TRASH銀河(8)の月25日【KIN 009】赤い太陽の月
G暦2003.03.03
いいだろう。こうなってしまうと、もう何の制約も受けない。足枷はなんにもない。 制限があるとすれば、自身の許容する範囲を越えないこと、と云っても、越えたとしてもそれは溢れ落ちてしまうので、本人に自覚は無い。 入ってくるに任せて、出入口を解放してやる。感情は反応。正しい時に、正しい場所で、正しく反応する。 それをさえ信じてしまえば、後は放っておいても勝手に良い方向へ転がっていくだけだ。 というような法則は、果して成立するのだろうか?考えても始まらない事だらけ。
こうして物語は、突然、妙な具合になっていく。照明が少しばかり落とされる。 主役は不在、脇役はこれを見ている読者である。書き手は、何の処方も無いし、作法も知らない。 舞台は手間を惜しむためか、何も物らしき物も無く、塵ひとつなく、ただだだっ広く、色さえ見当たらない。 劇中劇に持ち込もうか、陳腐だ、現実を模写してもつまらない、揶揄しようか、心理劇、倒錯、登場人物さえ いないではないか、罵声、ならばオマエがやれ、遁走、馬脚を現わす、たたまれる脚本、放り去られる展開、 物語は何も起こらず、始まらず終わらず、時間の無駄、暗転。
日記なるものを中学生の頃からつけていた。20年分の集積である。
PCに移行した96年頃に、紙の上から電気へと姿を変えたわけだが、膨大な量である。
ちょっと気になることがあって、10数年前の頁をめくってみたのだが、なかなかの赤面、噴飯もんであった。お見せできないのが残念であるが、誰に見せるわけでもなく純粋に制作されたそれらの物語には、
限り無く透明度の高い文節が連なっていた。率直に、素直に、また悪びれずに書いている。
そこに、本当に現実社会を歩いてきた自分と、同軸に、並行して連なっていく、もう一つの物語があった。
互いに影響を与えながら、一方は現実と密接に繋がり、もう一方はその世界を模写しつつ、精神をも表現しようと未熟ながら稚拙ながら、書き綴っていた。
ポール・オースター「ミスターヴァーティゴ」は、空飛ぶ少年の物語だが、彼の本を読みながら自分自身の
その頃と重ね合わせたりしてしまった。平凡だったのだろうが、その時々には、なにしろ凄い事をやっているんだ、という気持ちがあった。空は飛べなかった、けれども、負けん気だけは強かった。
そいつを創造してしまうオースターていう作家は凄い。そして匂いが好きだ。
色々考えてみて、考えても仕方が無い領域を知り、それでも考えられる範囲を広げようと、もがいて足掻く。
見えているものを描写できない。言葉を選べない、それに似合うものがこの世界にない。
ありったけの知識と感覚を総動員しても、残念ながら今の自分では役不足であった。
あるよ、あるよ、点が線を知覚できないような、線が体を意識できないような、僕らに届かない世界が。
何かが足りないんだ。いつか、そいつを暴いて、お見せできれば、形而下へ引っ張り下ろせれば、
それだけで自分の役目を全うしたような気になれるようです。
次は、太陽(9)の月。Inlak'ech!
銀河(8)の月18日【KIN 002】白い月の風
G暦2003.02.24
ところで、最近、何にも身が入らない自分が居る。言語化できない領域、については、自身の不徳であるが、 来るもの去るもの問わず、まるで不明瞭に、肯定も否定も出来ずに、納得してしまう傾向にあるのである。 許してしまう、或いは、受け入れてしまう、と言ってしまうと聞こえはいいのだけど、どうもそんな高尚な考えではないようだ。面倒臭い、放棄、それに少し近いが、それほど刹那的であるかどうか、判らない。 自己喪失、この感覚はだいぶ近いような気がする。何処の場所(それは現実の場所でもあり、実際には存在しない場所でもある)に居たとしても、其処が何処だろうと、しっくりこないような、だけれども所詮それだけのことでしかないのだから、其処に腰を落ち着かせてしまえ、といったような、自分の中に場所が顕われるのではなく、場所の方へ自分が出向いているような、それでその事に満足も不満足もないのだ。 空虚、であるかも知れない。追いもしなければ、追われもせず、ただ醒めながら何も出来ずに其処に居る。 其処から、何も持ち帰れず、苛立ちながら、うろうろしてるばかりである。さて、どうしたものか。
無駄なことなど何一つ無い。徒労に終わろうが、疲労困憊しようが、形態形成場へと僕らの思考は運ばれて行き、誰かの役に立つだろう。言語化されなかったもの、表現が未遂で終わったもの、そんな五里霧中なものも、何らかの解釈を与えられ、其処へと辿り着くことが出来るのか、甚だ心配である。 僕の旅はいつも、標(しるし)を付けずに、滅多矢鱈に歩き回り、帰り道が分からなくなり、それで不安になり、汗だくになって戻ろうと泣きべそ、という姿に最も近い。 始めて月面に降り立つ者みたいに、地に足跡をつけたくて、気ばかり焦っているようだ。 慎重に、しるしを付けていけば、また次回に其処へ行けるだろうし、帰り道が見つからず焦ることもない。 まだまだ、旅行下手なのである。
扉の奥は、また扉。了解した途端に、それは薄っぺらなものに成り下がって、新たな路を模索する。
また、それはそのままで良いと感じた時は放っておくのがいい。無理にこじ開ける事もない。
反対に物凄く興味を感じたのならば、それは真に意味があるものに違いないから、納得するまで観察してやろう。頭のゲーム。始めるのも終えるのも、考え方次第。
最後に「IK(白い風)」の象徴は、螺旋のつむじ風、である。性質は、風、インスピレーション、存在、真実、現実を共につくる人、シンプルさ、二極性の統合。
また影の叡智は、あなたが宇宙や霊魂との繋がりを信じていないという分離の問題。
インスピレーションを得たら行動に移すことが要求されている。
そう、頭で考えても、それだけでは何の意味も無い。動くことが、存在理由であり、正に動機なのである。
銀河(8)の月12日【KIN 256】黄色い太陽の戦士
G暦2003.02.18
江戸アケミの「いったいどうしたことだ。入口と出口が一緒だなんて。」という詩と、早川義夫の「ラヴジェネレーション」の詩。
ラヴジェネレーション 僕らはなにかを しはじめようと 生きてるふりをしたくないために 時には死んだふりをしてみせる 時には死んだふりをしてみせるのだ しようと思えば 空だって飛べる そう思える時 嬉しさのあまり 泣きながら飲めない酒を交わす 泣きながら飲めない酒を交わすのだ 信じたいために 親も恋人をも すべてあらゆる大きなものを疑うのだ 大人ってのは もっと素敵なんだ 子供のなかに 大人は生きているんだ 実はひとりになりたいゆえに バカみたいに たくさんの人と話すのだ 僕らの言葉の奥には愛が 僕らの言葉の奥には愛がいっぱいある (C)早川義夫
ジャックスは、当時(といっても80年後半辺り)自分が好きだった子がよく聴いていた。 切っ掛けはそんなもんだ。自分は、本当なもの(自分にとって)しか聴かない。 早川義夫は本当の事しか言っていなかった。例えば「左の左は右です」といった彼の言葉。
こうして、昨日、ジェリー・ガルシアの誕生キン"青い銀河の鷲"に、みんなで集まった。 銀河の月に、銀河の音を持った日(それは亀の日と呼ばれる)、そして満月、ジェリーの誕生キンの日。 ジェリーについては、もう、肉親以上の存在で、すべての信頼を彼に寄せ、明け渡している。 それ以外に言葉は持ち得ない。
そこで了解したこと。僕らは、いつも何かの役割を演じている。演技といってしまうと語弊があるやも知れないが、とにかくその役割が本物であろうが偽物であろうが、成りきって、その役に徹しているように思える。 自分の両親に、自分は子供の役割を演じ、自分の子供には、父親のように演じる。 これは既成事実があろうがなかろうが、与えられた役割なのである。例えば、産みの親と育ての親が別だった場合、どちらをも親として認知し、子供としての役割を全うするだろう。 また、子宝に恵まれず、養子を貰ったとした場合、やはりその子供の親として振舞うのであろう。 ただの裸の猿が、社会性を会得した時、その役割の枠組みへ、知ろうが知るまいが自身をはめ込むのである。 友達、仕事、仲間、どんな場面でも、どんな場所でも、何かしらの仮面をつけてそれに成りすます。 そしてその役にのめり込めばのめり込むほど、信じれば信じるほど、その人間はその役を寸分変わらぬぐらいに正確に演じきっている事になる。 僕は、こうこうこうゆう性格で、こんな癖があり、あいつがこう言ったらああ言ってやろう、そうしたらこうしてやろう、そうやって習慣的な日常の中、同じように振舞えば振舞うほど、どんどんその自分が、この自分に近付いていく。 最初は何者でもなかったものが、何者かの役割を信じ込み、それを駆使して、それ以外の何者でもないとアピールする。何度も言うが、それを仮の姿と思おうが、真の姿と思おうが、どちらでも結構。 そこに気付こうが気付くまいが、どちらにしろたいした意味はそこにはないからだ。どっちだっていい。 ただ、そういった概念が、突然、それも不意打ちに近く、自分自身を襲ったとしたらどうだろう。 そこに一緒に居た友達は、確かに、友達として時間を過ごした時もあったし、一緒に酒を飲んだり、色々な話をしたり、苦渋を越えたりもしたはずだ。しかし、それが今、一瞬にして、消失してしまうのだ。 白紙。僕は誰でもない。あなたも誰でもない。だけれど、そういったルール、そういったシナリオ、そういった役割を与えられているのだから、その通り、演技しなければならない。 空々しいなどと思ったり、投げ出したり、少しでも脚本に無い行動をしたり、そんなことをしたら、この場所で自分は、何者でも無くなってしまい、永遠に発展性を禁じられて、この世界から除外されてしまう。 そういったステージ。舞台が、どんどんと進行していく。空間が折りたたまれる。 まさに、折りたたまれる、といった表現が適切。人も、音楽も、空気も、声も、自身の吐息も、鼓動も、壁も、それどころか、自分が目で見えている全てのものから、心の中にわだかまっている沈澱した気持ちさえも、同じようにパタンと折りたたまれてしまう。 のっぺらとしたポスターな感じだった。そのポスターも、するすると丸く仕舞われてしまう。 そしてまた展開して、ひとつの事象が過ぎ去ると、丸め込まれて。 気が狂う。そう、きっとそれが続いた場合、人は狂ってしまうだろう。本物と偽物の境が無い。 自然が吐瀉したものに、なんとか手を掛けて、祈るようにすがって、離れまいとしがみつく。 容赦のない突風。吹き飛ばされそうになるのに堪えて、目をつむれば、心が折りたたまれる。 救いが何処にもない。無重力。3次元から、2次元へ、遂には1次元へ。線はのびていくことができるが、 点は、のびようがない。しかし点は爆発する。という早川義夫の言葉。 僕らは、なんという過酷で、冷酷で、残忍な世界に住んでいるのだろうか。 死んだ方がマシだ。そうしたらすぐにも死は訪れた。静寂、モノクロ、きっと空気さえ、無い、真空。 ピタッと嵐は止む。無感動、鉱物の世界、能面、月の地表。 出鱈目だ。まるでなっちゃいない。砂漠、ピラミッドの神殿、冷たい地表、偉大なる死。 ジェリーの声が聞こえる。蛇のような低温な血が、最初はどろりと、そしてゆっくりと、流れ始めると、 いつの間にやらそれは物凄いスピードで、滝壷に落ちるような勢いで、氷山が溶けるように、ダムの決壊、 轟音と共に、体内を巡る。「Brakedown Palace」が聞こえてくる。蘇生だ。
Brakedown Palace (朽ち果てた宮殿) お別れなんだ 愛しの人よ お別れなんだ たったひとりの人よ さっきまで歌っていた鳥たちも 君一人を残して 飛び立ってしまったね この朽ち果てた宮殿も そのままにしていこう この2本の腕と2本の足で 僕は進んでいくよ 水辺に一人分の寝床をこしらえて 僕の時間の中で 僕の時間の中で 進んでいこう ベッドの中で 水辺のベッドの中で 僕は頭を横たえて 川の歌う甘い歌を聴いていよう そして 僕の魂を振るわせよう 川が僕を連れ去ってくれるだろう 甘く眠たげな歌を聴かせてくれながら 甘く眠たげな歌を聴かせてくれながら 遥かな道のりで 我が家へと帰っていく それはずっと昔の子守歌 何年も歌い継がれた曲のよう ママ ママ いろんな世界を見てきたよ 初めて家を出たあの日から 家へと帰る 家へと帰る 水辺で 僕は骨を休めるだろう 川の歌う甘い歌を聴いていよう そして 僕の魂を振るわせよう 泣き柳を植えにいこう 土手の緑茂るあたりなら きっと育って育って育つことだろう 川の側で子守歌も歌うだろう 恋人たちがやって来ては去り 川は流れて流れて流れるだろう お別れなんだ お別れなんだよ 言葉に出来る以上に 愛しているよ 川の歌う甘い歌を聴いていよう そして 僕の魂を振るわせよう (C)Grateful Dead http://homepage2.nifty.com/asaden/HTML/OSINDX.html
この世界は、とても美しい。狂気に追い込まれる前に、愛してやろう。
自分に出来る精一杯の感謝の気持ちで。
この旅は、また出口であり、入口でもある。途中でもある。始まりも終わりもそこにはない。
そしてそこに、ジェリーは居た。ありがとう。
銀河(8)の月10日【KIN 254】白い共振の魔法使い
G暦2003.02.16
調和、は、ハーモニー(Harmony) この釣り合い、バランス、それも自身にとっての鍵であろう。 ローリングサンダーのいうグレイトスピリットの力。社会に開かれていくための鍵だ。 自然に逆らって、性急に、ことを進めてしまう時がある。自分の理想、そんなものに鼓舞されている時だ。 その時点での理想には根っこがなく、後先考えず、ぽっと湧いた考えばかりに執着して、強引に推進しようとする。良かれ、と思っているのだから、なお始末が悪い。 急激に片方に傾いてしまったら、不均等になり、それが歪みを生み出すという当然の経緯にも気付かず、 その先にあるらしき姿しか見えていない。それは偽善的だし、正しくはない。 「スピード、さらにスピード、もっとゆっくり走れ」という江戸さんの詩。それと、いい道草がしたい。
自分自身がやらなければならないことは、まず、自分自身の調和を考えることだ。
そうして始めて、社会の事が考えられる。社会の暗いところと、僕の暗いところは、フラクタルに繋がっている。同じといってしまっても過言ではない。同じように、楽観的なところ、もある。
僕は僕のために、僕は僕のためだけに、生きていくことが、この世界とつながる。
僕が消えてしまえば、この世界は僕の前から消え、世界は僕が居なくても動いていくが、その世界との絆は、
今ここで生きているという実感に他ならない。
立脚している地点は、ここだ。今、だ。この瞬間だ。刹那だ。すべては、ここから始まる。
銀河(8)の月09日【KIN 253】赤い律動の空歩く者
G暦2003.02.15
「人は人に影響を与えることもできず、また、人から影響を受けることもできない。」 もの思ふ葦/太宰治
「黙して語らず」これを厳守したいと思っていた。相手に情報を渡さなければ、揚足を取られる事もないのである。そして、寡黙な人を前にすると、人は自分自身の情報を開示してでも、その人の口を割らせたくなるらしい。これは、便利だ。
なんと云うのだろう、立脚点がまるでわからない。散文形式は、思い付いた事を、ただぶっきらぼうに書き殴る事ができるので重宝しているが、それはかなり不親切な文体である。 ただ一方的にまくしたてているかのような不安もある。かといって、説明の注釈の説明みたいな事をしていると焦点がぼやけてしまう。いや、元々、ぼやけようが、ぼやけまいが、脱輪脱線に変わりなき悪文に活路は無いに違いないが、それでも、説明をやっているうちに書きたかった事が自分自身にも分からなくなってしまうのは困りもんであった。云いたい事に、釘を打っておけない質である。 油絵は描けぬ。手間が掛かり過ぎる。乾くのを待ってから、新たな色を塗るなんて、性急な自分には無理だ。 漫画も映画も作れない。音楽も、料理も駄目なようだ。会話も要領を得ない。突拍子もない。 だけど、その云いたい事というやつが正体不明で、手探り、闇雲に、手繰り寄せていくことに没入している事 それ自体が好きなのであった。そんな訳も分からぬ状況から拾った発見、その偶発性、そこに価値を見い出す。言葉は、まどろっこしい伝達手段であるかも知れないが、それを駆使して、相手の共感を得た時、または 共振した時、物凄い明快さでもって繋がった感覚を得ることができる。 方法はいくらでもあるような気もする。血管に注射針を突っ込まなくてもいいんだ。
答は最初からある、というのもその答であり、答は元より無い、というのもその答である。
すべては虚しい、と二日酔いの時に思い、虚脱感のまま生活に従事した。 ネガティヴに生活を遣り過ごそうが、ポジティヴにやろうが、虚無主義者にとっては、ただそれだけのことである。どうにも変わらない世界が、ただ横臥して、放屁してるだけだ。 成る程、そうゆう訳なのである。ビートルズを聴いて、ああビートルズだね、と云い、戦争が起こり、ああ 戦争だね、と云い、ゴッホの絵を見ては、ああゴッホだね、と云う。 無味乾燥。蒙昧愚者。ただ死ぬまで生きて、生きてるから死ぬだけ。そんな人間は腐るほど居る。
毒気を殺していく。 積極的に動き回るとこう云われる「調子に乗るな」、下を向いて歩いていると「いい気になるな」 どちらにしろ蔑すまされるなら、歩調を合わせてやる必要もないだろう。 毒気を飼い馴らす。毒も薬だ。
些か疲れてきた。「探し物はなんですか、それは見つけにくいものですか」という井上陽水の歌。 水到りて渠成る。暖かい陽射しへ、陽射しへと、触手を伸ばす。植物は、絶対的に正しい。 自然の経路。コンクリートで固められた都市。着地点を見失った杉花粉。害をつけるな。キチガイも然り。 言葉は言葉を選び、言葉が言葉を差別し蔑む。言葉狩り。言葉尻。言葉の共食い。言葉の相乗効果。 形態形成場に貯蔵される言葉たち。「どうでもいいや」という言葉は、人を不快にさせるらしい。 どうでもいいことなのに。価値観の相違、見解の相違、相違の総意、相違の創意。そう云やぁこう云う。 悪徳は罪か。灰汁は取らねばならないのか。美徳と呼ばれるものには作為を感じる。 いつでも、いい気でいたい。それだけが望みなのです。だから、みんながそのいい気になれば、 いい世の中になるんじゃないかと、いい気になって云うのです。
元より暗中模索だ。閃きには、価値がある。誰にも判りはしなくとも。仕方が無い。
拾うか、落とすか、見つけるか、たまにはしゃがみ込むか。
信じてもいない十字架で、ドラキュラは退散しやしない。物語を信じる力が、十字架に力を授ける。
すべてのものは抜け殻であり、それに気持ちを込めない限り、ただの瓦礫の山でしかない。
そのままでは、ビートルズを聴いてもビートルズを超えることはなく、その音楽は、ただのビートルズにしか
過ぎず、それはビートルズを知らないに等しい。興味があるのは、そこのとこなんだ。
銀河(8)の月01日【KIN 245】赤いスペクトルの蛇
G暦2003.02.07
Copyright(C)ICCH