ワッシャー TRASH
黄色い太陽の種の年(Yellow Solar Seed)


電気の月(Electric Moon)
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「MOVE」

電気(3)の月28日【KIN 27】青い磁気の手


自傷癖のある人がリストカットをする。自身の身体を傷付ける事によって、生きている事を実感するそうだ。 度合いこそ違え、我々も同じようなものかも知れない。 死の淵、苦しみの極限から帰還する事で、生を甘受出来る。 僕らは、屍体に触れたことも無ければ、牛を屠殺する場面も見ていないし、収穫の喜びも知らなければ、 徴兵もされていない。だから、おまえらに何がわかる、と叱られても、口を慎むしかない。 やれることといったら、自身を破壊することしかないのかも知れない。

チャンネルを回す。長崎と広島に原爆が落とされた。その1ヶ月後、爆弾を投下した集団が、 長崎の爆心地へ と視察に訪れたそうである。その時の談笑しあっている彼等の姿が写真で残されている。 もう80歳近くとなった彼等は、「原爆使用は正しかった」と口を揃えて語る。「あの時点で戦争を終わらせなければ、もっと多くの犠牲者を出しただろう」とも言う。彼等の中では、第二次世界大戦は良い戦争、ベトナム戦争は悪い戦争という図式が成り立っている。「原爆投下を謝る前に、真珠湾攻撃を謝れ」とも言った。 典型的な水掛け論である。何も学べない民族は哀れである。どんなことをしてでも武力行使は避けるべきだ。 血は血を呼び、死は死によって報いられる。人間には武器よりももっと素晴らしい発明、言語があるじゃないか。時間がいくら掛かったって、折り合いをつけるまで、言葉を行使しろ。

広島で生き残った者は押し黙る。あの惨事を、言葉にしてしまうとそこでその出来事は止まってしまう。 物語は、語る事で発展性を禁止される。いくらあらゆる言葉で語り尽したとしても、説明は付かない不条理な 言語を絶する惨状、話せば範疇は限定されるからだ。それでも語る。あの過去へ自身を無理矢理に押し戻して、自身が目にしたものを説明しようとする。その力は何なのだろう。殺される瞬間をまた再体験しなければならないのだ。

上記は昨日書いたのだけど、途中で進まなくなってしまった。重い。 電気の月も今日でお仕舞い。キンは<青い磁気の手>です。今月のテーマは「どうしたらベストの方法で仕えることができるのか?」瞬間、瞬間を興味のある対象に集中すること。果たして、出来たのやら出来なかったのやら?楽観視して歩いてくところが、またこの暦のいいところ。そのうちなんとかなるさ。けれども、こないだ感じた恐怖は、漠然とはしているが、その時点で全てが止まり、先はなく行き止まり、凍てついたままその時の強張った感情が持続して磔にでもなったかのような気分、まさに奈落、無限地獄、それが死と錯覚して混乱して身悶えした。あれは怖い。この世界が素晴らしいところは、なんとかなるさ、と云って、そのなんとかなる時まで猶予を与えてくれる。涙はやがて乾き、硬直したものも軟化し、傷は癒え、綻びは修繕され、そうして忘れ去る。それはものすごく甘えた考え方かも知れないが、今の自分の生きていく力でもある。 GOTTA MOVE!  止まらない。動き続ける。この先はきっといいことがあると信じて歩く。



「Anarchism」

電気(3)の月24日【KIN 23】青い惑星の夜


人間はあまりにも脆い。精神を揺さぶられると、簡単に転ぶ。軽薄であればある程、足が地に着いていない者ほど、溺れる。藁さえも掴めずに、自身の恐怖心に翻弄されて、堕ちていく。かといって、その本質に迫ると直視できずに目をつむってしまう。つまり、右往左往してるだけで、何も持って帰れずに泣いてばかりいる。 だらしないが、そんなもんである。知識も学問も法則も方程式も暦も哲学も音楽も愛も届かない。 向こう側は凄いところだ。向こう側へ突き抜けるなんて真似は止そう。でもきっと其処が自身の原風景なのだろう。死の滲みが容赦なく口をポッカリと開けている。自分自身の今までの物語のなんて矮小なこと。 そうして、やっぱりこの世界は素晴らしく脈動して輝いている。失っちゃいけない。

遠慮して言葉に出して言えない事が多い。無責任な発言が、思ってもいない状況を招くことも多い。 それで失敗した事も多々ある。だから蓋をしてしまうのでは、あまりにも芸が無さすぎる、とも云える。 誤解を恐れずに、根本的なところから考えてみたい。 殺す事は果たしていけないことなのだろうか?主観はやってはいけない事である。しかし、理由如何によっては賛美を得られる種類のものでもある。戦争で勲章を貰った者、犯人を射殺した警察官、神に背いた者を殺すこと、何らかの理由によってそれは赦される。というより事例である。 殺してもいいという総意、優先順位によって、殺される順番は決定されるのだ。山を切り開いて開拓したことにより、餌に飢えた熊が山を下って民家にやってきて人間を襲って食べたので射殺された。 悪いのは熊という事になってしまうのだろうか?原因の芽はもっと深いところにあるのではないのか。 血縁関係と契ると奇形児が産まれる確立が高い、親殺しはもっとも罪深いこと、そういった類いの共同幻想が 共食い、同種同士の殺し合いを禁じた。理由は種族繁栄のためなのかも知れないし、労働力、共同体としての 力の減退をくい止めるためなのかも知れないが、次にはそれに外れる者を排除し、罪人を裁き、もう少し広げて法律、信仰、国家、その物語から外れる者とは敵対していった。それは小さなグループや家族などという単位から、村や組織、国などという共同体、それを守るというところから立脚して、 民族、宗教、 言葉の違い、肌の色の差異、と細分化されていくのだが、それがもたらしたものはいったい何なのだろう。今や、人工は爆発的に増加の一途を辿っている。それを人為的に操作することは不可能だし、やってはいけないことだと思う。そこで馬鹿げた話だけど、バランスをとるように戦争が起こってくる。 そのような運命論的な会話も囁かれる。話を戻して、殺すことはいけないことなのだろうか?との問い。 その物語を支持する者にとっては良いことであり、支持しない者にとってはいけない事であるという、尤も当たり障りのない答となってしまう。この世界では、どちらの場合もありうるのだから仕方無い。 起こりうることは起きてしまう。良い悪いという抽象的な概念では、推し量る事も出来ないことでもあった。 ここでわかる事は、飢えた熊を安易に殺そうとするアメリカは明らかに間違っているということだ。 価値観のズレを埋めるべき手段が他にないとでも言うのだろうか。それほど、その壁は高いのか。 それは、やっぱり越えなければならない境界線である。地球人でいるためには融合するしかない。 一神教であり、それ以外の神を信じない者は殺していいという教義があるのならば、それは悪しき教えだ。 あまりにも利己的だ。信仰は依存ではない、自身で考え、試行錯誤して、辿り着いた先にこそ尊いものがある 。そんな道なのだと自分は思う。そして、やっぱり肯定と謙虚さが必要だと思う。 そんな物語が在ったっていいじゃないか。国境もなく、天国や地獄もなく、殺したり、死んだりする理由もなく、欲も、飢える必要もなく、人はみんな兄弟だっていいじゃないか。せめて、道を譲る気持ちさえ持っていれば、諍いは起きないはずじゃないのか?

自分にはダークな面も同じように存在する。いや、きっと否定的な思考に引っぱられる事の方が多い。 自分の事しか考えられない時だって沢山あるし、逃げてばかりいるし、弱腰で、嫉妬深く、欲深い。 でももう少し変えられるような気もするし、同じである必要もない。論理じゃなくて感覚だ。 この米の報復攻撃が止まるまで、自分自身に何かを禁止しようかと思った。それならば、酒か煙草しかない。 そんな話をしたら、何かを止めるんじゃなくて始めれば、と友達に言われて、また目が覚める思いがした。 さあ、何から始めようか?僕らは幸いなことに、生きている!



「CHANCE」

電気(3)の月23日【KIN 22】白い太陽の風


出掛ける前に、国会中継がやっていた。今回の米テロ事件の自衛隊派遣についての質疑応答だ。 今回の与党も始終、当たり障りなく棒読みに徹していて、野党は水を得た魚のように何でもかんでも投げつけて、得意満々だった。どちらにしろ、米へのお追従である。 そして、その番組に難癖をつける自分は、ろくでもない傍観者である。 報復攻撃は始まってしまった。だからといって、僕らの生活は今までと変わらず、今のところ無事であった。 国を掌握しているのは一部の人間であり、ものを申せるのは実績のある知識人であり、一般市民は烏合の衆であり、テレビニュースに一喜一憂し、爆弾を落とされて逃げ惑うのも一般市民だけである。 僕らはもっと識らなければならない。構造について、仕掛けについて、システムを把握しなければ、対抗しうる手段はない。随分前までは、極言に走っていた。戦争で死ぬ、生きる。人類が滅ぶ、残る。気が狂う、狂わない。途中経路は無く、別々に切り離されていて、結果しか見えない。だけど、結果はその時点までの線引きでしかなく、継続して流れていくものだ。終わりはない。たとえ、自分が死んだって。

僕ら(姑息な手段。もしかしたら君は同じ僕等ではないのかも知れないのに、あたかも同じ種類かのように振舞い、話に共感を得ようとする)、、、要らぬ注釈を付けているうちに次の話を忘れてしまう。 13の月の暦では、一日が最小の単位である。それ以上の単位は、基本の28日×13ヶ月+1日、260日暦のツォルキン、その中にも調波(4日周期/赤、白、青、黄の太陽の紋章) 色彩(5日周期/同じ色から同じ色までの太陽の紋章) ウェイヴスペル(13日/銀河の音1〜13まで) 太陽の紋章:調波行程(20日/コード番号1〜20) 城(52日/ウェイヴスペル×4) 銀河の季節(65日/色彩×13) 銀河スピン(260日/調波×65、色彩×52、ウェイヴスペル×20、調波行程×13、城×5、銀河の季節×4)  さらに52年間(365日×52年、260日×73スピン=18,980日)や、1カトゥン(7,200日=約20年)などもあり、全てがフラクタルに連鎖している。 どれだけの長さまで人間は認識できうるのか? それはまた別の物語でもある。見られようが、見られまいが、実際にその時間単位は存在するし、歯車は回っていく。 はぁ〜、そうなんですかぁ?と、拍子抜けさせる声がする。ギザの大ピラミッドはクフ王が建設したもんじゃないんだって。ふ〜ん。スフィンクスもエジプト王朝とは関係無く、もっと昔、氷河期の後期辺りに作られたんだって。ははぁ〜。そうなると紀元前1万年なんかに、ものすごく高度な文明が存在したことになるね〜。あったんだろうね〜、きっと。僕らは、まだ何も知らなくて、のほほん顔で今を甘受している。

理性が物語を増幅する。地球という物語を信じ、家族、国家、信仰、金銭、愛、戦争、音楽、他者と共有するためにそれらの普遍的とされている神話を手繰り寄せる。それらが本当にあるものなのかは、どうだっていい。それが無ければ、生きていくことは難しいのだから、掴まえたら離さない。 そうした神話の中に、平和を付け加えたって構わないだろうに、戦争や紙幣に固執する者達はそれを否定する。資本主義、利己主義が諸悪の根源だ。欲望が狂った考えに油を注ぐ。でも、わからない。 そんなに殺し合いをしたいのだろうか?その先にはいったい何があるのだろうか?平和というお題目を唱えながら、20世紀にさんざん繰り返した諍いを続ける。原爆を落とされた日の国は、またそれに加担しようとしている。武器や弾薬を輸送しなくたって、水や食料を運べば、立派に戦争に加担している。畜生以下だ。 実際のところ、いまや何が正しくて、何が正しくないのか、わからなくなってきている。 選択しているのは我々なのだから、このまま滅んでいくこともその範疇の中だ。 いろいろな闘争がある。君にとって正しいことは、やはり君にとっては正しいのだろう。 この僕にとって正しいことも、やはりこの僕にとっては正しい。そうして相手の神を討つしかないのだろうか?それぞれの中に、それぞれの神が在って、互いに尊重している社会だってあり得るはずじゃないのか。 テロを行う者は身をもってその追い詰められた行動の責任を取ることになるし、それに報復攻撃し戦争でもって答える者もまたその行動の責任を取ることになる。因果応報。良い方向へ移行できる機会は今しかない。 GIVE PEACE A CHANCE!


「TIME」

電気(3)の月11日【KIN 10】白い惑星の犬


たくさんのグルーヴ、循環が重なり、その一日の色を、音を、彩ったり、奏でたりしている。 僕らの身体も、空も、地球も、銀河も、宇宙も、細胞も。植物や鉱物、食物や空気、海や大気、山に風、 動物や昆虫、微生物から様々な菌、魚も鳥も、全部が揃って合奏している。 そんな偶然、必然、どちらでも呼び名は構わないが、なんとも不思議な巡り合わせだ。 誰も不協和音は奏でない。理に沿わない自然は無い。混沌としているように見えても秩序がある。 あのテロ事件でさえ、やんちゃな遊戯のように感じる事さえある。世界は受け止め、持ちこたえる。 政治家や様々な評論家や知識人が見解を述べる。事態は複雑なのかも知れないし、そうじゃないのかも知れない。持つことを止め、手放してしまえば、きっと単純明快なのだろうが、一部の人々はそれを手放そうとしない。こちら側から見ていると滑稽だ。人を殺戮する道具に固執し、紙幣に過大な物語を附随し、欲望をどんどんと加速させて手に負えないものを増築していく。悪しき錬金術だ。およそ人間が考えつくべき事は具現化 する事が可能だという。拷問の道具、武器、薬物、ロケット、作っては壊すために、壊しては作るために、何かを生み、何かを破壊する。それでも、やっぱり複雑な体系を拵え、その中で物語を構築し付け足したり、 変形させて別の物語を生み出したり、そうしないとならない習性を持ったまま幻想の中で死んでいく。 自由意志だ。どんなふうに転ぼうと知ったこっちゃない。だからといって、その人の物語の巻き添えで殺されるのは嫌だ。何らかの役目を担ってこの世界で生きているのだとしたら、その活動を勝手にストップされるのは勘弁願いたい。確かに大いなる力の意志なのかも知れないし、死んでしまえば其処から離れざる得ないのだが、とにかく、それは口惜しい。化けてでるしかない。ジョン・レノンの命を奪ったことや、テロリストに殺された者達の口惜しさは、誰にも推し量ることはできない。息詰まって、破綻することも必要だ。 今までの社会の象徴としてのグレゴリオ暦、それがもたらしたもののどん詰りが今の社会だとしたら、 こんなもん捨てちまったって構わない。金権主義から、緩やかな時間の流れへと移行する。 自分自身の時間を自由意志で選び、時計とか未来とかの足枷を取り払い、楽しい時間は何もかも忘れてそれに没頭し、今を生きる。お金や、それに附随する様々な事、狭い世界や何となくつまらないと感じる事には 一切の関心を払わない。楽しい時間を中途で降りたり、明日の糧の事に気を取られたり、せっかくの共時性を 台無しにするような消極的な考えから離れて、今を生き切る。「Imagine」の世界です。 そしてそれが与えられている事実に感謝する。皆も同じように生きる事ができるのに、植え付けられた物語を 捨てることができないのは、それは何なのだろう?今日を生き切り、それに感謝する。それだけの単純なものに、保険を掛けたり、未来の苦悩、借金、時間が在るかのごとく前倒しにしたり、収縮して濃厚なスープだけを飲もうと考えたり、そこで問題が生じるのは必至だ。 "今"は、過去とも未来とも連鎖している。今があるということは、同時に未来と過去をも育み、そして存在している。それが、繋がっているということ、、ではないのですか??


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