサートで、子供達にケーキを配り、はしゃぐ彼等の姿は良かった。 それとピストルズが最初に演奏した時からの数カ月間、それぞれが同じ空気を共有し、自身の思い通りのスタイルで集まって、新しい何か分からないものが産まれ落ちる瞬間。そこまでだ。 後はただ無関係の群集に土足で踏みにじられ陵辱されるだけ。 本当にパンクでオリジナルだったのは、ピストルズだけだ。 日本版DVDには、ジョン・ライドンの特別インタビューが収録されている。 彼があんなに素直に率直にインタビュアーに語っているのも珍しいが、ものすごく理解できた。 入れ物は無意味だ。酒も薬も音楽も、付け加えて、金もカレンダーも、それをコントロールする術が無ければ 扱うべきではない。全ては道具でしかない。自身が生きていくための装飾でしかない、と。

もうそれはそこにはない。 自分自身のための創作をするべきなのだ。模写が必要な時期はあるのかも知れないが、そこで覚えた感覚を使って、自身の画を描くべきなのだ。それが、パンクだったんだ。 信頼できるもののために、自分のやり方と信念で、それに生きよう、と思いました。 人生にできる時間はあまりにも少ない。



「均衡」

自己存在(4)の月25日【KIN 157】赤い磁気の地球
G暦2002.11.11


いきがって、虚勢を張り、何にでも反抗していた頃を考えると、それはそれでいい時期だったけれど、情けなく甘えていたような気もしてくる。 もうそろそろ怒れなくなってきている。何処も彼処も繋がっていて、無関係ではいられないからだ。 どんな世界に住んでいたとしても、その責任の一端は自身が担っているからだ。 素知らぬ顔して責任転嫁するのもいいが、リンクを辿ってみれば、結局、自分のページに行き着いてしまう。 つまり何かに不満があり、それを変えたいと考えるのならば、自分自身を変える事が世界を変えるということと同じわけだ。外部にアピールするということは、自身に自信が無いから、同意を求めている。 逆にそれが敵意でも質問でも、それは同じことで、反応(鏡)を他者に求めている。 幼児の頃は殊更に、否定しか口に出さない。「いやだ」しか言わない。肯定を強調する必要がないからだ。 自分の思う通りに世界が動いていくのが当然と考えているのだから、肯定の意志を相手に伝える必要性が無い。暫くすると小狡くなって、相手を喜ばせる術も学ぶ。また、反抗期が訪れる。 ま、はっきり云ってしまえば、この世は、矛盾と混沌で溢れ返っている。 個人の勝手な思い込みだけで成立するはずもなく、またその思い込みが人の数だけあるのだから、一方向だけあったら傾いてしまう。それを、どう勘違いしたのだか、絶対に正しいと思い込む思春期の一途さからか、 はたまた純真さからか、社会や大人、相容れない世界と対峙し、それを仮想敵として「悪」にしてしまう。 ということは、あんたは「善」か?その二律背反、短絡思考で終われば幸せなのだが(因みに自分のPUNKと いうものはここ止まり)次に進むのは自己矛盾。自己逃避というのもある。ただ結局は、最後まで自己批判など出来るはずもなく、都合の良い地点で妥協するしかない。 徹底的にやるとなると、自身を破壊する他なくなってしまうからだ。 またただ闇雲に暴れ回る(まるで欲しいものが手に入らない幼児のように)という手もある。 PUNKはまさにその焼却されないエネルギーを、ただただ発散し、くたくたになるまで踊り続ける。 グランジは突け放す諦めの境地。というのも、パンクから始まり、ニューウェーヴやらテクノやらヘヴィメタルやら、商業大量消費音楽やらで、クソミソにかき回されたオルタナティックな後に生まれた音楽だから。 矛盾や欺瞞は、相対する地点から眺めれば、なるほどその通りだが、また見方を変えてみれば協力や援助、 騙す側もあれば騙される側もあり、一概にその言葉で以て括ることが出来ない。 「善と悪」で思考すると失敗する。「好み」は個性になれる。 何が大切なのか、何が本当なのか、見極められるだけの視野、そしてネイティヴな人達のいうバランス感覚、 第3の目が必要じゃないのだろうか。 と、ここまで行き着くための行程。でもまだ何処にも行っていない。 好き勝手にやれる自由意志の余地が、まだまだたくさん残されている世界。 気持ちは何にでも形を変えて、どんなにも大きくなれて、どんなにも早く、誰かに渡る。

まあそんな風に、今月はいろいろ考えたのですが、絶えずつきまとっていたのは、「金」の事でした。 どうしたってそれが無ければ生活出来ないようなシステムとなっている。 そいつに阻まれ、妥協を強いられ、壁を拵えなければならないことになる。 金に時間は牛耳られたままだ。なんてね、要は気持ち次第だけど。 「Time is Money」ではなくて「Time is Art」でいきたいものです。PEACE!



「事の次第」

自己存在(4)の月22日【KIN 154】白いスペクトルの魔法使い
G暦2002.11.08


手をつけないで放ったらかしにしておくと、うまい具合にいく場合がある。 あまりに気を入れ過ぎると、そこが磨耗してしまうのか、頑張り過ぎてヘマをやらかすのか、神経が拡散して しまうのか、よく分からないがそのようである。 小さい時から、お調子に乗り過ぎて失敗をやらかした事が多々あった。 家族旅行、大はりきりして旅館の室内を転げ回り、壁にキックしたら、大穴が空いてしまったり。(親が弁償した、台無し)学校の校庭、女の子にチヤホヤされて何を思ったか、拾った鉄の棒(なぜそんなのが落ちていたのか?)を後側へ放り投げたら、ちょうど其処に居た男の子の脳天を直撃し、額が2倍に腫れ病院送りにしたり。(その後、学級裁判でこてんぱんに自己総括する羽目になった)女の子のスカートをめくろうとして、 教室内を追い掛けまわして、ひっくり返って机の角に顎を痛打し、ザックリと割れて、自分自身が病院送りになったり。(でも通院で早引きできて嬉しかった。そこの病院の待ち合い室には「ブラックジャック」と「ゲゲゲの鬼太郎」があって読破) もっと古い頃など、目先以外、何も見えていなかった。小学校1年生、隊列を組んで学校へ通うのだけど、 いつも近所の別の隊列と諍いが起こり、なぜか先陣を切って敵陣へ突っ込んでいくのが役目になっていた。 それはそれで怖いもの知らずだったわけだが、小学6年生ぐらいの時に、昔仲良かった友達に馴れ馴れしく声を掛けたら、彼は不良というものになっていたらしく、胸ぐら掴まれて脅され、それ以来、そういった怖いものを知るようになったようだ。 話の論点が、どんどんずれていく。そう、問題点は目先の事しか見えていないことだ。 反射的に飛びついてヘマをやらかす。罠に仕掛けられた餌に喰いついて拿捕される。 情けないことだが、ならば見て見ぬ振りをして、忘れた頃に手をつければいいのだ、という発想になったのだろう。ゆっくり、一呼吸措いて、そうして辺りを綿密に見渡し、そろそろと近付いていくっていう寸法だ。 ところで、自分の息子を見ていると、あまりにも性急に手をつけようとするので心配になってくる。 (欲しいものがあると焦りのためか、それを手に取る時間さえ惜しいか、貪りつく。) ああ、血は争えないものだと思う次第。

ま、餓鬼はどうでもいいんだけどね。(酔っ払った後、記述)酒の所為にするのはどうかと思われるけれど、 なんの反復も思慮も持っていない悪鬼は、始末が悪い。罪の意識が無ければ、何をしてもいいことになるのだから。意識的な悪は許せるが、無意識の殴打、これは手に負えない。

こうやってあることないこと、身勝手に、はたまた無防備に、時間軸を無視して、お話しをするのは楽しい。 勝手に何かが触発されて、また何かが起動して、思いもよらぬ彼岸へと辿り着く。 これが個性だ。誰も同じ途を歩くことはない。独立独歩だ。人の素晴らしさだ。 同じ色で塗りたくられた退屈さ。僕と君の見ている色は、懸け離れているんだ。 けれども、そのお互いの色を尊重し合えたら、少しだけ分かってあげられたら、どちらの色も輝く。 独りじゃ見られない美しさとかを、知ることが出来るかも知れない。 誰も自分の色を、その目で見ることはできないんだ。なんてね。鳥渡、辟易してるんだけど。 思いつくままに喋り続けろ、思いつくままに動き続けろ、とは江戸アケミの言葉。 すべてが、すべてを、断定してしまったら、すべてが、同じ色になってしまう。(かなり陳腐だけど) 肯定、否定は、善と悪と変わらない。世界は2極じゃない。 ああ、だいぶ酔っ払ってきました。何かを言葉なんかで括る前に、ダイヴだ。 見る前に跳べ、だ。



「風」

自己存在(4)の月17日【KIN 149】赤い律動の月
G暦2002.11.03


その人たちに生命をあたえたものは 風
今私たちの口をついて出てくるものも 風
風がくれた 生命
風が止む時 私たちは死ぬ
今でも指の皮の下に 風の道が見える
私たちの祖先が 創られた時
風がどこに吹いていたかを
それはいつでも教えてくれる -ナバホ族に伝わる古い祈りの歌

北山耕平著「ネイティブ・マインド」に載っていた詩です。この本は、彼とローリング・サンダーとの出逢い。インディアンの伝承、スピリチュアルな考え方、最後の章には「ヴィジョン・クエスト」の方法などが 書かれている。海を隔てた、ぼくらと同じモンゴロイドの血を持つ兄弟たちの本です。

風は凪いでいる。たまにこんなのがやって来る。 何もする気が起きないのです。無感動、鉄面皮、もそもそと起きてみては辺りを見回し巣に戻る。 これを数十回と繰り返し、それで陽が暮れる。バランスではある。上がれば下がらなければならない。 誰もこの法則を無視して、片方に留まっていることは出来ない。一気に駆け上がったのなら、一気に下降することは必至。中間地点でバランスを取っているのが日常生活というものなのだろう。

ポール・オースター「孤独の発明」を読み直している。この人の、言葉の紡ぎ方は凄い。

「ドラゴンボール」を全巻借りて、3日間掛けて読破した。この中の世界観も凄いものがある。 連載を楽しみにしていた時期を思い出す。創造的な時間だった。「つづく」といった翌週までの想像。 同時にアニメでは、すでにマンガで知っている物語をなぞっていた。天下一武道会からピッコロ大魔王までの 山場、それからサイヤ人の話、ベジータの登場、続いてナメック星のフリーザとの攻防で最高潮を迎える。 その後、人造人間とセル、魔人ブーの辺りはもういいじゃんて感じだったけど。 マンガの中のキャラクターが成長していくのも面白かった。亀仙人の修行から、カリン塔、さらに神様、界王様、界王神と、その力の圧倒的なスピード感は凄かった。あれはロールプレイングだったな。 ダービースタリオンでもある。技、体力、血統、、、カードをたくさん握った者の勝ち。 あの手から気を出す(かめはめ波)、という発想は、どこからやって来たんだろう? 大友克洋のマンガ?ファミコン??ああいった同時多発的に同じような発想がひしめき合い、それもフラクタルということになるんだろう。

言葉がやって来ない。ここまで書くのに数日間を要している。 冬がゆっくりと近付いてくる。何も不満はない。だから何も出てこないんだろう。 いつか風は吹くだろう。



「剥離」

自己存在(4)の月04日【KIN 136】黄色い律動の戦士
G暦2002.10.21


統合の後には、拡散がやってくる、というのは道理だ。 くっついたものは、やがて離れ、そしてまたくっつく。接着された部分から離れるのではなく、また別の部分 からの剥離が起こる。不連続方程式、マンデルブロのフラクタル(非整数値の次元を許容する方程式)だ。 手を繋いだり、放したりして、ぼくらは歩いていく。ぼくは、ただ好きな子の手を握りたいだけ。 ともかく、形は絶えず姿を変える。一瞬たりとも、同じ姿勢のままに居ることはなく、ある秩序のもとに 変形を繰り返す。目的があるといえば、その変形そのものが目的であり、それに意味付けをする必要がないの ならば、ただそうやって在るというだけに過ぎない。前回の例をとるならば、レコード屋という形態から呑み屋へと目的を変え、統合を果たした後、剥離は起こる。お酒を飲む場所という目的が優先され、レコードは ただの装飾に過ぎなくなり、今まで自己主張していた商品が隅へ追いやられ、お客さんの席を確保したり、 そのための新たな道具などが導入されたりして、とりあえずは体裁を整えていく。 が、型に収まったかに見えたそれらの共謀が始まるのは、時間の問題であった。 一旦、統合されたはずのものが、また行方知れずになり、また圧倒的数に増え、その存在をアピールして止まなくなることは必至なのだ。続けていく限り、この不毛の作業が止まることはない。 秋の季節、春から夏へと栄華を誇った木々も黄色く草臥れ、枯葉をまき散らし、土をアスファルトで埋めた都市を汚す。地面に戻れない黄色い葉の掃除に明け暮れる人々。また春になれば新たな枯葉を生むべく、量産される新芽、その循環を停止するためには、掃除を止めるか、その木を切り倒してしまう他ないのだから。 後の祭りには毛も生えない、と。

ぼくらは、地球圏を唯一、離れることができる生物だ。こないだテレビで仕入れた話。 地球の安全な圏内から、外宇宙へ出ていこうという考えを持った生物は、いまだ知りうる限り人類だけだ。 そのための進化であるともいえる。人類が宇宙へ出るためには、この生存出来る環境を維持したまま外へ 出なければならない。それには、植物から動物、鉱石、空気、果ては細菌まで、地球上で生まれた あらゆる 別種を引き連れていかなければならない。逆にいえば、それら別種が外へ出るためには、人類に寄生しなければ自力で外へ出ることは出来ないのだ。ゆっくり時間をかけて、身体の形態を変えたり、環境に従順になって生き残ってきたたくさんの生物たち。人間は、思考の進化を遂げていったが、身体的機能はあまり変化をしていない。楽観的に考えてみれば、地球から離れることが出来ないものの総意が、唯一宇宙へ行く可能性のある人類を選んだのかも知れない。 というような話だった。自然は、混沌を望んでいるのだろうか? 今の、このバランスが崩れた時、全ての生命体に劇的な変化をもたらす事は必至である。 皆が繋がっているからこそ、環境も大きな歪みを生むことはないが、これが微妙に、皆が少しづつ、良くない 方向へ動いたとしたら、その手を放したとしたら、すぐに転覆するような危うい世界だと思う。 てなわけで、今日もまた、良い夢を見て楽しく生きていくしかない。 好きな子の手を握ることとか考えて。


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