ワッシャー TRASH
黄色い太陽の種の年(Yellow Solar Seed)

月の月(Lunar Moon)
「PEACE」 |
「幻視」 |
「Dying Hour」 |
「PASSIVE」 |




「PEACE」

月(2)の月26日【KIN 257】赤い惑星の地球


3日前、自分のキンの日に、4年目を迎えたBAR"RED G MONSTER"が営業を終えた。そして、次の日から2日間、蓼科高原・温泉旅行へみんなで出掛けた。ワダチも一緒だ。キャンプと違い、ホテルのロッジを借り、温泉を堪能した。流れる川、水しぶきを上げる滝、牧場、野原で寝転がり、湖を一望し、短い時間ながらもマイナスイオンをたくさん浴び、身も心もリフレッシュされたようだ。それに、何かあの辺りは自分のどこかと繋がっているような気がした。前世体験での断片が現れては消えたりした。まだこの店を始める以前に、諏訪湖の諏訪大社へ御祓いへ行った事があるが(BITCHが死んだ時)何か癒してくれる力をあの近辺は持っているのかも知れない。

そうして此所へ戻ってきて、すぐにそうした気持ちが消失していく事を感じた。 放棄した仕事が山積みになり、それを片付けたりしているうちにエネルギーはどんどん減り、刺々しくなっていく。とても不安定なバランスの上で成り立っていた。利己的だったり、排他的だったり、否定的だったり、 消極的だったりして、そんなのの集積が都市の構造だ。様々な人達が吐き散らかしたそうしたエネルギーが憎悪を育む。人間の出入りが激しい地では、欲望や消費が幅をきかせて、肩身の狭い思いをしなければならない人々をたくさん抱えて、さらに混沌となっていく。善悪の価値判断も其処にはない。 なるようになっていくしかないんだ。誰かの幻想が幻想を呼び込んで肥大化し、利潤と直結して、弾け飛んだ。

ニューヨークの同時多発テロ。人間が起こした痛ましい事件。種の自殺。自ら発明した道具を全く違った目的で使用し、互いに神の名を騙って殺傷し、滅びの途を開いた。なぜもう少し謙虚になれないのだろうか? どこにも勝ち負けなど存在しないし、絶対など無い、善と悪というものも無い、普遍的な神なども居ない。 それぞれに在る事は確かであるが、それを強制する事は出来ない。きっと、そんな事は了解しているはずだから、何か馬鹿げた利権や欲望に誑かされているだけなのだ。宗教とは関係無い。 駒にされて、盤の上で、取ったり取られたり、誰かの遊戯の対象にされているんだ。 そいつは、他者の死などに何も感じず、己の利潤だけを追求する。己以外はどうなったって構わないし、もしかしたら自分自身さえ顧みない妄想に憑かれているのかも知れない。怖いことだ。 殺し合いで儲かる奴は誰だ?戦争屋は誰だ?次に、殺し、殺されるのは、自分達だ。共食いは止めろ。 否定に対して否定で、憤怒に対して憤怒で、攻撃に対して攻撃で、損失に対して損失で応じるのなら、事態は悪い方向へ向かっていくばかりです。黒い死の穴は広がるばかりです。 そこに放り込まれる者は、まず悪意に駆られた者(報復などという文句に踊る輩) 資本主義者(この騒ぎを煽る者、戦争屋) それに大多数を占めるのが一般市民だ。翻弄されるまま逃げ惑い、武器を持った者に殺され、爆弾を落とされ、狂気に巻き込まれるのは、無関係な人達なのだ。 平和、それを強く思う事しかない。(共時性を信じる者は祈るべきだ) そして、これから起こる全ての武力行使に拒否をする。まだ、間に合う。

湾岸戦争は悪い見本だ。あれをテレビ中継で見させられた者に芽生えたのは汚点だけだ。 今回の事件を初めて目の当たりにして感じた事は、「魂の回収」という事だった。 神(それは自分の知覚を越えた存在、大きなエネルギー)が、身体という入れ物に吹き込んだ命を、取り上げたのだ。あれは個人に出来る行為ではないと思った。一瞬のうちに、活動を禁止され、灰と粉塵、気体化してしまった人間、姿を消した巨大ビル、ここまで文明が大きくなっていなければ起きうるはずも無い事件であるし、その力を得ようとした結果がこの事件なのかも知れない。悪夢の具現化でもあった。 誰がこんな夢を見てしまったのだろうか?神(何度も注釈を付けますが、個々の宗教上の神の意味では無く、 実像でも偶像でも存在でもなく、未知の畏怖すべき力という意です)にしか、あんな真似は出来ない。 そして、何か我々には想像もつかない意図があるのかも知れない。これから、起こる未来がそれを証明してくれるはずだ。決して、今まであったような殺し合いではなく、全く違う方法で、新しい世界が築かれるはずだし、そうならなければ滅ぶしかないのだから。PEACE


「幻視」

月(2)の月18日【KIN 249】赤い月の月


生還。そして、今、不摂生のため、微熱に襲われている。自分なりに原因を了解している病気は、病とは言わず、それは生理現象のようなものである。ぶり返しがやってきているのだ。 なんにでも始まりと終わりがあるように、原因と結果もついてまわる。雪崩は小石が雪を纏って大きなうねりとなり、小さな一言が相手を自殺に追い込む事だって侭ある。自身が何を発信したのか、相手に何を渡したのか、そして何を貰ったのか、フラクタル理論ではその些細な小粒ほどの因子が、やがて大きな共振を生み、 手に負えないほどの激震となり、広い世界を巻き込んでの運動になる場合だって侭あるのだ。 悪意のある情報ほど素早く感染して伝染し、善意ある情報ほどそのスピードは鈍く失速し易い。

死については、死んだ者がこの世に存在しないので、何とでも言えてしまうところがある。 そして、どこの境界線で生と死を区別するのか、諸説、巷では溢れかえっているので、それを云々しても始まらないところもある。決まり事はどこの世界でもあり、風土や生活形式、共同幻想、習慣、慣例、死の概念も様々、ああ途端に大風呂敷であった。今回の目的は、死を感覚的に体験することであり、それに附随する冗談みたいな事象にはこだわらない。そうしよう。だから、人の想像力というものは侮れない。 あるものをないと云い、ないものをあると云うことだって、思いのままなのだ。 誘導催眠は自分自身の潜在意識へ、ナビゲーターの誘導だけが命綱で、潜り込んでいく。そこは深海である。 普段、何気なしに降りていく浅瀬とは違い、方向も失うし、無重力で、宇宙空間であり胎内でもあった。 ガイドのTさんが、ぼやぼやしてる自分に方向付けを与え、行くべき場所へと誘導する。想像力を掻き立て、 見えないものを見えるようにしなければ、最初の第一歩も踏み出せない。声だけが手懸かりの世界で、木々をイメージし、野原を創造し、リラックス出来る憩いの場所を出現させる。銀色の雲が舞い降りてきた。 それにまたがって、孫悟空のごとく、旅へと出発した。前世なのか来世なのかは知り得ない、三角形のモニュメント(白いセメント色)が最初に現れ、そこは沙漠、「2001年宇宙の旅」に於けるモノリスのような存在だ。すごく懐かしいが、またもの寂しい感懐に襲われる。ただ、それ以降は、まったく滅茶苦茶な景色であり、ガイドに即されるまま話をでっち上げたような気がしてならない。確かに物語は其処にあった。 創造された物語は真実であり、自身の内部に沈澱していたものが舞い上がった感もあり、今まで生きてきて培ってきたものから制作された景色であった。本当なのか嘘なのかは重要ではない。 その物語の中で、懐かしい気分になったり、泣きたいような孤立感に襲われたり、酒を酌み交わしたりするのだ。必ずといっていいほど現れるのが、痛いぐらいに後悔し胸を締め付けられながら横に寝転がり、ただ下から葉っぱを陽翳していて、途方に暮れて眺めてる自身であった。それは現実の世界の自分が、何度も体験した情景でもある。さて、実のところ、その人生の再体験にはそれほど興味はなかった。それでも、推理小説の結末だけを邪心するような不粋さではなく、随分と駆け足で人生を辿ってきたために疲れてきたのだ。 早く死にたい、と思うようになってきたのだが、この人物、なかなか死なない。死ぬかな、と思わせて、誰だかに救われたりして、結局、60歳近くまで生きるのである。その臨終の時は、唐突に訪れた。 電球が切れる時に似ていた。明暗がはっきりと句切れ、その間隔がだんだんと短くなってくる。 怖くはない。あまりに疲労しているので急く気持ちもあり、心臓の鼓動と自身の意識が直結していて、息は荒くなり、どんどんそのスピードは増す。息を吐き出す度に死へと近付いていくのが判り、誕生の時にも似ているようだ。もうひとつの世界へと吐き出される感覚。心臓の鼓動が不意に消えた途端、身体が解放され、 無重力の世界へと移行する。何の合図もなく、意識は浮遊する。それは何なのだか知覚することは難しく、空間の名前も判らない、宇宙空間に最も近く、上下左右とか、距離、時間、場所などというこの世界で重要だと思われるような事とは全く無関係で、それに気持ちがいい。忘却、至福、無知覚、思考は意味を為し得ない、 ただ現れるヴィジョンを追えばいいだけ。あちらへ行けばあちらの方、こちらへ行けばこちらの方、思いのまま飛躍出来る。黒と白の鬩ぎあい。空間と空間がお互い凌駕しようと競い合っていたが、それが渦巻き状に混ざり合い、トンネルを形成した。時間の長短は考えられなかったが、そこを浮遊している事は途轍もなく幸せなことだった。言葉にならない説明をしながら、感嘆の連続だ。そうして、死と同じく、ちゃぽん、ちゃぽんと何時の間にか水中に没し、新たな生命体となり、失った固有の性質を取り戻していく。

集中力が無くなってしまった。掴まえていられるのは、この世界ではほんの僅かな時間だけでしかない。 例えば、就寝中の夢や、酩酊の中、トリップの中だけに隠されている種類のものだ。油断していたり、五感を遮断されていたり、特別な処方がない限り、そこへ行き着けたり、掴まえていられたりはしない。 このトリップが、真実なのか幻覚なのか、そういった類の事は、どうでもいいことだ。 其処に在ったというだけの事だからだ。こうしたトリップもまた、現実の生業の中に埋もれ、沈澱していく。 鬱積した煩悶が、時々、悪い夢となって微熱をもたらす。そうして生きていくわけだ。 泣きたい気分、ブルースは僕らを慰めてくれる。この世界もまだまだ捨てたもんじゃないぞ。 五感を駆使して飛躍しよう。行けるところまで。そうしたことが出来得るのも、人の持つ力のひとつだ。


「Dying Hour」

月(2)の月9日【KIN 240】黄色い律動の太陽


僕は、明日、死ぬ事になっています。なかなか、生きている間に、体験出来る事ではないので楽しみです。 ところで、前もって死ぬ期日が分かってしまうのは、随分、奇妙なものです。 実際、誰もが死ぬという事実は了解していても、それを納得するのは難しく、できるだけ遠離ろうとしたり、 知らん顔したり、忘れようとしてしまいますが、生まれたら死ぬという事は当然至極の成り行きでありまして、どうしようもない事実なので逃げようもないのです。そいつを前もって体験してしまおうと言うのだから、たいしたトリップである。そいつの所為なのかしら、最近、安眠も出来ず、とりとめもなく夢ばかり見て 過去をリプレイしているので寝不足で、生欠伸ばかり噛み殺しています。 何か新しく生まれ変われるかしら、という僅かばかりの期待感もあった。火の鳥のように身体を焼いて、 新たな身体で空へ羽ばたく。禊である。そこで、もうこれは、変な先入観などを持たない方が得策だと気付いた。生を受け入れたように、死も受け入れればいいだけだ。

死が怖い? そうでもない。 痛いのは嫌だ。 ただ肉体の死は甘受出来ても、精神の死が恐ろしい。 自分自身が何処にも居なくなってしまう事が怖い。誰かの記憶の中に生きるのなんてのは嫌だ、そこには居場所がない。なぜならば、そこは他者の居住区だから、間借者は追い出される。入れ物が無くなった心は何処へいってしまうのか?拡散してしまうのか?また、他の同等のエネルギーと一体化してしまうのだろうか? 肉体という壁が取り払われるのだから、安楽なことは間違いなかろう。この世界で、心と心を阻んでいるものは肉体だろうという推測。全ては推測の域を出ない。そこで、神という概念に救われる。 誰も見てくれなくても、神は自分を見てくれていて、肉体から離れた後も分かっていてくれる。 それは大変、利己的で俗な神様であるが、それぐらいの事は許容してくれそうな安心感もあった。 死を迎えて、この世界とは無関係の、異質な存在になってしまう事を危惧している。

そうして僕は臨終の席に座っています。名前を呼ばれるのを、今か今かと待っているところです。 前世で自分の体験した死を呼び起こしてもらうのです。明日のキンは、<赤い共振の竜> 誕生、呼び起こす、調律、育む、存在、などの意味を持った日。それに自分と同じ音を持った日でもある。 また無事に戻ってこられたら、"その後"を載せたいと思います。つづく。



「PASSIVE」

月(2)の月1日【KIN 232】黄色いスペクトルの人


新しい月が始まりました。月の月のキーワードは「挑戦を分極化し、」「安定させる」ことです。 【13の月の暦】を使い始めています。まだ、先は長いのですが、とにかくグレゴリオ暦を捨てて、その暦に 従ってみようと思っています。

づかづかと店内を突っ切って、神経質そうな女性が、レジに居る自分に向かってきました。 早口で名乗り、何か商品を取り出して、自分に差し出しました。呆気にとられて為す術もなく、「忙しいんですけど」と場を濁してみたら、「そーですか、どーもー」とまた早口で言ったが早いか、同じ歩調で店内から 去っていった。『時は金なり』である。そうやって忙しなく、この商店街通りの間口を叩き、無下なく断られて、そそくさと立ち去り、足は棒になり、退社後には何処かの飲み屋で悪態をつく。 いつも後になって考えてみると、そんなに邪険にしなくてもと思うのだが、やはりあの間の悪さには辟易してしまうし、どう考えてもアレは他人に何かを売ろうとする態度ではない。数撃ちゃ当たるではないが、無闇に 何かを投げつけ、つい当たってしまい、逆に謝ったのが運の尽き、損害賠償叩きつけられ、尻の毛まで持ってかれる寸法だ。「13の月の暦」を使ってみればもう少し柔軟になれるだろうに。

『MOMO』という映画は良かった。突然、ひょっこり現れた女の子モモに、町のみんなは友愛を感じ、そこへ 時間銀行から派遣されたグレイのスーツに葉巻を絶えずふかしつづける営業マンがやって来て、「時は金なり」を吹聴してまわり、それから町のみんなの時間がスピードを増し、時間の貯蓄を迫られ、アクセクと仕事に従事し、彼等の時間は取り上げられる。それを救うために我らがモモが立ち上がる。というようなストーリーなのですが、いい映画だった。言うまでもないが、世間が従っている12:60の暦(12ヶ月24時間:60分、60秒)が時間銀行員グレイマンの正体である。

頑なに信じているものこそ疑え。子供は最初、時計の読み方を教えられ、定時に学校へ行く事を躾けられ、 12ヶ月の暦のカレンダーにスケジュールは書き込まれ、そうして大人になっていく。絶えず時間に追われ、 時間を厳守することが正しいと信じ、1年は12ヶ月、1ヶ月は不規則、1日は24時間、1時間は60分、1分は60秒、、、それが時間と信じ込む。小さい頃、ボール遊びに夢中になり、陽が落ちて真っ暗になっても夢中で遊び、お母さんが心配になって迎えに来る。楽しい時の時間は早く過ぎ去り、やりたくもない宿題を片付ける時の時間は遅く感じる。時計を見た時点で、思考は停止する。それは、檻を意味している。

穴が空いたコップに水を注ぎ、飲む前に水は穴から落ちてしまい、いくら新しい水を足しても、いつまで経っても咽は潤わない。入れ物が欠陥だからだ。最初は、穴など空いているとは、露ほども考えなかった。 コップはコップの役目を担うものだと信じていたからだ。

あらゆるものは循環し、星は自身の周期を持ち、混沌の中にも秩序はあり、そして連鎖している。 未来も過去も、動物も植物も、海も山も、地球も太陽も、人と人も、関係は均等だ。 僕は改暦しました。もう一度、子供の頃に戻ってみて、新しい時に生きてみようと思っています。 銀河の署名は「KIN254:白い共振の魔法使い」です。


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