ワッシャー TRASH
白いスペクトルの魔法使いの年(YEAR OF THE WHITE SPECTRAL WIZARD)



水晶の月(Crystal Moon)
「idea」
「水晶の舟」
「Constant Change」




「idea」

水晶(12)の月14日【KIN 215】青い共振の鷲
G暦2004.06.12


「本来無一物」という禅の言葉がある。「菩提、本(も)と樹無し、明鏡も亦、台に非づ本来無一物 何れの処にか塵埃を惹(ひ)かん(菩提はもとより樹でなく、鏡もまた鏡でない。本来、無一物であるのに、 どこに塵がつくところがあろう)」 という慧能禅師の詩偈。 悟り、煩悩、概念の世界を消し、さらに一物さえ無いという考え方さえ否定してしまう。

十牛図
1、尋牛(失った牛を探す。本来の自己が内にあることを知らずに探しに出るところ)
2、見跡(牛の足跡を見つける。足跡を見つけてもそれは知識として牛の存在を知ったに過ぎない)
3、見牛(牛の声を聞き、後ろ姿を見る。しかしまだ牛のすべてを見たわけではない)
4、得牛(ついに牛を見つけ手綱をつける。嫌がる牛を引きつけようとしてる状態)
5、牧牛(荒れる牛を飼い馴らし連れて帰るところ。ここで初めて牛の顔が描かれる)
6、騎牛帰家(牛に乗り笛を吹きながら帰る童子。牛と童子は一体となる)
7、忘牛在人(家に帰って牛のことを忘れ、牛も居なくなる。つまり悟ったという気持ちを忘れた境地)
8、人牛倶忘(何も描かれず。牛も人も忘れ去られ、迷いも悟りも超越し、空のみが在る)
9、返本還源(童子も牛もなく、悟る前と同じく水は流れ花が咲き誇る)
10、入テン垂手(童子と悟りを得た老人の対面。)

最近、禅の書籍を読んだ。そこに載っていた十牛図は、禅の悟りを説明した図(牛=自己:一般的解釈)であるといわれているが、これでいくと自分は「2、見跡」辺りをウロウロしているなと思った。「3、見牛」の画のように尻尾ぐらいは見たいなと思うものの、いまだ足跡を追ってばかりだ。兎に角、これもひとつの見解に過ぎず、問題も正解も得られるわけではない。労してこれを引っぱってきたって、それはただの「知」であるばかり、知的欲求を満たし新たな書籍を漁る、畢竟、頭でっかちな鉄面皮が出来上がる。 禅に於いて、是非は無い。自己が信じた道だけが悟りである。指を一本立てるばかりの禅師も居る、草履を頭に乗せ続ける禅師も居る、己が信じ悟った道だけがその人本来の自己であった。そういった意味で、禅問答や禅に関する文献には何の意味も無いのである。戒律、書、画、歌、茶、庭、武、多岐に渡り展開する禅の世界は、これすべてある側面を具現化させ切り取っただけである。そこにある奥義は各々が探す他ない。

僕はといえば、相変わらず相変わらずで、逃げ上手、あの手この手でああ言えばこうゆう録で、怠惰の言い訳ばかりしている。

「私は、すべて、ものごとを知っています」と言いたげな、叡智の誇りに満ち満ちた馬顔に、私は話しかける。「そうして、君は、何をしたのです」碧眼托鉢/太宰治

「自分ひとり作家づらをして生きている事は悪い事だと思いませんか。作家になりたくっても我慢して他の仕事に埋もれていく人もあると思いますが」
「それは逆だ。他に何をしても駄目だったから、作家になったとも言える。」
「じゃ僕なんか有望なわけです。何をしても駄目です。」
「君は、今まで何も失敗してやしないじゃないか。駄目だかどうだか、自分で実際やってみて転倒して傷ついて、それからでなければ言えない言葉だ。何もしない先から、僕は駄目だと決めてしまうのは、それは怠惰だ。」みみずく通信/太宰治

それに尽きるのですね。何もしてやしない。こんな映画を見ました、本を読みました、そう言っていました、きっとそうなるだろう、明日は明日の風が吹く、、、云々。僕は、着膨れしたお化けみたいだ。 そうしてここで知識の発表会。「腰が重たくッてサ」はぁ、どうしたもんだか。明日から3週間あまり仕事を休んで独りになる時間を持つ。"idea" を紡ぎたい。今月水晶の月に逢うのはこれきりですが、来月宇宙の月にまた出会えることを。またね。In Lakechi



「水晶の舟」

水晶(12)の月11日【KIN 212】黄色い自己存在の人
G暦2004.06.09


何も表現していない状態のことを「空」というんだろうか?禅では大悟した後、そこからが大切だという。悟ったということをも捨て、さらに空っぽへと向かう。死への準備は出来ているのか。どこから切っても切っても同じ景色が連なり、金太郎飴のように連続して「生」は続いていく。「息」は繰り返し風を起こし続け、「意気」は込みいったり消沈したり浮き沈み、「粋」に息巻き、生き急ぐ。この列車は、どこ行き?今は、息抜き。行きつ戻りつ。 いわゆる虚空。そこに線を引き、幻想を抱き、様々な遊びを表出させる。無関係の言葉を連結させ、乗り入れて、脱線する。向かうところ敵無し。目下のところ用無し。 答は無数に至る所に在った。どれを掴んでも構わなかった。万物は同根、是非は一体。僕のレーダーは君を捕らえ、スクリーンには理想像が映し出されている。許より、そこに質問は存在せず、答も生ぜず。 水晶の舟は、ただ万人を乗せ、さざ波を漂っていく。

様々な書籍、絵画、音楽、衣類から小物に至るまで、僕を包囲して悩ませた。この趣味趣向、嗜好てやつはとぐろを巻いていて、下痢の如く水っぽいやつを止めどもなくまき散らす。すごく限定され偏屈で狭い世界の遊戯だった。そんなことを、デレク・トラックスのライヴで感じた。自分が選んでそこに足を運び、観衆の一部となっているというのに、それが解せない。なるほどそこの会場に僕はピタリと収まって違和感などはない。 範疇を超えることなく楽しい。僕が好きな音楽が鳴っていた。しかし、虚無感が漂ってきて僕を捕らえる。それを消し去る術さえ持っている。どこへでも行けるのに、何もせず、そこで足踏みをしている感じがした。うん、少し飽食気味なのかも知れないな。男性は男性の振りをしてるようだし、女性は女性の振りをしてるような気がした。皆、誰かの真似をして本物のような顔をしていて、それらのオリジナルなどはもはや存在していない。だから、職業や肩書きや格好や紙幣で武装して、化ける。気味が悪い。それから時を経て、自分自身のそれらを捨ててしまいたくなり、荷を降ろした後、またそれを背負った。一旦、それを考えたという事実は残ったのだが、やはり背負っている荷に変わりはなかった。それが自身を表現するために必要な "Identity" というやつに違いない。「知」が邪魔で、思考よりも感情を優先しようと目論むのだが、返ってそのように思うこと事体、意味のないことである。心を空っぽにしようということで、心を満たしているのと同じことだ。もうどうとでもなれ。ただ歩かん。

Crystal Ship

Before you slip into unconsciousness
I'd like to have another kiss
Another flashing chance at bliss
Another kiss, another kiss

君の意識が 無の中に 滑り込む前に
今一度 くちづけさせてくれ
今一度 目くるめく至福の時を
今一度 くちづけを くちづけを

The days are bright and filled with pain
Enclose me in your gentle rain
The time you ran was too insane
We'll meet again, we'll meet again

日々は 光に満ちて 苦痛に満ち
包まれていたい 君の優しい雨に
君の生きている時間は 狂気に満ち
今一度 会える 会える

Oh tell me where your freedom lies
The streets are fields that never die
Deliver me from reasons why
You'd rather cry, I'd rather fly

告げてごらん 君の自由は 何処に在るのか
街は 死ぬことのない広大な地
なぜという問いから 僕を自由にしてくれ
それよりも 君は泣き 僕は飛んだ方がいい

The crystal ship is being filled
A thousand girls, a thousand thrills
A million ways to spend your time
When we get back, I'll drop a line

水晶の舟は 満たされていく
千人もの女たち 千もの震えるようなスリル
百万もの暇つぶし
戻った時には 手紙を書くよ

(C)Song Writer: 1967 by Jim Morrison as The DOORS




「Constant Change」

水晶(12)の月04日【KIN 205】赤い惑星の蛇
G暦2004.06.02


先月はとっちらかって「解放」と言っては好き勝手にさせておいた。それがどこへ向かうのかなんて考えずにたくさんの切符を買い、汽車に乗り、途中下車しては乗り換えて、宛先不明の郵便物のようにまた差出人に突っ返されてしまった。何処にも行っていなかったんだなぁ、とぼやく。そうしてしまうと今月水晶(12)の月の意味が大きく変わってくる。問いは「生きとし生きるすべてに自分自身をどのように捧げるのか?」行為を変換する最後の角、キーワードは「協力を捧げ」「普遍化する」、という流れに突入したというのに、まだ僕はぎこちなくうすら笑いを浮かべて狼狽しているのだ。(うすら笑いは余裕のふうで、狼狽は混乱を来たしたことを表わしてる)しかしそれでも、それでいいじゃないか、と思う。何処へ向かおうともそこにはそこの景色があって、一連の動きがそれを引き寄せているのだから憂うことはない。「きみの感覚を使うとよい 偶然からあつめたものを持っていけ」とディランは歌った。嗅覚を信じて歩いていくしかない。どこを歩いていたってそれは自身の信念が導き出した道なのだから。

他者の言葉を拝借して知らぬ顔して脂下がる。もうそれは止めよう、とか言っちゃってみたりして機会を窺う。知らぬが仏。書ける者は書けばいい、話せる者は話し、歌える者は歌うだろう。自分自身を肯定するため、癒すため、赦すために、やれることをやっていけばいい。そうしていけば、いつか本物だと信じられる自身の言葉と出逢うはずだ。それまでは借り物でもいいじゃないか。「時はなにかを知っているだろう だけど誰も気付かない 今はそのままで」by.NAVAJO

 TIME

血を 流せ 流せ 流せ 流しつづけろ
逃げろ 逃げろ 誘われるまま TIME
 やってくる空虚感

語れ 語れ 語りつくせ
動け 動け 思いつくまま TIME
 やがてくる空虚感
 孤独と孤立のはざま

骨はきしみ 肉を刻み 刻め
血を 流し 流せ 流されるままに TIME
 やってくる空虚感
 孤独と孤立のはざま

悲しみの中で 怒りと笑いが同居する
悲しみの中で 怒りと笑いが同居する

(C)Song Writer: ICCH 1990
言葉を知らなかった時期の詩。江戸アケミとジョン・レノンへのオマージュと思われ、その表題を時間と表している自身がそれはもう愛おしい。産まれ落ちたらそれっきりだ。常に、拾い、捨て、掴み、離し、投げて、選択を繰り返し、自身をプログラムしていく。またこれからも変えていくことができる。生生流転、変化を繰り返す。今は今のスイッチを入れ、アンテナを立て、様子を探る。それは必要なのか、信じられるのか、僕は僕の通りに歩いているのか、不安に駆られたら灯を落とす、六角柱の水晶の断面を思い出す。幾つもの面から眺めてみる。答は幾通りにもあって、自分に必要な面を開示してくれていた。見逃さないこと。感覚を頼りにすること。微弱な香りを嗅ぎ、少し触れ、それから内なる自然に尋ねてみよう。そうすれば僕と君が出逢った理由も必ず見つかるはずだ。
 RAIN

雨が降ったら 雨宿りすればいい
雨が止むまで 一緒にいればいい

雨が止んだら 君は出ていった
僕のこころに 土砂降りの雨が降る

残された僕に できることといえば
雨に濡れたこころに 壁をつくって
手に触れさせない RAIN

冬を過ぎない春なんてあるものか
歳を取らない若さなんてあるものか
無責任な自由が生きている
無責任な自由が生きている

(C)Song Writer: ICCH 1989
まだまだ思慮が足りない。自身を信頼していないのと同じように。けれど拙さは、今に見えないものを示してくれる。というよりも、それしかその時は見えていないということに、純粋で野卑で青臭い匂いを感じる。 大人の中に子供は生きていた。言葉はいつでも絶妙なタイミングで降ってくる。


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