ワッシャー TRASH
黄色い太陽の種の年(Yellow Solar Seed)



共振の月(Resonant)
「天上歩行:共振編」 |
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「どんたく」 |



「天上歩行:共振編」

共振(7)の月24日【KIN 135】青い倍音の鷲


16日間の戦士の旅を終え、そうして、休息に着く至福の時、ボロン・イクとの天上歩行。 銀河の月は一体どうなるのやら、と思いを馳せつつ、共振の月は様々な体験をする事が出来た。 今までなにげなく見過ごしてきたものにチャンスを与える。意識をする事で、それは石コロにもなるし、光り輝く宝石にもなる。それを選び取る事が出来る自分自身の意志に感謝出来るし、それを許容してくれる世界にも感謝が出来る。まだまだ捨てたもんじゃないぞ。拾う紙(神)あれば、捨てる紙(神)あり。 リサイクル!?

とまあ精神世界は如何ようにも姿を変え、絶えず生成され供給される。思惟が降って湧いてきたら、 それは現実に還元される可能性を孕み、因子となり、育まれたり破棄されたり形を変えたりしながら存在し 続けるのだ。誰かに恋をしたら、それは半ば成就されている。半ば、の成就(完成)という言葉は体を成さないのだが…。恋心は其処に存在し、それが相手に伝達されようがされまいが、存在し続けるのである。 もしそれが相手に感染してしまったら、それはまた別の形へと進化するだけで、存在が認知された場合、 存在は存在するだけに留まらず、共同の幻想として昇華されるか(カップルに成るとか、不倫になるとか)、個人幻想で終えるのか(失恋、逆上、刃傷)どちらにしろ違う局面を迎え、恋は変化を余儀なくされる。 もはや君だけの想いは、いろんなものに置き換えられ摺り替えられて、人間関係という土俵での闘いという スリリングなテーマに挑まなければならない。なんてね、どうでもいい話になってしまった。 所詮、頭の中の遊戯である。現実は、いったい本当に現実でなければならないのだろうか? 例えばテレビの世界は、現実を仮想現実として投射して楽しませてくれる。役者は演じ、キャラクターを演出 し、アイドルごっこ、バンドごっこ、お笑いごっこ、その虚構をいつの間にかまるで現実世界のように感じて しまう。政治にしろ、ニュースにしろ同じことだ。みんなそれぞれの立場を弁え、演じているに過ぎない。 テレビカメラというフィルターがその役割を手助けしてくれている。で、要はこの我々が生きている現実と呼ぶ世界は、テレビの中の世界とどう違うのかといえば、実際、違いはあまり無く、放送されていない虚構世界 というだけのことである。家族、友達、仕事、宗教、全て役割を設定して動いているに過ぎない。 意識するしないは別として、これが現実なのだと信じて、頭の中の遊戯を楽しんでいる。 斯くしてニセ札で社会は簡単に崩壊するのであった。面白いのがそれをそうと指摘せずとも皆、薄々感付いていて、簡単にロールプレイングなゲームに埋没出来るし、エッチビデオで処理出来るし、水晶で空を飛べるんである。アイドルがアイドルを演じ、それを見ている我々もそれを知りつつ、そのごっこに付き合い、こっちも演じてその設定に身を委ね、それぞれの遊び(幻想)が擦り合わされて巨大産業が誕生する。 そこには複雑に思惑が絡み、利権が飛び交い、これまた資本主義、自由競争、紙幣が宙を舞うというお決まり のパターンで大団円。バブルは弾け、次の幻想が膨らむ機会を待つ。そんな風に、擦り切れて年老いていくのも悪かない。信じているものを疑う必要なんてないんだから。やりたい奴がやりたいようにやりたい事をやっていれば、他者が口出しする隙間はそこにはない。信じて疑わない事を、やり続けていける力は素晴らしい。 自由意志だ。競争ではない。

カテゴライズされたものを解放してやるんだ!ということにカテゴライズされている。 一つのものを考え出すとそれにバランスを取るように、もう一方に正反対の考えが生まれる。 そうして一つは二つになり、またカテゴリーが増えていく。手が付けられない。 質問は答えを生み、眠りは目覚めを生む。どれもが対になっていて、どちらも正反対なのに同じもののような 気がしてくる。分裂は分裂を生み出していく一方で、統合される気配も見えない。 地球に生まれた個性はそれぞれで、今はバラバラになっているような気がするが、立脚している地表は同じ なのだということに早く気付かなければいけない。そして、これもやっぱり皆、薄々感付いているような風に 思えるのだけど、それはあまりにも楽観的過ぎるのでしょうか? 今は天上歩行を楽しもう。



「迷宮入り」

共振(7)の月15日【KIN 126】白い太陽の世界の橋渡し


グレゴリオ暦2002年1月24日、 青い週<変容>の初日、どんたく、2ヤシュ、燃える青い西の城<魔術の宮廷>鏡のウェイヴスペル、運命キン=白い太陽の世界の橋渡し、類似キン=赤い空歩く者、反対キン=黄色い戦士、神秘キン=青い鷲、ガイドキン=白い風、『エルダー・フサルク』第2週:第2サイ・プレート(太平洋)  第7日:シリオ、立方体の中心、第2サイ・プレートの立方体の完成、サイ・ニンボイド膜:立方体のリーフ、ハートのチャクラにシリオを視覚化し、第2サイ・プレート全体を活性化する。 そんな日です。13の月の暦での折り返しポイントを通過しました。景観は如何でしょうか? 様々なその時を表現する呼び方がある中、それぞれの人はそれぞれの世界を形成し、今を過去へ追いやり未来を今へ手繰り寄せる事に精一杯。時間が一直線上に、一方通行に流れていると措定した場合、それは有効ではあるが、それもまた残念ながら共同幻想に過ぎない。いやそうするしか共有出来うる暫定的な方法が見つかっていないだけかも知れない。ああ煩い、ゴチャゴチャ云うな。存在はただ存在しているだけだというのに、それを証明しなければならないなんて。だから、共有出来ない存在、それを妄想というのだよ。 独り善がりの思い込みだ。君は所謂ガイキチだね。二律背反を統合せよ、という指令。 いったい僕らは何を模索しているんだろふ?あらゆるものは目的のために存在し、それ以上の意味などは無い。意味が無いという意味を与えたところで、それには立派な存在理由が付加される。 つまり、それを問う事にいったいどんな意味があるというのだろう?不条理マンガだな〜こりゃ。 「目的が無ければ問うてはならないのか?」漫然とした中、手懸かりを得るためには、一見、無意味と思える事にも敬意を払って調査していかなければならない。しらみつぶしだ。「虱を潰すのか?」そうだ、困難な作業になるぞ。と云って立ち上がった定年間近の係長補佐は、心臓発作のため、殉職した。諦念。 誰もがこの難問は迷宮入りかに見えたその時だった。宇宙より飛来したUFOから、ドクターファンケンシュタイン登場、彼のFUNKを邪魔する宿敵サー・ノウズ・ドゥヴォイドオブファンクとの終わりのない死闘が 繰り広げられるのであった。(P-FUNKより)ちゃんちゃん。

まあ、このようにあらゆる物語が吹き荒れる中、捜索は続いていくのである。そいつが創作。盗作か? 知りたい欲求には、知ったからどうなるもんでもない、などという安易な消極姿勢を打ち消すものだ。 わくわくする事だけをしよう。そうすれば宇宙はそれに必要な力を供給してくれる。 自分自身を限定してしまうと、限定しただけのものしか受け取れず、その計画はそこで停止してしまう。 供給量は無限だ。カテゴライズしなければ、無限のエネルギーが降り注いでくれるっていう寸法だ。 言葉が、言葉の範疇しか指し示さないのだとしたら、言葉を使う事で、自身の範疇も決めつけてしまっていることになりかねない。催眠では、否定的、消極的な言葉を使用することで、自身に暗示をかけてしまう場合が あると注意する。だから自分自身の物語を創作することで、イメージで、つまらない気を払拭して、新しい 世界の中で今を生きることが可能になるんだ。なんてね、いやいやホントだよ。 宣言しちゃえばいいだけなんだから。単純が一番。そして休息も必要。一休みしたら、どんどん遊ぼう。 じゃんじゃん遊ぼう。遊び疲れたら夢を見て、それからまた遊ぼう。 解決策無し、打開策無し、問題無し、解答無し、意味無し、迷宮にも入れず。



「Dreamy」

共振(7)の月11日【KIN 122】白い倍音の風


時々、今まで出逢った全ての人々の事が浮かんでは消え、そうして思い出される。 これは近々、自分はこの世から消え失せるんではなかろうか、などと思ったりもするが、それとは無縁である ような気もする。色んな人とすれ違い、出逢い、別れ、流転していく。死んでしまった人の事を考えるだけで 供養になるという。もうこれから出逢う予定の無い人、出逢ったとしても気付かない人、お互いに他所々しい 関係になってしまった人、同じ圏内に居ない人、それらの人々の事を考えるだけで成就される。 願わくば今度出逢った時には、また新たな関係性の中で楽しめたら、それはそれで素晴らしい事に違いない。 13の月の暦で、7月は共振の月。2週目の終わりの14日と、3週目の始まりの15日が丁度、今年の折り返し地点。ツォルキンでいくと、キン130(19日)が260日暦の折り返し地点となり、様々なタイミングのポイントが集まっている月だ。感じようと敏感になっていれば、きっと同調出来る時があるはずだ。 周波数が決め手だ。TURN-ON!

[BASHAR]の本は、きっとニューエイジ世代にはお馴染みの本だと思うのですが、長い間、自分には読まれる 機会を持たなかった本だ。古本屋でバイトをしていた頃入手して、そのまま手許にはあったが頁を開かれる事 もなく、現在の店鋪で埃をかぶって売りに出していた。そうしてこのタイミングでなにげなく開かれたのだ。臨死体験の本から、まるでビームでも出ているかのように繋がっていた。 音楽も書籍もそうなのであるが、タイミングというものが必ず存在する。今それが必要である時には、身近に それはきっと在るのだ。必要でない時には目にも入らず、じっと息を潜めて待っている。欲しい者の許へ行く べく。[BASHAR]はチャネリングによって表出した宇宙存在の総称である。しかし、それがそのまま言葉通り の事なのかどうかはあまりたいした意味は無く、それが何であっても構わないし、それによって[BASHAR]の言っている事が左右される必要もないのである。ただ、受け入れられる器さえあれば、素直に甘受出来る種類 の話だ。彼は質問者からの様々な問題に、ミクロからマクロまで分け隔てなく答えてくれる。 [BASHAR]は僕らの未来の姿でもあるし、異星人でもあるし、別次元からの答えでもあった。 そしてそれぞれが別々の物語だったものを統合してくれてもいた。夢が現実であり、現実は夢なのだ。 僕らは本当は何だって出来る存在だというのに、自分自身に禁止や制約を設けて、敢えて難しい課題に挑戦 している。イメージ、想像に制約、制限などは無いのに、それを夢の世界に閉じ込めている。 それを思い出しなさい、と言っていた。僕らが考えた事は全て存在している。だから、バラバラにして差別化 を謀る必要などないのだ。気持ちの容量を違ったものに割く必要も無い。 彼の言う事は単純明快だ。努力も勉強も反省も必要ではなく、見たい夢を見るだけでいい。 あまりにも多くの細分化した物語を拵え過ぎたのだ。存在は、ただ存在しているだけ、余計な分離はいらない。取り戻そう。思い出そう。夢を見よう。

ああ、そうさ。それを逃げだと思うのならそうなのだろう。反論も、強制も、盲信も、何でも厭わない。 全ての物事を感知するのはその本人だけで、ようは肯定的に物事を捕らえられるかどうかが鍵である。 世界を単純に見て、ポジティヴに動き、怖いものが無くなり、人を信じ、楽しく笑えるのならば、それは 良い夢だ。この世が、夢か現か、それがどうなのか、生きているのか死んでいるのか、過去なのか未来なのか 今なのか、全ての局面は水晶の側面のようにあらゆる方向に向かっているだけだ。 そして同じ根から派生している。今宵も楽しい夢を見よう。



「どんたく」

共振(7)の月01日【KIN 112】黄色い銀河の人


グレゴリオ暦の木曜日は、13の月の暦では日曜日になります。日曜といえば休息の日(勝手にそう思ってる)。土曜がユダヤ教では安息日に当たり、次の日にキリストが復活したことからキリスト教の聖日は日曜となった、と"故事名言・由来ことわざ総解説"にある。ラテン語では、ディエス・ソリス(Dies Solis/太陽の日)に相当し、オランダ語ではゾンターク(Zontag)で、これが訛って日本語の「どんたく(休日の意)」となり、さらに土曜が半休であることから「半どん」という言葉が出来たそうである。いい加減だなぁ〜(笑)そんな、いい加減に乾杯。紀元前2世紀頃、ギリシアの天文学上の知識から、七つの天体を地球からの 距離の遠い順として、土星、木星、火星、太陽(日)、金星、水星、月、であると考えた。この七つを一日の24時間に割り当てた。ある日の第1時が土とすれば、2時は木、3時は火、、、7時が月で、22時が土、23時が木、24時が火で、次の日の第1時は日となる。このように配列して、毎日の第1時を取ってみると、初日が 土ならば次の日は日、あと月火水木金土となり今の曜日に順序となる。これはギリシアの歴史家カシウスの説。日本でも、1,000年程前の藤原道長の日記「御堂関白記」には毎日の曜日が記載されてあり、正しく現在まで続いている間違いないものだそうだ。と、抜粋してみました。普段、なにげに使っているものも掘り下げてみると面白いものである。暦もそうなのだが、結局は便宜的なパターンの一つでしかない。 グレゴリオ暦を使おうが、13の月の暦を使おうが、太陽暦、太陰暦を使おうが、指標に過ぎないのだから、それぞれが好きな暦を使えば良し。ただ盲信が嫌なだけ。たまに改暦してみると気分も一新され、祓われた気分になるというだけの話だ。君の重荷に変化はなく、一瞬、労苦を忘れた気になったり、気が軽くなったりするものの、そいつは気のせいなのである。(実はそこが一番重要!=気が変わるというコトは難しく簡単ではない。)

7の月、共振の猿の月、前月に自分と同じくらい他者を思いやることができたかどうかで、その生かし方が大きく異なる。「自分の奉仕を他の人に合わせるには?」内面にあるエネルギーが活性化し、循環し始め、「思い」と「行動」が一つになる。良い意味でも悪い意味でも、思い込みが強くなり主観的になる。 キーワードは「調律を通し」「呼び起こす」こと。パルサーは二次元の感覚パルサー(奉仕を見い出し実行する)、倍音パルサーでは生命(1〜3次元を統一) この暦では、7という数字はキーナンバーです。 1月と13月の丁度狭間にある対を持たない月です。「4:7=7:13」13の月では1ヶ月は28日、7日間が4週あるという事。「7:7:7:7」はいまだ解明出来てません。そのうち気付くコトでしょう。ザッツ・アバウト!

そんな風に、今日は身体が休息を求めるんです。 何もやりません。例えば、グレゴリオ暦の正月は、全然関係の無い暦で動いている者にも影響を及ぼします。 世の中がそれを基準にして動いているので、否応なしに祝日にさせられてしまうのです。元来、楽天家なので休みは大歓迎、祝い事大好き!そうならそうと呑むだけなんですが、あの大晦日から元旦へ移行する瞬間、 誰かしらがリセットボタンを押してしまうのです。年越しムードが浸透して、除夜の鐘が耳に届き、そうして 気付くと初日の出に、初夢に、と手篭めにされたうえに、新しい年と刷り込まれ、鳥渡、清々しい気分にもなっちゃったりして被弾、撃沈なのであります。それだけカレンダーには、見えざる無意識の力が潜んでいる。そいつを意識的にしようと、13の月の暦を使っているわけです。兎も角、踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃそんそん! どんたく、どんたく!どんどんたく!!

ティム・バートンの「猿の惑星」観たんだけど、そそられなかったな。あの人間的な猿人のメイクも頂けなかったし、人が言葉喋るのも猿人との差別化が削がれたし、だいたいあの落ちは主人公が気の毒になってくる。面白いからあんな風にしたんだろうけどさ、そりゃそうなんだろうけどさ。 猿惑の1や、「ミクロの決死圏」「スターウォーズ」もそうなんだけど、あの当初観た時の衝撃と云ったらもう固唾を飲んで、まさに手に汗握って観覧したものだったけど、今やコーラとポテチ頬張りながら「なんだよ、これ〜」てやりながらだから、汚れちまったよなぁ。汚れちまった悲しみに〜、てなもんや三度笠。

以上、ホントに今日はこれだけしかやっていません。いつもより長めにやっております。 欠伸ばかりが出てきます。


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