ワッシャー TRASH
黄色い太陽の種の年(Yellow Solar Seed)



律動の月(Rhythmic)
「天上歩行」 |
「Across the universe」 |
「Third Eye」 |



「天上歩行」

律動(6)の月24日【KIN 107】青い電気の手


13の月の暦のボードゲーム「テレクトノン」では今まさに、ボロン・イクとパカル・ヴォタンが仲良く天上歩行をしている。律動の6月も佳境にはいった。G暦のお正月は、珍しく活動的に飲み歩き、大晦日の自家製インドカレーでスパイスを健胃剤にし、バッサバッサと飲み倒していく。ワダチもそれに同行するぐらいに大きくなりけり、うすら馬鹿を横目に、強請るはお年玉。そろそろと、この無軌道な自堕落生活ともおさらばだ。最後まで粘って正月を満喫するは、祭りの後の淋しさをも考慮にいれなければならない。躁の後の鬱だ。 今の今まであんなに賑やかだったのに、あっという間に散り散り、通りは沈黙、聞こえるは己の呻き声のみ、 「もっと酒をくれ〜」と宣って転がって惨めな姿を曝す。さっさと退散するのが処世術。

年始読書は「臨死体験」関係の本を読んだ。この世で、生まれる前に計画したスイッチを入れ、様々にこなして魂を磨く。苦しみや、事故、病気などは、予め自身で決めたハードルであり、ソウルメイトとの了解の上で、現世に行われる実験。過去世で失敗したり間違えたりした行動を、もう一度、追体験する場合もあるし、 その逆の立場になったりもする。そんな体験談が沢山載っていた。つまり魂の世界は、意志の疎通がダイレクトな心だけの世界で、人間関係の摩擦や諍いが起らないので、肉体を持ったこの世でプレイして魂の向上をするというわけだ。しかし、その目的は如何に、といった感もある。魂が向上すると転生はせずに、誰かの魂を 指導する立場になったりもするようだ。疑問は沸々と湧いてくるのだが、そんな世界だったらさぞや生きる事も死ぬ事も楽しげな感じではあった。ところで、ここ100年ばかりの爆発的な人口増加で、肉体ばかりがたくさん製造されているが、魂の数に限りは無いのだろうか?例えば、卒業した魂が駆り出されたり、その本では基本的に人間の魂は人間にしか転生しないというが、魂の数が足りないから、動物や昆虫の魂で間に合わせたり、それとも魂製造工場でもあったりするんだろうか?分子、ひとつに、魂がひとつあって、それが集合体になり、人間という乗り物になっているという事もあり得る。そうなるとたまには僕の細胞のひとつが死んで、 誰かに転生する場合だってあり、なかなか面白い事になる。細胞は生きている間にたくさん死に生まれるので、その新陳代謝はもの凄いスピードで世界を駆け巡っているわけだ。見方を変えれば、それが地球という事だってあり得る。質量的には、全て地球圏内で循環しているのだから、大きな地球から、ちぎられて配分されているのが人間なのだとも言える。想像は肥大化する。イメージが世界を創造していく。

揚げ足はいくらでも取れるわけである。揚げた足は日本酒に良く合いそうである。だから、混沌の中にも秩序がある、と云って、秩序があるなら混沌ではない、などと云うのは、少しばかり面白い展開にはならなかったりするのだ。合理化が資本主義を増長させて、遊びを排除して、小難しい理屈ばかりで、野良猫の住める隠れ場所も無くなり、表情は能面になり、ゴミは放置され、火星に移り住もうなどと馬鹿げた計画が発動されたりして、我々はもう少しわきまえた方が良い。お調子に乗り過ぎると、足を掬われるのは必定。

米で「ドラゴンボール」が流行ってるんだって。検索エンジンのヒット数で堂々第1位に輝いたんだそうだ。 テロ事件などを差し置いて。スーパーサイヤ人の、金髪、青い眼が、彼等の優性学に沿うんであろうか。 嫌味だな。「ドラゴンボール」は大好きだ。ピッコロが好きだなぁ。悪役からの転身がなかなか素敵。 あんな風な世界で、戯れるのならいい。日本が誇れるのはアニメだけなのかな〜。



「Across the universe」

律動(6)の月13日【KIN 96】黄色い倍音の戦士


年末風情。見慣れた景色だけど、また出逢うことができて嬉しい。死の瞬間、人は過去へ遡るという。 未来に繰り返す希望のない状況に生命が瀕した場合、過去をリフレインし、もう一度それを行いたいという希望を自身の心に投射するのかも知れない。繰り返すことは安心感であり、呼吸は安堵感であり、全ての始まりと終わりは連鎖している。だから、死はきっとすでに体験済みで、ただ忘れているだけに過ぎない。 そんな辻褄合わせだって、みんな笑って許してくれる。正解が無いのだから、間違いも無いのだ。 だからそれでいいのだ。(天才バカボン風)どうも小さい時から、基本的な事を覚えるのが苦手で、右と左の区別がつくようになったのも大分遅かった。箸持つ方と云われても、箸持つ手が左だったりして、あれ、どうも持ち難いなぁ、なんて塩梅だった。それで陽が登るのはどちらの方角からだなんてのも難解な事で、バカボンの歌を歌うのである。西から登ったお日様が東へ沈む〜の反対なのだ。でも本当は何だっていいんだよね。 時計の長針と短針の動きが分からなくたって、野球で三塁に走っていったって、大局には影響しない。 野球の試合には負けるだろうけれど。あれ、随分と跳んでしまいました。トビがいいなぁ〜これ。

そんな事を繰り返して、本日HERE SCENESは4周年を迎えてしまいました。Look around, round, round !
御愛顧、感謝いたします。益々もって精進していく所存でありますので、どうぞ御教授、御鞭撻の程、 宜しくお願い奉り候。

ACROSS THE UNIVERSE

Words are flying out like endless rain into a paper cup, they slither while they pass, they slip away across the universe. Pools of sorrow, waves of joy are drifting through my open mind, Possessing and caressing me. jai Guru De Va Om Nothing`s gonna change my world, Nothing`s gonna change my world. Nothing`s gonna change my world, Nothing`s gonna change my world.

言葉は 紙コップに注ぐ降り止まぬ雨のように 溢れつづける 言葉の群れは 宇宙を滑っていく プールのように溜まった悲しみ 或いは喜びの波が 時には私自身を上回るが 結局は 私の開いた心を漂い過ぎていく jai Guru De Va Om なにも私という世界を変えられぬ

Images of broken light which dance before me like a million eyes, That call me on and on across the universe, Thoughts meander like a restless wind inside a letter box they tumble blindly as they make their way across the universe.

何百万もの光の破片が 私の前で踊る それらは私を宇宙の奥へと誘う 何百万もの瞳のよう 思考は 郵便受けの中の休みない風のように 蛇行する 思考は 宇宙をただ闇雲に 転がっていく

Sounds of laughter shades of earth are ringing through my open views inciting and inviting me. Limitless undying love which shines around me like a million suns, It calls me on and on across the universe. jai Guru De Va Om Nothing`s gonna change my world, Nothing`s gonna change my world. Nothing`s gonna change my world, Nothing`s gonna change my world.

笑い声 俗世のうつろい 人の暮らし それらの響きが 開けた視線を貫いて 私を呼ぶ 私の回りに輝く百万の太陽のような 限りない不滅の愛が 宇宙の彼方から私を呼び続ける

1968(C)Lennon=McCartney





「Third Eye」

律動(6)の月8日【KIN 91】青い宇宙の猿


宇宙の猿ていうのは我々のことでしょうか?「ドラゴンボール」が読みたいな。子供の頃で覚えている事といったら、マンガの話ばかりで苦笑してしまう。それだけ印象深く強く刻み込まれてるんだろう。 昨日、深夜のNHKで、当時の洋楽ヒット曲をBGMにして、その同時代の日本の映像を淡々と流していた。 万博の映像は記憶に無いが、「宇宙戦艦ヤマト」を上映している映画館とか、半ズボンと襟の長いシャツ姿の子供を見ていたら、別段、目新しくもないが、古めかしくもなくて、普通の景色だった。 でも、今の景色とは明らかに違っていて、知っている景色だけど、それはもう現在のどこにもない世界の事のようだった。手塚治虫「三つ目が通る」を最近読返して、きっとこれが自分の全ての原点なんだと悟った。 これを読んでいた時の状況だとか、場所、気持ちなど強く思い起こすことができる。父の友人の鎌倉の家とか、琵琶湖へ遊びに行った時の事だとか。驚いた事に、このマンガにはパカル・ヴォタンのリリーフの画がすでに描かれている。頭をトコロテンにしてしまう機械の設計図なんだけど、パカル・ヴォタンは13の月の暦ではシンボルのような人物だ。マヤ文明、インカ、古代エジプト以前に栄えた三つ目人の国が描かれ、エジプトとマヤの繋がりをすでに指摘していたり、それはベストセラー「神々の指紋」と韻を踏む。 手塚治虫は凄い人です。まあ、自分が多感な頃に刷り込まれた記憶が、今と繋がっているだけのことなのですが、その共時性には驚愕してしまうしかない。あの当時、ESPキットなる子供騙しのセットを持っていた。 昆虫採集キットと同じような種類の玩具だ。それには、超能力開発カードやら、手帳、ピラミッドの紙模型、 オーラが見える眼鏡などが入っていて、UFOの呼び出し方から妖精の住処まで記載されていた。 ピラミッドの中に入れたチーズと外に出しっぱなしのチーズを比べたり(見事に違いは別れた)、3Dメガネと変わらない眼鏡で手をじっと眺めるとオーラエネルギーが見えたような気がした。妖精の掴まえ方が、かぶと虫の掴まえ方と酷似していたし、そこに書いてあった魔法のサインはすでに遠いところへ消失している。 そんなのと同時に機械への憧れも強くなっていく。スーパーカーブームがあった。ロボットアニメは全盛だ。 月面着陸から始まって、スターウォーズやガンダム、マイコンブームもあったし、インベーダーゲーム、 機械と共存できる世界、まだ未開発の夢がたくさんあるような気になった。夢のある世代だったのかも知れない。20世紀と21世紀を跨がってみたところで、何の感懐も今はない。

誰かが考えた世界(物語)を、一旦、自身の内部に取り込んで消化して認知する。その世界を下敷きに、また新たな世界を構築して積み上げていく。高い塔を、天まで届くような塔を築いていく。 みんなと共有の物語は、それを信じる力と比例し、揺るぎない自信となり、この世界を築いていく。 どんな困難な状況であろうと、築いていくしか生きる術はないのだ。神は人の心に住む。 で、やっぱり悪魔も人の心に住む。たまに心も初期化してやらないと、容量ばかり喰ってしまい、傲慢になりやすいから、今日も僕は海の底より深く反省して再起動する。そうしたら、爆弾が出て立ち上がらない。 ハードはどうすることも出来やしない。30年以上も酷使した肉体は、もう朽ちていくだけしかない。

芸能人水泳大会の水着ポロリは、偶然に起こった時だけに胸踊るが、予定調和、しかも台本に書かれ、ポロリといっても被害の受けないAV女優なんかの場合、虫酸が走る。 心から偶発的に欲し、発した、風潮にこそ意味あれど、誰かが意図的に拵えたブームなんかクソ・システムの 一つでしかない。ただのバリエーションだ。そんなブームばかりで、油っこくて、胃がムカムカする。 その怠惰な消費社会が悪循環を起こし、自らが血栓に陥ってしまうんだ。諦めるな。

それにしてもこの人は、諦めたり、諦めなかったり、忙しい。思い出話をしたかと思えば、訳の分からない持論を説いて煙に巻く。分裂気味なのかも知れない。そんな注釈も、要らぬお世話だというのに。 誇大妄想の気があるのかも知れない。古代妄想だけは確実視されている。悔やまれるのが、僕に3つ目の目が無かったことだけなのです。薄らと開けてみれど、なかなか開かない。 「三つ目が通る」の最終話、とうとうマヤ遺跡まで登場して、ティオティワカンでケツァコアトルという殺し屋との決闘、そして、三つ目を持った女性が、何時までも三つ目人の国を再興しようとしている 写楽に「過去ばかりにこだわって、あなたには先が見えていない」といったような言葉を吐き 息絶える。三つ目人の国は残念ながら滅んでしまったが、同じ間違いを起こせば、今のこの世界も同じような路を辿るしかない。 皆、バンソーコーをひっぺがして、真実の目"Third Eye"でこの世界を眺めてみる必要があるのかも 知れない。


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