ワッシャー TRASH
黄色い太陽の種の年(Yellow Solar Seed)



スペクトルの月(Spectral)
「蒼々」 |
「匆々」 |
「云々」 |
「諸々」 |



「蒼々」

スペクトル(11)の月22日【KIN 245】赤いスペクトルの蛇


月に数度訪れる、白い魔法使い(運命キン)の自分に対して、黄色い種(反対キン)、赤い蛇(類似キン:今日)、白い橋渡し(ガイドキン)、青い手(神秘キン)という配列、その真只中にいる。翻弄されるまま、明日は天上歩行が始まり、スペクトルの月も大団円のうちに幕を下ろす。 今月は、逢うべくして逢わざる得なかった様々なシンクロニシティが襲ってきて、なぜこの時期にそうなのか、と考える暇もなく、運命の水路はどんどん自分を押し流していった。なるほど、11は2次元の感覚パルサーで、倍音パルサーだと磁気の時間、1と6と繋がっている。そうかー、そーゆーことかー、(ちんぷんかんぷん)ま、なるように時間は淀みなく、自分をリードしていってくれてるに違いない。 朝起きればテレクトノン(13の月28日周期の預言ゲーム)の駒を移動して、その一日のキンだけは把握している。大きな視野は、まだ持っていないけれど、いつかこんな小さな積み重ねが、大きな輪と連鎖したら、 そいつは凄い。またフラクタルで考えてみれば、この慎ましやかな生活の一日が、一週間、一月(28日)、一年(13ヶ月+1日)、52年(13年×4)の縮図であるということは否めない。逆に考えてみれば、52年間は1日と等しいということか、ふぃ〜(溜息) 今を生き切ること、それしかないな。

様々な計画が、同時進行で始まり、また進化(深化)する計画、立ち消える計画、行き先不明の郵便物、どれもこれも実にならず種のまま地中深く埋もれたままのやつ、慌ただしいが、花は一気に咲き乱れる気配もある。楽しいことは、いくらあったっていい。多過ぎるなんてことはないのだ。せっせと種蒔き、水を与え、 陽よ照らせ、蒼々と茂り、収穫の時を迎えるのだ。感謝祭。ハーベスト! そしてこの時期、月の終わり際、1日でいえば0時少し前といったところか、楽しい深夜のパーティー、始まり、始まり。

ふむ、書き出してみたものの、具体例なく、客観性なく、実に現実は現実顔してふんぞり返っているもんである。そいつが奴の毎度の手口なのだろう。そうならばそうで、合間、合間の夢でそれを紡ぐのみ。 慌てて現実を蔑視するのではなく、現実は夢の延長戦、或いは夢は現実の延長戦、対になって僕らを楽しませてくれる。思い通りにならないと信じ込んでしまっている、その重い頭を解きほぐして、とりあえず今日は、どんたく。蒼々と茂った草木に囲まれて、暫しの安息日。インラケチ!



「匆々」

スペクトル(11)の月17日【KIN 240】黄色い律動の太陽


自分の事にダメ出ししない事にした。所詮、自分自身で釘を刺したところで、自愛の領域を離れるわけもなく 、言い訳がましく甘えてみたり、直撃を避けて逃げ回るのがオチだからだ。 行った事には責任を取ろう。それだから、好き勝手に振る舞えるという逆説も成り立つんだ。 過ぎ去った事を悔やんでも、それを是正することは難しい。例えば、失恋。そいつを、どう捻ったところで、 そこでそうしなかった事を悔やんでみたところで、この時間軸はどうにもなりはしない。 相手が悪いんだ、と勝手に思い込む事は出来る。だいたいにおいて、この俺様と知り合っておいて、惚れない方が馬鹿なんだ、と云うのは容易いのだ。 悪い事は、いい事の前兆なんだ。確率的にも、悪い事が続くってのはあり得ない。続いたとしたら、珍事であるから、祝うべきことでもある。まあ、大方の予想通り、酔っ払いの戯言でもある。

餓鬼は、餓えた鬼である。腹を空かしてもいないのに、目前の食物を喰らい、もっともっとと宣うんだ。 親は、財布を気にしながら、他のテーブルや店員に謝りながら、泣きべそで子供に餌を与える。 埋めてしまいたくなる。PUNKだ。地中深く、埋めてしまいたくなるんだ。 ジェネレーション・ギャップ?そんなのあるかい。うざったいんだよ。子供より親が大事。オマエも親になれば、分かるんだよ。言葉を解せない者は、言葉の世界に住むな。猿。そういった様々な文句が、滔々と頭を過りつつ、ひきつった笑みを浮かべる。最悪だ。なんなんだよ、こういった奉仕に何の意味があるっていうんだよ。ぶん殴ってやろうか、というその瞬間、なんと奴らは、この世で見たこともない天使に化ける。 化けた。もう、負けだ。ああ、オマエに貢いでやるよ。働いて、いいもん喰わせてやる。オレは奴隷。 近くに居ちゃいけない、旅に出よう。オマエの傍に居ると、オレは一生、奴隷。などという、アホな歌詞を 書き留める、そんなSLAVEな夜を迎える。(意味重複)

それで、やっぱり、過度の意味を、相手に持たせてはならない事を知る。 Nothing`s gonna change my world! (ジョンご免なさい) Never Break This Heart Of Stone! そんな訳で、I`am a RocK(岩)!  やっぱり旅に出た方がいいような、悪いような、気持ち悪い匆々たる気分。ああ葬送行進曲。

そうそう、それでいいんだ。そうやって足掻いて、生きていくんだ。弱音も、吐きつつ。 云いたかった事は、もっと別にあるんだけど、今はそれしか云えないところに、これまたタイミングなる 便宜な言葉で以て煙に巻く。鳥渡したタイムラグの世界に、僕らは住んでいる。 ああ、あの時、君にああ云えば良かった、悪かった、云々。そして、馬刺は今日も美味しい。



「云々」

スペクトル(11)の月09日【KIN 232】黄色いスペクトルの人


さあ、書きますよ。ああ、書くとも。いいや、書く。取りたてて、書くべきこと特になし。 消失、(突然のフリーズ、裸のラリ〜ズ)だからデータは、いつでも保存をしておかなければ、簡単に消去されてしまう。たかが電気信号、どんなに時間をかけてみたところで、破壊は一瞬だ。気をつけないといけない。やれやれ。さっきと同じ事を書く(現実的にはキーボードを叩く、或いは打ち込む)のは、骨が折れる ので、違う話題にしよう。(はい保存)閑散たる状況だ。云とも寸とも云いやしない。閑とは云うらしい。 まあ、いいさ、綴れ織り。BGMは、Stoned Soul Picnic(邦訳:ぶっとびピクニック)by.ローラ・ニーロ。

時に自惚れ、時に呆れ、時に喪失する。ああ、「云々」とかいう表題は以前にも書いたかも知れない、などと 詰まらない事を考える。確実にどうでもいいことだ。海図を失うことは侭あることだ。 語れ、語れ、語り尽すまで、そんな過去の亡霊も、こんな時は、懐かしく暖かかったりする場合もある。 ところで、このページのアドレスを御覧いただきたい。Just-net から、So-net に跳んでいませんか。 そう、すでにサーバーからサーバーを一っ跳び、ハイパーリンクなる言葉も懐かしく、目に水が入らないうちに、時間は一所に留意しないのである。絶えず続く言語ゲームは、さらなる地平を目指し、阿呆らし気分を払拭すべく、うつらうつらと居眠り許さぬ、その一瞬閑を逃さぬ、云とも寸とも云わぬが仏、閑と云うとはこれ如何に、一万語連なり、金魚の糞、烏合の衆、下衆の勘繰り、滔々と流れ流れて、明日をも知れぬ我が身であった。うん、迷文、迷走、リズム音痴。

浮き草というものは、潔いではないか。根無し草も佳し。どちらにしろ、地に足は着いていないのだ。 どちらかといえば臨機応変である。錨のない船。風来坊。そんなのが好い。

中学の時、ジャッキー・チェンが好きだったな。年齢的に、ブルース・リーよりJCだった。 思い出したように、最近ビデオを借り観ているが、90年代の彼は酷いものがある。カンフーより、鉄砲を使った場面が多過ぎる。勧善懲悪な脚本を楽しむのだけど、悪者を自身の肉体を使って駆逐することに美意識を感じてきたのに、いきなりバキューンで片付けられると、がっかりしてしまう。マフィアの邸宅にダンプで 突っ込むだけという結末の映画など、見るに絶えなかった。そんなのハリウッドにやらせとけ。 「ヤングマスター」のジャッキーはどこへ行ってしまったのだろふ。「あしたのジョー」でいけ。 のされても、のされても、立ち上がる。勝つとか負けるなんて超越し、燃え尽くせ。

過去の亡霊、其れもそんなに悪くはない。まだ幼い地層を暴き出す。シンディ・ローパーや、キッスで胸踊った原風景。今でも充分胸踊るけどさ。枯れ葉を掃くような不毛さ。生活は掃除に明け暮れるが、どんなに初期化を繰り返したって、電気信号のような一瞬の消去は叶わない。吹きこぼれやら、滲みやら、溜りがこびりついて離れない。無理に引き離そうとするより、付き合っていくしかないのです。 汗、皺、口臭、皮膚、臓器、眼球、癖、話し方、過ぎ去った一日、個性、云々。(保存)



「諸々」

スペクトル(11)の月07日【KIN 230】白い太陽の犬


「ソフィーの世界」をビデオで観た。かいつまんで言ってしまえば、物語りとして創作されたキャラクターが自立心を持ち、その誰かの脚本から立脚して、最後に永遠性を会得するというような筋書き。 肉体の死が無いキャラクターは次々と生み出され、そして死ぬ事さえ出来ない。あの大団円でのパーティーに 参加できるのは、ベストセラーの主人公か、古典となった物語の人物だけだ。B級、C級どころか、D級作品の登場人物なんてのは、随分、肩身の狭い思いをしてることだろう。誰にも読まれることのなかったアマチュア作品の人物などは、生まれてさえいないのかも知れない。開示された世界、認識を得た物語が死ぬ事はない。 永遠に受け継がれ、栄光の虚栄の市、果てることのない饗宴、夢を見た数だけ膨らむ。 哲学者がそうであるように、あらゆる歴史上の人物も、支配者も、犯罪者も、同じくその物語が死滅することはない。殿堂入りである。コングラッチュレーション!

実体なんてどこにもない。仮に自分自身で、そう定義付けしているに過ぎない。 それもそんなに悪いことじゃない。ああ、頭が悪くなってきた。それじゃ、何も語っていないのと同じじゃないか。確かに、「区別」が「統合」を分断してしまっている。国境が地球を分けているのと同じだ。 人が最初に、自身を認識するために行うこと。領域確保。そのために、反抗期に於いて散々と他者に逆らい、 拒否権を行使する。肯定することなどない、とにかく「否」で応対して、領域を確保する。 母親から分断され、父親を断ち、社会に順応し、また少しづつ膨らみながら、他のものとの差別化を謀っていく。ある程度膨らむと、今度は萎縮する。あまりにも細分化しすぎた諸々の区切りが、面倒にもなってくる。 共有化した方がいいのではないのか?諍いにも疲れ、虚勢を張っていた青年期、なんてね、年喰っただけじゃねーのか、そーかもね。食物と自分、アルコールと自分、他者と自分、空気と自分、地球と自分、そういった 構図自体が旧体制のような気がしてしまう。自身の身体と気持ち、それすら曖昧でもいいような気もする。 境界線を引くのにはもう飽き飽きした。この世界に、秘密の情報などは存在してはいけない。 誰もが思いついた時に、思いついた事をやり、それはいつでもどこでも開示され、誰もが知りうる事になり、 楽しみ学び共有し、統合した人格を創っていく。そうなれたら、イマジンだろうね。

諸々、言い包められてお仕舞い。ヴイム・ヴェンダースの映画は素晴らしい。フェリーニ「女の都」は最高だった。語りえぬものについては、沈黙しなければならない。ヴィトゲンシュタイン


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