ワッシャー TRASH
黄色い太陽の種の年(Yellow Solar Seed)



銀河の月(Galactic)
「唖」 |
「灰汁」 |
「Chewing」 |
「GAP」 |



「匿名」

銀河(8)の月22日【KIN 161】赤い倍音の竜


どんたく。久し振りに、今まで掘り下げてきたものを全部取っ払って、楽な心持ちでいる。 不思議なもので、その時点で、真剣だったりした気持ちなど、旬な時期を通り過ぎると、まるで 雪融けのように何にも無くなっちゃう。いったいアレは何だったんだろう?ほんと不思議だ。 蜻蛉(かげろう)だな。固定された観念が、固定されなくなれば、とても楽に生きていける。 気持ちはその場に留まらず、瞬時に行方を晦まし、「あれ?あの野郎、どこへ行きやがった」ときょろきょろ辺りを見回し、確かにそこに存在した奴の影を探すが、気配さえ無し。紹介したい相手が居るのだが、姿無ければ仕方無し、あたかも今其処にあるかのごとく、思い出し思い出ししながら、そいつの事を説明する滑稽さ。失恋を説明する馬鹿々しさ。もうあなたの傍には、居ませんよ。とっくに、その事象は終わり、気持ちも消失してるってのに、それは永遠に続くかのように振舞う。そうしなければならない脅迫観念。無限奈落。 憑き物落ちれば、あら不思議、なんのことやら忘却。過ぎ去ったことは忘れろ、とは提言である。

急いてやらなければいけないなんて事は何も無い。やりたくなったらやればいいし、やりたくないならやらなければいいだけだ。それだけの話が、いたるところで、御神託のごとく背中を押す。 たくさん働いて、たくさん稼いで、それを急いでこなさなければ仕合わせはやって来ない、らしい。 そうしたい奴はそうすればいい。勧誘はしないで欲しい。誰もが、自分が信じた事を行う自由意志の世界に、 我々は生きている。選択権はいつも自分自身が持っている。行使しよう。

訳知り顔で、物申しているが、何も分かっちゃいなかった。弱気の虫が、うずうずしていた。 ここ数年で了解したことは、言い切った者勝ちだということだけ。世間はそれだけの許容力を有していた。 言い切ってしまった種類に因って、黙殺されたり、嘲笑されたり、罵倒を浴びせられたりするのだが、それだけのことであった。波風も立たないし、それぐらいの無駄口しか叩いていないわけである。 まともな発信を避けて、愚痴や皮肉を、場末の酒場で短波放送してるだけ。これが、クダを巻くという事。

ISDN から、ADSL に切り替え、無目的にネットを漂ってみた。時間も通話料金も気にせずに、リンクをただただ興味の向く方に、辿っていった。味気なかった。情報という一括りの亡霊が、至るところに巣食っていたが、それは満員電車の乗客と同じく、顔はあっても、別段、気に留めるほどのもんではなかった。 たくさんの種類の人間が生きている、というだけのこと。個人情報が束になっていて、喫茶店で世間話に興じる類いのものが埋め尽していて、それを電気信号に記録して貯蔵され、暮らし向きの一端を公開されているだけのこと。なんてね、オマエも同じじゃねーか。はい、その通りです。

もうまるでダメ。尻切れトンボの嵐です。頭がカラッポだから、何も出てきやしない。 次のステップのために、容量を割かなければならないから、再インストールの真っ最中。 使わない機能拡張は削除だ。待ち合い室で、運転免許の更新を待つ気分。更新は一回しかしてないんだけどさ。っきしょ〜、免許くれ〜。そうこう言ってるうちに、名前を呼ばれる。 「匿名希望」さん。『は〜い』とあちこちから声。



「唖」

銀河(8)の月14日【KIN 153】赤い惑星の空歩く者


「鴎(かもめ)てのは、きみ、あれは唖の鳥、なんだってね。」笠井 一

惨めに、自身の言葉を剥奪された鴎は、ただ闇雲に、海を渡るのみ。
少しだけ許容量を広げて、すぐにまた満腹感が襲い飽食、その領域を征服してしまい次の領地を探る。 いくら暴飲暴食を続けても、留まる事を知らない飢餓感が、とどのつまり過食症、死ぬまで喰らい続ける。 寝取り、横取り、裏切り、寝首掻き、そうして素知らぬ顔して、その本人は高いびき。 死人に口無し、黙して語らず。

夢の中で、悔し泣き。「馬鹿だ。みな馬鹿ばかりだ。」酔っ払いの戯言。

全て、嘘っぱちの盗作。飽きちゃったなぁ。
次は本当の話。ヒアシンスの球根を買ってきた。もうすでに半身を持ち上げた格好のやつ。 水栽培は球根から伸びた根が、まるで水の中でもがいているかのように、わさわさとしているのが眺められて楽しい。普通、土の中に隠されている、植物の秘密を暴いたような、そんな感懐もある。 ギリシア神話によると、Hyacinth(和:ニシキユリ) はアポロ(太陽神)とゼフィルス(西風)に愛された美少年。少年は移り気な西風より太陽を愛した。ある日、彼はアポロと円板投げをして遊んでいると、ゼフィルスはそれに嫉妬し、アポロが投げた円板に強い風を当てて、彼の顔に打ちつけた。少年は死に、地上に流れた 血のなかから紫色の美しい花が咲いた。アポロはこの花を見て「アイ、アイ(悲しい)」と嘆いた。 その発音はギリシアでアエイ(永遠)という言葉に似ていることから、この花は「悲哀」と「思い出」を表す花となっている。花屋の店員さんに「フォスフォレッセンス(Phosphorescence)という花を御存知ですか?」と尋ねてみた。調子に乗り過ぎたものである。「問屋さんで調べてみます」という返事が返ってきた。 その花を御存知ない方は太宰の「グッドバイ」収録の同名作を読んでください。実際にその花が存在するのかどうか、わたしは知りません。さて、その「フォスフォレッセンス」の語を調べていくと、「燐光を発する、 青光りする」となり、「Phos-phor」となると、ギリシア神話では「暁の太陽(Morning Star)」そして 「Lucifer」を指す、というようなことになり、深読みすればする程、深みにはまっていくこととなる。

ところで、「トラ」と「コメ」は「人間失格」で演じられる遊戯であるが、それぞれ"Tragedy(悲劇)" と"Comedy(喜劇)"の略語、これもギリシア語が語源。なんとはなしに拾ってみると、なんとギリシア・ローマ、ラテン語の多いことか。オリンピックは判りそうなものだが、ディスク(Diskos)なんてのは、さきの運動用具(円板)のことだそう。プラスティックもギリシア語で「形をつくる、型に入れる、こしらえ上げる」などという語から出ている。13の月の暦でもお馴染み「シンクロニシティ」"Syn-"は前置き詞で「共に」と"Chronos"「クロノス(時)」の複合語、「シン」はシンパシーやシンメトリー、システム、シンフォニーなどと同じ構成要素。それと、比較的新しいと思っていた名称に、意外と使われている。マイクやメディア、アイドル、ファンシー、エネルギー、カロリー、カタログ、などの外来語だ。 シーン(SCENE)という語は、"HERE SCENES"でも使っていますが、これも古代ギリシアの演劇で本来は楽屋の用を足した小屋(テント)を指すものだったそうだ。最後にミサイル(Missile)、これも元々は投槍やパチンコなどで投石する石投げ機、そんな武器を指す言葉だったそうである。

これは全て、独り言。唖などという表題で、随分と饒舌になったものである。
今日は、<KIN 153:赤い惑星の空歩く者> ニール・ヤングの誕生キンの日。
「私は探るために仕上げる、用心深さを生み出しながら、現われの惑星の音で、空間の出力を封印する。        私は誕生の力に導かれる、私は銀河の活性化の正門 私に入りなさい。」
はじめに、ことば(LOGOS)ありき。



「灰汁」

銀河(8)の月10日【KIN 149】赤い律動の月


アクが抜けない。その性質が個性というのならばそうかも知れないが、この灰汁、この癖、この臭み、沈澱したまま浮かび上がろうともしない。バシャールなら、それは自身を分離した結果なのだ、と云うだろう。 確かにそれは自分の持つ特性であり、まるで他者顔して蔑視しなくても、統合してやれば自身の一つの側面という捉え方も出来るだろう。けれども、そいつは理屈だ。頭では了解出来ても、感覚が拒絶する。 否なものは否である。アメリカ人はいつも二律背反だ。イエスであり、ノーであり、悪であり、善である。 その中間がない。我々は曖昧である。数字にしたら、7.5割ぐらい好きだとかもあり得るだろう。 わりと好き、案外好き、微妙に嫌い、どちらかというと嫌い、半々云々、また相手を気遣って気持ちと正反対の言葉でお茶を濁す場合もある。どちらにしろ、そんな自分が嫌なのだとしたら、それを自身の許容の範囲で 是正しようとするのが、当然の成り行きである。自身とそのアクを分離して思考しなければ、その自身の正体が掴めないのであれば、そうして外から眺めなければ納得しないという物語を、自分は選ぶ必要があるということだろう。

煙草を止めたいと云いながら、煙草を飲んでいるのだから、立派な自虐性変態である。 自分が壊れていく様を、放っていく。その責任を投げ出している。肉を断ってから半年ぐらいが過ぎた。 勿論、完全にという訳にもいかないが、それによって安易にコンビニの合成着色、食品添加物、保存料まみれの毒を胃袋に流し込まなくなっただけだ。元々、単にシチュエーションに惹かれているだけの自分を認識していた。焼肉屋、ステーキ、すき焼き鍋、牛丼もハンバーガーも、それ自体というよりも、その雰囲気が加味された、その状況が好きだったのである。それはそれでいいではないか、別にどうということはない。 そうして、たまらなく欲して、マクドナルドに駆け込み、コーラとポテトとバーガーを喰らいこむ。我ながら馬鹿だな〜と思いながらも、その行為に酔いしれる。それは、肉断ちをしているという自身の禁忌を破棄する快感、そしてそれを赦す自由意志に感謝する、ある種、祭りにも通ずる自暴自棄さであった。 ザマアミロ、と誰にでもなく声をかけたくなる。それが、小さな幸せであった。

今まで築き上げた塔を、他者ではなく、大いなる力でもなく、自身の選択で壊していくのだ。 経験、慣習、知識、様々な物語、様々な概念、そいつらが肥溜めのような悪臭を放つ。そりゃ、月日が経てば 発酵して完熟してしまえば臭みも消える。だから、その前に、年老いる前に、やるんだ。 そうして湯気を上げながら徘徊する。バクテリアが分解する時に発する熱、有毒ガスが噴煙を上げて、僕らは分解される。自我の塔は、跡形もなく、姿を消す。リセット。

ひとつの道はない。それぞれ、各々、道は違っている。出発点と終点は同じなのかも知れないが。 涼しい顔、煮えくり返る気持ち。笑いながら、心臓は破れてる。何でもいいね。それを行った事が正しいと思うのなら、それは君にとって正しい事に違いない。自身が自身を信用しないで、誰が信用してくれるというのか。愛は義務の遂行、それを通過しなければ辿り着けない道もあった。 苦行を舐めて、悟りを得る、という道もあった。十字架に磔にされる、という物語もあった。 それは誰かのシナリオだった。主人公は他者だ。そこでは、脇役ならマシな方で、傍観者でしかあり得ない。 すごく回り道をしているようだけど、結局、みんな自分自身に戻っていく。 世界は、自分の目を通して見つめている。Eyes Of The World、宗教も芸術も科学も哲学も、他者の視点ではないのか?そんな疑問さえ、芽生えてくる。そいつがアクだというのなら、取り除かねばならないのだろうか?質問という形は、すでに知識に含まれている答えという概念を、自分自身から分離しただけ。 有り難う。感謝します。



「Chewing」

銀河(8)の月08日【KIN 147】青い自己存在の手


言い訳がましいかも知れないが、自分はものすごく自己中心的で否定的で消極的で、太宰や漱石や、「ジェラスガイ」を歌ったジョンや、溺死しちゃったブライアンや、精神病院に入っちゃったアケミや、リザード・キングなジム・モリスンや、猟銃自殺なカート・コバーンが大好きで、とても「愛」なんて概念を受け入れられる土壌は無いのです。「愛」ていうのは、都合の良い言葉だと思います。それを言っておけば、相手が勝手に 都合良く解釈してくれるもんです。なにせ独り善がり。「真理は感ずるものじゃない。真理は表現するものだ。時間をかけて、努力して、創りあげるものだ。愛情だって同じことだ。自身のしらじらしさや虚無を堪えて、優しい挨拶を送るところに、あやまりない愛情が在る。愛は最高の奉仕だ。みじんも、自分の満足を思っては、いけない。」太宰の言葉は、それ自体が、誠実に真剣に生きてきた証であった。 どんな表現方法でも真剣に、自身に正直に、取り組む姿勢が、彼の素晴らしさだ。負け、の強さ。 体面的に負けてみせといて、実は勝っているかのように見せかける擬態。本当に負けているのに、恰も勝って いるかのような匂いを感じさせるんだ。実際、どちらでもいいし、なんだっていいが、人間は複雑になってくると、反義語と同義語が同じ意味を指しているかのような気になってしまう。 「愛」を否定することは、肯定しているのと同じだし、負けることは勝つことと同じである。

咀嚼回数、経験値、それらが奥行きをあたえるんだろうか?果たして数字は僕達を表現することができるんだろうか?さしあたって、労働は賃金という紙幣に姿を変える。どれだけ汗を流そうが、苦労しようが、適当にさぼってやろうが、忌々しく思おうが、楽しくやろうが、給料に差異は認められない。 そこに物語を構築することはできる。あんなに楽してやったのにこんなに金を貰えるのか、とか、あんなに頑張ったのにこれだけしか貰えないのか、とか、感じ方は各々にあるだろうが、規定の賃金は設定されてしまっているので、労働時間が同じであれば基本給に差異はない。 …。てなてなことを考えていたら、大変なことに気付いてしまった。そうか、なんにしろやっぱり念いだけがこの世界を構築しているんだ。 この際、金銭はあまり重要ではない。数字はただの便宜的道具でしかない。それをどう位置付けるか、どんな 物語をそこに投入して膨らませるのか、そこが重要なのだ。そこでは道具が道具以上の力を持つ事も可能になるんだ。僕たちは、あまりにも現実を現実と考え、物を物としか見ないで、言葉を額面通りに受け入れ、 萎縮することばかりにしか進まないが、思考に限界が無いように、停止したものも停止したままでは終わらない。全てが過程であって、仮定であって、なにもかもすでに永遠性を会得しているんだ。 それだから、何でも出来るし、何にも出来ない。ちっぽけな存在だけど、大いなる存在でもある。

僕らは、元々全てを持つ何かだったのかも知れないし、何でもないカラっぽな存在で成長しながら学んでいる最中かも知れない。現地点を正確に措定できるのは、その本人にしかできない。誰もその人の居る場所を教えてやることは出来ない。その本人は、過去を思い出し逆流したり、未来を思って夢を膨らませたり、そうして タイムスリップを繰り返し、現在位置を探る。しかし、それを手繰り寄せているのは「今」この瞬間だ。 それなのに遠い時間に跳んで、今の自身を逆算して確認する。何を? 質問をする時、その答えはすでに自身の中に、在る。信じていることを行うことが、今一番、重要なことなのだと思う。 それが力だ。それから、それからのことを為していこう。 何度も噛んで、咀嚼して、自分にしか出来ないアイデアを閃こう。そしたら実行だ。



「GAP」

銀河(8)の月02日【KIN 141】赤いスペクトルの竜


いつものように道を歩いていると、ふと、その道は全てに繋がっているのではないかという不思議な心持ち に襲われた。 現在の座標、過去にそこを歩いた記憶、未来にもそこを歩くという予測、言葉は違えど同じ様な意味を為しているような気がした。また過去世があるのだとしたら、その時に自分は今とは違った姿でこの道を歩き(それは道としての景観を為していなかったかもしれない)、来世にもそこを歩いている事を想像できた。そして想像出来たという事で、過去とも未来とも同時に存在する事が可能になったのである。 その座標では、全部の自分自身と連鎖し、時間という概念は取り払われた。それはほんの一瞬間。 移動がその気持ちを違った質に置き換えた。道は、地点から地点へ移行するための線でしかなかった。 目的へ向かう行程に於いての一瞬間の出来事である。

あらゆる人達の差異で世界は構成されている。一人として同じ人は存在しない。同じであるならば、人間は一人居ればそれで事足りるからだ。それで、あまりにも隔たりが大きいと衝突が起きざる得なくなってしまう。 嫌悪を投げつければ嫌悪が還り、ミサイルを打ち込めばミサイルが還ってくる。逆に優しさを示してもそれは 踏みにじられる。そうとは限らない?いや大概にして踏みにじられる。理解は得られない。 それが隔たりというものだからだ。受けつけられる土壌があって初めて芽を出す種類のものだ。 残念ながら閉口せざる得ない場合は多々ある。そんな人は他人と同じでないことを誇示するが、元来、隔たりというものが人を特徴付けているわけで、殊更それを印象付けする必要はない。 詰まり、奴は愚鈍なのだ。欠如と云ってしまってもいい。相手を排除する事しか想像できないのだから、それ以外の可能性に全て蓋をしてしまっている病気の状態だ。悲しいことだけど、それが想像力の欠如というものなのだろう。何も考えられなくなったら、その人は死んでしまっている。ジャームッシュ「デッドマン」という映画のジョニー・デップ扮する主人公と一緒だ。彼の場合、死んでから生き始めるのだが。

たくさんの人々が生きている、目眩がするぐらいに。それにたくさんのギャップ、ゲップがでるぐらいに。
ジョン・レノン「It`s So Hard」を口ずさむ。Sometimes I Feel Like Going Down!!!!!!

勝ち負けじゃないけれど、潰されたくないもんだ。実際、キツいよね。生きていくのは。
You`re Gonna Carry That Weight, Carry That Weight a Long Time!!!!!!!!!!


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