ワッシャー TRASH
白いスペクトルの魔法使いの年(YEAR OF THE WHITE SPECTRAL WIZARD)



太陽の月(Solar Moon)
「Party」
「Heart Of Gold」
「デレドミ」
「附加」
「Synchronicity」
「Wait」




「Party」

太陽(09)の月24日【KIN 141】赤いスペクトルの竜
G暦2004.03.30


驚いたことに(驚くには値しない)僕の言葉はいつでも堂々回り(極めて簡素に)していて、旋回してる間に帰着点を見失う。「The Word」に書いたこと、その前の「Down and Out」で思ったこと。 それらと同じような心持ちに逆戻りする。なんだ変わってねーなぁ、と溜息を吐く。旧い癖はなかなか抜けないけれど、自身でそれを捨ててしまいたいと本気で思うのなら、きっと奴は荷物をまとめて出ていくことだろう。旧態依然てやつは、いまだ居座っているらしい。「相手を尊重できないのね」という言葉には賛同する。 欠陥だと思っている。まだ実感として「あなたはもうひとりのわたし」ということを理解していないのだろう。それと同時に言葉は言葉の範疇を離れやしない、とも思う。立ち表われた言葉の裏には、同時に反語が立ち上がる。「有る」ということは「無い」ということをも表わしているのだから。「デレドミ状態」はそんな時に感じる。対立してしまうのは、相手のことを思い遣っていない時に限っている。兎に角もう僕は軽口を叩かないようにしなければならない。喋らなくていい時は喋らなくていいのだから。 愛は言葉だ、と同時に、愛は実体の無いお化け、でもあった。

ホゼ・アグエイアス氏の藤野3daysセミナーに行ってきました。 T(E)=ART (Time Is Art)から、Tv ∞(時間の速度は瞬時的に無限)という概念まで、とても楽しく話を聴いた。僕の頭の中ではそれ以前に読んでいたプレアデスの話がこびりついていて、「シリウス人がなんたら」「フォトンベルトがどうたら」「クンダリーニ・エネルギーでグランディング」などと煩いことだった。藤野芸術の家、到着から帰宅までの一切の記憶は遠い彼方である。あれほどの自由意志を発揮した時間は無かった。食欲の権化、餓鬼のように喰らい、酒盛りと講義会場との往復。講義中、容赦なく襲ってくる睡魔と戦い、そして気絶。真昼間の素敵な陽を浴び、夜は月光と酒を飲み交わす。それだけのことなのに幸せ一杯であった。今年(白いスペクトルの魔法使いの年)で改暦キャンペーンは終わり、来年(青い水晶の嵐の年)から、"New Time Party" の始まりと告げられた。PEACE と Harmony(調和)による新しい時間のパーティーだ。時間を閉じる時2012年まで、もうあと僅か。

こうして依然変わらないように見えながらも、様々な共時性秩序の枠組へと収束される。 あちらが立てばこちらが立つ。踊る踊るオー ドールアップパーティー、心うきうきブギウギミュージック♪
すべては同時に進行していく。過去も未来も同様に、この現在(瞬間)と繋がり融合する。 なにか夢中になっている時てのは、今を生きているてことだ。バケットにたっぷりバターを塗りたくり、ワインで咽に流し込む瞬間、其処にグランディングする。戸惑い、畏縮したり、緊張したりしている時てのは、自身の時間から外れてしまった時だ。道に迷ったら、「愛」を思い出し、美味しいものを食べ、気持ちのいいことをして、美しいものを感じ、心地よいリズムで、また歩き出そう。 "New Time Party" の始まりだ! Inlak'ech



「Heart Of Gold」

太陽(09)の月19日【KIN 136】黄色い律動の戦士
G暦2004.03.25


Heart Of Gold(邦:孤独の旅路)

I want to live
I want to give
I've been a miner for a heart of gold.
It's these expressions I never give
That keep me searching for a heart of gold
And I'm getting old.

僕は生きたい
僕は捧げたい
僕はこれまでずっと 美しい心を掘りあてようとする鉱夫だった
口では言い表せない様々な思いが 
僕に美しい心を探し求めさせ続ける
そして僕はだんだん歳をとっていく

I've been to Hollywood
I've been to Redwood
I crossed the ocean for a heart of gold
I've been in my mind, it's such a fine line
That keeps me searching for a Heart of Gold
And I'm getting old.

僕はハリウッドにも行ったし
レッドウッドにも行った
美しい心を求めて 大海原も越えていった
自分の心を覗き込んでみれば 今にも切れそうな細い線が
僕に美しい心を探し求めさせ続ける
そして僕はだんだん歳をとっていく
(C)Song Writer: Neil Young 1972
かつてストーンズは「Heart Of Stone(石の心」と歌い、S&Gは「I'm A Rock(僕は岩」と歌った。 それで僕もかつてはそうだった。でも今は、Heart Of Gold(黄金の心)だ。 そしてだんだん歳をとっていく。

米同時多発テロ(G2001.9.11)の後、ジョン・レノンの「Imagine」を歌ったのはニール・ヤングだった。アメリカの戦争気運を揺るがすと言われ放送自粛されていた曲を敢えて歌った。カッコ良かった。実際のところ、僕はあまりこの曲が好きではなかった(どちらかと言えば「MIND GAMES」の方がいい)のっけから「天国なんてない、頭上にはただ空があるだけ」と宗教(キリスト教)を否定し、それから国(国境)、財産なんてない、と歌う。しかもただそれを想像してみてくれ、と言う。まさにマインドゲリラになろう、という呼び掛けだった。その曲を「God Bless America」なんて歌うポップ歌手の脇で歌ってしまうのだから彼はカッチョいい。で、それから色々な場所でその曲を聴くのだけど、もう時期は逸していた。あの瞬間だけがロックであって、皆でお手々繋いで合唱しましょ的な民青(共産党)のりでやられるとウンザリする。 それでは僕の心はROCK(岩)に逆戻りしてしまう。

「森の中で一本の木が倒れた時、耳を傾ける者が居なくても音はするだろうか?」というバークレーとヒュームの論争がある。果たして、音はしたことになるのだろうか?それを観察する者が存在せずに(音を聴く者が居ない)その音が鳴ったということが言えるのだろうか?極めて哲学的な質問だけど僕の答えは、音はしている、だ。意識の中で人間が世界を認識するしかないことは分かるが、誰がそこに居ようが居まいが、陽は昇り沈み、月によって潮の千満は繰り返され、一本の木は倒れるのだから。それは「永遠(永劫)」ということ。 思い上がっちゃいけない。僕らは生かし生かされている。

「我々は夢を見る事を決して止めてはならない。夢は魂に栄養を与える。それは丁度、食事が身体に栄養を与えるのと同じだ。我々は人生で何度となく、自分の愛が打ち砕かれ、失望する時を体験する。 しかしそれでも我々は夢を見続けなければならない。」

「良き戦いとは、夢のために戦われる戦いのことだ。 我々が若く、夢が初めて内側からはじけだす時には、我々はこの上なく勇気に満ちている。しかしまだどう戦えばよいのか、その方法を学んでいない。努力に努力を重ねて、戦いの方法を学ぶが、その頃には、すでに 戦いに赴く勇気を失ってしまう。そこで我々は自らに背き、自分の心の中で戦い始める。 つまり、我々は自分自身の最悪の敵になるのだ。そして、自分の夢は子供じみていて、難しすぎて実現できない、人生を十分に知らないせいだと言い聞かせる。良き戦いを戦うのを恐れて、自分の夢を殺してしまうのだ。」パウロ・コエーリョ/星の巡礼

明日から3日間、13の月の暦提唱者ホゼ・アグエイアス氏のセミナーに出掛けてきます。 暦は、物語(世界)の創造です。時間は自分自身が造り上げる芸術です。誰か他の人の脚本ではない、自分だけの脚本。「Time Is Art」とホゼ氏はよく言います。カレンダーはその物差(尺度)の道具でしかない。大切なのは、自分自身の夢のために戦うこと。美しい心を探し求め続けること。
ありがとう。Inlak'ech



「デレドミ」

太陽(09)の月12日【KIN 129】赤い水晶の月
G暦2004.03.18


なにかものすごく早いペースで書いているよう。どうした?どうしたもこうしたもねー。すったもんだの態。 こうやって文章を束ねてると安心する。自己顕示欲が満腹になる。利己主義は、貯金通帳に上る金額を眺めてニヤニヤしてる。エゴは人にとって救命胴衣のようなものだ、と宇宙から来たアミは言っていた。それがないと泳ぐこともままならない。なにかに憑かれているな、或いは狸やら狐に化かされてるんだろふ。

「デレドミ」(正式名称:デレク&ザ・ドミノス)とは、70年に発表された「Layla and Other Assorted Love Songs」いわゆる人気曲「レイラ」が収録されたアルバムを発表したE.クラプトンのバンドのことだ。 今さら説明不要の名盤ではあるが、自分は何よりもこのアルバムを愛している。 ビートルズ、ストーンズ、デッド、ニール・ヤング、フィッシュ、そりゃそうだろうが僕にとってはこのバンドが何よりも変え難いのだ。もはや今のE.C(エリック・クラプトン略)には見る影もない。 「Eric Clapton」という彼の名前をアルバムタイトルにした1stソロも大好きだ。それを放った直後に結成されたデレドミには、その当時のE.Cのエッセンスがすべて詰まっている。レイドバックしたE.Cや、インプロバリバリのクリームも大好物だけど、やっぱりこのスワンピーな彼には太刀打ち出来まい。そしてボビー・ホイットロックとE.Cの掛け合いダブル・ヴォーカルに痺れるのだ。ディアン・オールマンとのギターもいいだろう、がやはり僕にとってはボビー・ホイットロックの圧倒的な歌だ。それも横から押し掛け女房気取りでかっさらうようにはいってくる感じがたまらない。E.Cのへたうま歌唱も絶妙だ。歌なんかうまくなくったていい、僕にはこの頃の情感たっぷりなふうがいい。そうしてこうやって熱い想いを語ってみたところで、今の僕の周囲にはそれを分かち合う友達も居ない。NAVAJOの黒木氏や、ヨーロピアンパパの新童氏は分かってくれるだろうけれど、そうやって飲み交わす相手はもはや遠く、10数年前に発奮しながら煽った酒を思い出しながら独りでこのアルバムの前、咽び泣くのである。まごうことなくオヤジなり。 想いが伝わらない時、僕は独り勝手に呟く。「デレドミ状態」だと。

「Tell The Truth」を昔いたバンドで演ったことがある。年齢ではないが20才そこそこのクソガキに、あの情感や艶が出せるはずもなかった。そのバンドが無くなったのも、きっと自分の身勝手からだったんだろう。 なぜなら、それからもその時のメンバーは音楽活動を続け、僕はここでこうしてるんだから。 デレドミやバーズ、それにNAVAJO、僕はこれらのバンドに憧憬を抱いていた。それができないバンドなんていらなかった。それからも何度か挑戦してみたのだけど、20代半ばでそれも断念してしまった。 キムさんの店で、E.Cを肴にみんなで演奏したのが20代も終わる頃。ジョン・レノン追悼でそれからも何度かベースを握ったけれど、そいつももう止めてしまった。べつに残傷などはない。自分が選んだことなのだから。またどこかできっと演れる。それはそう感じているから。

デレドミ状態から逸脱したいね。「Why Does Love Got To Be So Sad」が流れてくる。勢いがつく。 「Lettle Wing」があればなぁ。もう知らないよ、君らの音楽は君らのもの、僕の音楽は僕のもの。 そこに摺り合わせはいらない。ああそれじゃスワンプ(SWAMP)じゃなくて、スランプ(SLUMP)になっちまうな、はは。やっぱ「Keep On Growing」だ。過去も未来も見なくていい。今に生きていこう。 きっとそれが肝心要のこんこんちき、に違いない、ゼ。←石鹸酒場風



「附加」

太陽(09)の月10日【KIN 127】青い惑星の手
G暦2004.03.16


ふと、13の月の暦について考えてみた。今現在各国に共通のグレゴリオ暦だろうが、日本で明治まで使われていた太陰太陽暦(陰暦)、エジプトのシリウス星と太陽の周期から生まれた太陽暦、まぁなんだっていいわけだ。しょせん日々を計測するためのカレンダーは、それ自体、ただの区切りでしかなく道具なのだから。 それだけのことなのだなぁーと考えて、それならばなぜこれだけ改暦をすることで世界への認識が変化するのかを考えた。いやむしろ何も変わりはしない。変わるのは暦の方ではなく、こころ(心)の方である。

「ガンダム」はあたかも本当にあった世界の様である。地球連邦とジオン公国との独立戦争(一年戦争)、ミノフスキー粒子の散布(電波妨害)によるモビルスーツの開発、コロニー落とし、キャラクターから兵器に至まで様々なディテール(detail)を凝らすことにより、それは架空ではなく限り無く現実に近付く。 ゲームなどで繰り返されるシミュレーション、ストーリーを強化するサイドストーリーの創作、発売される玩具は詳細を極め、また附随する読本の種類の多彩さ、それはあの「0080 ポケットの中の戦争」ではないがすぐそこで本当に行われている戦争のような、或いはすでに終結した歴史であるかのような錯覚に陥る。そういった意味で画期的なアニメだった。この物語だけで膨大な資料が記述され、年表から作戦データ、モビルスーツの開発から採用までの軌跡、その搭乗員、この壮大な曼陀羅絵巻は宇宙を象ってるのです。 それは「スターウォーズ」でもいいし「スタートレック」でもいい。なにしろ本当にアメリカ人はエンタープライズ号が宇宙(そら)を駆け巡っていると思ってるんだから。そしてそこが、改暦のポイントだとも思った。それが虚像であれ真実であれ、観点はどのようにして信じられる物語を創造することにあるのである。 グレゴリオ暦は、まるで機械的に排他的にコトを進めていこうという資本主義な景観しか提供していないような気がするのだ。浪漫の欠片もそこには見えない。徹底して機械の一部になりたいのであらば、それでもいい。なるほど唯物論はおもしろい。量子レベルまで還元していけば、人間も機械と寸分変わらない部品が寄り集まって象られた機械のようなものでもあるかも知れない。DNA配列や、電気信号で気(こころ)はたちどころに変更されるものなのかも知れない。確かにある側面では、それもひとつの神話であるような気もするのだけれど、そこにまたがるような形で人は気持ちを求める。なにしろ、こころは誰のものでもなく、自分自身のものなのだから。そこに、共通の場(形態形成場)であってもいいし、同じ指針(暦)でもいいし、いや宗教であってもアニメーションであってもそれはいいと思う。そんな物語が欲しいのである。

ところでそれは「遊び」または「楽しさ」でもある。たくさんのオプション(option)で輪郭はさらに厚みを増し、どんどんとその創造を膨らませていく。ひとつの決め事が差異を生み出し、変化と生成が統合される。 世界を認識するため最初に行うこと(かたちの発生)は、真っ白な平面上(無)に引く、一本の線(区別)、だといいます。初原の創造行為。空虚において区別を描きだすことは、形式と時間を誘起させ、二元性と対立物を出現させる。つまりここでも、要点はその世界は「おもしろい」のか「つまらない」のかそれだけでいいのだとも思える。なんだ、それだけのことじゃないのか。感じていて気持ちのよい世界を想像してみればいい。それによって、楽しみが喚起されたら、それだけでいい。

だんだんと重くなってきてしまう。最初あんなに軽く、わくわくして考えられたのに、どんどん区切って分断していくことで重さを増していく。重力を身体全体に感じて、宇宙(そら)を睨む。 どうしたことだろう? それでまた僕は、最初の議題へ戻らなければならない。考えるより感じる方がいい。 附加(負荷)であり、俯瞰でもあるのだけど、ふと自分自身がわからなくなってしまったようだ。 そうしてあらゆるものを総動員して、また地ならしを始めたというわけであった。

水到りて渠成る:時期が来れば物事は自然に出来上がる喩え。水が流れてくれば自然にみぞ(渠)が出来上がること。



「Synchronicity」

太陽(09)の月09日【KIN 126】白い太陽の世界の橋渡し
G暦2004.03.15


【シンクロニシティ】意味のある同時生起(コインシデンス)、意味を持つかのように結び合わされた偶然のパターン。

*因果的には無関係でありながら、同じ、或いは似通った意味を持っている、ふたつ或いはそれ以上の出来事の時間的な一致。
*創造的行為。
*非因果的な複数の事件の平行的生起(パラレリズム)。 G.G.Jung(ユング)

形態形成場(morphogenetic field)理論。 「Cyberia」にラット実験の例を載せています。この説の提唱者シェルドレイクによれば、すべての物質は記憶の連合的な場をもっており、それが構造の形成や様々なプロセスを導くことに能動的な役割を果たしているといいます。 形態形成場という情報場は、新しい科学合成物質の結晶化や、構成原子から分子が形成される場合まで、すべての物質に働きかけている。同じプロセスが二度目に起こる時、形態形成場からの情報に導かれ、それが何度も反復されるほど、場の強さは増しより能動的にプロセスの方向性をコントロールするようになる、と。 思うにこれが、シンクロニシティ(共時性)の秘密なのではないか、とも思うのです。

僕はこの理論に執り憑かれている。どんなに無茶したって先駆者達の軌跡があってそれを辿っているのだと思えるし、よしんばそれを越えてしまったとしても次に続く誰かのための地図を造っているような気にもなれる。この場へたくさんの正しい情報を運んでいけば、負の力を追いやり、新しい世界が生まれるかも知れないんだ。それは徒党を組まず独りだけでできる運動、新しい冒険、知の探究。僕が考えた事は皆の気持ちにも芽生える、ということ。Rolling Over You and Me, Rollover! この世界を転覆させられるかも知れない。

ユングの集合的無意識(無意識にはすべての人類に共通の集合的レベルがある)という説にも相似している。 創造されたものの世界(クレアトゥーラ)が差異化以前の背景(プレローマ)からたちあがり、それ以前には原型(プシコイド)、それは物質と心の両者であり、またいずれでもない領域がある。

宇宙の起源といわれる「ビッグ・バン」とも類似性をみる。創造の最初の10 -43秒(一兆×一兆×一兆×1000万分の一秒)内において、空間と時間は宇宙そのものの大きさで起こっている巨大な量子的ゆらぎにまだ巻き込まれたまま。 つづく一万分の一秒をかけて空間は落ち着き、素粒子が生み出され、宇宙が膨張し冷えてくるにつれ、およそ200秒経過したあたりでこれらの素粒子は凝集して水素の同位体とヘリウム核を形成出来るようになる。 この数分が数百万年にもなるにつれて、全体は放射と衝撃波の渦巻くプラズマ・ガスに現れ、一億年後、この渦巻く塵から最初の星が形成され始め、その中心部で水素とヘリウムが融合してもっと重い分子を作り出し、 それが何十億年も経ってから、地球、さらに生命へと展開していくことになる。(一般的な科学的説明)

道端に転がる石が、宇宙だ。そこに宇宙との類似性をみる。いわゆるフラクタル理論だ。渾沌の中の秩序。 自己相似性。すべての大きなものと、すべての小さなものは、同列に置き換えられる。石ころが宇宙なら、僕も宇宙だ。ビックバン以前の「無」は、「からっぽ」でもあり「充満」でもあった。思考も存在も何も無い状態を「プレローマ」と呼ぶ。もっとも小さな点においてすら、プレローマには限りがない。その無限から、秩序と区別ある「クレアトゥーラ」が出現する。区別(二元論)は、差異を設定する。光と闇、善と悪、上と下、男と女、夜と昼、天と地、あらゆる極がたち現れ、対立する。これは人が知能(思考)を持った時、創造的行為のもとに生まれ、また二元性は「プレローマ」へと統合されて生まれいく。分離と融合は、絶えず繰り返され進化を生む。純粋な極性としてバランスを保っている時、このエネルギーは変型と変化を引き起こし、それからまた無限の源泉「プレローマ」へと統合される。

ことばで表現されるタオは、不変のタオではない。
ある名が名付けられるものなら、それは不変の名ではない。
天と地が出現したのは、名付け得ぬものからだった。老子

観察者が宇宙の起源を「ビッグバン」と措定した時、この物語は始まった。
長々と抜粋した「シンクロニシティ/F.D.ピート」の本は、たくさんのものを含んでいる。 形態形成場やユングだけでなく、内蔵秩序(デヴィッド・ボーム:大きなものに折り込まれている相似性。群集の中の個人。物質は心に近い秩序を持ち、個々の素粒子は量子ポテンシャルにより宇宙全体と結びついているという論)や、ソリトン(部分が、全体の表現を示す局所的パターン)、機械論、還元主義、因果律、対称性、ナスカピ(骨占い)や黄河の商(亀甲占い)、易経(陰陽/イーチン)など、 心と物質を両面から攻めていき極論に走ることなく両方を融合させ、シンクロニシティの特性を追う。 僕は中卒無学の輩なのでとても解説し得るべくもないが、とても面白く読んだ。単純に云ってしまえば、心と物質は同じ領域に在る、ということなのだろう。つまりシンクロニシティの起源はそこにある。 それと同時に、言葉=概念が芽生えた時、このすべてが始まったともいえる。観察者がその物語を創造(想像)した時に生起したのだから。そういった意味では、始めとは、観察者が創造出来ない世界=「無」であるということに異論はない。

「自然のさまざまなプロセスは、つねにエントロピー(非秩序、乱雑さ、物事の相互関係の欠如、の指標)の増大をともなうべし。」熱力学第二法則に対しての、プリゴジン「散逸構造」説は面白い。 システムは必ずいつか止まり構造が崩壊していく、という第二法則に、渾沌があるとき臨海点に達しそこでシステムの全体は非秩序から秩序へと移行する、つまり渾沌(非秩序)から安定した秩序が生み出されるというわけだ。 例えば細胞は、環境からエネルギー豊かな構造素材と科学物質をとりいれ、高エントロピー廃棄物を捨てていくことによって、絶えまない更新プロセスによる構造の維持と成長を成し遂げていく。同じように、村落と集落の無秩序な並びから、都市は生まれる。都市は環境から原材料(エネルギー、人々、食物、建築資材)を集め、ゴミを捨てることによって自らを維持する。つまりエネルギーの絶えまない消費や物質の流動(高エントロピー)といった代価を支払いつつ維持されるということ。

どんなところにも相似性を見つけることができる。相似性は、自然の中にも、人工物の中にも、僕自身と君との関係の中にも、占いや暦(カレンダー)の様々な符合にも、石ころ、空や雲、地球、銀河系、宇宙、細胞、さらに素粒子、あらゆるレベルに横たわっている。そしてそれらは関連しあいながらも、その領域を外れることなく、また僕らに帰結する。シンクロニシティという秘密の符合で、何かを想起させられる。 宇宙が生まれた時、その瞬間、僕らは生まれた。この周囲にある様々なものと、次元(波動)は違っていても、そのはじまりに一緒に産み落とされ同期した存在なんだ。それをこの本は感じさせてくれた。 シンクロニシティ(共時性)は偶然などというもんじゃなく必然であることを。
*抜粋・参考文献「シンクロニシティ/F.D.ピート 管啓次郎訳」原1987年、89年朝日出版社発行

存在しない「これ」はなんなのか?我々はすっかり戸惑って考え込み、黙って立ち去るばかりで、もはやそれ以上を求めない。というのは、もはや歩み寄るべきものなど存在しない時、人は何を探し求めることができるだろう?あらゆる探究は、はじめの原理をめざし、それにたどりついてしまえば探究は停止する。プロティノス(哲学者)

で、僕がいつも追い求めているものが、そこに少しだけ混在していた。何を知りたい?そのことを知るためにまた新たな書籍を手に取る。「人間こそすべてのものごとの尺度」であり、「一はすべてのものからなり、すべてのものは一から生じる」のだろう。世界はその質量以上のエネルギーを変換することはできない、はずだったのだが、量子の世界では真空状態(無)は無限のポテンシャルを持ち、その無限のエネルギーが素粒子を発生させ物質のすべての変換を引き起こすばかりでなく、時空そのものをも発生させる。 ビッグバンの初源の瞬間t=0において、あらゆる方程式と法則はやぶれ、結果は無限となる。数学的にいえば特異性(シンギュラリティ)といわれる。その「無」が、この僕らの世界を生み出したのだとしたら、これは最大の「 ? 」だ。とはいえ、すべてを同列に扱ってはならない。人の感知出来うる世界はそこまでだ。昆虫の感じている世界を知覚出来ないし、細胞の見ている景色も感知出来ない。レベルが、根底から違っているのだから。しかしそれぞれの種には、きっとあるレベルでの共同意識(場)が存在しているに違いないのだ。形態形成場がその様々なレベルでの世界を繋ぎとめ、そして共時性がそのあらゆる段階で同時にサインを送る、そんなことも考えられたりするのだ。

かつて「渾沌(CHAOS)の中にも、ある種の秩序がある」とジェリー・ガルシアは言った。
「大量生産とフラクタル理論」 はG暦97年に書いたもの。僕はそこからどれだけ歩いてきたのだろう? そしてこの路はいったいどこまで続いていくのだろう?



「Wait」

太陽(09)の月07日【KIN 124】黄色い共振の種
G暦2004.03.13


意図して待つ。性急に答えを求めずに、一旦突け放してから、今一度掴んでみる。どうだ、それは正しいのか?間違ってはいないのか?その感触如何によっては、それを捨ててしまったっていい。それができるようになるためには、まず自分自身を信頼していなければならない。悪魔が囁く。早く奪ってしまえ、すぐに掴まなければ逃げていってしまうぞ、そんなのに飲まれてしまってはいけない。慎重に自身の直感を信じる。 誰かの基準も、社会通念も、常識や知識も、そこにあってはならず。選び取るのは自分だけ。本物か?

待っている間にも、悪魔は現れる。もうそれは諦めてしまえ、やっぱり偽物だったのだ、いや本物ださっさと掴まなければ一生悔いることになるぞ、云々。それでも、じっと時期を待つ。霧や靄が晴れるまで、そこから動かない。そして自身の正しい選択肢を行使して、思考の透明度を探る。まだ淀んでいる、待ってみる、まだ沈澱していない、待ってみる、そうやって辛抱してみる。そのうち立ち消えてしまう問題も多々ある。 ただ幻惑されていただけのことを知る。しぶとく居残っている奴もいる。まだ待つ。奴はまだ居る。それは待った甲斐があったのかも知れないし、意図していた種類のものではないのかも知れない。とにかくわかることは、待つだけの時間を僕らは与えられている、ということだけだった。

中毒はいけない。恋愛もお酒も仕事も、中毒は互いを喰い潰してしまう。中毒は依存と同義語だ。 エネルギーを互いに奪い合うコントロールドラマに巻き込まれてはならない。中毒するぐらいならば、いっそそのものになってしまった方がいい。それだけの覚悟が出来ているのならば、恋愛そのものになってしまえばいいのだが、さすがにそこまでの度胸はない。だからこれも待ってみる。 脅迫者、被害者、尋問者、傍観者、そのどれかに当てはまっていないかを考えてみる。他者から気を奪い取るような遊戯には参加しないこと。そこには不毛な消耗と減退しか見えてこないから。

いうなればなんだっていい。これはただの経路であって、出口でも入口でもないと言い張ることだってできる。永遠に続く思考の幹線、枝別れしては繋がり、そうやって走り続けていく。止まらないのであれば、結果はそこには存在しないのである。立ち止まったところを、結果と称しているだけに過ぎないのだ。 答えなんてない。ただ思考が連なっているだけ。どこの断面も正しく連続性の一面を表現している。 答えはあの世で聞くさバイバイ、と云った江戸アケミはこの点正しく、死という境界線からあちら側へ往ってしまった彼のあの世の答えを是非知りたいのです。

風邪を病んでから、また随分とダークな面を考えた。悪態をつく時は信用していない時に限っている。 自分を、君を、今を、夢を殺してしまっている時、限り無い悪循環にハマり込む。 それをこれ以上ここで云うのは厭だ。見せたくない。

誰もが変換機を持っている。待っているうちに、プラスの要素を掻き集めてマイナスだったものをプラスに変換する。プラス(積極性)をたくさん集めれば集める程、マイナス(消極性)の力は弱まりいつしかかき消されてしまう。それを繰り返せば負けることはない。ずっと勝ち続ける。ホゼ氏がよく云う勝ち勝ちゲームになる。

僕は傍観者だ。時々、被害者にもなる。それさえ知っていれば、そんな遊戯の真っ最中にそこから降りることができる。みんなもっと自分自身を大切にしよう。自身の不調和の問題が、世界の不調和と繋がっている。 そしていつもここで書くようなことを、ひとつでも自分が出来ていたらいいのにと思い描くのだけれども、やっぱりまるで反対の方向へハマってしまい誰かに心配をかけてしまったりする。

喜怒哀楽はこの世界の特権だ。戦士の旅が始まりました。今月も一喜一憂、楽しんでいきたいのです。


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