ワッシャー TRASH
白いスペクトルの魔法使いの年(YEAR OF THE WHITE SPECTRAL WIZARD)



銀河の月(Galactic Moon)
「春らんまん」
「傾き者の小唄」
「僕は一寸」
「小さな羊」
「書留」
「夢うつつ」




「春らんまん」

銀河(08)の月23日【KIN 112】黄色い銀河の人
G暦2004.03.01


亀の日。パカル・ヴォタンとボロン・イクの再会の日。戦士の旅から戻り、天上歩行が始まる。 まだ銀河の活性化の正門(13の月の機織り/260日暦の52日間)は開いている。 昨日はグレゴリオ暦で、4年に一度のうるう年で2月29日がありました。 13の月の暦では、うるう日は数えずに「0.0 フナブ・クの日」として暦の外にある特別な日となり、 365日周期にも260日周期(ツォルキン)どちらからも放たれた、もうひとつの時間を外した日と呼ばれます。2月28日〜29日の2日間同じ「青い共振の猿」というKINが響き渡りました。 青い猿といえば、魔術と遊ぶ、幻想がキーワード。そして共振という音程は、調律、通す、呼び起こす、 というわけで、ふらふらになりながらも2日間遊び通しました。

暖房装置の冬が往くと、冷房装置の夏が来た。
ほんに春は来やしない。おや、まあ、また待ちぼうけかい。by.はっぴいえんど「春らんまん」

いつもこの季節は、狂乱、失態、深酒、そいつらをズルズル引きずって春一番をまき散らし、花見シーズンまでまっしぐら、春雨模様、濡れてばかりいる。 ほんの少し暖かくなってきて、ほんの少し浮き足だって、ほんの少し鼻水をすすって眠くなる。 VURT な季節だ。いろんなものの息吹きで、むっとしてる。 我先にと何かが地中深くから這い上がってくるようだ。 それならそうと、どっこいしょと重い腰を上げ、服の裾でも払って歩きましょうか。 散歩が気持ちいい季節になってきた。はいからはくち。春爛漫。

新しい神話(New Myth)が弧を描いてやって来ました。 銀河の贈り物「ドリームスペル」の物語は、スペクタクルに迫ってくる。 時間船 地球号の出航が近付いている。2013年までに、僕らは盗まれた時間を取り戻せるのだろうか? 「スターウォーズ」から最近の「ロード・オブ・ザ・リング(指輪物語)」まで、 さらにはキリストの「聖書」から仏陀の「聖典」、「火の鳥」や「銀河鉄道999」であろうと、 すべての物語は媒体を通して僕らに届けられ、それを反芻することで真実の物語へと変貌を遂げる。 信じる力の証明でもある。 概要を創り細やかな肉付けを施し、プラモデルを造るように組み立てられ完成される物語は、僕らがイメージ(夢)から現実へと変換するように、骨格から元の姿を再現する鑑定医のように、想像をこの世界へ持ってくる。 思考されたものはその細部にこだわり、誰かに囁き、またそれに近付くための手段を選び、手繰り寄せようと 思い行動するのならば、どんなものでも引き寄せることが出来る。それがどんなものであろうと。 錬金術師(アルケミスト)は誰あろう、僕であり君であったのだ。

春が息吹いている。梅祭り、花粉症、桜前線、新学期、どんどん暖かくなっていく日本列島。 季節の変わり目には、どうも細野晴臣氏の歌ばかりが頭を巡る。 冬越えさ、季節の、変わり目さ、くしゃみをひとつ。

恋は桃色

ここはどこなのか どうでもいいことさ
どうやって来たのか 忘れられるかな
土の香りこのペンキのにおい
壁は象牙色 空は硝子の色

夜をつかって辿り着くまで
陽気な歌を吐き出しながら
闇へとつっぱしる火の車
赤いお月様と鬼ごっこ

ここは前に来た道
川沿いの道
雲の切れ目からのぞいた
見覚えのある街

おまえの中で 雨が降れば
僕は傘を閉じて濡れていけるかな
雨の香りこの黴のくさみ
空は鼠色 恋は桃色

(C)Song Writer: 細野晴臣




「傾き者の小唄」

銀河(08)の月19日【KIN 108】黄色い自己存在の星
G暦2004.02.25


傾(かぶ)くとは、歌舞伎の語源である。以前にそのことを 「傾き」で書いていて検索してみたら、 今日と同じKINの日だった。このKINは、僕とジョン・レノンが合体すると弾き出され、 Yocchの誕生KINでもある。(おめでとうございます) さすが銀河の活性化の正門、真只中だ。共時性が降って湧いてくる。

さっき友達と電話で話していたら、ジャック・ニコルソンの映画の話になり、それもビンゴ! 昨日丁度ショーン・ペン監督「プレッジ」を観たばかりだった。 ドメスティック・バイオレンス(家庭内暴力)、性犯罪、インディアン、アルコール依存症、そして狂気、 アメリカの暗を書かせるとショーン・ペンは凄い。「インディアンランナー」という映画も同じ題材だった。 観続けていくうちに嘔吐したくなるぐらい行き止まりの閉塞感。少しづつ狂っていく。 それも狂っていってる事を、主人公も観客さえも分からせず、微妙に混入していく匙加減。 狂気を演じさせたらJ・ニコルソンの右に出る者はいない。(なにしろ最初から顔が怖いし) だけど「シャイニング」や「郵便配達は二度ベルをならす」のような全開さではなく、「バットマン」の ジョーカーほどの異形でもなく、最近の「アバウト・シュミット」のような円熟さでもない。 人生のピッチが若干狂ったぐらいの、その傾きが取り返しのつかない誤差を生み、壊れていく姿なんだ。 偶然性、と呼んでしまうのはあまりにも悲哀で、そして最後の結末はやりきれない無力感を生む。 因に「ラスベガスをやっつけろ」でジャンキー弁護士役だったベニチオ・デル・トロも、インディアン役で 怪演しています。(この人も興味深い人だなー) しかし時にこういった下降意識の映画もいいなとも思う。手痛かったものの、ここの深みを知らなければ 逆に位置するものを意識できない。こちらが在るから、あちらが在る。 どちらも、僕には愛すべき対象だ。

亀の夢、これは吉兆か? そうして午睡の微睡みの中、何本目かの夢の製作に取り掛かると、 自身の闇を知ることになった。顔を背けたくなるような夢だった。 夢は現実のシミュレーションか?現実が夢のシミュレーションか? どちらにしろ存在してしまったものは在った事だ。模擬実験(simulation)や訓練やリハーサルではなく、 夢は僕の現実であり本番だ。そこに僕が見たい景色が混在している。はてどうしたものか。

美意識。消えかかる街灯(電球最後の足掻き)。
映画、写真、レコード、書籍、記録されたメディアを何度でも咀嚼する楽しみと退屈。
錆は人工物が腐食されていく姿。自然に還っていく姿。
果敢なさ(儚さ)。消えてしまってはいけない、消えかかる寸前の飽和。それを期待すること。
「さよならだけが人生だ」という台詞は、出逢いとの対比で光り輝く。萌芽して、散る。
「引かれ者の小唄」刑場に運ばれる罪人が、平気を装って小唄を口ずさむ。負け惜しみ。

「待つ」ことを教えてくれた人がいる。そして「待つ」間に、自身の変換機でその問いを「陽」に変える事を 教えてくれた人もいた。「陰」と「陽」どちらも選択することが出来る。それが僕達の住む自由意志の世界。 そこで「陰」を選ぶことに寛容にもなれる。性急に答を求められる時もある。 待っているうちに失ってしまうこともある。たくさんの場合があるけれど、僕が見たい景色は光。 闇を知っているからこそ見られる景観だ。

「傾きもの」は、「道化者」でもある。傾いて、道化て、皆を笑わして煙に巻く。 そりゃ結構、滑稽だ。私生活を感じさせず、誰かを茶化したり、自身を笑い者にして回る。 自虐的ではなかろうか?なぜ自身をいたぶるのだろう。嗜虐性(マゾ)なのか。多分にそうなのだろう。 いろんなことを考えていくと自分自身もそのように思える時がある。痛いのは嫌いだ。 でもその傾向がある。傾いていく。美しいと感じてしまう。何かが壊れてしまう瞬間、それに慟哭。 夢の中で、何度も何度もたくさんのものが壊れていってしまう。笑止。 へらへら笑いながら傾き者の小唄を口遊ぶ。笑止千万。甘えてるだけじゃねーのか。有無。



「僕は一寸」

銀河(08)の月14日【KIN 103】青い水晶の夜
G暦2004.02.20


久し振りにネットサーフィン(確実に死語)なんかしてしまいまして、時間を気にせず彷徨い歩いてみました。 家に居ながら旅行が出来るなんて、素晴らしい世界になってきました。懐かしい事なんかが喚起されたり、 新しいページなどを訪ね新機軸や発見があったり、面白いものです。 それでも5年ぐらい前までは電話代金を気にしてセコセコとやっていたことを考えると、このスピードには 畏れ入るわけで、タイムウェーヴゼロ理論というテレス・マッケンナの説 (時間のスピードが限り無く早くなり、2013年に時間がゼロとなるという説) もあながち的外れじゃないのではとも思えてくる。 だいたいにして、すべてのサイクルはかなりのスピードなわけで、音楽にしろファッションにしろ、 あらゆる記録にしろ、発明、発見の類から、流行、文化まで、ここ数年の速度は止まるところ知らずだ。 やはりどんどんこの振り子のスピードは早くなり、しかも振る間隔も縮まっていき、 つまるところ時間はゼロになり、振り子は制止してしまうんだろうか。時間が止まる、それっていったい? 恋??

ところで、ページといえばFlashを多用してるところも沢山あり、Flash が使えれば随分とカッチョいいページが作れるのだな〜と思う次第なのだが、どうもそこら辺りアナログ思考で、HTML言語で精一杯で、 GIFアニメで誤魔化せないかな〜とか使うことを避けようとしてしまう。 昔に夢中になったハイパーカードというソフトを思い出してしまう所為だ。 あのメタ言語を必死になって覚えてみたものの、結局たいした事も出来ず、気付いたらいつの間にやら インターネットで簡単にクリックひとつで跳べちゃうんだもの。 ハイパカは次の画面へページをめくるのに、どれだけ大変な記述をしなければならなかったことか。 しかも絵をはめ込んだり、ボタンを表現するのひとつも大事だった。 JAVAの次はスタイルシートでしょ、それがFlashの台頭で、そんなプログラミングにいちいち付き合ってたら何も出来やしない。なんて、言い訳気味な。うーん、やはりコンテンツか・・・ホニャラララ。

手塚治虫「シュマリ」を読んだ。この人は偉大な人だ!と声を大にして云ってみたところで、もうすでに 皆様御存知の通りでしょう。本当に凄い。同時代に生きられたことを誇りに思う。 読後、そのマンガの内容をまた思い起こし感嘆の声を上げる。どんどんと染みていく。 涙ぐんでみたり、思い出し笑いしたり、自身の物語と重ね合わしたり、終わってからも始まっていく。 主人公がその物語の中で、縦横無尽に自由自在に人生を謳歌する。 覚え、悟り、笑い、失望し、挫けそうになり、学び、そして年老いていく。 時代は蝦夷から北海道へと変わる幕末、アイヌ人がインディアンのように土地や命を本土から来た略奪者に奪われ、そこで主人公シュマリ(アイヌ語でキツネ)は己の通りに生きていく。 私怨から新たな種が芽生え、時代が大きく変わる時にも動じず、明治を迎え、息子は立派に成長し、 女房は彼を待ち続け、シュマリは北海道から朝鮮半島へと渡る。それから、まだこの物語は続いていく。 たとえシュマリの命が絶えたとしても永遠に続いていく。そんな鎖を感じさせる。 「奇子」「きりひと賛歌」「人間昆虫記」「ばるぼら」70年代中期のこの辺りの劇画タッチのものはすべて 好きだ。それに「三つ目がとおる」に「ブラックジャック」「ブッダ」はリアルタイムだ。 「火の鳥」は、過去と未来の物語を交互に展開させて、最後に現代の物語で終焉するという構想を、 彼は持っていたらしい。残念ながら鬼籍に入ってしまわれたが、現代の火の鳥は、それぞれの中で息吹いている。本当に、彼のマンガを読める事に感謝する。ありがとう。(G暦1989年2月9日、享年60歳 没)

ネットを歩き回って、リンクページを整理してみました。 アドレスが変わったページ、封鎖されたページ、いろいろありました。 ううむ、まあ、いいんではないだろうか。松本零士氏のページのインタビューを、リアルプレイヤーで見た。 やっぱり巨匠はいいこと云ってる。夢に生き、無限の可能性を信じ、楽しめ、と云っていた。 頑張らなくていい、楽しむこと。

今日はこの歌が頭から離れなかった。僕は一寸、黙るつもりです。良い夜に。

僕は一寸(ちょっと)

ひなたぼっこでも 
していきませんか 
そこにまあ すわって 
お茶でも飲んで お話を 
どんな話をしゃべりましょうか 
日の出ずる国の明日の事でも… 

散歩がてらに 歩きませんか 
そこから 立ちあがって 
服のすそでも はらって 
どんなところを歩きましょうか 
日の出ずる国の輝く道でも… 

道のぬかるみ 入り日が映り 
だまりこくる 夕焼けの午後 
僕は一寸 笑うつもりです… 

ここら辺りに住みつきませんか 
あそこを ひきはらって 
生で聞けるからカントリーミュージック 
白い家でも見つけましょうか 
日の出ずる丘に彼女と2人で 

外の日溜り 枯木に埋まり 
だまりこくる 家の中の午後 
僕は一寸 だまるつもりです… 

(C)Song Writer: 細野晴臣




「小さな羊」

銀河(08)の月10日【KIN 099】青い銀河の嵐
G暦2004.02.16


で「コラム」・・・。

ま、つまんないんだけど、湯舟にて北叟笑む。そうして、豚と戯れるジョン・レノンの顔が浮かんだ。 (ポール・マッカートニー「RAM」のジャケ=小羊の角を握ったポールと同じ構図で、 元相棒を皮肉った写真をアルバム「IMAGINE」の付録にしたやつ) まぁ所謂そんな駄洒落。風呂場は、水泡の館。気が利かない洒落が浮かんでは、消えていく。 まさに、水泡に帰す、といったところ。たくさんの泡がはじけて散っていく。 慌ただしいこと、このうえ無い。縮み上がって、くたくたに消耗しきった身体を、横たわらせる。 血管を無理矢理、広げてやる。動脈、静脈、毛細血管、間延びした流れが、吃驚して動き始める。 お酒を飲めば、そりゃテンションは上がる。どうにかこうにか酔ってしまえば、饒舌にもなる。 しかし、社交性を会得した後に斜行して、しどろもどろに遮光され、真っ暗闇でシャッポを脱ぐ。 再生を目論み、浴槽に飛び込む。新陳代謝よ、どうだ、まだやれそうなのか。

鼻からちょうちんぶら下げて、よだれベロベロ垂れ流し、口紅べにべに塗り付けて、昔ながらのちんどん屋。 by.村八分

確定申告を片付けに、親父の会社まで出掛けてきた。 元は、銀座線の外苑前駅から数分のところにあったのだけど、今はずっと遠くなり、神宮球場を一望出来る マンションに移っている。神宮球場といえば、中学の時によく座布団集めに、野球の試合に潜り込んだ。 一枚につき200円ぐらいの返却金が貰えた。だけど向こうも足元を見て、 100円しかくれなかったりもした。
上手い煙草をくれないかい 紅(くれない)色の炎をつけて。by.細野晴臣「住所不定無職低収入」  で、後は、親父の知り合いのオジさんと野球観戦に行き、贔屓のチームがさよならホームランを打ったところ 興奮して立ち上がったそのオジさんが、ベンチから転げ落ち、一番下のベンチまで(20段ぐらいを) 腰から滑って落ちていったコトなんか思い出す。 よく通っていたゲーセンのあった東ボーセン(東京ボーリングセンター略)も、今は無い。 電々公社(現NTT)の廃虚も片付けられ、立派なビルが立っている。 夏になると、麦わら帽を被ったオヤジのキャンディ屋(チャリにアイスの箱を括りつけてる) が現れ、それを頬張りながら覗いていた神宮プールの更衣室。 換気扇の回転している羽根越しに、うっすらと漏れる明かりと着替えの女性は、 夏の鬱蒼とした閉塞感と相まって、かなりのエロチシズムと思われ、、。まーそんなこたーいい。 中学生の多感な時期をここ青山で過ごしたわけだ。 小学時代の名古屋から離れ、親父と二人暮し(とはいえ、親父はほとんど家には帰って来ない)、 最初は気後ればかりでイジめられ、そのうち馴れてきたとみえ勉強そっちのけで遊び惚けて、 不良(ツッパリ)は怖くて近付けず、かといって授業にはついていかれず、 登校はするのだけど学校へ行ってから授業を抜け出して、裏手にあった駄菓子屋(通称、チェリオ屋)へと 通ってばかりいた。家は銀杏並木の裏手にあるマンションで、学校からも数分だったので、 とにかくいちいちサボって帰宅してみたり、或いは原宿や渋谷、赤坂、六本木、 駄菓子屋巡りを敢行したり、悪さしたりして、子供らしく過ごした場所であった。 銀杏並木の通りも深夜になれば、車を止めてイチャつくカップルばかりで、かなり刺激的と思われ 、、。まーそんなこたーいいや。思い出四方山話はこの辺りで、とにかく親父の会社に混ざり、 そこの税理士さんに面倒をみてもらうのがここ数年の通例となっていた。 それにしても、毎度毎度の事ながらややこしい。どうしてこうシンプルにいかないのだろう。 そんな複雑な物語を拵えないでも、いいんじゃないの?などと顔をしかめながら、数分で終えた。 結局、何も用意していなかったので、為す術もなく追い返され、後日に回されてしまった。 軽く欠伸を噛み殺しつつ、風に吹かれて、ふらりふらふら風来坊なのであった。 天気が佳いから、そんなに悄気ることもなかった。もう、春の匂いを嗅いだ。

歩いて、徒労だとしても陽を浴びて、帰ってきて湯舟に浸かり、なんだか気分は上々である。 情状酌量の余地ありである。Get Back JoJo なのだ。それでいいんじゃないのだろうか。 何を求める、何も求めちゃいない、何が起こったって大丈夫、複雑な事柄から単純な事柄まで。 小難しい物語はいらないや。理屈や努力や計略や、そんな力の入る、それでいて骨の折れる事は止し。 悪びれず屈託なくいこう。力の遊戯、コントロール・ドラマ、それを必要としてる人はそれでいいのだし、 暢気に笑っていたいのならそれはまたそれでとってもいいコトだし、選んでいくのは僕のこころだけ。 じゃがたらの「ある平凡な男の一日」のような一日だった。

ある平凡な男の一日

今朝はなんだか知らないけれど すがすがしくて
東の空にゃ お陽さま ゆらりゆらりゆらり
玄関で見送る平凡な俺の女房
今朝はなんだかあいつが フェイダナウェイにも見える

今日はとってもよい日だぁー
会社では上司に逆らったけれど
人間関係なんて 自然が一番さ

午後はなんだか知らないけれど すがすがしくて
スモッグの空にも お陽さま ゆらりゆらりゆらり
受け付けの可愛いあの娘に ちょっかいだして
劇画タッチであの娘を後ろからせめてやろうか

本当にとてもよい日だぁー
有り金みんな使い果たしたけど
オイラの女房はきっとゆるしてくれるさ
オイラの女房はきっとゆるしてくれるさ
オイラのフェイダナウェイはきっと喜んでくれる

(C)Song Writer: 江戸アケミ as JAGATARA
神様を信じるぐらいなら、うちのカミさんを信じる。by. 江戸アケミ



「書留」

銀河(08)の月07日【KIN 096】黄色い倍音の戦士
G暦2004.02.13


思いは、宙を舞う。浮遊して、掴まえることも侭成らない。追えば逃げ、探せば行方を晦ます。 触っていられるのは、ほんの僅かの間だけだ。一刻、触れているのを許され、そして離れていってしまう。 隙を窺い、その輪郭を、なんとか言葉にしようと躍起になる。 細部にまで目が行き届かず、逃げてしまうことに焦りながら、やっとのことで粗っぽくも写生する。 下絵は描きたまり、仕上がらない。掴まえることだけに夢中になる。 採取だけが目的にすりかわる。必死で網を振り回し、実体のないお化けを追い掛ける。 その軌跡だけが、この場所の意味だ。後に派生するものは預り知らぬ。書き留めるだけ、書き留めるだけ。

同じ頃の、自分で書いた古い記述を読み返すと、やはり同じような気持ちや言葉が鼓舞していた。 最初から知っていた。何も変わってはいず、思い出していることにも気付く。 元々、抱えていたものを分離しては放し、放したものをまた抱えて、それを繰り返しているに過ぎず、 言葉遊びのような、禅問答のような、不毛な遊戯に陥っているような感懐に囚われる。 捕獲したものの側面が違っているだけで、同じようなものばかりだ。悪くはない。 是非ではなく、千篇一律な疲労感が色濃くなっていく、というだけの話だ。

いったい何処まで行ったら、いいのだろうか。限界を設けないということは、そういったトリップにも陥る。 果てしもない。宇宙、渾沌、視野の及ばない、思考の行き着けない先の先。 遠い星をボンヤリと眺め、「ああ、あの星は、遥か何万年も前に放った光りを、やっと今、 此所に届けているのだな」と感嘆する。時間と距離、過去と現在と未来、僕と君、親と子とまたその子、 永劫。鎖。連なり。手繰り寄せていく線と点。

言葉として総括してしまったら、それを捨てなければならない。そうしなければ、ずっとその言葉の範疇から 逃れられなくなる。自由に束縛されてしまう。好きの、極には、嫌いがあるように、表には裏がある。 だから、どちらに振り子が傾いても、どちらも同じことを違った側面からなぞっているに過ぎない事となる。 こんなのただの記号だ。象徴だ。ICONだ。模写だ。実体は、一体、何処に在る。 それを決められるのは、自分自身の神だけだ。

降りてきて、帰っていく。日本では、そう。祭りで呼び、興して、還ってもらう。迎え火、精霊送り。 西洋はどうなのだろう。こちらから教会へ出向くのか。それとも、いつも神の目が、近くにあるのだろうか。 ラムサは、それぞれの人の心に神が宿っていると言っている。分離した神々たち。 ある神は討たれることを望み、またある神は富めることを望み、またある神は病むことを望む。 「わたしは自分の信じている通りに生きているか?」 その答は、すべて現実と呼ばれるこの世界で、すでに実現していた。今、在る形が、自分が信じた姿だ。 それをしないこともなく、通り過ぎることもなく、諦めることもなく、悲観することも増長することもなく、 自分が思い描き、信じた通りに、もうそうなっている。誰が決めたことでもなく、自身が決定した姿に。

試練、という路。禊、という儀式。暦、という時間。愛、という全て。生きる、という遊び。

単語が単語を触発し、振動して、次の単語を呼び起こしているだけだ。 意味はあったりなかったり。在れば在るし、無ければ無い。当たり前だ。 降りてきて、還ってもらう。掴まえて、放す。そうでなけりゃ、先へ進めない。 反義語は、同義語。どちらも、両極を指しているひとつの同じもの。そこで諍っちゃいけない。 でも、諍いたければ諍えばいい。そうしたい者の自由意志だ。僕は、チャンネルを変えるだけ。 お祭りだ。意味を持たせたければ、持てばいい。持った者は、それを使えばいいし、放してもいい。 どうにでもなる。所詮、これはただの記号だ。書き留めるだけ、書き留めるだけ。

じゃあまた来るね。



「夢うつつ」

銀河(08)の月02日【KIN 091】青い宇宙の猿
G暦2004.02.08


夢を見た。自分が巨人で、他にも10人ぐらいの仲間が居て、けれどもその他の仲間を殺さなければならず、 もう一人の友達と共謀して襲った。そこは、廃虚に囲まれ、この星はもう最後の時を迎えていることが 分かった。これだけの大きな身体を維持するために、この人数では多過ぎるのだ。 僕は襲いかかった。何人も殺した。それから、後4人というところで、相手に躊躇してしまった。 相手は自分が知っている奴だった。ここで、その巨人から自身の気持ちは離れ、今度はその殺戮の場所へ 逃げ込んだ今の自分だった。この星が終わるということが分かっていて、廃虚へ逃げ込んだのだが、そこで 大きな身体の者が殺し合っているのをもう一度目撃する。

暗転。

僕は飛行機のチケットを買った。廃虚から、少しでも遠くへ逃げなければならない。 幸いあそこで拾ったお金があり、それでチケットを買うことができた。しかし、飛行機の発着場までの 道のりは長く、行きすがら様々な物売りが行く手を遮る。お金はたくさん持っていたので、欲しくもない物を 買い、先を急ぐ。この星が終わるということを知っている者は、自分だけのようだ。 お金なんて、もはや何の意味もない紙きれだというのに、物売りは嬉しそうに受け取っている。 けれども、お金をバラまいてもバラまいても、飛行機は見えてこない。乞食のように列をなして群がる人々、 それを押し分けて物品を購入し、紙幣を投げつけてやるのだが、いつまで行っても行き着けないので苛つく。

暗転。

自分はカウンターの中でお酒を作る。カウンター越しのソファでは、男女が談笑している。 女性は僕が好きな人だ。男性は見たこともない人だけど、相手をどうにかしたいという気持ちを 隠し持っていて、肩に手を回したり、お酒を御馳走したりしていた。 女性はだいぶ酔ったようで、もう周囲がよく分かっていない様子。スカートが乱れて、こちらからは太腿が 丸見えだ。そのうち、男は唇を合わせるのだが、それさえ意に介さないぐらい女性は酔っていた。 どうしようもない苛立ちを覚えるが、どうしようもできない自分。 男は相手を連れ出そうと思い精算を求めるが、けっこうな金額になってしまい、 慌てて自分の分だけをチェックして、女性を置き去りにして逃げていってしまった。

終幕。

銀河の月が始まりました。「わたしは自分の信じている通りに生きているか?」が問いです。 もう一度、客観的にやってきたことを見つめ直す月。そして、行為が形を手にし、無欠性を生み出します。 自己存在の月や、水晶の月と同じく、形を見いだして実行する月でもあります。 新しい時間の教材「ドリームスペル」も届きました。銀河高等学校へと進級です。 見えるものは見えて、見えないものは見えない。僕と君に、そこにうつる景色に隔たりがあって当然だ。 そこで生きた時間、同じものを見続けた回数、想い出、残り香、原風景、全部が違っていて、 僕が幼少に歩いて通った幼稚園までのあの坂を、同じように感じることはできない。どんなに説明したって。 けれどもそれでいい。それを一緒に見ることが必要なのではなく、今を一緒に見たいのだから。 見えたVisionは存在し、信じた事柄だけが自身の物語を象っていく。 憂うことは、なにひとつとしてない。

自分は、なにもかも最初から知っていた。同じように、君も、最初から知っていた。
Inlak'ech


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