ワッシャー TRASH
赤い惑星の月の年(YEAR OF THE RED PLANETARY MOON)



スペクトルの月(Spectral Moon)
「花火」
「モーニング」
「Insanity」
「Kategorie」



「花火」

スペクトル(11)の月28日【KIN 096】黄色い倍音の戦士
G暦2003.05.29


スペクトルの月は、今日でお仕舞いです。 今月のキーワードは「解放」「溶かす」「解き放つ」 自分自身に「わたしはどのように解き放ち、なすがままにさせるのか?」と問いかける時、でした。 性質は、変化、不統合、すべてを手放す、うわべをはぎとる、複雑さから単純さへ動き出す、改革者、システムを壊す人。 これまでの月で掴んできたものを、今、自分の意志で剥ぎ取り、手放す。本当に必要としているものは何か、 もう一度吟味してみる。放したら、また掴む、それはさっきよりももう少しだけ質が変わってる。 自分が本当に求めていたものに成っているはず。僕らは、錬金術師だ。マインドゲームの中では。

本当に、今月、僕は何かを解き放った。まだ少しぎこちない。慣れていないからか。 何度も何度も考えてみた。そうして、何かに囚われていることを意識し、またそれから逃れ、そうするとまた 新たな何かにぶつかり、また逃れ…。こうして転がっていく。 とどのつまり、Not Fade Away であり、Around & Around でもあり、Like a Rollingstone だったり、 Music Never Stopped だったりする。 転がると雪崩れのように始め小さかった崩れが、周りのものを引き寄せ、巻き込んで、どんどんと大きくなり どこかで収束するまで、走り続ける。 やはり遊戯に似ている。いや遊戯が、現実の模写なのだから仕方が無いのか。その境界線は見当たらない。

限界は、先から無い。一つのものの終焉。花火のように、弾けては散る。綺麗だね。



「モーニング」

スペクトル(11)の月20日【KIN 088】黄色い惑星の星
G暦2003.05.21


自宅が、梅ヶ丘から豪徳寺に変わって2ヶ月ぐらい経った。下北沢までさらに一駅増え、世田谷代田駅、 梅ヶ丘駅、そして豪徳寺駅と、小田急線で3駅をまたぐ。遠くなったとはいえ、実に歩くことが多くなった。 梅雨に近付き、雨の所為で自転車に乗れないということもあるが、歩きながら何か考えるには丁度良い距離と いえなくもないぐらいの行程なのだ。30分ぐらい、てくとこと下北に向かって歩く。 途中には羽根木公園があり、そこを通るのが気に入っている。 随分昔、夏になると忍び込んでいた野外プールが其処にはある。月夜のむさ苦しい夏には、フルチンで 一泳ぎしていた。最初の一人暮しは永福町だったが、15年ぐらい前に世田谷代田の線路脇に越して以来、 その辺りを転々とし、梅ヶ丘へと居着いてしまった。で、相変わらず、この辺をうろついているわけだ。 京王線代田橋駅の向かいにある喫茶店に入った。この時代とは逸脱した、昔(といっても80年代ぐらいな感じ)の佇まいを見せる、まさに喫茶店という風情。500円で、ハムトーストと珈琲、それにゆで卵のセット。 僕にとっては、ゆで卵は重要だ。店内は、入口で思った程狭くはなくて、L字に奥行きがあった。 どこかへ独りで旅に出た時、まず駅の近くの喫茶店に腰を据える。そこでその場所の空気に慣れるためだ。 自動車の免許を取りに行った時、違反で呼び出された時、何かの面接、ガードマンのバイト、 兎に角も早い時間に家を出発し喫茶店を探して、そこへ飛び込む。緊張をほぐす。 大抵は薄暗い店内、テレビの音やラジオ、珈琲のほろ苦い匂い、新聞を広げた客、煙草の煙り、それに 「モーニング」セットのゆで卵とトーストだ。 多少、目的の時間を気にしながらも、ゆっくりと珈琲をすする。今日はいい日だ。 テレビでは「笑っていいとも」がやっていた。そんなに古くもない思い出が蘇ってきたりもする。 銭湯の湯に浸かっている時にも似ている。漫然と、記憶が流出する。 ただ、流れるままに任せると気持ちがいい。ロンドンに居た時にも、行き着けの喫茶店があった。 向こうでは何と云うのか、まあ、そんなことはどうでもいい訳で、僕と友達は「ティー屋」と呼んでいた。 店内は、ただ、だだっ広くて、整然とテーブルが並び、セルフサービスで「モーニング」セットだ。 珈琲ではなく、英国式紅茶、それにトーストとフライドポテト。 ビーンズやグリーンピースもあるが、御存知の通り(知らないよね)グリーンピースなる異次元の食物は口に しない質なので、ポテトを選び取る。それに、ビネガーを馬鹿みたいにぶっかけるのが醍醐味だ。 もううっすらとしか記憶に残っていない。家からの距離も近かったはずだが、店員さんの顔も思い出せない。 仕事の前、または帰りに、友達と待ち合わせにも使った。一度、キース帽子(キースリチャーズ70年中期に 被っていたのに近い後部が膨らんでるやつ)をその店に忘れてしまい、凄く大切にしていた帽子だったので 探し回った挙句にそこの店員さんが取っておいてくれていて、とても嬉しかった。 暗い薄明かりの喫茶店。場末の方がいい。裏ぶれた温泉街のはずれ。 駅前の不味い珈琲。ああ、ビッチが死んだという報せを受け取ったのは、諏訪湖の近くの駅の公衆電話だ。 そんな喫茶店にまつわる記憶が、ゆっくりと流れ出す心地良い時間。 凝ったものなんていらない。「モーニング」セットにゆで卵がついていて、スポーツ新聞があって、 薄暗ければ、それだけでいいんだ。そこで自分らしさを取り戻す。勘定を払って、後にする。 緩和だ。閑話かな。



「Insanity」

スペクトル(11)の月14日【KIN 082】白い自己存在の風
G暦2003.05.15


世界はこんなにも広い。どんなに泳いだって、岸に着きやしない。挫けそうになる。 僕は、いったいぜんたい何をやっているんだろうか?いや、何もしていない。何もする積もりもない。 何かしてる振りをしてる。何かやらなければならないんだろうか?何もする必要もない。何もするな。 こうして、何もぜす、ただ漫然と時を見送る。時間は、その人が必要な分だけ、その人のスピードで、 伴走してくれる。生きている間は、離れることなく、一緒に走っていてくれる。 その時間が遠離ってしまったら、不安に陥ってしまう。自分が自分でいられなくなってしまうんだ。 説明はし難い。その世界から、その言葉を持ってこられないということは、今現在、立脚しているこの世界 には持ってきてはいけないものなのかも知れない。 だからそうやって考えてみれば悔しくない。この世界の法則からは、あまりにも懸け離れた世界だからだ。

「はじめ山は山であり、谷は谷である。それから山は山でなくなり、谷は谷でなくなる。 そして最後に再び山は山になり、谷は谷になる」
すなわち、通常の知覚があるレベルにおいて崩壊していく過程は、根本的に教育的なものである。 もっとも過程の最後では、まったく最初と同じ知覚が回復されるのではあるが。知覚をバラバラにし、 再びまとめあげる行程を辿ることにより、自分自身の精神に関する重大な何かが収得されるのだ。 これを「人間バイオコンピューターのメタプログラミング」と呼び、その後、プログラム間で選択を行なう際 ずっと大きな自由を与えてくれる。その違いは、テレビのチャンネルの回し方がわからず、毎晩同じ局の番組 を見なければならない男と、チャンネルの回し方を知っていて裏番組を見ることができる男との違いに似ている。(ロバート・A・ウィルソン/サイケデリック神秘学より)

昨日、完全に裏番組にチャンネルを回した。物凄い衝撃だった。そして、言葉では説明できない煩悶を抱える。どうやったって、あそこから、この世界で通用する言葉や状況を持ち帰ることは出来ないのだ。 根本的に、この通常の世界との成り立ちが、完全に、決定的に異なっているのだ。 これは、もし、あそこからそれを持ち帰ったとしたら、この世界の崩壊を意味している。 それぐらい凄い情報でもある。言葉が、音が、気温が、気持ちが、色彩が、鼓動が、空気が、常識が、哲学が、映像が、汗や吐息が、波動が、匂いが、時間が、歴史が、すべてが混沌として、洗濯機でかき回され、 バラバラにされ、千切って、同一レベルになり、優劣が逆転され、追い回され、重力は無視され、そいつを 肉体で知覚出来て、思想が全身を覆っていて、皮相からゆっくりと、水面から顔を上げるように剥がされ、 電気が走って、ゆっくりと鳥肌が立ち、この世界へ戻ってくる感覚。 全部が狂ってるんじゃないのか?時間が、物体として、こちらの様子を窺っていることがわかった。 空気の分子が、言葉となって、空気にしかわからない形式の言語で話し、怒りが赤い色をして、思想の汗が 人間みたいな顔をして世界を脅かす。説明なんか出来やしない。在るだけなんだから。 すべては、ただそこに在るだけ。在るというのは、僕の頭の中に在るのか?そこに立っているから在るのか? 言葉が在るからなのか?勃起してるからなのか?それに、何が在るっていうのか? まるっきりわからなくなる。なぜ、話すのだろう。なにもかもいらない。嘘っぱち。捨ててしまえ。 だから、これは、もしかしたら死んでしまった世界なのかもしれない、などと考える。 それとも、生まれ落ちてしまったばかりなのかも知れない。思惟が、初めて、自分自身を自覚した瞬間。 初めて、という感覚。そうなのか!?君が、音であるか、気体であるか、思惑であるか、日付であるか、 体温であるか、殺意であるか、血液であるか、表情という世界であるか、ヒントであるか、煙であるか、 在るのか無いのか、座ったままの知恵であるのか、吐瀉物、疲労、倦怠、読みかけの天気、なんの片鱗も窺えない黄色くて遠い言葉の奥の奥の奥の奥の先。滅茶苦茶、という飛行が、額にぶつかり、嫌悪している。 そんなのが、たかだか、こちらの時間で、5分ばかり続いた。蚊が、ボウフラから成虫になる瞬間を知っていますか?視覚的には、そんな感じ。ボウフラの背中がピシッと裂け、そこから蚊の本体が立ち現れ、生まれ落ちるようなふうに、この世界へ戻ってきた。あちら側から、弾け出されたのだ。 皆が云う、ジョットコースター、マンガ、観覧車、粘土細工、強風、平衡、、、。 皆と行ってきた世界は、はたして、同じなのだろうか?同じだと信じたいのだけど、あまりにも、とっ散らかっていて、殺伐としていて、月面のようで、並行して走っているのは旅行者ばかりで、とてもそこの住人とは思えず、いやなにしろ、今在るこの世界は、途轍もなく整然としていて、完璧で、落ち着いていて、 それが助かる。しがみついていなければならないものが、なにひとつとしてなく、自由に溢れている。 掴んで離すことが出来る素晴らしさ。言葉を駆使して、美味しい物を食べて、酩酊して、抱擁して、綺麗なものを見ることが出来て、音楽に酔ったり、笑ったり、物語を楽しみ、想像したり、慈しみ、手を差し伸ばして、掴むことが出来る。再び山は山になり、谷は谷になったのだ。

ううむ。何もわからず、ただただ驚くばかりなのです。こちら側の、素晴らしさは理解出来る。 しかしそれにしても、あっちはいったい何なのだろうか?馬鹿にしてるじゃないか。 気違いが住む世界なのだろうか?突拍子もない。土台が無いんだから、笑い話にもなりゃしない。 3ヶ月ほど前に行った世界とは、どうやら違う番組のような気はしているが、 ううむ、やっぱりこの辺が限界ではある。あれがあるのだったら、これは絶対ある、という確信もある。 世界はだだっ広い。泳いでも泳いでも、ぜんぜん、岸に着きやしない。ったく。



「Kategorie」

スペクトル(11)の月04日【KIN 072】黄色い共振の人
G暦2003.05.05


ふがふが、伸びっぱなしのゴム、間延び、外れそうな顎、疲労、地球の重力を一挙に請負った気分、 重くて歩けず、こりゃ山登りに似ている。休んだら終いだと分かっているが、頂上までは遠くて長く、足を使って歩いているのに、その足が邪魔で鬱陶しく、切り離してしまいたくなる。 肉体が邪魔だ。しかし、心はどうかと問われれば、そちらも無関心ではいられない。 身体以上に挫けそうになる。身体が疲労すると、心を掴まえているネジが緩み、離脱しようと企む。 突拍子もない行動をとってしまったりもする。もはや、心ここにあらず、であった。 そんなふうに分離して考えてみる必要があるから、そうやって思考してみる。 邪魔だ、と考え、蚊帳の外へとその問題を追いやり、自身から切り離してみると、その問題は実に単純であったり、または些細な事であったり、その反対の問題を浮かび上がらせるために必要不可欠なものであったりし それもひっくるめて全体を表現していることを知る。 陰と陽だ。 こうして、肉体を酷使し山の頂きを目指したのであれば、それに使ったエネルギーを補填するために休息を得なければならない。それはこの世界でペアの存在を際立たせる。 すべての行動には、結果が引き寄せられてくる。起きていたら眠らなければならない。 食事をすれば排泄しなければならず、エネルギーを使わなければ蓄積され、登ったら降りて、使ったら減る。 これは、とりあえずのところの法則であることに異論は無かろう。

「草臥れた」と、ついつい言葉で固定化してしまった状態から抜け出すのは、かなり難しい。 言語化したことでカテゴライズしてしまうからだ。逆に使用すれば、(例えば肯定的な宣言をして) 暗示状態を作り出し、満足する結果を引き寄せられるかも知れない。 この世界は分類の進化でもある。分類とは、全体からそれを切り離し、その力を奪うことでもある。 形骸化し、象徴や記号、言語そういったものに閉じ込めてしまうのだ。妖怪を封印する御札にも似ている。

こういったことを言語化しようという試みは、何か空々しく、そして無関係な場所へ矢を射っているような 断絶感に苛まされてしまう。うまく伝えられない苛立ち。それに言い訳気味てもいる。 またそれを文章に潜らせる嫌らしさ。恥ずかしい。 このまま、まったく核心へと下っていない文章の羅列を、どこへと分類したらよいのか悩む。


Copyright(C)ICCH