ワッシャー TRASH
白いスペクトルの魔法使いの年(YEAR OF THE WHITE SPECTRAL WIZARD)



スペクトルの月(Spectral Moon)
「Reptilian」
「Epitaph」
「Outspoken」
「Happiness Is A Warm Gun」




「Reptilian」

スペクトル(11)の月26日【KIN 199】青い自己存在の嵐
G暦2004.05.27


こうも言えるだろう。自分は極めて合理主義者であると。道理に合わないことはしたくはない。目的地へ早く到着すべき手立てがあるのならそれを行使しない手はないと。話すべき題材がない時に、もたもたそれを濁して長居はしたくないと。そういった意味で言えば、"12:60"な世界の住人であった。無駄を徹底的に排除したいのである。便利さや快適さを追求して時間を節約したいのである。どんどんそれで余った時間を貯蓄したいのである。もちろんそれが以前の自分であった。のんびりと道草しながら歩いたり、その時の偶発性や即興を楽しんだり、時間は節約するものでもなければ金銭と交換するものでもなく、自分自身が創り上げる芸術的なものであると。だから"13:20"の世界も知っている。どちらの世界も現実に人々の頭の中に存在している。こうやって2極化することは、このゲームのルールに従いこの遊戯に参加していることからきていた。本来、そのことを考察したり、比べたり競ったりする必要さえない。在るべきものがただ在るというだけであったのなら。そのどちらも僕に巣食い、臨機応変に姿を変えて、社会や常識の範疇で活躍していた。 合理的であること、それは能面のように顔面蒼白にして鉄面皮、冷血動物のようでもある。そうか、爬虫類的なのだ。冷たい目以て相手を凝視する。恐竜ははるか以前に滅んでしまったが、僕らの遺伝子にいまだ息づいていて、まだこの星の支配権を得ようと足掻いている。だからその特性をも取り込んでそれを越えていくことも必要なのだろう。

かつて、ジム・モリスンは自身をこう呼称した。「Lizard King(トカゲの王)」と。
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上記、昨日"白い電気の鏡"に記述したもの。中途で放り投げてしまった続きです。自身を爬虫類的思考と重ねてみて、そんなことをボンヤリ頭の片隅に置いたまま仕事へと出掛けてみたら、またそんなゲームに入ってしまったりして少し躊躇してしまう。僕はこの30数年の間に、ある程度感覚を遮断する術を心得た。鏡越しに風景を眺めるように、それから言い繕いや逃げ口上、防壁や社交術、気持ちに直撃を受けないようにしたり、或いは守りより攻撃に転じてみたりしてやってきた。流されて、あまり自身を顧みないようにして、楽観視して、時間を遣り過ごしてきた。けれど改暦してからは、もう少し自身を労ったり、自己犠牲や憐憫や否定、そんなことよりも違う方法で探ってみようと思った。ま、それはまた新たな逃げのバリエーションであるのかも知れないが。僕にできる方法で相手を尊重している積もりなのだけど、知らず知らずのうちに傷付けてしまっていたりする。無意識の殴打、それを指摘してくれることに感謝するし反省するべき場面は多々あった。 僕の流儀は、相手の信念に介入しないことである。それに対して肯定も否定もしない。ドライに見えたり、冷淡だと思われることもあるけれど、それが直撃を回避する手段でもあった。攻撃的になっている時は、頬を赤らめている時か羨んでいる時に違いない。それとも、サービスの積もりで道化てる時か。 だから黙して語らずということも考える。言い様に取られればこれ幸いだ。しかし正直であらねばならないとも思う、せめて嘘はつくまいと。言葉は魔法である。一言、それを言ったら永遠に葬り去られることをも僕は知っている。それを口にしない、ということは正直ではない、ということなのだろうか?性急に答えを出すことより、待つ、という手立てもある。時と場合、タイミング、言葉の政治、それらはこの社会のルールに従って繰り返される。禁忌を決めるのは自身だけだ。こうして堂々回りして、やっぱりこのゲームからは逃れられないことを知る。突き抜けるしかないのだ。この場所からでは、あまりに客体化出来ず、取り込まれたまま身動きがとれず、マトリックスの世界(プログラム)で右往左往しているだけじゃないのか?

「人間は正直でなければならない、と最近つくづく感じます。愚かな感想ですが、昨日も道を歩きながら、つくづくそれを感じました。誤魔化そうとするから、生活がむずかしく、ややこしくなるのです。正直に言い、正直に進んで行くと、生活は実に簡単になります。失敗ということが無いのです。失敗というのは、誤魔化そうとして、誤魔化し切れなかった場合の事を言うのです。それから、無欲という事も大事ですね。欲張ると、どうしても、ちょっと、誤魔化してみたくなりますし、誤魔化そうとすると、いろいろややこしくなって、遂に馬脚をあらわして、つまらない思いをするようになります。わかりきった感想ですが、でもこれだけの事を体得するのに、三十四年かかりました。」-太宰 治

「多くのひとたちにとって、問題はナルシシズムである。ナルシシズムはとても小さな宇宙の中心(COU)である。ひとは少なくとも三人のひとを包む程度まで、COUを広げる必要がある。そうずれば、ひとは癒される。エゴイズムは、もしもエゴの境界が余りに狭いものにならないならば、素晴らしいものである。ぼくは世界で一番大きなエゴを持っている。」-ジョン・C・リリー





「Epitaph」

スペクトル(11)の月24日【KIN 197】赤い月の地球
G暦2004.05.25


「どうか僕のことを厳しく批判しないでほしい。」-ブライアン・ジョーンズ

「かれは、人を喜ばせるのが、何よりも好きであった。」-太宰 治

墓碑名はなんでもいい。バロウズのインターゾーン、ユングの集合的無意識、シェルドレイクの形態形成場、リリー博士のオルタナティ、すべてが同時に喚起され、あらゆる可能性が無限に並んでいる。どれを選択することもできるそれらの領域は「ONE」の波の揺らぎに似ていた。夢の中にも似ていた。手を伸ばせば届くそれを掴めばいいだけだ。偶然に掴んだそれは君にとって間違いなく正しい。寄せ集めのこれらスクラップが僕を象っている。閃き。

「決まった哲学や安全な信念や特定の生き方にとらわれてはいけない。実験しなさい。命がけで、愛をこめて。いのちの、愛の、ひとのいきざまの、生活様式やひとの自己の内部の、本物の自由奔放さを探るのだ。いま現在の、可能で、間違いなく、確固とした、現実的な空間の概念の向こうにある新しい空間に突入せよ。ぼくが今知っている現実よりはるかに大きく、もっと内面的で、もっと外面的な現実がある。ぼくが今感じているものよりはるかに面白いものは、空間の深みであり、内界を超えたものであり、外界の無限性である。愛と、愛することが、基本だ。敵意は必要ない。恐怖には意味がない。死は神話でしかない。ぼくはぼくだ。」-ジョン・C・リリー

信念が体系だって君を象ってる。それは間違いなく正しい。真実は同じく並行し、たくさんの可能性の見本が並んでいる。好きなのを選んで持っていけばいい。そしてその信念の制限が窮屈だと思うのならば、新しい選択をし違った真実を持ってみればいい。どこで何が起きようとも、その懸け離れた距離と無関係な大量虐殺を自身に照らし合わせて思い煩うなんていうことを僕は選択したくない。「それは僕のじゃない、僕に背負わせないで、で、で、で♪」と清志郎が歌っていた。君は君の信念に従っているだけなんだね。それでいいじゃないか。他者は放っておけ。

ぼくときみがここにいるのは 種をまくためなの
ぼくたちのきずなは 子供をつくるためなの
ぼくたちにはそれ以外の目的が何かあるのかな
甘い出会いと甘美な溶け合い、恍惚のなかでひとつになる
きみのすてきな秘密を突き止めたい
ぼくの好奇心は、きみを愛し、きみを知りたがっている。
ぼくたちを駆り立てるのは、ただ子孫を作りたいという衝動だけなのかな
寝たり、いちゃついたり、うっとりしたり、愛したり、やさしい思い遣り、
与えることと与えられること、自由なセックス、誰もが自己を捨て、
エゴを捨てることは、はかない望みなの
ぼくたちと、それに子どもたち
母なる地球の上で、繁殖するため、ここにいるの
もう子どもを産みたくない時が来たら、どうするの
その時、きみは何がしたい?
子どもが産めなくなって、子宮がなくなったら、どうする
その時ぼくは精子をほかの恋人にまき、妊娠させようとするのかな
この旅の終わりはどこなの
ぼくのこころはぼくにとって新しくて古いきずなを求めている
生殖をこえたきずな
きみと一緒に旅をして、きみと一緒に学ぶ
はるか遠くの空間を、存在を越え、生殖の第一指令を越えた 
そんなきずな
そこに到達するために、きずなを結ぶためには、ヴァギナに子宮は不要だ
そこに到達するためには、ヴァギナだけでいいんだ
きみのは、生殖に戻るための記憶として、きみにくっついているのかな
それとも、きみはその指令を超越できるのかな
ぼくはどうだろう 楽しみながら突き止めよう

ぼくときみふたりは、すでに子どもを作っている
きみには子どもがいるし、ぼくにも別々の、ぼくたちふたりのじゃない子どもが
きみはもう妊娠できない きみとぼくは子どもが作れない
ぼくたちは、愛しあったり、交わったり、ひとつになれるけど
ほかに何ができるんだろう
気持ちいいから、付き合ってるのかな
セックスして、あちらに行けるのかな、あちらは遠いのかな
かなたから、ぼくたちより大きな存在が招いている
ぼくたち一緒に行けるかな?それとも別々に独りぼっちで?
そこまで行けるのか、一緒に試してみよう
つながった肉体の恍惚という障害は、魂がかなたへと旅するエネルギーに変える
母なる地球の乳房にしがみついているこだわりを、建設的に用いよう
独立した自己を失うことを避ける気持ちを、ふたりのきずなをより強めることに変えよう
ふたりでひとりで旅するために、一緒にひとつに溶け合おう
競争とか、たがいにコントロールしようとせず、ふたりがそれぞれ溶け合おう
こんなことはただの夢、ファンタジー、たわごとなのかな
そうじゃない
これは、自分を越えたきずなのためのプログラム、メタプログラムなんだ
1969 John C. Lilly

「Break on through to the other side」-ジム・モリスン


「Outspoken」

スペクトル(11)の月20日【KIN 193】赤いスペクトルの空歩く者
G暦2004.05.21


台風一過。蒼空と心地良い風。瞬間の野郎をやっつけているうちに、こんなにも遠くにきてしまった。要するに、見覚えのない場所だった。何も考えていない。ざっくばらんに云えば無我夢中、五里霧中。こんな歌がよく似合ふ。扉の奥にまた扉、そのまた奥にまた扉、扉の奥にまた扉、そのまた奥にまた扉・・・・・扉扉扉扉扉扉扉扉…

逃げ足ばかり早くて一切は駄目な文章、放っておいても害はなかろう。小心者は舞台の陰で、ちらちらとこちらの様子を窺っている。云ったもん勝ちなのか。思いついたら吉日。浮かんだ言葉をエッホラ鷲掴みして、誑し込んで、電気信号に変換してやる。キーボードの勝利、PC冥利に尽きる、五臓六腑に染み渡る、兎に角以前ならこんなスピード感は無かった。手書きでは得られない速さで、瞬間の言葉を掴まえ、漢字変換したうえに放り出すことが可能になった。何も考えちゃいない、からっぽの頭からふとした拍子に浮かぶ文字列を披露しろ。カットアップだ。ビートだ。肛門で話してるんだ。思考はするな。猛スピードで。抜かなけりゃならない。

ジョン・C・リリー博士の伝記を読んだ。アイソレーションタンクの発明者、その隔絶された容器の中でLSDやケタミンを摂取し自らを実験した探究者、イルカと交信し異種間コミュニケーションを実証し、宇宙からの指令を傍受した脳化学者。中学1年の時に父と行った映画「アルタード・ステイツ」のモデルでもあったのだが、その当時観た時には単なるSFX映画という認識しかなく最近また見直してみて、あまりのブッ飛んだ内容に驚いてしまった。これを中1で観たら、そりゃそうなんだろうな。 (How To = 「John C. Lilly M.D.」 「政伸の小部屋」の中にある 「ジョン・C・リリー博士死去について」 35分:リリー博士のドキュメント映像が見られます。)

「人が真実であると信じるものは、実験的、経験的に見い出される限り真実であり、また真実となる。 しかしこの真実は乗り越えるべき信念といえる。信念とは経験の可能性を制限するものであり、心の働きには如何なる制限も存在しない。」ジョン・C・リリー

それからバロウズとクローネンバーグ監督が組んだ「裸のランチ」を久し振りに観た。こいつもスゲェ〜映画でブッ飛んだ。こうして神奈川・長者舎のレイヴを挟んで、昨日観たデレク・トラックスへと連なり、何の関連性も無いようでありながら、どうにかこうにかあやふやな匙加減で関わりあっているのだった。それもこれも僕という肉体の容れ物と精神が選択した現実。そうやって僕は今日も掻いている。想像上の君のことを考えて。ざっくばらんに云ってしまえば、そうゆうことになってしまう。こりゃあまりにも影響を受け過ぎっちゃあいるが。気が散る。



「Happiness Is A Warm Gun」

スペクトル(11)の月11日【KIN 184】黄色い月の種
G暦2004.05.12


She's not a girl who misses much. do do do do do do do do.

つらつらと過ごしているうちに、どんどんと時に埋没してしまう。その場で絞め殺さない限り、したかったこと、できなかったこと、浮遊霊たちは忘却の彼方へと追いやられ、浮上の隙を窺っている。それを選択したのも自身の裁量だ。思い出す過去、思い馳せる未来、どちらも雲の巣状に瞬間から広がっていく。今をやっつけろ、今のとどめを刺せ、生かしておくな、そうしないといつかこちらの息の根は止められる。 以前、重要だった問題が軽々しく扱わていることに驚愕した。あれほど大切だったものが、いまや何の役にも立たないクズ同然と成り果てている。冷却、それから沸騰、また冷えきって、その問題の質量は変動していった。もうその書籍には用はない、捨ててしまって結構。あんなに貪欲だった食欲も満腹感と共に消え失せる。皿に残った肉片は、胃に収まらなかった食物たちは、僕と融合できなかった。さようなら。

Mother Superior jump the gun.
Mother Superior jump the gun.
Mother Superior jump the gun.
Mother Superior jump the gun.
Mother Superior jump the gun.
Mother Superior jump the gun.

まだ旅は続いていた。ゴールデンウィークに皆で京都の鞍馬山へ行ってきた。そこで行われた5月満月祭(ウエサク祭)へ参加した。生憎と曇り空で満月を拝むことは出来なかったが、たくさんの目に捕らえることのできないエネルギーがそこら辺りに漂っていた。河童、狗族の類いから、妖精、精霊、地霊、魑魅魍魎たちがうようよしていた。それは居てもいいものだった。在るべき存在でもあった。目や耳や鼻で感知する以上に、在るという感覚で捕らえるべき種類のエネルギー体だった。此所は僕の身体という入れ物が感じる領域以上、この乗り物から抜け出すことが出来るならばきっとそこで出会えるべき存在がたくさん集まった聖域なのだろう。貴船神社へと通ずる山道を早朝に散歩して、長く天まで伸びた杉の木を地面から見上げた。 天狗が通り過ぎたように風が吹き抜ける。杉がそれにあおられ、ゆっくりと首を傾げる。その隣の杉も、またその隣の杉も、同じように傾げる。映画「フェノミナン」の主人公のように自分も風と同じ方向へ揺らいでみる。木々と同じように風に吹かれて揺れてみたら、とても心地良く、穏やかな気持ちになった。それから自身の許容量を超えてしまったのか腹痛が襲ってきて、山道を走って鞍馬寺へとスタコラサッサと逃げ帰った。ここまでだった。身体でしか感じることの出来ない心地良さ、こころでしか感じることの出来ない心地良さ、そのふたつが重なり合う心地良さ、生きているからその同時を体験することが出来るのだ。 「TRAVERSES THE KANSAI」から5年半、去年のSCIでの京都ともまた違った今の景色が其処にあった。この街は日本人のこころと繋がっている。 (How To = 「鞍馬寺ウエサク祭」

つまり、つまらない。怠惰であったり、幸福であったりする日常が繰り返される。刺激には飢えていない。晴耕雨読というわけでもない。やってくるものを受け入れたり、伏せたり、するりとかわしてみたりする。 今月スペクトル(11)の月のキーワードは「解放」。問いは「わたしはどのように解き放ち、なすがままにさせるのか?」です。もはや何のこだわりもなく、自由に立ち振る舞う時です。それは今まで培ってきた土壌の上で展開する草木のようでもあります。解放することで花開き、種をつけることもできるのだけど、土の状態によっては根を張ることも出来ず栄養のバランスが崩れ、自身で立つことも侭成らないことだってある。どんな場合だってありうることだけど、自身を信頼して解き放ってみよう。なんたって、幸福は温かい銃なのだから。発射したばかりの、銃煙うっすらと舞い、焦げ臭い匂いが鼻につく、幸わせは温かい銃。

Because Happiness Is A Warm Gun, Yes it is!


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