TRASH自己存在(4)の月26日【KIN 53】赤い磁気の空歩く者
目的が定まっていなくても、遂げるべき事柄に向かって直走ることもある。 山があるから登るんだ、というような、自分自身では漫然として判らない衝動に突き動かされるままに従う。 そんな時もあるんだ。それが正しいのか、正しくないのか、言葉にはならないもの、海のものなのか山のものなのか空のものなのか、まるで得体の知れない正体不明の気持ちが、不意にやってくる。 後は直感に頼るしかない。捕まえるのか、逃がすのか。しかし、言葉という形を与えた時点で、そのものは すでに形骸化されてしまい本当の姿からは懸け離れる。ポジションは与えずに、そっと近付くしかない。
スコセッシ監督の「ダライ・ラマ」の伝記映画を観て、すこぶる酔っていた自分は紙に書き殴り。 「ダライラマの半生より、映画の演出。」つまり、どふゆうことだろふ?もはや、その時の記憶は無ひ。 推測するに、映画という脚色された作品の出来不出来如何に因って、その本質は取り溢され、主題を見失ってしまうということだろうか。常々、テレビの討論会などを観ていて、焦れてしまうことがある。 「オマエ、平和の事なんか話しちゃいないじゃんか」と憤ったりする。軌道がズレているんだな。 どちらが正しいじゃなくて。今回の報復戦争だけにしても、宗教の話をする人もいれば、民族、貧困、兵器、 人口、環境、反米、言語、歴史、様々な側面から語られていて、そのどれもが的を得ているのだろうが、 残念ながらそれを統合して判断出来る場所にその人は居ない。片手落ち(放送禁止用語)なのである。 でも基本は気持ちだと思うのですが、いきなりその人の立ち位置を知らない相手に、武器の話をされても戸惑うばかりで、これで何人死ぬとか、この兵器はこんな威力があるとか、知ったこっちゃない。 端っから、そんな武器を持ちたいとも思わないし、使いたいとも思っていない。だからテレビの場面は、それらを披露するだけで、立場や考えがちっとも明確にされず、発表会に過ぎなくて、討論はあり得ない。 勝手に御託を並べてろっての。ダライラマ不在の、ダライラマ映画。キリストを扱った「最後の誘惑」は最高にいい映画だったから、それを期待したのだけど凡作でがっかりしてしまったんだろうな。 それにしても、なぜに彼はチベットに戻れないんでしょうか? どぼちて??
人間万事塞翁が馬!
自己存在(4)の月08日【KIN 35】青い太陽の鷲
昨日、渋谷でSAME OLD HEAVYZ のライヴを観て、招待券を持っていた映画「my GENERATION」のレイトショーを観てきました。映画館なんて今年初めてかも。考えさせられるドキュメントだった。 「フィルモア最後の日」もそうだったけれど、商業化の流れがいと悲しくさせてしまう。 69年のウッドストックはまだ牧歌的ではあった。素晴らしい偶然が重なったのかも知れないし、ロックが未成熟産業だったからかも知れないし、ジミヘンを始め、ジャニスにTHE WHO、サンタナ、C,S&N、オールマンbros、凄い面子が集まっていたからかも知れない。ジョー・コッカーの当時の演奏と94年の映像がシンクロするところは涙が出てきたし、ジョニ・ミッチェルの「ウッドストック」が流れて身震いしたし、 ジェリーのマリファナ談もイカしてるし。 昔が良かった、とは言いたくないし、思いたくもないし、第一、自分は産まれたばかりで知らないし。 そして94年、いわゆるXジェネレーション世代によるウッドストック。音楽の質は一変してしまっている。 別にレイジやロリンズバンドが良くないわけではないし、レッチリやリンプ・ビスケットもいい。 音楽の話ではなく、大手企業の参入・協賛で何かが変わってしまっていた。合理主義、資本主義、拝金主義、 そんなものに文句を言いつつもペプシコーラを片手に小狡く立ち回る若者。いや、そんなコトじゃない。 なんだろう? ストレス発散や鬱憤を暴力的な音楽にぶつける。それは当然なコト。クスリがハードになった所為?それもあるかも。諦めながらも、そこへ来るしかなかった事も悲しいし、99年のウッドストックではさらに圧迫されて、恒例のフェンス越えも排除され「チケットが無い奴は来るな」と言う主催者。 ま、結局やっちゃうんだけど。脅されながら消費の対象としか扱われていないような印象も受ける。 "WOODSTOCK"という代名詞が商標になってしまうのが資本主義では当然なのだが、余りにもディズニーランド的で、そこへ来たからには是が非でも消費してもらう。金を吐き出してもらう。それを当然のコトと受け入れながら人は集まる。それでも、ムカつくから、暴れて火を放ったりする。つまり悪循環、自然発生のあり得ない予定調和な、しかもショービズで、安物のアシッドみたいな感じだ。それでも背景には69年のウッドストックな幻想が支配している。うまく言えないけど、悲しくなった。カート・コバーンが自殺してしまった状況から、何も変わっていないアメリカだ。自身で考える事すら面倒で、金さえ払えばある程度の楽しみが得られて、行き先はすべて塞がれていてそれ以上先へ進むにはお金が必要で、人気のあるアーティストが拾集されて莫大な演奏料を貰って、提供されたもの以上のものはなし。ラヴ&ピースの立て看板。
結局、なんでこんなに急かされて、買わなければならないのか?愛と平和はいったい幾らするのか? それをずっと責められてばかりいる。自分より下の世代は、さらに責め苦に遇ってるんじゃないのか? そうでもないらしい。そうでもあるらしい。諦めるのか、楽しむのか、止めるのか、続けるのか。 僕はまだ信用出来ない。独りの方が気が楽だ。人間はみんなが同じ種に生きているし、最初は同じ魂から各々の身体へ分配されたのかも知れないし、みんなが自分で、自分はみんななのかも知れない。いや、そう思いたい。共有できる部分もたくさんある。だけど、まだそう成れずに、各々が自身の道だけを歩いている。 公共の道路は歩きたくないけれど、獣道は怖くて歩けない。小さな路地を見つけては友達とほくそ笑む。 そうして、また自分だけの道を歩いていくんだ。また、何処かで逢えますように。
寛容になろう。赦せば、また扉が少し開かれる。赦せなければ、その扉は締まったまま。
自己存在(4)の月07日【KIN 34】白い銀河の魔法使い
いつもいつも強気になれない。自分自身の信念や、確固たる物語、いくらかの余裕、それらが揃って、やっと目配りできる。後は少しばかり肯定的になって、なにがしかに従って上目遣い、お愛想笑いが関の山だ。 皆が自身ありげに見えて、内心びくついてばかりいる。
PUNKは個人主義だった。でも、世間では「踊らされるな」といった号令に踊っていて、みんな同じ格好をして、全体主義のようだった。
雨の日に、前を歩いていた女子校生が、いきなり傘を放り出した。 「かったりーんだよ」と叫びながら放り投げた傘に怒っている。そうして、傘を捨てて濡れながら歩いていった。捨てられた傘はもう傘ではない。それを誰かが拾うまで、傘も傘の役目を放棄した。
こんな考え方もできる。小さな集団が違う集団と争い二つの集団は融合し、さらに別の集団と争って大きくなり、それが地球の各地で同時に起こり国家というものになっていったのだとしたら、次は国同士が争って、もう一つ大きな集合体になれる時期に来ているのではないのか?人類の歴史は闘いに明け暮れている。
「傷だらけの天使」のショーケンはカッコいい。「前略、おふくろ様」のショーケンもカッコいい。 ショーケン自体がカッコいいのだから仕方ない。憧れたってなれるわけもない。何処かの場末な呑み屋で、熱燗でも飲りながら、おでんでも喰いながら、カッコいい人の話を肴に酔い潰れたい。 そんなシチュエーションは散々やってきたのに、まだやり足りないらしい。どこまでやっていられるのか、 どうだっていい、なんだっていい、好きに好きにやっとくれ。
こんな風に、一人の人間には様々な色が混ざり合っている。かき混ぜれば統制のとれた人格にも見えるが、
放っておけば分離してそれぞれの色が映える。
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